れいな日記《Reina- diary》

複数画像で北茨城市の歴史、観光、ニュースなどをお伝えし「北茨城市」を勝手に応援しています。

NHK地域DTV北茨城市特集⑧の8「春の五浦を歩いてみませんか。」

2008-02-26 | 北茨城市の観光

五浦の地を案内する五浦ボランティアガイドグループと連絡先

五浦の地は、五つの入り江からなる海岸地形で断崖と松の緑と太平洋のダイナミックな景観のマッチングは、いつも訪れる旅人を和ましてくれる。
岡倉天心は、1903(明治36)年、経営に行き詰っていた折、地元磯原出身の画家飛田周山の案内で訪れたこの風光明媚な五浦を知り、3年後の1906年(明治39年)、日本美術院の心機一転を計って当院の活動の場を五浦に遷した。
その後直ちに、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の愛弟子四人を呼び寄せ、彼らは苦しい生活の中から幾つもの傑作を生み出し、天心が1913(大正2)年、50才で没するまでの7年間、五浦は日本近代美術史上に大きな足跡を残した。
五浦の地には岡倉天心が訪れてから100年が過ぎた今、茨城県天心記念五浦美術館が建つなど、この素晴らしい先人たちのお蔭で美術文化の街として観光の拠点となっている。

○この五浦の地を誇りをもって案内するグループが誕生した。
このグループのご好意に甘え、五浦にお出での際はご利用されては如何ですか。
お問い合わせは‥
北茨城市社会福祉協議会 五浦ガイド 電話0293 42-0782
(ご案内は無料です。)

昨年6月にも当ブログで「五浦について」掲げている。
奥州と常陸の国境は見どころ〝いっぱい〟


五浦散策マップ


五浦六角堂
天心は、1905年にアメリカから帰国すると、中国の詩人杜甫の草堂に倣い、六角形の小堂をみずからの設計で建て、「観瀾亭」と名づけた。天心はこの堂の中で、太平洋の荒波を眺めながら読書にふけったといわれる。


別方向からの六角堂


五浦美術文化研究所内にある「天心記念館展示の〝岡倉天心像〟」



天心邸の傍に設置してある天心の信念「亜細亜ハ一ナリ」の記念碑


分骨されて五浦の地に眠っている天心の墓


これで地上デジタル放送での北茨城市特集は終了しました。ご高覧有難う御座いました。

現在のアナログテレビ放送は、2011年7月24日画像、音響とも高品質なデジタルテレビ放送に完全移行しますが、現在、試行のために当地域は、NHK第一、NHK教育、日本テレビ、TBSテレビを地上デジタル放送で受信することが出来ます。
しかし、未だ三年後の放送移行のため、受像機(テレビ)は、放送移行時期まで不必要との買え控えの理由などにより、地上デジタル試験放送は、三割程度の家庭受信率といわれ、折角の「北茨城市特集」が七割の家庭が見ていないことになります。
この事により、勝手ながら見られない人のために、私の画像ブログでの再掲と致しました。

文化講演会・元漫才師、春日三球の「人生いろいろ」 北茨城市

2008-02-21 | ローカルニュース
元漫才師、春日三球さんの一時間三十分の熱弁講演会

今日(2/21)、北茨城市ふれあいセンターに於いて、同市福祉協議会主催(高齢者の生きがいと健康づくり推進事業の一環)として、元漫才師、春日三球の「人生いろいろ」の講演会が行なわれた。
彼は、妻の照代とコンビを組み、地下鉄漫才を得意として〝造った地下鉄車両は、地下の何処から入れるの。? それを考えてると一晩中寝られないの。〟の台詞で昭和50年頃の漫才ファンを爆笑させていた。
その後、妻の照代が急死してからは、漫才界から身を引いていたと思われたが、芸は身を助ける如く、今までのしゃべくり口調は健在で“ピン”で講演会の観客を大いに笑わせていた。

春日三球は‥
リーガル千太・万吉の門下生で、別の男性と「クリトモ一休・三休」の名で漫才コンビを組み、1957年に初舞台。「クリトモ」の名は、当時南千住にあった漫才の定打寄席「栗友亭」に因んだもの(時折「クリモト」と誤記されることがある)。並居る若手の中でもテンポの良さで売り出し、1962年には春のNHK漫才コンクールで優勝(当時、NHK漫才コンクールは春と秋の2回開催されていた)して、順風満帆のように思われた。
ところがその直後の同年5月に、相方の一休が三河島事故によって急逝したため、上方の女性音曲漫才コンビの片割れで、自分と結婚引退したばかりの妻の照代と1965年に「春日三球・照代」を組み直し、夫婦漫才コンビで再出発した。
売れる前は三球がウクレレを、照代がギターを持ち、テーマソングの『線路は続くよどこまでも』を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には「地下鉄漫才」が大ブレークして全国区になった。地下鉄ネタに続き、新幹線ネタや山手線ネタなど、鉄道ネタをシリーズ化して人気を維持した。
しかし1987年に妻の照代がまたもや急逝し、三球は再び人気絶頂で相方を失う憂き目に遭う。失意の三球を見るに見兼ねた周囲が、漫才経験のある若手女性芸人・芳賀みちるを世話してコンビを組ませ、舞台に復帰させたものの、くすぶったまま1年程で解消。
三球はその後も暫く精彩を欠くが、傷心が癒えると共にピンの漫談家として再起した。巣鴨地蔵通り商店街に、巨大な似顔絵看板(山藤章二筆)を掲げた「健康肌着の店-春日三球の店」も経営し、ババシャツブームに乗って盛業中である。巣鴨つながりで、青空うれしと組んで掛け合いも時折見せているが、本格的な漫才コンビ再結成には到っていない。
『ウィキペディア(Wikipedia)から』


若々しい笑顔
春日三球は、1933.10月生まれの74才 一寸童顔の所為かも。


NHK地域DTV北茨城市特集⑧の7「花園神社のささら舞い奉納」 北茨城市

2008-02-20 | 北茨城市の観光
北茨城市花園神社奉納ささら舞い

5月5日の北茨城市花園神社の祭礼時の神前で三匹の獅子のささら舞の奉納が行なわれる。
獅子は、8歳から12歳までの小学生が担当し、約3㎏の重さの獅子頭を被り、笛、太鼓に合わせての優雅な舞をみせる。そして、獅子は二匹のメスと一匹のオスからなり、一夫多妻からみて、子孫繁栄を願ったものかと‥。
このささら舞いは、約900年前源義家が東北に遠征するときに戦勝祈願として踊ったのが始まりで、茨城県北の佐竹氏が支配した地域に広まっている特徴があり、花園のささら舞いもその一つと云えよう。
花園神社のささら舞い


花園神社ささら舞い保存会の皆さん


花園神社での奉納踊り


竹と木の材質で出来ている〝ささら〟の楽器この楽器は、花園ささらでは用いてない。


絶世の美女?・好男子?


アップの獅子頭
獅子頭の重さは、約3キロあるとのこと。
※次回は最終回(⑧の8)「天心の心にふれる五浦歩き」です。乞うご期待

尾車(琴風)親方講演会「七転び八起きの相撲人生」 北茨城市

2008-02-16 | ローカルニュース
熱弁で我人生を語る親方
16日(土)午後、北茨城市磯原町の「市民ふれあいセンター」に於いて元大関琴風の尾車幸一さんが、今、相撲界の問題や相撲人生を語り予定時間の1時間30分を30分以上超えて熱弁を振るった。

力士・琴風は‥
「がぶり寄り」を武器に、膝の怪我に悩まされながらも見事大関まで昇進した力士で、「ペコちゃん」と呼ばれ人気も高く、相撲を取る前には学業で体育以外はオール5というインテリでもあった。
当時大関の琴櫻が引退後独立した際の弟子としてこっそりスカウトして稽古をつけていたが当時の佐渡ヶ嶽親方(元小結琴錦)に見つかり1971年7月に初土俵を踏まされてしまった。初めは琴櫻の内弟子扱いのためかなりいじめられたが当時琴櫻はまだ現役のため助けようがなかったという。琴櫻の引退後まもなく親方が亡くなり白玉親方(琴櫻)が継承したためいじめはなくなったそうだ。
1975年11月場所に新十両、1977年1月場所新入幕。2回目の挑戦で北の湖から金星を挙げると一躍幕内上位の常連となり活躍したが、左膝の大ケガで2度も幕内を陥落。大関目前から幕下30枚目まで落ちたこともあった。当時理事長の春日野親方(元横綱栃錦)が「今度こそはと思ったのに」と言う程である。それにもめげず1981年9月、関脇で12勝3敗で初優勝、大関へ昇進した。当時は大関が1人もいないため関脇にとって昇進するにはこれ以上ないチャンスだった。更に1983年1月にも14勝1敗で関脇朝潮との決定戦を制し、2度目の優勝を飾った。1984年までは大関としてはかなり安定した優秀な成績で横綱昇進を期待されたが、良かった方の右膝も具合を悪くしてしまい大関陥落、平幕まで下がった1985年11月場所限りで引退。現在は尾車親方として、尾車部屋を率いて後進の指導に当たる。
相撲に目を向けてみると、がぶり寄りは下半身が硬い琴風にとって必要に迫られた技でもあったが、上位力士にとっても侮れないものがあった。まず琴風の体型は、相手の懐に飛び込み、ひたすら前に出るには理想的であったこと、土俵際で投げを打たれにくいなど、相手の変化に影響されにくい利点があった。全盛期の横綱北の湖からの初勝利の時、初優勝の場所で横綱2代若乃花を下した一番でも、このがぶり寄りが大いなる武器となり、技の利点を最大限に発揮していたものといえよう。しかし欠点もないわけではない。琴風は膝の怪我に悩まされていたが、膝の具合が悪いとがぶり寄りの威力が著しく減る。全身をバネにする技だけに、膝への負荷が小さくなかったのも事実であった。もっとも足を負傷している力士は口を揃えて「止まったり下がったりすれば痛くて我慢できなくなるけど前に出ている間は痛くない」と言うのでそれを考えると膝の悪い琴風には理想的な取口だったのかもしれない。
琴風が活躍した時代には様々な強豪がいたが、琴風の成績の安定さは下位力士に強かったことで、上位との対戦を多少強いられても十分勝ち越す実力があった。ライバルには朝潮(16勝10敗)、北天佑(12勝12敗)など。若島津、隆の里との対戦は琴風が大きく勝ち越すなど、上位にも通用する強さがあった。また晩年こそ勝てなくなってはいたが千代の富士にも強かった。1984年から引退する1985年まではあまり目立った活躍とは言えなかったが、1984年9月、蔵前国技館で最後となった秋場所では、入幕2場所目ながら「殺人突っ張り」で上位陣を圧倒的な強さで次々と破り、優勝候補に名乗りを上げた小錦を千秋楽でついに打ち負かすという大偉業をやってのけ、琴風にとってはもちろん、相撲史にも残る大一番をファンに知らしめた。
琴風の安定した成績を表すものとして大関時代の通算成績(212勝110敗8休)がある。これは勝率に換算すれば1場所15日制が制定された1949年5月以降に昇進した大関の中では最も高く(横綱、現役を除く。昭和以降でも歴代2位)戦後最強大関の候補と呼ばれる根拠として挙げられる。大関時代は皆勤して負け越したのは陥落直前の昭和60年3月に記録した5勝10敗のみ、勝ち越しギリギリの8勝7敗さえ2回しかなかった。下位力士に対する取り零しが少なく上位にも充分に通用していたことがこの数字に繋がった。現在でも「琴風の綱姿を見たかった」と話すファンがいる。
『ウィキペディア(Wikipedia)から』




08白河だるま 

2008-02-13 | 爺の想い
店頭に並ぶダルマ

建国記念の日の2月11日、約90キロ先の福島県白河市のダルマ市に行ってきた。
我家では毎年、魔除けと家内安全を祈願するためにダルマを購入している。
白河市に行くには北茨城市から、いつも御斉所街道を通って石川市経由で行っているが、今年は、雪の世界を走りたいことから、いわき市勿来インターからの鮫川村、棚倉町経由の国道289号線を走ってみた。
雪は、坂道を登る都度に段々と多くなってきた。
人家のある所々は除雪機で整理されているところと、日当たりが良い個所は、舗装道路表面が現れているところもあったが、除雪した雪が道路端に積まれて道幅を狭くしていた。
一番走行中に緊張したのが、棚倉地区の長い下り坂付近で、山陰で雪が凍っていたので、ギアを一速に落として慎重に走行したが、それでも、所々でタイヤが滑り、思うところに行かなくなっている状態が体に伝わってきた。
白河ダルマを購入した帰りの道路は、今までの石川市から御斉所街道を走ったが、行きの運転の疲れからか居眠り運転をしてしまい、対向車線を飛び出したが、運良く対向車がなく助かった。
標語に「油断一秒、怪我一生」があるが、一秒が怪我だけでなく「死」に直結するかもしれなかった。


一面の銀世界
やっと広い道路に駐車して、これ一枚を撮影したが、その後撮りたい所があったが、雪で道幅が狭く駐車不可のため撮影を諦めた。


白河ダルマ市の光景


白河ダルマ市の露店と人ごみ


露店で食べ物を売る



ダルマ市の神社
当神社では、古いダルマを「お炊き上げ」と参拝をする人々で長蛇の列だ。


露店で売っていた福寿草


我家の神棚に飾った新しいダルマ(左)