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東廻海運の寄港地として、古くから江戸と仙台を結ぶ海上航路の要地として開けた平潟港には、棚倉藩が津奉行所を置いていたほどの藩の経済文化そして、藩政を支える表玄関的な位置にあった。
いま仙台藩の津役人が置かれていた屋敷跡は、「主水屋敷」として往時をしのぶそのたたずまいを感じさせるが、棚倉藩の津奉行所あとは、そのこん跡もみることが出来ない。
いまでは遠くなってしまった日であるが、北茨城市内の「塩の道」と呼ぶ古道を辿ってみた。
(コース)
北茨城市平潟港→関本中→福田→関本上→八反→富士ヶ丘(山小屋)→才丸→小川(山小川)‥‥‥→福島県東白川郡棚倉
◎「平潟街道」について下記の他人様のHPを発見しました。
「平潟街道」をご覧下さい。
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塩の道(平潟街道)は、棚倉藩との交流の元和8年(1622)から廃藩までと、明治30年(1897)の常磐線開通の物資流通変更での暫らくの間を合わせて280余年間は、藩政、経済、文化が躍動する平潟、棚倉間約54㎞の街道で人馬が行き交い賑やかなものであったものが、今は人の気配もない淋しい山道になっている。
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いわき市上遠野根岸地区にある、うなぎ料理専門店と旅館を営業している「坂本屋」駐車場の奥に、この御斉所街道の古道がある。
※この坂本屋は、当時は、旅籠をしていて旅人は片道70キロ(平潟・棚倉間)の行程から、ここで宿泊して調整した。(坂本屋は、平潟港から約30キロのところ。)
坂本屋後ろには、宿泊者のための馬小屋があったとのこと。(坂本屋のおばあさんから)
【追記】
平潟洞門が開通されてから、もう一つの〝塩の道〟陸奥国の御斎所峠越えのコースを利用することがあったが、この御斎所峠は、山間部のため追い剥ぎ(泥棒)が出没し、崖道悪路のため、馬が谷に落ちるなどして、落命・骨折など人馬、物資の人身・破損事故が続き、危険なために、専ら、利用は安全な平潟街道だったとのこと。
-棚倉町の石安米肥店のおじさんの話から-
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路傍には、当時を偲ばせる「馬頭観音」石碑や、道程案内石碑、山の神、供養碑が数多く見られる。
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山奥(当時)の平袖地区の入口のところに近代的な携帯電話会社のドコモ中継基地があり、もし、昔の旅人が、このデッカイ逆傘状態のアンテナを見たらビックリするだろうとつまらない事を想像してしまった。
〝塩の道〟と〝巨大なアンテナ〟がアンバランスで印象的だ。
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稲刈目前の稲穂が垂れ下がってあるが、イノシシ被害のために、どの田圃も、防止柵で囲まれている。
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この「奇石」については別ブログで‥
「現代版“太田坊”・関本の奇石」をご覧下さい。
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此処は、楊枝方地区の〝おっ止り〟地点で、才丸方面はここを右に行き、間もなく長い坂道のため難所で有名であった旗立て峠であるが、現在、旗立て峠を経由して楊枝方地区から才丸地区への通行は山仕事時の利用位で殆んどなく、道が荒れているとのことなので、来た道を戻り、県道を利用して才丸に向かった。
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現在の道は、旗立て峠を上りきると才丸集落手前の県道に通ずるが、当時の道は、そのまま山道を進み、才丸地区中心部の豪邸、渡辺政則・幸雄邸前に出てきてから、この諏訪神社(画像)の左の道を通った。
その後、直ぐのところに「坂口屋」と云う旅籠があり、当時は、旅人や馬子などの運搬人の宿泊で繁昌していたと云われるが、今は、何処にあったのか痕跡もない。
地元民の話では、当時の旅籠は、予約無しの突然の宿泊から室満員の時は、旅籠の土間、軒下、木小屋などにそのまま泊まったことが度々あり、「坂口屋」も、こんな状態で大変繁昌していたとの事。
其の先の道は、小川地区の弥太郎坂にでるが、現在は獣道状態になって通れないので、別の道を使い弥太郎坂に向かった。
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この「山の神」社には、次のような言い伝えがある。
このあたりの弥太郎坂の一帯には、天然林が鬱蒼と茂り、昼なおほの暗いところであった。平潟港から魚や海産物を積んだ駄賃付の馬が、通過するころには、三日月が西の空に冴えるころであった。
こんなところに、オオカミなど、けものの群が木々に隠れ待ちうけていたのである。
馬の背にのったふりわけ荷物は、けものたちの餌食に襲われることがしばしばであったと言う。
そこで村人たちは、才丸から1里半、小川から1里半のこの地に山の神を祀り、街道輸送の安全を祈願したとのこと。
※この2キロ先に、北茨城市の観光名所水芭蕉が群生する亀谷地湿原がある。
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やっと小川地区に辿り着いたが、棚倉地区までは未だ未だ遠い。
無理をしないように帰途に着いた。
参考:北茨城市史壇
○現在の小川地区への行き方 ‥‥‥ 磯原→小豆畑→花園→小川
【爺の小川地区の想い】
昭和50年頃までの小川地区への進入道路は、坂ばかりの悪路が続き、道幅が狭く、この為の対向車とすれ違う時の避難所が少ないなど、普通車では不安が伴うためにジープ(四駆)車で何回か通ったことが思い出される。当時の小川住民は、行く度に、入ってくる人が珍しいのか、親しみの態度で迎えてくれた。
又、この地区は、普通選挙の投票日については、磯原の開票所まで約28㌔(7里)と遠いため、前日投票となり、役所の選挙事務職員は区長宅などに泊まり、早朝からの投票事務に対応していた。
この事により、選挙日当日の各新聞は毎回必ず、昨日の小川小、中学校(投票所)での投票光景を写真付きで伝えていた。
その後、道路も拡張され、全面舗装になり、投票日も当日投票となったが、今でも投票時間は、2時間繰り上げとなっている。
以上、当時、小川地区は「茨城県の過疎地区」とも位置づけられていたが、今は福島県側とも広い道路で結ばれ、生活面でも街の生活と同じのようだ。
懐かしい当時の小川地区が思い出される。
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昔の街道は塩を運ぶためと言っても過言では無いですね。
それ故訪ね歩けば色々なものが見えて楽しみは尽きません。
特に関本の奇石なんかは興味があります。
きっと何か願い事をする時にはここにお参りしたのでしょうね。
毎日ブログ連載の麦わら帽子さんの熱意を頂きながら頑張っていますが、ローカルネタは、多くありませんので困っています。
これからも、如何にか頑張りますので応援宜しくお願いします。
有難う御座いました。
彼も明治の塩の道を辿ったのではないかとフト
思いました。もちろん獣道を避けて・・・・?
いつかゆっくり秋風に吹かれながら歩きたいものです。お疲れ様でした。
いつもコメント有難うございます。
また、棚倉街道(平潟街道)についてもご連絡頂きありがとうございます。現地を訪れた際は、私としては北茨城市は水戸藩領のちに松岡藩領という認識があり、棚倉藩の存在についても勉強不足だったもので知りませんでした。帰宅後機会があれば棚倉街道(平潟街道)について調べようと思っていたのですが、結局そのままになってしまっていました。貴ブログを読んで、平潟などが棚倉藩領だったことを知り、疑問が解けました。
ありがとうございました。
私の所には来ていただいているのに(-_-;)ごめんなさい。
平潟の港懐かしいです!(^^)!
以前の私の上司が棚倉の営林署に行くのに「棚倉街道」を辿ってみたと行っていたことを思い出しました。
定年退職されて約10年ほどになりますが私も聞いていて頭の隅に残っていました。
棚倉は、思ったとおりの活気ある町で、やはり、歴史を大事にしているところでした。
近く、「見てきた棚倉」を当ブログでお見せしたいと思っております。
太田坊の所在ですが、流石この珍石は、北茨城市のHPなどには載っておりません。(本当は、歴史あるものなのですが、ものがものだけに‥)
もし、大田坊をお訪ねの時は、「行き先」を詳しくお教えしますので、そのときは、お知らせ下さい。