A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

横浜1854

2005年05月29日 | 横浜、横須賀
江戸時代の初め、横浜は入り江で、西から東へ長い砂州が延びていた。これが今の山下公園あたり。
幕末のペリー上陸の頃には、入り江の多くが埋め立てられ、田畑が開拓されていたのが分かる。今の中華街あたりは正方形の田圃である。
さらに日米和親条約が締結され横浜が開港されてからは、埋め立てが進み、関内に日本人街と外国人街が整然と建てられている。

横浜1865

2005年05月29日 | 横浜、横須賀
「ある都市の歴史ー横浜・330年」 北沢猛、内山正 福音館

この絵本を見て、やっと横浜の地理的な成り立ちがすっきり頭に入った。

玉の井覚え書き(その弐)

2005年05月25日 | 東京23区
Summilux 35mm/F1,4 Asph. 

 玉の井は、永井荷風の「墨東綺譚」一作により、記憶されると云っても過言ではない。
 荷風はいやなジジイであり、小説も好きではないが、さすがに「墨東綺譚」、「断腸亭日乗」、その他幾つかの随筆には、惹かれるものがあり、折に触れて繰り返し読むならいになっている。

 「墨東綺譚」の、賑わい通りで雨に降り込められる描写はあざやかだ。

 突然、「降って来るよ。」と叫びながら、白い上っ張りを着た男が向側のおでん屋らしい暖簾のかげに駆け込むのを見た。・・・・・やがて稲妻が鋭く閃き、ゆるやかな雷の響につれて、ポツリポツリと大きな雨の粒が落ちてきた。あれほど好く晴れていた夕方の天気は、いつの間にか変わってしまったのである。

 その後に続いて、

「旦那、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真っ白な首を突っ込んだ女がある。

 と、お雪との出会いが用意されている。

 そのオトメ街とも賑わい通りとも云われる通りに立ち尽くしてみたり、旧寺島七丁目六十一番安藤まさ方なる、お雪の娼家跡を空しく探し歩いてみたりしたことがある。
 しかしきれいさっぱり何も残っていなかった。街が無くなってしまうということは、一体どういうことなのだろうか。

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玉の井覚え書き

2005年05月24日 | 東京23区
 玉の井私娼街の歴史は、大正12年の関東大震災で焼け出された浅草十二階下の銘酒屋がここに移住してきたことから始まった。
 それ以前の大正初年は、まだ湿地帯を埋め立ててできた畑と田圃ばかりの土地であって、大正天皇即位の記念事業として白髭橋から以東に大正道路が敷設され、交通の便がよくなるとともに発展の基礎を築いたとされる。

 震災後は、浅草銘酒屋が無秩序に大量に移住してきたために、この街の路地は迷路化し、「ラビラント」といわれるようになった。「抜けられます」、「ちか道」の看板のかかる路地とドブ。その全盛は永井荷風の「墨東綺譚」が書かれた昭和11、12年頃であった。その後は昭和20年3月10日の東京大空襲で全焼し、街は消失してしまったので、玉の井私娼街の歴史はわずか25年に満たなかった。
 滝田ゆうはその自伝的漫画「寺島町奇譚」の中で、東京大空襲によりこの街が焼失するまでの少年の日々を描いた。当時の町並みが記憶により再現され、貴重な記録にもなっている。

 玉の井は震災と敗戦に区切られ、つかの間栄えた徒花のような街であった。だからこの街は、まるでシルクロードの砂に埋もれた都市のように、「失われた街」というテーマを背負っており、それが人を惹き付けるのである。

 現在は、今時の普通の下町の住宅街となり、当時の建物は一切ない。玉の井という町の名も、住民の受け入れざるものであって、子が親の過去を恥じるがごとく、その名は捨て去られ、東向島という住居表示に変更になった。込み入った路地のみが、僅かに往時を偲ばせるよすがとなっている。
 しかし皮肉なことに、戦前の一時期の記憶にこだわらず、はるかに過去を遡ってみれば、玉の井という地名は、この一帯を開発した源氏の武将玉の井四郎助実に由来する。はれやかな、誇らしい、土地ほめの地名であったのだ。

 いろは通りの北側の区域は空襲に焼け残り、戦後も僅かに開業していた。当時の建物がいくつか残っているが、これはまた別のものである。
 

「玉の井という街があった」 前田豊 立風書房
「墨東綺譚」 永井荷風 岩波文庫
「寺じまの記」 永井荷風 荷風随筆集(上) 岩波文庫
「寺島町奇譚」 滝田ゆう ちくま文庫

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