A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

江戸以前1

2005年12月13日 | 江戸から東京へ
徳川期以前の江戸地形と隅田川西岸の埋め立て

 日本堤(土手通り)は、待乳山聖天から三ノ輪に一直線に走る道路であり、安藤広重の錦絵や江戸名所図会では、両側湿地帯の中に盛り上げた土手道が吉原に続いているのが見て取れる。これが以前から謎であった。わざわざ幕府が吉原通いの専用道路を普請するわけないのであって、その理由がよく分からなかったのだ。
 江戸期以前の推定地形図を参照してみると、南千住から浅草あたりの隅田川西岸は砂利堆積丘の連なりであり、そこから上野台地までのサツマイモ状の低地は千束池や湿地帯であって、まだ安定した陸地となっていない。徳川幕府は、これを水害から守り農地化するために日本堤を築いたのであった。これが1620年頃のことである。
 そこが明らかになれば、山谷堀は堰き止めた入り江の水を隅田川へ逃がすための水路であったことが分かる。これも吉原通いのための水路ではなかったわけだ。
 このあたりには七つの小高い山があったが、削り崩され、湿地帯の埋め立て用土に用いられたと云われている。唯一残ったのが、真土山(待乳山聖天)である。砂利堆積丘の中に、粘土層の真土の山があったわけで、付近からは弥生式土器も発見されているという。(ちなみに隅田川東岸には、古墳期以前の遺跡はないし、鎌倉期以前の神社もない。)後年、今戸の瓦や土器が作られていたのも、この付近の土がそれに適していたからと思われる。
 ここから三ノ輪(水ノ輪)へ向かって土手が築かれたのは、千束池の中に中の島があって、ここを中継地として道を掛け渡すと、最も効力的であったからであろう。そして、その中の島というのが、地図上で見ると、ちょうど新吉原にあたる。江戸期の吉原は、お歯黒どぶに囲まれ、短冊を切り貼りしたような長方形の街であるが、もとは水に浮かんだ孤島であったというわけだ。
 現在でも土手通りや、三ノ輪の2丁目の交差点に立つと、地面にわずかな高低差があり、北に向かって緩やかに下ってゆくのが見て取れる。
 江戸初期の土木工事というのは、いちいち的確で、ダイナミックであり、非常に興味を引かれるものである。