もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

ロシアの飛び地「カリーニングラード州」を学ぶ

2020年05月23日 | 歴史

 アメリカが領空開放条約からの脱退を宣言した。

 脱退の理由は、核弾頭搭載可能なロシアの新型弾道ミサイルが配備されたとされるカリーニングラード州に対するNATOの査察飛行が制限されたとするものである。今回は、カリーニングラード州の今昔を勉強することとした。カリーニングラード州(州都は同名)は、バルト海に面し人口は968,200人(2004年)、面積は15,100㎢(ほぼ岩手県)、ポーランドとリトアニアに囲まれたロシアの飛地領で世界有数の琥珀の産地(シェア90%)とされている。カリーニングラード市は1255年にドイツ人の東方植民によって開拓(ドイツ領)されケーニヒスベルクと呼ばれていたが、1466年にポーランド王の直接の所有物、1660年にポーランドから独立してプロイセン公国、第一次世界大戦後にポーランドが独立を果たしたため、ケーニヒスベルクは東西に分割されて「西プロイセン」はポーランドに、州都ケーニヒスベルクを中心とする「東プロイセン」はドイツ領となったが、既に東プロイセンはドイツ本国との陸上路が閉ざされた飛び地となってしまった。ドイツで政権を握ったヒトラーは飛び地解消を名目にポーランドに侵攻し、ポーランドと相互防衛条約を結んでいた英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。大戦末期、ソ連軍が東プロイセンに進撃を始めた1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民が西部ドイツへ脱出した。ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクはソ連領となり東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルク市を含む北部はソ連に編入された。戦後もドイツ系市民約2万人が同市内に残留していたが、1947年にスターリンは市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、ドイツ系残留市民は全員ドイツのソビエト占領区域(旧東ドイツ)へ移送された。それと前後して大量のソ連市民が市内へ移住し、1946年7月ケーニヒスベルクはカリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に改称された。その後、多くの歴史的建造物がドイツ時代の遺物として破壊されるとともに、カリーニングラード州全域が軍事拠点となりソ連でも重要な不凍港としてバルト艦隊の拠点とされる等外国人の立ち入りが制限された。以上の歴史を辿ってカリーニングラード州は今もロシアの飛び地であるが、隣国のポーランドとリトアニアがEUとNATOに加入したことによってロシアにとっては西側に打ち込んだ楔としての重要性が以前にもまして増大している。

 カリーニングラード州の飛び地を勉強したが、植民地支配の名残や民族・宗教に原因する飛び地が世界中に存在している。日本でも県単位での飛び地は8都県もあり、市町村単位ではほぼ全都道府県に存在している。江戸幕府の天領支配や明治維新前後の住民の確執に基づくものが殆どであると思うが、御一新での廃藩置県後150年を経過しても解消されない。普通に考えれば、飛び地は経済活動や市民生活上不便この上もないと思うが、それらを超越する何かがあるのだろうし、国と国との関係ではなおさら複雑な事情があるのだろう。


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