A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

浅草の成り立ち

2005年12月22日 | 江戸から東京へ
 浅草寺の縁起は、推古朝にまでさかのぼる。隅田川で投網をしていた、檜前浜成、竹成の兄弟が、網にかかった仏像を引き上げ、それを持ち帰って、主人筋に当たる土師臣真中知命(真土知)に見せたところ、観音世音菩薩の仏像であった。真土知は、今の駒形堂のあたりにあった自邸に堂を建てて、さきの観音像を安置した。それが今の浅草寺の始まりとなったというのである。
 この伝承から分かるのは、浅草の地域に先住していたのが、農民ではなくて漁業民であったこと、そしてこの地に移り住んできて開化をもたらしたのが渡来系氏族の土師氏であったことである。土師氏は、いうまでもなく土木や土器制作などをよくする氏族である。
 待乳山聖天や鳥越の丘あたりは、隅田川の砂利堆積によるものではなく、縄文期にも海から顔を出した島であったようだ。だから砂利の混じらぬ真土山なのである。土器制作に適した土地柄であって、これは当然、土師真土知との結び付きが連想される。真土知の墳墓であった可能性もあるし、今戸焼きの土器や瓦の由来が土師氏の技術にまで遡ることも考えられる。待乳山の聖天はゾロアスター教由来とする説もあり、これも渡来系氏族との結びつきを示唆するものである。
 江戸期以前に最も早くから開けた地域が、この浅草ということになる。