A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

八尾地形図(4)

2009年07月31日 | 越中八尾 おわら風の盆
今町<いままち>
 下新町の坂を上りきると、聞名寺の門前町として発展した今町になる。開町の当時は中町と呼ばれていた。どこからどこまでが今町なのか、今でも自分などには境界がよく分からない。
 浄土真宗の聞名寺は、1551(天文二十)年、現在地に寺域を定めた。総欅造・銅板葺きの大きな本堂は、1812(文化9)年に再建されたもの。最初、八尾は、独特の地形から、浄土真宗の門前町から発達した中世の町に時々見られるような寺内町かと思ったのだが、それは違っていた。外観は、商業を厚く保護した、独立武装都市が成立してもおかしくないような地形、立地条件に恵まれているのだが、現実には、そういう発展はしなかった。しかし聞名寺側の最初の目論みとしては、そういう発想があったんじゃないだろうかというのが小生のささやかな仮説。
 聞名寺の境内では、他支部を排除して、「越中八尾おわら道場」の講中の人たちのおわらが繰り広げられる。「越中八尾おわら保存会」との行き違いの件はいろいろ耳にしたが、取りあえずは、自分のようなよそ者には関係がない。去年はここの輪踊りに紛れ込んで、振り付けの練習をしたのであった。
 今町は、わずか32世帯からなる、東新町に次いで小さい町で、そのために、今町出身者や有志らの支援を受けているとのこと。風の盆前夜の深夜の町流しを見たことがあったが、他に観光客がなくて、ほとんど1対1で着いて歩くという贅沢な経験だった。おわらって、本来こういうものかなと思ったのであった。
 林写真館のウィンドウに、毎年おわらのポスター写真や町民の家族写真などが飾られていて、通りがかりにこれをチェックするのも、自分の定点観察行為のひとつ。

庭の百日紅咲く

2009年07月30日 | デジタル
「たのしい写真 よい子のための写真教室」(ホンマタカシ 平凡社)を読む。前半の講義篇はおもしろく読んだが、後半は断片的となり、前半の論理的な緊張感が続かない。ホンマタカシにしてそうならば、金村修だろうと誰だろうと、同じ事か。

7月21日は、江藤淳の没後十周年だった。毎日新聞にまずい文章が載ったのみ。死後評価が始まっていない。


八尾地形図(3)

2009年07月29日 | 越中八尾 おわら風の盆
天満町<てんまんちょう>
 下新町の坂を上らず、左手に折れて、別荘川に架かる眼鏡橋を渡ると、そこが天満町。旧町名は、川窪新町といわれ、通りの中程に天満宮、その隣に稽古場の公民館がある。井田川、別荘川、久婦須川と三方を川に囲まれた平坦地で、最初に訪れた時、町全体が川の音に包まれているかのように感じた。
 八尾旧町では最も低地に位置し、メインストリートから逸れる感じになるためか、客足が少なく、近年まで比較的見やすい穴場の町であった。ところが桐谷家二代の唄の充実ぶりが知れわたり、愛らしい女性の踊り手たちや、長身の男性の、山が止まったかと思われるような長時間の案山子も喝采を受けるようになり、去年は多数のカメラマンを集める町となった。
 「天満町おわら」は、「聞名寺おわら」よりもさらに古い「コクボ(川窪)おわら」と呼ばれ、独特な節回しの名残がある。「聞名寺おわら」が上句・下句をそれぞれ一息で一気に歌いきるのに対し、「天満町おわら」は上句の途中で中断、「こらしょっと」と囃子が入り、音程を下げて再び力強く唄い継ぐ。
 坂上の町の賑やかなおわらの混雑に疲れたら、この町のことを思い出すといい。その時は、風の又三郎のようにも、おわらを唄いきるようにも、寄り道せず歩き続けて、一気に尾根を下って来るのだ。
 従来、井田川に架かる橋は、上流から、山吹橋、八尾大橋、禅寺橋、十三石橋の四つであったが、昨年天満町に、五つ目の坂のまち大橋が架かった。川の方へ向かう道をたどると、ガラスケースに収まった祠を見かける。これも自分の定点観察のポイント。

八尾地形図(2)

2009年07月25日 | 越中八尾 おわら風の盆
<下新町(したしんまち)>
 井田川に架かる十三石橋を渡ると、ここから八尾の旧町へ入る。最初の町が下新町。橋の東詰めの右折路を折れると、井田川右岸に沿って上流に向かう道になる。下新町の町流しは、夕方、この川沿いの道を練り歩いて戻って来る。この道を下新町の一行に着いて歩いたことがあった。開けた風景の中を、川風を浴びながら練り歩くおわらは、町中で見るおわらとはまたひと味違い、格別なものであった。山並みと、雲間から漏れる光を背負って、下新町の女性の緋色の浴衣が燃え立つように鮮やかで、逆光に美しく映えていた。
 右折路を曲がらずに真っ直ぐ進み、「椛」の看板のかかる商店の所で左に折れ、眼鏡橋を渡ると、天満町に向かう。いずれにも曲がらず本道をたどると、尾根筋を上ることになり、河岸段丘の上に八尾の町が広がっている。 
 下新町の坂道を登っていくと、左手に八幡社が現れる。五月三日に行われる絢爛たる曵山はこの八幡社の祭礼である。風の盆の時には、境内に特設ステージが設けられ、下新町のおわらはここの演舞から始まる。
 前夜祭の土曜日の夜、帰りに八幡社を通りかかったことがあった。前夜祭は他町の出演日であったが、下新町の一行が暗い境内でフルメンバーで稽古していた。
 両側に町家の家並みが続き、右手に小さな蔵や祠があり、左手には家並みが途絶える所があるが、立ち止まり覗いてみると、両側ともに背後はすぐに切り立った崖になっているのが分かる。つまり下新町の一本道は細い尾根筋の登り口を登っているのである。急な狭い石段を井田川へ下っていくと、八尾の西の崖を覆う何層もの石垣の景色が広がっている。間口の狭い町家が上へ上へと伸びていて、城郭の上の櫓のように見える。
 左手に高い石垣が現れ、それを回り込むようにして道が続く。石垣の上は、浄土真宗の古刹聞名寺である。八尾はまず中世に聞名寺の門前町として生まれ、その後町建てが許され計画的に発展した町である。聞名寺の大屋根は十三石橋からも遠望できる。右手は道より一段下がった土地となり、ふたつの小寺が並ぶ。

八尾地形図

2009年07月24日 | 越中八尾 おわら風の盆
<福島(ふくじま)>
 初夏の曵山の頃にJR高山線の八尾駅に降り立つと、木造ペンキ塗りの駅舎の廂にはツバメが巣を作っていて、いそがしく飛び交っているのが見られる。それが、ひと夏が過ぎて、風の盆を向かえる頃に、この駅に降りた時には、ツバメは既に巣立った後で、たくさんあった巣も駅員によって片付けられている。
 八尾の最初の町が、八尾駅がある福島である。人口が増えている一番新しい町で、おわら人口も最多。駅前広場に特設ステージが設けられ、会所前では演舞が行われ、広い通りで輪踊りが行われる。にもかかわらず、実は自分は福島のおわらはあまりじっくり見たことがない。旧町へとはやる気持ちを抑えつつ、そそくさと足早に通り抜け、そのついでに眺めるという申し訳ないことを繰り返しているからだ。
 ただ、4日の早朝に、駅のプラットホームで行われる福島の「見送りおわら」を見たことがあった。一番列車が出る前に、男女の踊り手が最後のおわらを踊ってみせてくれるのである。連日の行事で若い踊り手も疲れているはずなのに。列車は八尾で夜を明かした乗客でぎっしりいっぱいで、動き始めると同時に、開けた窓から、口々に「ありがとう」と声が飛び交う。それがいかにも自然で、真情がこもっていて、おそらく風の盆でしか見られない返礼である。
 井田川近くまで来ると、通りかかる度に写真を撮るポイントがある。それは廃業された美容院だと思われるが、「八尾美容院 美顔室」という看板を下ろさずにいるお宅で、貼ってあるポスターまで何年も変わらないその家を確認するのが自分の密かなたのしみなのである。