A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

勝山藩鳩山家覚書2

2010年01月09日 | 江戸から東京へ
先の「勝山藩士鳩山家覚書」の古文書に関して、調べてみると、出典はすべて「勝山町史」にあることが判明した。
この古文書は、代々家老職を務めた久津見家に残されていたもので、何十人かの家中の藩士の由来がいちいち記されている。

御在所御家中新古被召出書 天保八丁酉年正月改
(九津見家文書)
○鳩山八百右衛門
龍雲院様御代粗々父安兵衛被召出御足軽米三石弐人扶持被下置候而私迄四代相成申候尤私儀文化七年十二月十一日御取立金四両弐歩弐人扶持被下置居候所文化十二年亥年六月廿九日永之御暇被下文政元年寅三月八日帰参被仰付御足軽米三石弐人扶持被下置尚又文政四巳年七月二十二日小頭格被仰付同廿四日御規式格金四両弐歩弐人扶持被成下其後追々御取立ニ相成申候以上
(漢文の横書きって、変なもの。返り点も付けられず)

二人扶持の足軽がどういう暮らし向きであったかというと、一人扶持は、一日玄米五合の割なので、二人扶持とは、一年で三石半、俵で換算すると約11俵にしかならない。現物支給でなく、間に札差が入って、現金と引換えるのだが、江戸中期以後ともなれば、それも前貸の担保に取られていることがほとんどであった。
ちなみに幕府の御家人であった太田南畝(蜀山人)は、足軽のひとつ上の御徒士で、五人扶持であった。南畝が相続した時、禄は前借りで担保されていたが、御家人は基本的に月に四度出仕していれば済んだ。下級武士は、困窮していたが、暇でもあったのだ。だから南畝はあれだけ、いろんなことに手を出すことができた。

久津見家の別の文書に「勝山第一次長州御出陣道中行列帳」というものがあり、幕末の長州征伐軍に加わった者が、役職とともに列挙されている。
これを眺めていたところ、「御台所方 鳩山辰五郎」という名前を発見した。つまりこれは長州征伐軍に加わった、鳩山家の在国元の先祖であろう。
もっとも勝山藩は、戦闘もなければ、死傷者もなかったのであるが。

永田町の国会図書館の門前まで行くも、本日休館であった。

勝山藩士鳩山家覚書

2010年01月04日 | 江戸から東京へ
鳩山由紀夫首相が誕生した際に、明治以後の鳩山家四代の家系について、雑誌にたくさん紹介記事が載った。そのいくつかを読んだのだが、明治の鳩山家初代の和夫、春子夫妻をモデルとした人物が、有島武郎の小説「或る女」の中に登場することに触れられているものはなかった。
「或る女」はモデル小説であって、国木田独歩と別れた後の佐々木信子の生涯が書かれてある。
 明治34年9月、スキャンダルにまみれた佐々木信子は、親戚会議により、国外に追いやられることになる。有島武郎の在米の友人との縁談が取り決められ、渡米させられることになったのだ。ところが信子は航海中に船の事務長・武井勘三郎と恋中になり、アメリカには上陸せずそのまま帰国してしまう。同じ船に鳩山夫妻が乗り合わせていたのだが、鳩山春子(共立女子大の創立者)が、これをスキャンダルとして新聞に告発するという事件が起こる。
有島は、小説中の人物に、「夫の方は馬鹿馬鹿で、妻の方は利口馬鹿さ」と言わせている。

明治以降の鳩山家の歴史は、成功物語であって、それはそれで結構なことだけれど、自分の関心は別のところにあり、江戸期の鳩山家の事績を明らかにする古文書が何か出てこないかと思っていた。地方の小藩の下級武士の生活を明らかにするものがあるに違いないと思われたからだ。その手がかりを、先日発見した。
MANIWA-CIRCLEというサイトに、江戸期の鳩山家に関する古文書が公表されていたのだ。その記述によりかかって以下を記すことにする。
http://maniwa-circle.at.webry.info/200906/article_1.html

それによると美作勝山藩御在所御家中召出され書(天保8丁酉(1837)年正月)という古文書があり、以下のような内容。原文でないのが残念。

○鳩山八百右衛門
龍雲院様(壬生藩、延岡藩、刈谷藩主・三浦明敬)御代に曽祖父、安兵衛御足軽に召し出され米3石2人扶持下しおかれ、私に至るまで四代になっています。もっとも私に至り文化7午(1810)年12月11日、お取立てを頂き、金4両2分2人扶持下し置かれていましたが、文化12亥年6月29日になって、免職になっていました所、文政元寅(1818)年3月8日帰参を仰せ付けられ、御足軽にて、米3石2人扶持下し置かれ、なおまた文政4巳(1821)年7月22日小頭格仰せ付けられ、同24日御規式格金4両2分2人扶持にしていただき、その後、追々お取立を頂いています。

つまりこの文書によると、鳩山家は、主君の三浦家が、下野国壬生藩(栃木県下都賀郡壬生町)(1639)、日向延岡藩(1692)、三河刈谷藩(1747)、三河西尾藩、美作勝山(1764)と転封されるのに付き従って、仕えた家臣ということになる。三浦明敬(龍雲院)の時(天和年間1680?頃)から明治まで約190年間である。かなり後代まで二人扶持の足軽の身分である。

(三浦家へ仕える以前の鳩山家の先祖は全くたどれないが、鳩山の地名としては、下総国香取郡鳩山邑(千葉県香取市鳩山)、埼玉県比企郡鳩山町がある。おそらくは前者を出身地とする鳩山某が、下野国壬生藩に転封された三浦家に仕えるようになったものか)

真庭市安養寺墓地に鳩山勘左衛門の墓があり、以下のように記されている。
右面・・文政4巳(1821)年5月3日、行年58歳
正面・・(梵字)歓達了喜居士
左面・・生国三州苅谷(愛知県刈谷)、鳩山勘左衛門布介

真庭市重願寺には鳩山勘左衛門愛人の墓というものがある。元は安養寺にあったものを移転したもので、碑面は次の通り。
右面・・文政4(1821)年辛巳4月26日
     文政9年丙戌7月26日女
     鳩山勘左衛門愛人夫婦之墓
正面・・浄証院誓山得忍居士
     浄智院妙山恵忍大姉
左面・・なし

(重願寺は、うちの実家から歩いて5分のお寺。ガキの頃、キモ試しをやったことがある。近年、江戸家中の鳩山家墓が、安養寺からここに移されている。余談だが、戦時中、鳩山家の少女が、当地に疎開をしていたことがあり、母方の叔母が年が近く、それを覚えていた。色白の大きな顔の少女で、「青膨れ」と悪口を言われていた由。他の田舎の子はみんな痩せてて黒かったのかもしれない)

江戸家中(在江戸)の部
○鳩山伝七
金6両2人扶持、御役料金1両、御徒歩組格

安政5戊午(1858)年初夏改

○鳩山十右衛門(数代同名を襲名)
70石、御留守居役、御書簡方兼
御足高30石、衣類代銀20枚、役金10両、物書1人、中間1人

○鳩山鳩(はと)
高70石、御側勤め、御簾番
天保12丑(1841)年11月21日亡父十右衛門が願い置きしたとおり、跡式相違なく御給人勤めを是までの通り仰せ付けられ、同13寅年7月5日御御簾番仰せつけられる。 

長く足軽身分であった鳩山家が、幕末に至って、御側勤め、御簾番、御留守居役、御書簡方兼とメキメキ出世しているのが分かる。二人扶持から70石へと禄の加増もすごい。(このあたりの事情が分かるとおもしろそうなのだが・・・)
幕末には、江戸留守居役であったわけで、これは幕府や諸藩との外交を取り扱う役目で、情報も集中する。幕末には参勤交代が事実上廃されたため、一時国元に帰っていたらしい。戊辰戦争の際に、藩の方針が佐幕から恭順に転じたことに関して、何らか積極的な役目を果たしたのかもしれないが、記録は何も残っていない。

鳩山総理ツイッターを始める。http://twitter.com/hatoyamayukio

ジョセフ彦の写真

2007年03月27日 | 江戸から東京へ
TV東京の番組「お宝鑑定団」の放送で、1851年サンフランシスコで撮影された、ジョセフ彦の銀盤写真が、スイスの研究家から出てきた。
従来は、ペリーが来日した際に随行の写真師が撮影した松前藩士が、日本人の最古の写真と云われていたが、年代的に、それをさらに遡る写真となった。
ジョセフ彦は、1851年、米国船に救助された兵庫の漂流民で、当時13才であった。米国で教育とキリスト教の洗礼を受け、滞米中に、リンカーン大統領とも会見している。9年後、幕末の日本に帰国し、長州藩の志士と交流を持ち、横浜の居留地で日本初の新聞を発刊した。そのため「新聞の父」と称されることもある。
発見された銀盤写真は、アメリカへ到着した当時の、子供の顔のジョセフ彦である。

愛宕下の図

2006年10月21日 | 江戸から東京へ
江戸東京博物館で、F. ベアトの資料発見。
ベアトが幕末に撮った、愛宕山からのパノラマ写真というのがある。たった26mの標高のお山から、大名屋敷の屋根瓦の重なりも美しい江戸の町並みを遠望した写真であるが、こういう画角で撮影したものなり。
徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いから軍艦で逃げ帰った時に、浜御殿に船を着けている。切り絵図を見ると、そこから水路沿いに江戸城へ戻れるのが分かる。

生麦事件の現場ー平成18年

2006年06月29日 | 江戸から東京へ
旧東海道沿いを歩いてみても、もちろんベアトの写真のような松並木や茅葺きの民家が残っているわけではない。
左手のお宅の塀に生麦事件の現場を指し示す説明書きがあって、それと分かるだけである。
わずかに、右手の斎場と、その隣の木立あたりに、過去の事件にまつわる共同体の無意識の記憶を読み取るべきなのかもしれない。

生麦事件の現場ー文久三年?

2006年06月28日 | 江戸から東京へ
VIEW OF THE TOKAIDO, THE SPOT WHERE MR.RICHARDSON WAS MURDERED.
F. Beato

文久二年夏の生麦事件の詳細は、吉村昭の歴史小説などで、よく知られている。
ベアトの来日は文久三年であるから、事件現場の撮影はリアルタイムではないが、侍が刀に手をかけて、撮影者を監視しているようにも見え、緊張感が伝わってくる。

騎馬で島津久光の行列とすれ違った英国人一行が、不敬と取られて襲撃を受け、リチャードソンが落命したのが生麦事件である。旧東海道の事件現場は現在住宅地の中の道となり、全くその面影を残していない。事件現場を示すパネルがあるが場違いな感じである。
リチャードソンは最初のひと太刀で深手を負ったが、馬に寄りかかったまま、数百メートル横浜側まで移動し、力尽きて落馬した。井戸に寄りかかっているところに、薩摩藩士が追いついて来て、リチャードソンを畑の方に引ずって行き、そこでとどめを差したという。薩摩の侍にしてみれば、介錯をして、楽にさせてやったという意識なのだろうが、イギリス人の目から見れば、残忍な殺害の仕方に映ったに違いない。

文久元年来日のワーグマンは、生麦事件の水彩画を描いていて、それをベアトが接写しているものが残っている。アーネスト・サトウは、事件の直前に来日しており、その時の横浜居留民の報復感情の盛り上がりや、その後の薩英戦争に至る経過を、日記に残している。しかもサトウ自信も、ひと月後、事件現場を訪れているのであって、当時の関心の深さが分かる。
ヒュースケンにしろ、リチャードソンにしろ、当時の攘夷殺害事件の被害者には、賠償要求のための、証拠としての遺体写真が残っている。


「生麦事件 上・下」吉村昭 新潮文庫
「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄、1旅立ち」萩原延濤 朝日新聞社
「甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」 朝日新聞社

麻布一の橋の暗殺

2006年06月15日 | 江戸から東京へ
 ベアトが撮影した写真に、ヒュースケンの墓や暗殺現場の古川に架かる中ノ橋、三ノ橋あたりの風景があるので、その古川の付近のことを調べていたら、もう一件、文久三年、古川に架かる一の橋で起こった暗殺事件を見つけた。殺害された者は、清川八郎で、暗殺者は佐々木只三郎である。今日の目からは嫌われ者の二人といってよいだろう。

 清川は、浪士を募って、将軍警護を目的とした新徴組を組織し、京都へ上る。到着後は打って変わって、尊王攘夷を強力に教唆煽動し始め、新徴組そのものを乗っ取って、江戸に取って返す。幕府の金と組織を使って、攘夷と倒幕をしようというわけで、全くもって自惚れた危険な策士であった。彼は強力なアジテーターであって、江戸へ戻ってからは、数百人で横浜の外人居留地に斬り込み、黒船に放火するというテロを計画しており、二日後にはまさに実行のてはずであった。

 こういう清川の行動は監視されていて、幕府が清川の新徴組乗っ取りを許すはずがないのであるが、自信家の清川は自分の策に溺れており、危険の切迫に気づかない。暗殺の首謀は、小笠原壱岐守、高橋泥舟、山岡鉄舟で、先の浪士徴募の幕府側の責任者であった。
 
 佐々木只三郎は会津藩出身で、幕臣に養子に入った。後に京都見回り組の首領となり、坂本龍馬の暗殺を行った人物である。腕をかわれて佐々木以下数名がこの暗殺に関わった。上山藩邸を出て来て、一の橋に差しかかった所で、清川を襲ったのである。


「幕末パノラマ館」野口武彦著 新人物往来社