A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

生麦事件の現場ー平成18年

2006年06月29日 | 江戸から東京へ
旧東海道沿いを歩いてみても、もちろんベアトの写真のような松並木や茅葺きの民家が残っているわけではない。
左手のお宅の塀に生麦事件の現場を指し示す説明書きがあって、それと分かるだけである。
わずかに、右手の斎場と、その隣の木立あたりに、過去の事件にまつわる共同体の無意識の記憶を読み取るべきなのかもしれない。

生麦事件の現場ー文久三年?

2006年06月28日 | 江戸から東京へ
VIEW OF THE TOKAIDO, THE SPOT WHERE MR.RICHARDSON WAS MURDERED.
F. Beato

文久二年夏の生麦事件の詳細は、吉村昭の歴史小説などで、よく知られている。
ベアトの来日は文久三年であるから、事件現場の撮影はリアルタイムではないが、侍が刀に手をかけて、撮影者を監視しているようにも見え、緊張感が伝わってくる。

騎馬で島津久光の行列とすれ違った英国人一行が、不敬と取られて襲撃を受け、リチャードソンが落命したのが生麦事件である。旧東海道の事件現場は現在住宅地の中の道となり、全くその面影を残していない。事件現場を示すパネルがあるが場違いな感じである。
リチャードソンは最初のひと太刀で深手を負ったが、馬に寄りかかったまま、数百メートル横浜側まで移動し、力尽きて落馬した。井戸に寄りかかっているところに、薩摩藩士が追いついて来て、リチャードソンを畑の方に引ずって行き、そこでとどめを差したという。薩摩の侍にしてみれば、介錯をして、楽にさせてやったという意識なのだろうが、イギリス人の目から見れば、残忍な殺害の仕方に映ったに違いない。

文久元年来日のワーグマンは、生麦事件の水彩画を描いていて、それをベアトが接写しているものが残っている。アーネスト・サトウは、事件の直前に来日しており、その時の横浜居留民の報復感情の盛り上がりや、その後の薩英戦争に至る経過を、日記に残している。しかもサトウ自信も、ひと月後、事件現場を訪れているのであって、当時の関心の深さが分かる。
ヒュースケンにしろ、リチャードソンにしろ、当時の攘夷殺害事件の被害者には、賠償要求のための、証拠としての遺体写真が残っている。


「生麦事件 上・下」吉村昭 新潮文庫
「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄、1旅立ち」萩原延濤 朝日新聞社
「甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」 朝日新聞社