れいな日記《Reina- diary》

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朽果てていく歴史ある建物「鈴木主水邸」 北茨城市

2007-05-30 | 北茨城市の歴史
中央に見えるのが「鈴木主水(もんど)邸」
平潟港の港湾管理の全権をもつ立場として港を一望に見渡す場所に住居を構えたようだ。


平潟の港を一望できる丘陵に、権力を象徴するかのように鈴木主水屋敷がある。別名を(霽雲閣)といい、黒木の木戸門、式台付の大玄関、井戸のある庭などが往時を偲ばせる。戊辰の役の際、輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)が休息所として使用したことでも知られる。


屋根に大きな穴が開き雨水が入り込んで腐食が進み、補修ぐらいでは再建は到底不可能と思われる。


当時、橋の並びには、遊女屋など港関係者相手の商売が盛んだったところでもある。


この鈴木主水邸撮影時、平潟漁港魚市場では、捕ってきたばかりのアンコウの競りが行われていた。
アンコウは北茨城市の名物(料理)【平潟町内には、民宿が約30軒あり、民宿で必ずと言ってもいいほどアンコウ鍋(どぶ汁)が夕餉の膳に並ぶ。】

北茨城市の鈴木主水とは‥
寛文11年、江戸の豪商河村瑞賢(ずいけん)によって東廻り海運が開かれたとき,平潟港は,その寄港地に指定され,以後,棚倉藩の表玄関として栄えた。
当時、平潟の庄屋であった鈴木家の当主・主水が平潟港を取り締まる浦役人に任命され、その後代々鈴木家は“主水(もんど)”を襲名し、浦役人として、初代からこの制度が廃止される天保15年代までの174年間をとおして代々の主水が任命されていた。
このことにより、鈴木家の平潟港における影響力は多大なものと推察される。
しかし、鈴木主水は、明治維新を前後して忽然と平潟の歴史から消え去り、歴史的資料が失われてしまい、今、残っている建物もなんの手も施されないまま朽果てようとしている。

爺の想い
歴史的にも観光的にも大切な北茨城市の財産「鈴木主水屋敷」を守ってほしい。
この建物、地元民から“鈴木主水屋敷”と親しまれているが、個人財産のために市側は、建物の管理に手が出せないとのこと。この為、雨漏りが激しく、このままだと朽果てる運命にある。
北茨城市は、花園神社(渓谷)と中郷、磯原、関南海岸つながりの白砂青松の自然美の素晴らしさ、更に野口雨情生誕地、大津海岸五浦地区の風光明媚な地に日本美術院を移し、芸術作品作成に尽力した岡倉天心の足跡とも云える天心邸と六角堂、そして温泉がある。
又、茨城県は、五浦の地が芸術の地として最も美術館にマッチする場所として茨城県天心記念五浦美術館設置を選定し、10年前(H9/11/7)にオープンに至った。
この様に北茨城市は、自然美と歴史に恵まれ、更に温泉と五浦美術館も付加価値として観光に貢献している。
今、行政トップは財源確保の為にも、観光行政の更なる適正判断と実行が求められている。


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