れいな日記《Reina- diary》

複数画像で北茨城市の歴史、観光、ニュースなどをお伝えし「北茨城市」を勝手に応援しています。

ムベと云います。

2005-09-29 | 爺の想い
我庭のフェンスに絡まり実が生る“むべ”です。

インターネット辞書で“むべ”を調べると、アケビ科の蔓性(つるせい)の常緑低木。山地に生え、葉は手のひら状の複葉。五月ごろ、雄花と雌花とをつける。実は熟しても裂けず、生食される。ときわあけび。うむべ。うべ。《季 秋 花=春》「―の門くぐりてつねのごと帰る/素逝」とあります。

昨年は、アケビが我家の庭を占有していましたが、放置した結果、何処にでも蔦が絡まり、乱雑状態になったため、大きな蔦を切などして整理しましたので、今まで、実も付けず、小さく生活していた?“むべ”が勢力を拡大して、フェンスに絡まり、約30個の実を付けています。

なお、アケビは、ホームセンターで細い管を購入して四足状に組み立て、その天上に蔦が絡まるようにしました。




船頭小唄

2005-09-21 | 北茨城市の歴史
作詩 野口雨情
作曲 中山晋平

おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき
  どうせ二人は この世では花の咲かない 枯れすすき

死ぬも生きるも ねえおまえ 水の流れに 何変わろ
  おれもお前も 利根川の 船の船頭で 暮らそうよ

なぜに冷たい 吹く風が 枯れたすすきの 二人ゆえ
  熱い涙の 出た時は 汲んでおくれよ お月さん

茨城県天心記念五浦美術館観賞

2005-09-03 | 五浦美術館観賞時の感想
今日爺と婆は、頂いた無料入場券で北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館を観賞しました。

美術館のある場所は、明治36年に岡倉天心が、弟子で地元出身の飛田周山の道案内で、いわき市の海岸線も含め歩き回って、やっとここ、大津町五浦に日本美術院の移転場所の決定をして、明治39年絵画等の創作活動を開始した歴史ある地であります。

そして茨城県は「岡倉天心の業績を顕彰し、五浦の作家に連なる日本美術の優れた作品や数々の資料を展示したり、近代日本美術の黎明期から現代までの流れを紹介する」とのコンセプトにより、平成9年11月にオープンしました。

今回、芸術院日本画の企画展は、東山魁夷、杉山寧、上村松篁、片岡球子ら日本画の巨匠の名作を一挙公開したものです。

又、描いた時代は、戦前、戦中、戦後、現在と、これらの時代を生きてきた作家の皆様の心情など背景が隠されているようで興味深いものでした。

◎次回(05.9.9(金)~10.2(日))の企画展は、四季の情景・秋と題して、豊かな自然に恵まれた日本では、四季の移ろいを慈しむ繊細な感性と日本人独自の美意識を育まれてきました。
本展では、所蔵品の中から、小川芋銭、横山大観、菱田春草、木村武山、速水御舟ら近現代の画家たちが秋を題材にした日本画30点を展示するとの事です。

※爺は、五浦美術館からは宣伝料は頂いておりません。(笑)

茨城県天心記念五浦美術館ホームページ

北茨城市華川町の炭鉱全盛期

2005-09-01 | 北茨城市の歴史
※ 画像は、華川町小豆畑山下(現在の華川公民館付近県道右側)

北茨城市華川町の炭鉱の歴史は、江戸時代末期の嘉永年間に石炭を江戸(東京)に市場を求めた常磐炭鉱北部坑の先駆者、上小津田地区に在住した神永喜八から始まりました。

爺は、昭和20年後半頃から、この上小津田、小豆畑地区も遊び場でしたから、この地域は、よく知っています。特に昭和30年代は炭鉱の好景気と神武景気・岩戸景気が続いて、炭鉱関係者は勿論のこと、村(市)政が豊かになり、ほぼ全ての職種の店が潤い、街の活気は大変なものでした。

ちょうどこの頃白黒テレビが出始まり、一般住民は購入できないテレビも炭鉱従業者は簡単に購入し、社宅の屋根は、テレビアンテナの林状態ぐらい炭鉱従事者はお金持ちでした。(或は“宵越しの金(現金)”は持たない性格だったかもしれません。)

そして山下地区は、暮市、祭礼、花火大会、運動会などが炭鉱㈱主催で行われ、華川劇場、新クラブ(劇場)の二つの劇場も交互して、映画、芝居(大衆芸能)を上演をするなど、賑やかな街には人で溢れていました。

爺が印象的なものは、度々杉本炭鉱が“新クラブ”で映画、芝居を上演提供して、その度に杉本炭鉱、杉本次平社長さんらが舞台あいさつをしていた事です。

※“華川劇場”は、画像で見るように鉄砲屋さんの道路を挟んだ前にありました。
※“新クラブ”は、現在の「華川郵便局」の並びの約200メートル先にありました。

北茨城市をつくった先人たち「杉本次平」の経歴など