先の「勝山藩士鳩山家覚書」の古文書に関して、調べてみると、出典はすべて「勝山町史」にあることが判明した。
この古文書は、代々家老職を務めた久津見家に残されていたもので、何十人かの家中の藩士の由来がいちいち記されている。
御在所御家中新古被召出書 天保八丁酉年正月改
(九津見家文書)
○鳩山八百右衛門
龍雲院様御代粗々父安兵衛被召出御足軽米三石弐人扶持被下置候而私迄四代相成申候尤私儀文化七年十二月十一日御取立金四両弐歩弐人扶持被下置居候所文化十二年亥年六月廿九日永之御暇被下文政元年寅三月八日帰参被仰付御足軽米三石弐人扶持被下置尚又文政四巳年七月二十二日小頭格被仰付同廿四日御規式格金四両弐歩弐人扶持被成下其後追々御取立ニ相成申候以上
(漢文の横書きって、変なもの。返り点も付けられず)
二人扶持の足軽がどういう暮らし向きであったかというと、一人扶持は、一日玄米五合の割なので、二人扶持とは、一年で三石半、俵で換算すると約11俵にしかならない。現物支給でなく、間に札差が入って、現金と引換えるのだが、江戸中期以後ともなれば、それも前貸の担保に取られていることがほとんどであった。
ちなみに幕府の御家人であった太田南畝(蜀山人)は、足軽のひとつ上の御徒士で、五人扶持であった。南畝が相続した時、禄は前借りで担保されていたが、御家人は基本的に月に四度出仕していれば済んだ。下級武士は、困窮していたが、暇でもあったのだ。だから南畝はあれだけ、いろんなことに手を出すことができた。
久津見家の別の文書に「勝山第一次長州御出陣道中行列帳」というものがあり、幕末の長州征伐軍に加わった者が、役職とともに列挙されている。
これを眺めていたところ、「御台所方 鳩山辰五郎」という名前を発見した。つまりこれは長州征伐軍に加わった、鳩山家の在国元の先祖であろう。
もっとも勝山藩は、戦闘もなければ、死傷者もなかったのであるが。
永田町の国会図書館の門前まで行くも、本日休館であった。
この古文書は、代々家老職を務めた久津見家に残されていたもので、何十人かの家中の藩士の由来がいちいち記されている。
御在所御家中新古被召出書 天保八丁酉年正月改
(九津見家文書)
○鳩山八百右衛門
龍雲院様御代粗々父安兵衛被召出御足軽米三石弐人扶持被下置候而私迄四代相成申候尤私儀文化七年十二月十一日御取立金四両弐歩弐人扶持被下置居候所文化十二年亥年六月廿九日永之御暇被下文政元年寅三月八日帰参被仰付御足軽米三石弐人扶持被下置尚又文政四巳年七月二十二日小頭格被仰付同廿四日御規式格金四両弐歩弐人扶持被成下其後追々御取立ニ相成申候以上
(漢文の横書きって、変なもの。返り点も付けられず)
二人扶持の足軽がどういう暮らし向きであったかというと、一人扶持は、一日玄米五合の割なので、二人扶持とは、一年で三石半、俵で換算すると約11俵にしかならない。現物支給でなく、間に札差が入って、現金と引換えるのだが、江戸中期以後ともなれば、それも前貸の担保に取られていることがほとんどであった。
ちなみに幕府の御家人であった太田南畝(蜀山人)は、足軽のひとつ上の御徒士で、五人扶持であった。南畝が相続した時、禄は前借りで担保されていたが、御家人は基本的に月に四度出仕していれば済んだ。下級武士は、困窮していたが、暇でもあったのだ。だから南畝はあれだけ、いろんなことに手を出すことができた。
久津見家の別の文書に「勝山第一次長州御出陣道中行列帳」というものがあり、幕末の長州征伐軍に加わった者が、役職とともに列挙されている。
これを眺めていたところ、「御台所方 鳩山辰五郎」という名前を発見した。つまりこれは長州征伐軍に加わった、鳩山家の在国元の先祖であろう。
もっとも勝山藩は、戦闘もなければ、死傷者もなかったのであるが。
永田町の国会図書館の門前まで行くも、本日休館であった。