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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

国葬の行方

2022年07月17日 | 与党

 政府が安倍元総理を国葬で葬送すると決定したことに対する朝野の反応をウォッチしている。

 政党別に眺めると、現時点で全面的に賛意を表明しているのは自民・国民民主・維新で、公明は沈黙し、共産・社民・れいわは絶対反対と理解している。
 立憲民主党は、当初から泉代表が「葬送を静かに見守りたい」と述べたことから消極的賛成と見ていたが、ここにきて安倍氏の功績評価に対して辻元氏を始めとする何でも反対・諸事騒擾勢力が「功罪検証」を主張し始めたことからであろうか、泉代表も「国会閉会中の委員会集中審議要求」を持ち出す等、恒例の動きに戻りつつあるように見受けられる。
 辻元氏の主張について伝えられるところでは、「モリ・カケ・サクラ・と省庁のデータ改竄」を検証すべきとしているようであるが、数年間の国会追及でさえ「クロ」を実証し得なかったことを考えれば、短期間で彼等の目指す真相検証などは不可能であることを十分承知した上での検証要求であり、民意を忖度して国葬そのものには表立った反対はしないが、時間を掛けて済崩し的に国葬を葬り去ることを企図した戦術なのであろうと推測する。
 辻元氏の主張は、政治家としての国家観・国際感覚の未熟さを露呈する以上に、政治家としての度量衡が極めて幼稚であることを示しているように思えてならない。辻元氏の天秤秤にあっては、片方の皿に「インド太平洋戦略」を乗せ、反対側の皿には「モリ・カケ・サクラ」を乗せて針の振れを見ようとしているのだろうか。

 「ではの守」ながら、イギリスのサッチャー氏の葬送を眺めてみた。サッチャー氏は、フォークランド紛争に勝利し、低迷していたイギリス経済を再生して大英帝国の再興を果たしたが、葬儀は「準国葬」であった。これは、紛争勝利等の功績の皿と、首相退任後において顕在化した「小さな政府政策」によって生じた富裕層と取り残された階級の分断を乗せた天秤秤の結果とされている。しかしながら、それでも女王陛下の臨席や遺体を砲車で運んだことから全くの国葬であったとされている。
 このように、天秤秤の両端には同価値の事績を乗せて両者の軽重を測るべきであり、辻元氏の主張する事績軽重判断に対しては、日本の選良にしてこの程度かと嘆かざるを得ない。


国葬を考える

2022年07月14日 | 与党

 安倍元総理の葬送を国葬とする主張が起きている。

 国葬については以前に勉強したが、各国ともに明確な基準や儀典が定められていなかったと記憶している。戦前の日本は国葬法に依っていたが、それとても勅令に依っていた国葬の範囲・基準が明確さを欠いて来たために、昭和12年になって制定されたものである。戦後には国葬法が廃止されたために国葬自体が有名無実となっている。
 昭和42年に吉田茂氏に贈られた戦後唯一の国葬は、当時の佐藤栄作総理の強い意向で執行されたものであるが、野党からは国家が宗教に関与する憲法違反、公費支出の妥当性、功績評価等に多くの異論・反対があったとされている。
 さらに、現行唯一の国葬と看做される皇室典範に基づく「大喪の礼」にすら、国家元首の葬送にも拘わらず「天皇家の私的行事への公費の支出」なる非礼な極論もある。
 大喪の礼は置いても、世界的にも国葬の基準とされる「故人の業績」に定量的な尺度は無く、毀誉褒貶は主義主張によって大きく異なるために、国葬実施の判断は反対意見を封じた政治主導であるのが実情であるように思える。
 そんなこともあって、大喪の礼と吉田氏以外には国葬の栄に浴した故人は無く、総理経験者と雖も国民葬、内閣と国会・政党の合同葬、政党葬、衆議院葬などで送られている。
 産経新聞の社説によると、安倍氏の災禍に対しては世界259か国から2000件以上の弔意が寄せられ、インド、ブラジル、キューバは服喪を表明し、多くの指導者若しくは代表が葬儀参列の意を伝えているとされる。このことを考えても、安倍元総理の葬送については早急に決定する必要があるように思うと同時に、自分は国葬も可と考える。

 安倍氏の功績である「自由で開かれたインド太平洋戦略」は日本が唯一世界的な潮流を創り出した提言で、集団的自衛権行使容認も西側諸国から好意的に迎えられているが、それらについても中国を刺激する愚策・右傾と反対する人も多いことだろう。
 気になったのは、首相官邸が弔意を示す半旗としたのは、列国に遅れた11日であったそうである。


参院選終わる

2022年07月11日 | 与党

 参院選が終わり、維新の躍進が予想を下回った他は予想通りの結果になったと思っている。

 付け焼刃で生半可の知識であるが、国もしくは国家を指す英語は、「Nation」または[state」が多用されるが、二つの言葉の語源・成り立ちから云って、「Nation」が政府の下で国民が運命共同体的に結集するのに対して、「state」は個人の権利(欲望?)は国家権力をも超越するとするもので政府と国民は敵対関係にあると云う意味合いを含んでいるらしい。
 立民の泉代表は、敗戦の弁で「立憲民主党の幅の狭さみたいなものが『政権を任せるにはまだ至らない』という判断を戴いたのではないか」と述べている。
 ウクライナ事変は、日本国民に「自分の国を守るためには自分を含めた国民の協力・犠牲が不可欠であること」、「自分の将来を託すためには政府は攻撃対象ではなく共に盛り立てていくべき存在」ということを自覚させたのではないだろうか。これは日本のみならず、NATO加盟に転舵した北欧、徴兵制を復活させた数か国の国民が、一様にそれらの政策を支持していることにも窺える。
 西側社会にあっては、これまで人権を絶対視する「state」的国家観こそが正義で、政府は攻撃・監視の対象でしかないとすることが時流であったために、国民も立憲民主党の政権攻撃に喝采を送るとともに一定の支持を与えていたという面もあるのではないだろうか。しかしながら、ウクライナ事変に触発されて「Nation」的国家観を抱き始めた有権者に対して、将来に付けを回すことが確実な消費減税・護憲を始めとする現世利益しか提示しない立民が有権者から背を向けられることは、当然であるように思える。
 泉代表の敗戦の弁は、これまでの地方組織の脆弱性や広報不足を挙げていたことに比べれば、党勢凋落の真因を言外に滲ませたもので公党として半歩の前進かとも思えるが、選挙特番に見せた蓮舫氏や辻元氏のコメントを見る限り、首脳部の共通認識にまでは至っていないかのように思える。

 「恥を知りなさい」の三原じゅん子氏がトップ当選する一方で、政権追及には歯に衣着せぬ森裕子氏が落選したことを見れば、当落を分かつ分水嶺は、単に言葉の強弱ではなく、甘言の多少であるように思える。とは言え、甘言満載で現世利益しか示さない「れいわ新選組」が当選者を出したことは何と考えれば良いのだろうか。


低金利政策転換では

2022年06月19日 | 与党

 本朝のフジTV番組で、各党党首の揃い踏みを見た。

 興味を持ったのは、冒頭で議論された「日銀の低金利政策維持の是非」についてである。経済については平均以下の知識・理解力しかないので、それらのことについてはこれまで耳と口を閉じていたが、今回の各党の主張が異なることを見るだけで、「恐らく正解は誰にも判らないだろう」ことだけは理解できた。
 低金利政策が導入されたのは、景気刺激策であると同時に、政策導入以前に世情を賑わした銀行による「貸し渋り」「貸し剥がし」によって、零細・中小企業の倒産が相次ぎ、時として黒字倒産すら起きたことに対する弱者救済策でもあったのではないだろうか。
 番組中、維新の松井代表が「大阪市は中小企業が多く、低金利政策の放棄は彼等にとって死活問題」と述べたことも、「貸し渋り」「貸し剥がし」の再来を恐れてのことであろうと勝手に推測した。
 現在の物価上昇が、低金利政策に起因する急激な円安によって引き起こされた面はあると思うが、それ以上にサプライチエーンからの中国切り離しがボディーブローのように効いてきたことと、ウクライナ事変による物流の混乱によってエネルギーと農産物が高騰したことによって引き起こされたものではないだろうか。
 であるとするならば、低金利政策の見直しだけで即効的に円安と物価高騰が解消されるとは思われず、円高による輸入食品の値下がりによって物価が安定するには更に長時日を要することになって、市中金利の上昇による零細・中小企業者の苦難の方が先に来るようにも思える。

 本日の産経新聞は、来る参院選における9党の公約を見開き2面で掲載している。自分の投票先選択の主たる基準は、憲法と安全保障であるが、経済政策に関しても勉強してみようかと思っている。
 しかしながら、経済の専門家ですらバブル崩壊やリーマンショックを予測できなかったように、生き物のような現代経済を正確に予測し、治療薬を知悉している人はいないであろうことから、自分にとって経済は「不可解!。解からん!」で終わりそうな気配濃厚以上に、確実であるようにも思えるが。


細田議長の文春砲提訴に思う

2022年06月18日 | 与党

 細田博之衆院議長が、女性記者へのセクハラ疑惑を報じた週刊文春(文芸春秋社)に2,200万円の損害賠償や謝罪広告の掲載などを求め、東京地裁に提訴したことが報じられた。

 細田議長のセクハラ疑惑に対しては、永田町では「あの人ならば、もしや?」という空気もあったようであるが、疑惑が真実かどうかは分からない。
 自分は報じられた当初から、記事が匿名(全国紙政治部女性記者)の伝聞を基としており、かつ直接被害を訴える人が明らかでないことから「眉唾の可能性あり」と思っていたが、市井では事実と取り沙汰され、立憲民主党でも議長不信任要求の根拠の一つに挙げていたと理解している。今回の提訴を好意的に観れば、細田氏が法廷・白日の下に審理されることを厭わない姿勢を示したもので、やや細田議長有利の感が否めない。
 また、週刊文春編集部が「国権の最高機関のトップである議長が公の場で一度も説明しないまま提訴に至ったのは残念。記事には十分自信を持っている」とコメントしたとされているのも、おかしな話である。文春は、この記事によって何を伝え・訴えたかったのだろうか。考えられるのはただ一つ「議長の公の場での説明による混乱」であり、自社の記事が「その発火点になることで、売り上げを期待する」ことに過ぎないように思える。
 数年前に、自分自身を明かした#MeTooで社会的地位にある人のセクハラを追及することが大きな潮流となり、日本でも勇気ある女性が声を挙げたことがあったし、その風潮を否定するものではないが、俎上に上げられた著名人は社会的信用を問われるとともに社会人としての存在すら否定されることを考えれば、今回の伝聞を基にした議長攻撃は#MeTooとは似て非なるものに思える。

 かっては女性擁護のために、匿名による告発や痴漢被害などは「100%真実」とすることが定着していたために、少なからぬ痴漢冤罪者を出したが、現在ではそれらに対しても客観的に捉えるように修正されつつあると思っている。
 件の「全国紙政治部記者」が真に社会正義を求めるジャーナリストであるならば実名を明かして告発すべきであり、文春が社会公器の自覚を持っているならば情報提供者を説得して実名報道すべきであると思う。遮蔽物の陰に身を潜めて発射する文春砲では、命中もままならずの無駄弾に過ぎず、却って社会を混乱させることだけを期待した空砲にも思える。

 女性からは総スカンを食らうであろう無駄弾を一つ。
 フランス艶笑小咄では、小間使いから性被害の相手と名指し逮捕された老紳士が、疑惑が晴れた後も「犯人は自分」と云い募る様がある種の悲哀を込めて語られる。
 細田議長は1944(昭和19)年生まれの78歳である。自分を含めた大方の同世代は既に排尿機能さえ覚束ないと思うが、そんな中でのセクハラ疑惑は細田氏にとっては「男の勲章」とすべきかもしれない。