れいな日記《Reina- diary》

複数画像で北茨城市の歴史、観光、ニュースなどをお伝えし「北茨城市」を勝手に応援しています。

炭鉱跡訪ね歩き 北茨城市

2007-09-04 | 北茨城市の歴史
神永喜八顕彰碑磯原海岸天妃山神社入口に設置。


神永喜八の肖像北茨城市歴史民俗資料館から

神永喜八については別ブログ
北茨城市をつくった先人たち「神永喜八」をご覧下さい。

北茨城市は、常磐炭鉱北部鉱開発の先駆者、神永喜八の江戸時代末の約160年前から〝石炭〟に掛かり合ってきた。
しかし、この長い間の石炭産業も昭和46年11月、常磐炭鉱神の山鉱閉山を最後に山の灯は消えてしまった。
閉山から36年の歳月が経った今、北茨城市の各炭鉱住宅跡を訪ねてみた。
訪ねてみると、あの賑やかだった長屋は、完全に無かったり、跡地は一戸建て規格の住宅団地になっていたり、36年の経過は、無常にも炭鉱の面影さえも消されていた。


常磐炭鉱中郷鉱の世話所中郷町石岡桜野地区で‥
この世話所前の広場に桜の巨木が数本あり、花の季節は、例年花見客で賑わう。


送炭施設中郷町日棚地区で‥
この施設から石炭を貨車、トラックに積んで南中郷駅に運んだと思われる。


今にも朽ち落ちようとする民家華川町上小津田地区で‥
この建物は、崖のところに建って2階からも道路と接し出入りができる造りになっている。


夏草が絡まり朽ちていく炭鉱住宅磯原町大塚 雁の倉鉱


送炭施設関本町八反神の山鉱東区
付近にいた老人に訊ねると貨車専用積み出し施設で、これを〝万石〟と呼んでいたとのこと。


懐かしい炭鉱住宅関本町富士ヶ丘神の山鉱新西区
この住宅は、内便所なので当時としては高級(職員)住宅だったと思われる。(白筒は臭気除去装置)
一昨年、この付近で映画「フラガール」のロケがあり、このような長屋が数棟並んでいた。



未だ残る各地区の炭鉱住宅
現在は、炭鉱住宅の大部分が、ニ所帯スペースを一所帯にして、そのスペースに便所や風呂場を屋内に設けている。(当時は、風呂は協同浴場、便所・流し場は、棟ごとの協同施設だった。)



おまけ
映画「フラガール」のオープンセット(とその説明プレート)が関本町富士ヶ丘地区に残っていた。


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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
大日本炭鉱? (namechan)
2007-09-05 05:57:15
親父が真っ黒になって採炭夫で働いていた戦後間もない頃の炭鉱。トロッコで磯原まで運んでいた石炭。常磐線は石炭を運ぶのがメインだった。
ぼた山は今は造成地の地下?
懐かしくも、ほろにがい、セピヤ色の世界です。!
(ナメチャン)
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こんばんは (麦わら帽子)
2007-09-06 00:36:27
常磐炭鉱は有名ですね。
子供の頃、小学校では石炭ストーブでしたから、お世話になっていたのでしょうね。
今は荒れてしまった炭鉱風景ですが、
昔の栄華を感じますね。
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朽ちていく・・・ (ookuwa-138)
2007-09-06 06:27:09
炭坑 昔は景気が良かったのでしょうね(^_^;)
こうやって朽ちていく姿って寂しいですね・・・

こちらも、昔は銅を掘っていたそうで昔は我が家にも
仕事をしていた人が同居していたそうで何人かの人が
亡くなり今では我が家の墓地に「無縁塔」として
一緒に祀ってありますよ。

私が小学校の頃でしたが、家でも長屋のような建物を貸していました。
そちらに最後まで老夫婦が住んでいましたが子供の所に帰って、取り壊しました。
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おそくなりました‥ (れいなじ)
2007-09-06 21:35:34
namechanさんコメント有難う御座います。
華川地区から磯原駅まで石炭を運ぶ合同炭鉱の〝きかん(機関?)〟(トロッコ)が軌道を走っていましたね。
私は、あの〝きかん〟だけでも思い出深いものがあります。
閉山後人口が減り、市は、目標六万三千人の人口増を工業団地の誘致などで計画しましたが、炭鉱の力には及びなく、現在も減少が止まらず、現在、四万八千人となっています。
炭鉱の力は、凄いものがあったとつくづく思ったりします。
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有難う御座います。 (れいなじ)
2007-09-06 21:46:54
麦わら帽子さま、いつも有難うございます。
私の親の職業は、直接炭鉱とは関係有りませんでしたが、炭鉱で生活する人がいるから成り立っていました。
閉山後街の状況は、人口が減るとお客が減り、店が一軒、二軒と減り続け、最後はゴーストタウン状態でした。
当時の友達、知り合いの人達は、今何をしているのかと懐かしく思い出されます。
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コメント有難う御座います。 (れいなじ)
2007-09-06 21:59:29
ookuwa-138さん、今晩は‥
私は、炭鉱生活は経験していませんが、今、住んでいるところが、炭鉱住宅跡で私の住宅敷地となっています。
‥なので当然、真ん前には炭鉱住宅が残っていて嫌でも、炭鉱に関することが印象深いでしょうね。
これからも懲りずにマイブログにお越し下さい。
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こんにちは (斉藤正志)
2015-08-19 23:49:08
懐かしい炭鉱住宅関本町富士ヶ丘神の山鉱新西区
「この住宅は、内便所なので当時としては高級(職員)住宅だったと思われる」の写真は、まさに私が幼い頃に住んでいたあたりのものです。懐かしい写真をありがとうございます。   情報として・・・・全体的に住宅はほぼ内便所でした。職員住宅は、戸建てでいわゆる長屋ではなかった記憶があります。
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元神の山の住人です (なかちん)
2017-10-02 13:09:53
私が住んでいた昭和57年当時富士が丘小学校に通っていた頃もっとたくさんの住居がありました。
私が住んでいた一軒上の建物のさらに上の所に
工業団地ができるようで当時はゴルフができるくらいの
広い空地でした。 住宅入口付近に食料品の店こまはし
があり、向かいに遠藤精肉店があったのを記憶してます
住宅入口の坂を上ってすぐの所に池があって冬に凍った池を歩いたり今思えば危ない遊びをしたものです。
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昭和28年生まれ 東区 (神の山炭鉱の大盛食堂の孫)
2021-06-29 19:58:13
閉山の時は、高校三年生でした。東区のわかば幼稚園
冨士ケ丘小学校・関本中学校・日立一高。純粋な炭鉱育ちです。現在は、神奈川県藤沢市に住んでいました。大和市で中学校体育教師をしていました。学校の用務員さん、保護者に炭鉱時代の近所だった人の子どもや孫の担任になり、びっくりすることが良くありました。クリーニング屋の孫、同じ長屋の3件隣の同級生の兄の子供。東区世話所脇の寮にいた人の子供。大和市には、炭鉱離職者が多くいました!
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