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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

猛暑予報

2022年06月27日 | 社会・政治問題

 本日も猛暑が予想され、「電力逼迫注意報」が発令されている。

 これまでの電力逼迫と云えば夏の甲子園大会決勝戦前後が定番であったが、注意報が6月下旬に発令されたことを考えれば、今年の盛夏時には計画停電まで覚悟しておかなければならないように思える。
 注意報発令に伴って事業者・一般家庭を問わず電力使用者に対して節電が呼びかけられているが、節電努力による効果は限定的で一時凌ぎの手段に過ぎない。電力逼迫の原因は主として原発の停止であり、かねてから予想されていたことであるが、電力逼迫の現状に対して脱原発を主張する人からの意見は伝えられていない。
 繰り返し書いて来たことであるが、政府の「コスト等検証委員会」の資料でも再生可能エネルギーの発電コストは補完発電機能の保持を含めると原発や化石燃料発電よりも割高で、天候の影響を受けないために日本では有効とされる地熱発電のコストは原発の4倍近いものとなっている。
 我々は、過去10年にわたって「再エネ賦課金」を支払って、その拡大を支援して(させられて)きたが、再生可能エネルギの比率が一向に向上しないのは、事業者が利益を見込めないためであろうと思っている。無料・無尽蔵の太陽光等を利用するとは云え、電力変換器の整備、発電素子の定期的な交換等を含めた長期的なランニング・コストは既存の発電コストと同等で、将来的に求められるであろう送電網の保守整備負担増を考えればに事業者にとって旨味の薄い分野であるのだろう。
 ちなみに、一般家庭向けの従量制供給の再エネ賦課金は、2022年4月までは1か月の使用電力量(kWh)に賦課金(3.36円)を掛けて算出されており、資源エネルギー庁の発表によると、2019年度の家庭用電気料金のうち再エネ賦課金が占める割合は約11%とされている。

 さらに憂うべきは、脱原発の旗振り役である立憲民主党にあっても今回の参院選公約には、近年の国政選挙公約に踊っていた「原発」の文字は見当たらず、わずかに「2050年省エネ60%※・再エネ電気100%を実現」とあるのみで、政治家にとって脱原発の掛け声は高邁な人類愛に基づいたものではなく、単なる「耳触りの良い集票コピー」であったのかと鼻白む思いがする。
 昨日の司法判断に類するものであるが、裁判官が阿蘇カルデラを産んだ大規模噴火、未発見の活断層の存在、等々の理由で原発の稼働を差し止めていることにも「過大な”0”リスク追求」ではとの疑問を持っている。

 新しい発見を一つ。昨年までは設定したこともない「通産省が推奨するエアコン28℃」に設定してみたが、歳のせいであろうか我慢できるものであることを知った。
 老夫婦の1部屋冷房を28℃に設定しても、猛暑注意報への貢献は「雀の涙」にも届かぬ「蟻/ウィルスの涙」であろうが、コロナ禍のマスク同様の奉公と考えることにした。


参院選公示迫る

2022年06月21日 | 社会・政治問題

 明22日に参院選が公示される。

 現在のところ、改選125名に対して540名弱の立候補が見込まれるが、無風選挙とは言えない様相を呈して、これまでの選挙戦術が通用しなくなる契機となる国政選挙になるのではと思っている。
 今回選挙の争点は、憲法改正、安全保障(対GDP2%防衛費)、物価対策であると思うが、それらに対する選挙戦術を考えてみた。
 従来の国政選挙では、主面切って憲法改正を主張するのは維新くらいで、憲法改正を主導すべき自民党にあっても党の公約に掲げた憲法改正を訴えるのは、当選が確実視される一部議員に限られ、革新色の強い選挙区で戦う自民党候補者は、選挙ポスターから憲法に拘わる記述を削除したり街頭演説でも憲法問題は封印する戦術を採るケースが多いと報じられていた。しかしながら、ウクライナ事変を契機とした世界情勢の激変に触発されて覚醒した有権者は、これまでのように憲法を直視しない鵺的候補者に対しては懐疑的な目を向けるように変化しているのではないだろうか。
 安全保障に関しては、ウクライナ事変によって専守防衛が本土決戦で、内実は劈頭における一般市民の少なからぬ犠牲を余儀なくされる戦略であることが示され、国民の意識も大きく変化したと思っている。反撃能力を持たない戦力は抑止力として働かない現実を目の当たりにした有権者は、徒な1%堅持論には共感しないように思える。
 景気対策のうち、一部政党が掲げる時限的な5%への消費減税にあっても、提唱者の立民泉代表すら認める(口ごもる)ように次世代への負担先送りに他ならないように思える。

 憲法論議の封印、従来の専守防衛戦略堅持、小手先の景気対策等の多くが、次世代への負担先送りに過ぎないことが理解されつつある現状では、これまでのように国民に負担を求めずに、あれもこれも差し上げますという選挙戦術では有権者の心を掴むに至らないように思える。
 かって、毛沢東率いる中国共産党は、「ズボンをはけなくても核兵器を」をスローガンに掲げ、紆余曲折はあったものの中華覇権を唱え得る中国建設の礎を築いた。
 諸事に停滞する日本にあっても、正面切って国民の負担増を求めるとともに、国民負担によって生まれる未来像を明示する選挙戦術に変化しなければならない時代になっているように思っているが、果たして各候補者の選挙運動や如何に。


知床遊覧船事故の責任に思う

2022年06月17日 | 社会・政治問題

 国交省は事故船の運航会社の「知床遊覧船」に対し、16日付で事業許可を取り消した。

 運航会社の桂田社長は、処分に先立つ「聴聞」に陳述書を提出し、大意「責任は国にもある。事故責任を事業者だけに押しつけるのは、国に対する世論の批判を回避するための見せしめだ」と不服を申し立てたと報じられている。
 これまでの報道では、桂田社長の運航管理者としての虚偽申請、運航当日に運航管理者が不在、通信設備故障、定点報告未実施と運行記録未記入、等の杜撰な管理態勢が指摘され、さらには、同業者に先駆けての営業開始や、漁師も出港を見合わせる海象下に出港を強行した事なども報じられている。
 にも拘わらずに、桂田社長が「国の責任」とする根拠は何であろうかと考えれば、「自分と会社のルール無視を見抜けなかった責任」との思いだろうか、はたまた一部識者から出された「国の安全管理体制不備」なる意見に乗っかって活路を見出そうとしたものであろうかと見るが、大方の賛同は得られないものだろう。
 国が示す「基準」は、原発のように事故が起きれば致命的被害が予想されるものに対しては最高の基準を示すが、零細企業まで参入する業種に対しては最低基準である場合が殆どではないだろうか。
 希望的見方とされるかもしれないが、遊覧船業界にあっても良心的な業者は、国の安全基準を超える態勢で運航に当っているものと思いたい。そんな中にあって、最低基準さえ守らなかった桂田社長が「国の責任」を云々することには、限りない不快感を持つものである。

 かっては、国の基準と許認可制度が官民の癒着、新規参入による自由競争を阻んで独占・寡占状態を産むとともに、零細資本の参入を困難にしているとの主張から、世を挙げて規制撤廃に取り組んできたが、それを求めた背景には日本人の遵法意識や商道徳が健全であるとの信仰があったものと思っている。
 しかしながら、今回の当事者の言、申請量を超える熱海の盛り土、日本各所での産廃違法投棄、多発するコロナ給付金詐欺の世情等を見ると、性善説に立った行政は限界に近付いているように思える。


日田市中津江村

2022年06月13日 | 社会・政治問題

 ネットで、中津江村の今昔を読んだ。

 記事は、2002年のサッカー・ワールドカップ日韓大会のカメルーン選手団のキャンプ地誘致の顛末を紹介する内容であったが、2005年の平成大合併で中津江村が日田市に吸収合併された後にも「日田市中津江村」とされていることに興味を持った。
 翻って我が寒村・郷里を眺めると、1954(昭和29)年に同じく寒村の隣村と合併して縁も所縁もない名称となり、更には2005年には隣接する市に吸収されて、二度目の村名は大字としてかすかに残るものの、最初の村名は痕跡すら無い。
 中津江村にあっては、カメルーン選手団のキャンプ地になったことで村名が流行語大賞に選ばれるほどの知名度を持ったために、日田市中津江村という市町村名がダブルという全国でも珍しい以上に、多分ないであろう地名表示となったものに思える。
 しかしながら、Wikipediaで中津江村の来歴を眺めると、1875(明治8)年に野田村と栃原村が合併して栃原村、梅野村と中西村が合併して合瀬村がそれぞれ成立。さらに1889(明治22)年に栃原村と合瀬村が合併して中津江村が誕生しているので、江戸時代の行政割から見れば4つの村の集合体であるらしい。それらの4つの地名は大字・小字となって残されているようであるが、ご先祖様の痕跡・遺徳・愛着を受け継ぐとともに、地域のアイデンティティを地名に残すためには「寿限無」的にならざるを得ないようである。
 そういえば、鹿児島県志布志町の支所は「鹿児島県志布志市志布志町志布志二丁目1番1号」であり、句読点やスペースを入れないと余所者には判読不能であると「マツコ・デラックス」の番組が紹介していた。

 邪馬台国探しの原点である魏志倭人伝を読み解くに際しては、記述された地点を現在の地名に比定する方法が一般的であり、そこそこの説得力を持っているが、弥生の大合併以前には「吉野ヶ里」は不弥国・投馬国はたまた邪馬壱国と呼ばれていたのかもしれないし、纒向遺跡の由来である旧磯城郡纒向村一帯が邪馬壱と呼ばれていたのかもしれない。
 地名については、織田信長が稲葉山城下の井ノ口を岐阜と改めたように為政者が人心を一新するために改名したり、天変地異を忘れるために住民が自然発生的に呼称を変更することもあったことだろう。近代の合併でもキラキラ志向や簡略化という利便性のために歴史を無視した・味も素っ気もない命名に奔ったことからも、弥生時代の地名が後世まで残されていない可能性は大いに考えられる以上に、残されていないほうが自然であるように思える。
 そんななかにあって、日田郡中津江村を日田市中津江村としたことには商業的価値重視以上の含蓄があったのかもしれないが、住民が履歴書に日田市中津江村と書いたら、多くの人事担当者は誤記と判断するのではないだろうか。と要らぬ心配。


文芸春秋の筆禍賠償に思う

2022年06月11日 | 社会・政治問題

 東京地裁が、文芸春秋社に対して110万円の損害賠償を命じたことが報じられある判決

 いきさつは、令和元年に文春オンラインがタレントで医師の木下博勝氏のセクハラ疑惑を報じたことに対して、木下氏が名誉棄損と損害賠償1100万円を求めて提訴していたものである。
 判決では、記事の真実性は認められないと断定しているので、素人観には木下氏の完全勝利であるように思えるが、賠償額を請求額の1/10に減額査定したのは何故であろうかとの疑念が湧く。
 裁判所の判断については、刑法犯では検察の求刑を、民事訴訟においては原告の申し立てをそれぞれ下回るのが一般的である。刑法犯については改悛の情など諸々の情状を酌量し、民事判断においては被告・原告双方の瑕疵を案分・相殺するのであろうことは理解できるが、今回のように記事がフェイクであると断定したにも拘わらず、請求額を減額するのはいかなる根拠に依っているのだろうか。
 乱暴に言えば、検察や原告の請求をそのまま認めるのは裁判所・判事の沽券にかかわるという驕り若しくは独りよがりがあるのではないだろうか。
 2000年に公開されたハリウッド映画「エリン・ブロコビッチ(ジュリア・ロバーツ主演)」は、大手企業から史上最高額の和解金を勝ち取った弁護士を描いた実話であるが、判決に際して陪審員は請求額に数倍する懲罰的賠償を加えるよう評決している。
 自分も、今回の文芸春秋社の筆禍においては、請求額に数倍する賠償判決が必要と思う。筆禍被害が後を絶たず、さらには文春砲なる言葉が闊歩する背景には、不確かな、伝聞による、眉唾な、情報であっても、それを記事にすることで得られる利益が、訴えられた場合に予想される賠償額の数倍であるというメディアの損得勘定が見て取れる。この「筆禍賠償額が雀の涙」の風潮は、国民にまで伝播してSNSにおける誹謗多発現象を育ててしまったように思える。
 一罰百戒の言葉があるように、裁判所の判決は犯罪者の贖罪以上に、同種犯罪抑止も期待していることを考えれば、筆禍を起こした企業がつぶれるほどの賠償が適当と思える。こう書けば「厳罰化はメディアを委縮させて言論・報道の自由を損なう」の常套句が聞こえそうであるが、自由には責任を伴うことを思えば加害者擁護に他ならないと思う。

 裁判官に対しても一言。
 近年、保釈した被疑者の逃亡や逃亡後の犯行が相次いでいるが、保釈を決定した判事の名前、保釈判断の根拠・適否、は明らかにされないし、折に触れて当事者の説明責任を求めるメディアも判事に舌鋒鋭く説明を求めることもしない。
 また、保釈中の逃亡については幇助者を含めて処罰規定が無いと聞いているが、それもあってだろうか保釈中のゴーン被告の逃亡に手を貸したであろう広中弁護士は指弾されることもなく、本人も小便を掛けられた蛙ほども動じていないように見受けられる。