座る住職の前と後ろのところにいさ子の大作の襖絵がある。
これが大作の襖絵(向かって左側)
これが大作の襖絵(向かって右側)
大正2年(1913)当時の西丸家集合写真
西丸四方著書「彷徨記」から
この長松寺と西丸家の繋がりは太い。
正面は大津漁港と太平洋が一望に見えてくる。
墓所には、分家した哲三の父佐太郎を含め一族が眠る。
今日(3/24)は、北茨城市大津町「長松寺」において行われた、父方の従兄弟(つや子嫗)の一周忌法要に参列した。
爺の年齢(とし)は、父方の従兄弟の中では一番若いことになっているが、この歳になると年長者が急ぐように、どんどん逝ってしまい誠に寂しい限りである。
さて、今日は、長松寺入口の駐車場付近に「西丸家墓所」があることを見つけた。
爺が、この西丸家について興味を持ち始めたのは「西丸哲三」のことであった。
二年前に、別ブログで
「大津古事考・西丸哲三からの手紙」を載せてあるが、これは、爺の父の母方の伯父・鯉渕亀吉へ水戸藩士で明治維新の志士であった西丸帯刀の孫である西丸哲三の書簡があり、この手紙を鯉渕家から“公表してほしい”と親戚筋の○○真一郎に渡され、真一郎から相談を受けたのが発端である。
この手紙の中に「これは君だけに読ませる積りはない。役場の人々、学校の先生方、町の主だった人々、慾には町の人全部に読んでもらひたい。君も年齢からは、町の先輩格である。先輩、有志、上層指導階級の人々は、目先のことばかり考へずに、遠い眼で、高い所から、よく観て‥‥凡ての事に当たるやうにしてもらひたい。」とあり、亀吉に対して傲慢な態度と思う文章が見受けられるが、亀吉家族(子孫)が今までこの手紙を大切に保管したことを鑑みれば、公表することが適切と思い、まず、北茨城市教育委員会発行の「北茨城市壇・№11」に載せて貰った。(北茨城市立図書館所蔵)
あれから暫し時が経ったが、肝心の哲三の功績などは未だ解らない。、別ブログで、哲三妻の“いさ子”については、小説家・島崎藤村と姪の関係をお知らせしたが、その後次のことが解った。
◎島崎藤村の代表作「夜明け前」における“水戸藩”の資料は、哲三の妻、いさ子を通して提供されたもの。
島崎藤村に関する研究者・前澤瑞穂氏の質問により哲三の妻、いさ子の回答の手紙によると‥(前文、末文省略)
西丸家は水戸藩士で私共の祖父西丸亮(帯刀)は維新編簒誌に出て居ますが維新の志士でした。その亮の伝記もあり、又私の夫哲三が祖父から聞いて居りました維新の頃の志士の話などを私の叔父の島崎藤村に提供いたしまして夜明け前の材料といたしました。私は長野県西筑摩郡神坂村馬籠の島崎家18代秀雄の長女で藤村は私の父の末弟です。島崎家は武田光雲斎の木曾通過の際に立寄りました時一夜を過して藤田小四郎等の和歌が短冊にしたためたり、光雲斎の鎧の片袖に和歌を書いて残されたものがあります。この鎧だけは火災の際紛失しました。申し遅れましたが、私は西丸亮の孫に当ります西丸哲三の妻です。
(東京都港区芝高輪西台町・都営アパート一号ノ四 西丸いさ子)
この手紙の文面によって、「夜明け前」における「水戸藩」の資料が、いさ子氏を通して提供されたことは明らかである。言い換えれば、この「夜明け前」は、藤村の集大成の作品であり、いさ子氏の存在が無ければ、大作作品にならなかったのは確実である。
又、藤村の生活面でも次に述べる実子、柳子の世話をするなど、藤村にとっていさ子氏は、重要な位置を占めていた。
◎藤村は、実子の乳児「柳子」を姪・西丸いさ子の配慮で、西丸家の故郷である大津町の鈴木と言う漁農家に預けた。
藤村は、妻・冬子を娘・柳子のお産でなくし、柳子の養育について姪の西丸いさ子に相談、やがて、柳子は西丸家のある大津町の鈴木姓の漁農家に預けられた。
その後、柳子は乳母の家や西丸家に滞在することを繰り返し、やがて少女期を迎えて、父、藤村のもとへ帰ることになる。
しかし、柳子は母のいない家庭になじめず、藤村は男親として娘の養育に限界を感じて、途方にくれたようである。(「島崎藤村全集」書簡集から)
※参照
資料 島崎藤村の主な年譜
哲三、いさ子の家族構成(当時)
西丸哲三、いさ子の間には4人の子がいて、長男、西丸四方と、次男、敏樹は、いずれも精神医学者として活躍し、三男、震哉は探検家として知られ、現在テレビ等で活躍中である。長女、博子は静園と号し、母、いさ子に続いて日本画家として活躍した。(次男、俊樹は島崎本家に世継ぎがなかったため、本家の養子となった。)
(「島崎藤村全集」書簡集から)
◎西丸いさ子の日本画公開
爺は従兄弟の法事時に昭和21年、いさ子(号を小園と称す)が大津町長松寺に泊り込んで作成したという絵画を長松寺本堂で見つけた。
絵画は、本堂の住職がお経を唱える所の正面両脇木製の三連の襖(?)に描かれていた。それはそれは大作そのもの‥。(あまり大きいのでカメラで全体が収まらない。)
※昭和21年は終戦の一年後で、夫・哲三が亡くなって2年半後の時である。
終戦後の食糧難のために夫の生れ故郷・大津に来て、一時であるが「身に付けた技術(日本画)」で生計を立てていたと思われる。