れいな日記《Reina- diary》

複数画像で北茨城市の歴史、観光、ニュースなどをお伝えし「北茨城市」を勝手に応援しています。

古道・勿来切通し いわき市

2009-04-14 | 北茨城市の歴史
【画像説明】勿来切り通し

昨日(4/13)は、「勿来の関」近くの「古道・勿来切通し」まで出かけてみた。
国道六号線を北上、茨城県北茨城市を過ぎると直ぐに福島県勿来海岸が右側に見えてくる。今日は桜満開のポカポカ陽気のため、海からの風が爽やかに感じる。
勿来切通しは、その勿来海岸付近国道左側に「勿来切通し」の案内看板があり、徒歩数分で目的地に着く。
慶長年間(1596~1615)の江戸将軍・徳川家康、秀忠の時代に同所に洞門を貫通させた時から常磐線が開通した明治30年(1897)以前頃の約300年の間、北茨城市関本町関本中(粟野)からいわき市勿来町九面に抜ける浜街道のその後、切り通しになった山道は人の往来が続いていた様である。
しかし、今は人影もなく時が止まったような感じで寂しい限りであるが、ここに立ってみると当時は、この山道も庶民の生活道路であり、陸前浜街道の“大通り”でもあるので、時には平藩の参勤交代の行列が通ったことなども想像し、出来るものならこの時代にタイムスリップして賑やかな当時の様子を覗いてみたいものだと思った。

別ブログで「勿来切通し」をご覧下さい。
関連して「平潟洞門の開通」もご覧下さい。


切り通しの現場にある説明板


切り通し現場から勿来海岸を望む


国道に設置してある切り通し入口を示す案内板


北茨城市方面側は住宅団地で人家が迫っている。奥の方が切り通しの方向。


追分碑
北茨城市関本町関本中粟野宿の外れ、常磐線踏切側にある「八坂神社」下に「右ひらかたみち、左いわきみち」とあり、(現在は街道のこん跡もないが)〝左いわきみち〟と切り通し方向を指している。

標高21㍍ 光圀命名の低山「天妃山」 北茨城市

2009-01-18 | 北茨城市の歴史
【画像説明】南側からの天妃山

標高21㍍ 磯原海岸にある光圀命名の低山「天妃山」 
常磐線磯原駅東口に降りてから国道六号線(陸前浜街道)を北上すると、国道に沿って右側を大北川が流れている。
その大北川の直ぐ先に岬の突端が見えてくる。これが天妃山で県内2番目の低山(標高21.2米)だといわれている。
童謡詩人・野口雨情生家の案内看板を横目に国道から右折して海岸に向かう。
赤い橋の手前に入口の鳥居があり、鳥居からの参道は所々が短い石段に為っていて、歩いて5分位でお堂のある頂上に到達してしまう。
お堂のあるところから、少し崖を登ると太平洋の海原が開け、北側には二つ島、大津漁港と続く長い海岸線が展望できる。
南には大北川の川口が海に注ぎ込み、おびただしい数のカモメなどの海鳥が波間に漂い、そして、絶え間なく響き渡る潮騒と、波間の輝きが見えてきて、なんと爽やかな気分になってきたようだ。 《09/01/07付 朝日新聞茨城版・ぶらり茨城 参考》

松岡地理誌では天妃山を‥
此山高五・六丈、周三町許、海辺渺々タル平砂ニ自然二独秀セシ霊山也。巌石ノ上ニ老松蓊鬱トシ東ハ満々タル滄海。西南ノ岸ハ大北川ノ下流ニシテ潮水ト共ニ磯石ニ激シ白波飛飜ノ躰眺望スルニ堪タリ。此山今ハ天妃山ト云。又朝日指峯ト云。‥と表現している。
※松岡地理誌とは、水戸藩の附家老中山氏の知行地である松岡(現在の高萩市一部と北茨城市の一部)27ケ村7新田それぞれの村の状況を文化二年頃から文化七年にかけて記したものである。


天妃山の鳥居
左側の大きい石碑は、常磐炭鉱北部地区開拓者・神永喜八の顕彰碑である。


お堂前にある「天妃山由来」
文中〝松山寺〟とあるのは、その寺は雨情生家と二つ島の中間の常磐線線路より山側にあったが、現在は廃寺で痕跡もない。


登って行くと頂上には質素なお堂が待ってる。


そのお堂の前の崖状の階段を昇ると北側方向の太平洋が見渡される。


展望台内にお腰掛の石
黄門の井戸(五浦)とか、お腰掛の石とか‥これだけは、観光地などでよく見かけるなんとも嘘っぽい話


北側からの天妃山


五浦、九面の由来‥ スタートは天妃山から地理学者・長久保赤水が云うには‥
⒈「一つ崎」は磯原天妃 ⒉「二つ崎」は磯原(二つ島?) ⒊「三涛」は(是より)大津 ⒋「四つ浦」は今ツルシ ⒌「五つ浦」は五浦  ⒍「六つ浦」はヘビカシラ(蛇頭)  ⒎「七つ浦」は(今)長浜  ⒏「八つ浦」は(今)平潟(平方)村  ⒐「九浦」は(今)いわき市九面奥州とのこと。
〖「美ち艸(みちくさ)」 11頁 雨宮端亭著から〗
※美ち艸は、水戸藩の郡奉行であった雨宮端亭が文化3年(1806)に著した水戸藩の見聞記録であり、いわば水戸領の地誌である「美ち艸」(国立国会図書館所蔵)を復刻したものである。

関本町富士ヶ丘の棒ささら 北茨城市

2007-10-17 | 北茨城市の歴史
富士ヶ丘の棒ささら行列
行列の先頭には、つゆ払いの天狗様が立つ。旗や吹き流しの梵天がひるがえる中、笛、太鼓の鳴り物にあわせ、 小児によって、角2本の雄獅子2頭、角1本の牝獅子3頭の獅子舞が演じられる。それとともに、 一緒に伝承されている棒術が演じられることがこのささらの特徴で、名前の由来にもなっている。

富士ヶ丘の棒ささら
今日(10/17)は、関本地区の〝村祭り〟。
♪村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 朝から聞こえる笛太鼓‥♪と唱歌「村祭」の歌詞を思い出させるかの様に、懐かしい笛と太鼓の音が聞えてきた。

北茨城市関本町の富士ケ丘地区に江戸時代から伝わる市の無形民俗文化財「棒ささら」が十年ぶりに復活し十七日、同地区の大塚神社に奉納された。
 棒ささらは、三匹の獅子による舞「ささら」に続き、棒や刀で打ち合う「棒術」が披露されるのが特徴。五穀豊穣(ほうじょう)や子孫繁栄を祈念し、江戸時代から受け継がれてきた。一九九七年を最後に途絶えていたが、地元保存会(金沢正博会長)が十年ぶりに舞を再現した。
 大塚神社の境内では、地元小学生による獅子が笛と太鼓の音色に合わせ軽妙な踊りを披露。棒術も繰り広げられ、見物人から大きな拍手が送られた。金沢会長は「舞を次世代に伝承していきたい」と語った。
○北茨城市指定無形民俗文化財 ○所在地・北茨城市富士ヶ丘 ○指定年月日 平成4年5月6日

(茨城新聞HPから)


境内社殿前で〝ささら〟を奉納


一生懸命に踊る可愛い三頭の獅子
踊る時間が長いので疲れないのかと心配でした。


ちょっとHなおじさんが‥
でも、このおじさん「富久瓢(ふくべ)使い」役の、子孫繁栄は勿論のこと五穀豊穣(ほうじょう)など幸福を招いてくれる有りがたい神様とか‥。


棒術です。
この〝ささら踊り〟は、棒術が入り珍しいものと云われている。


ささら踊りを笛と太鼓の演奏がバックアップ

塩の道 平潟街道(棚倉街道)を行く 北茨城市

2007-09-16 | 北茨城市の歴史
茨城県が「平潟港」を〝茨城観光百選〟に選んだ時の記念碑
東廻海運の寄港地として、古くから江戸と仙台を結ぶ海上航路の要地として開けた平潟港には、棚倉藩が津奉行所を置いていたほどの藩の経済文化そして、藩政を支える表玄関的な位置にあった。
いま仙台藩の津役人が置かれていた屋敷跡は、「主水屋敷」として往時をしのぶそのたたずまいを感じさせるが、棚倉藩の津奉行所あとは、そのこん跡もみることが出来ない。
いまでは遠くなってしまった日であるが、北茨城市内の「塩の道」と呼ぶ古道を辿ってみた。
(コース)
北茨城市平潟港→関本中→福田→関本上→八反→富士ヶ丘(山小屋)→才丸→小川(山小川)‥‥‥→福島県東白川郡棚倉

◎「平潟街道」について下記の他人様のHPを発見しました。
「平潟街道」をご覧下さい。


平袖地区の空き家に掲げられていた看板
塩の道(平潟街道)は、棚倉藩との交流の元和8年(1622)から廃藩までと、明治30年(1897)の常磐線開通の物資流通変更での暫らくの間を合わせて280余年間は、藩政、経済、文化が躍動する平潟、棚倉間約54㎞の街道で人馬が行き交い賑やかなものであったものが、今は人の気配もない淋しい山道になっている。


御斉所峠を行く古道を発見
いわき市上遠野根岸地区にある、うなぎ料理専門店と旅館を営業している「坂本屋」駐車場の奥に、この御斉所街道の古道がある。
※この坂本屋は、当時は、旅籠をしていて旅人は片道70キロ(平潟・棚倉間)の行程から、ここで宿泊して調整した。(坂本屋は、平潟港から約30キロのところ。)
坂本屋後ろには、宿泊者のための馬小屋があったとのこと。(坂本屋のおばあさんから)
【追記】
平潟洞門が開通されてから、もう一つの〝塩の道〟陸奥国の御斎所峠越えのコースを利用することがあったが、この御斎所峠は、山間部のため追い剥ぎ(泥棒)が出没し、崖道悪路のため、馬が谷に落ちるなどして、落命・骨折など人馬、物資の人身・破損事故が続き、危険なために、専ら、利用は安全な平潟街道だったとのこと。
-棚倉町の石安米肥店のおじさんの話から-


労役馬を供養する「馬頭観音」石碑など
路傍には、当時を偲ばせる「馬頭観音」石碑や、道程案内石碑、山の神、供養碑が数多く見られる。


平袖地区のドコモ中継基地
山奥(当時)の平袖地区の入口のところに近代的な携帯電話会社のドコモ中継基地があり、もし、昔の旅人が、このデッカイ逆傘状態のアンテナを見たらビックリするだろうとつまらない事を想像してしまった。
〝塩の道〟と〝巨大なアンテナ〟がアンバランスで印象的だ。


平袖地区の民家平袖、楊枝方地区の道添えには合わせて30軒程の民家が存在する。
稲刈目前の稲穂が垂れ下がってあるが、イノシシ被害のために、どの田圃も、防止柵で囲まれている。


旅人の目の保養だったのか、平袖地区に「奇石」あり。
この「奇石」については別ブログで‥
「現代版“太田坊”・関本の奇石」をご覧下さい。


楊枝方地区の看板
此処は、楊枝方地区の〝おっ止り〟地点で、才丸方面はここを右に行き、間もなく長い坂道のため難所で有名であった旗立て峠であるが、現在、旗立て峠を経由して楊枝方地区から才丸地区への通行は山仕事時の利用位で殆んどなく、道が荒れているとのことなので、来た道を戻り、県道を利用して才丸に向かった。


才丸地区の諏訪神社
現在の道は、旗立て峠を上りきると才丸集落手前の県道に通ずるが、当時の道は、そのまま山道を進み、才丸地区中心部の豪邸、渡辺政則・幸雄邸前に出てきてから、この諏訪神社(画像)の左の道を通った。
その後、直ぐのところに「坂口屋」と云う旅籠があり、当時は、旅人や馬子などの運搬人の宿泊で繁昌していたと云われるが、今は、何処にあったのか痕跡もない。
地元民の話では、当時の旅籠は、予約無しの突然の宿泊から室満員の時は、旅籠の土間、軒下、木小屋などにそのまま泊まったことが度々あり、「坂口屋」も、こんな状態で大変繁昌していたとの事。
其の先の道は、小川地区の弥太郎坂にでるが、現在は獣道状態になって通れないので、別の道を使い弥太郎坂に向かった。


弥太郎坂から現在使用している道路に入り間もなく右側のところの「山の神」社
この「山の神」社には、次のような言い伝えがある。
このあたりの弥太郎坂の一帯には、天然林が鬱蒼と茂り、昼なおほの暗いところであった。平潟港から魚や海産物を積んだ駄賃付の馬が、通過するころには、三日月が西の空に冴えるころであった。
こんなところに、オオカミなど、けものの群が木々に隠れ待ちうけていたのである。
馬の背にのったふりわけ荷物は、けものたちの餌食に襲われることがしばしばであったと言う。
そこで村人たちは、才丸から1里半、小川から1里半のこの地に山の神を祀り、街道輸送の安全を祈願したとのこと。
※この2キロ先に、北茨城市の観光名所水芭蕉が群生する亀谷地湿原がある。


小川地区の入口付近の民家
やっと小川地区に辿り着いたが、棚倉地区までは未だ未だ遠い。
無理をしないように帰途に着いた。

参考:北茨城市史壇

○現在の小川地区への行き方 ‥‥‥ 磯原→小豆畑→花園→小川

【爺の小川地区の想い】
昭和50年頃までの小川地区への進入道路は、坂ばかりの悪路が続き、道幅が狭く、この為の対向車とすれ違う時の避難所が少ないなど、普通車では不安が伴うためにジープ(四駆)車で何回か通ったことが思い出される。当時の小川住民は、行く度に、入ってくる人が珍しいのか、親しみの態度で迎えてくれた。
又、この地区は、普通選挙の投票日については、磯原の開票所まで約28㌔(7里)と遠いため、前日投票となり、役所の選挙事務職員は区長宅などに泊まり、早朝からの投票事務に対応していた。
この事により、選挙日当日の各新聞は毎回必ず、昨日の小川小、中学校(投票所)での投票光景を写真付きで伝えていた。
その後、道路も拡張され、全面舗装になり、投票日も当日投票となったが、今でも投票時間は、2時間繰り上げとなっている。
以上、当時、小川地区は「茨城県の過疎地区」とも位置づけられていたが、今は福島県側とも広い道路で結ばれ、生活面でも街の生活と同じのようだ。
懐かしい当時の小川地区が思い出される。

炭鉱跡訪ね歩き 北茨城市

2007-09-04 | 北茨城市の歴史
神永喜八顕彰碑磯原海岸天妃山神社入口に設置。


神永喜八の肖像北茨城市歴史民俗資料館から

神永喜八については別ブログ
北茨城市をつくった先人たち「神永喜八」をご覧下さい。

北茨城市は、常磐炭鉱北部鉱開発の先駆者、神永喜八の江戸時代末の約160年前から〝石炭〟に掛かり合ってきた。
しかし、この長い間の石炭産業も昭和46年11月、常磐炭鉱神の山鉱閉山を最後に山の灯は消えてしまった。
閉山から36年の歳月が経った今、北茨城市の各炭鉱住宅跡を訪ねてみた。
訪ねてみると、あの賑やかだった長屋は、完全に無かったり、跡地は一戸建て規格の住宅団地になっていたり、36年の経過は、無常にも炭鉱の面影さえも消されていた。


常磐炭鉱中郷鉱の世話所中郷町石岡桜野地区で‥
この世話所前の広場に桜の巨木が数本あり、花の季節は、例年花見客で賑わう。


送炭施設中郷町日棚地区で‥
この施設から石炭を貨車、トラックに積んで南中郷駅に運んだと思われる。


今にも朽ち落ちようとする民家華川町上小津田地区で‥
この建物は、崖のところに建って2階からも道路と接し出入りができる造りになっている。


夏草が絡まり朽ちていく炭鉱住宅磯原町大塚 雁の倉鉱


送炭施設関本町八反神の山鉱東区
付近にいた老人に訊ねると貨車専用積み出し施設で、これを〝万石〟と呼んでいたとのこと。


懐かしい炭鉱住宅関本町富士ヶ丘神の山鉱新西区
この住宅は、内便所なので当時としては高級(職員)住宅だったと思われる。(白筒は臭気除去装置)
一昨年、この付近で映画「フラガール」のロケがあり、このような長屋が数棟並んでいた。



未だ残る各地区の炭鉱住宅
現在は、炭鉱住宅の大部分が、ニ所帯スペースを一所帯にして、そのスペースに便所や風呂場を屋内に設けている。(当時は、風呂は協同浴場、便所・流し場は、棟ごとの協同施設だった。)



おまけ
映画「フラガール」のオープンセット(とその説明プレート)が関本町富士ヶ丘地区に残っていた。