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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

労働者とは誰?

2022年09月17日 | 社会・政治問題

 安倍氏の国葬参列者が、明らかになりつつある。

 国葬の案内状が元職を含めて、国会議員2000名、三権の長30名、地方自治体関係者300人、等に発送されていることが報じられた。
 受領された方々の反応は様々で、立憲民主党は執行部は不参加ながら議員は任意、共産党は不参加としているところが目ぼしいところであろうか。
 聯合の吉野会長が参加を表明したことに対して、蓮舫議員に代表される論客・識者が「労働者の頂点に立っ者が、コロナ禍、物価高の労働者支援を政府に求める立場にも拘わらず、国葬に参加するのはおかしい」と合唱しており、ネット上にも同趣旨の意見が散見される。
 葬儀欠席を強制するかの主張は非常識であるという点を別にしても、組合活動とは無縁に生きた自分としては、蓮舫議員を始めとする意見が良く理解できない。一体、彼らの云う労働者とは誰で・どの階層を指すのだろうか。
 19世紀以前のように金持ちが会社を私有して雇用者を搾取した時代、レーニンが共産党国家を作り出した時代では、資本家と労働者の線引きは明確で、資本家は富み労働者は貧困にあえぐという図式はあったが、賃金労働者と雖も株式等に投資している現在では労働者でありながら資本家であるという状況も少なくない。このような資本家兼労働者は、組合の一方的な賃上げ要求やストによる生産活動阻害の行動には同調しないのではないだろうか。昭和30年代には総評主導でゼネストをちらつかしたり、民間を犠牲とした国労ストライキにも一定の理解が得られたが、現在では連合傘下の組合でも組織率が低下するとともに、会社が利益を挙げなければ配分も得られないとする「労使協調型の御用組合」も多いと聞いている。また、例え下級であっても管理者となれば、組合に加入できずに組合の庇護も得られないと聞いているので、下級管理者は労働者ではないのだろうか。
 働いて生活費を稼ぐ人の価値観も多様化し一応の社会保障も整備された現在でも、管理者以外の働く人を一様に労働者と規定し、労働者は一丸となって雇用者・政府と対決すべきという硬直した階級闘争的思考は捨てなければならないのではないだろうか。事実、彼等の云う労働者が、挙って野党候補に投票していない現状が端的に示しているように思うのだが。

 民主党大敗・解党の原因となった解散劇の主役である立民の野田佳彦議員(元総理)は政敵を悼むと参加表明し、日本人の葬送はかくあるべしと評価されている。
 些か旧聞に属するが、国葬反対に沸く世論に対して、ジョウジア駐日大使が「安倍氏の実績を国葬に値しないとする日本の評価は国際感覚から外れている」とツイートした。駐在国においては自国の利害と無縁の治世・世論には触れないという慣習を破っての発言を見ても、今の日本はおかしいと思わざるを得ない。


大阪府泉南市議の発言を考える

2022年09月09日 | 社会・政治問題

 大阪府泉南市議の発言に興味を持った。

 発言は、泉南市が抱える4人の国際交流員(CIR)のうちの1名が中国人であることに対して、市議が議会の一般質問で「準公務員の性格を持つCIRに、国家情報法の支配下にある中国人は如何なものか」と述べたとされている。
 この発言に対して、市長・教育長が議長に国連人種差別撤廃条約やヘイトスピーチ解消法に照らして「市民の憎悪と差別を扇動する発言」と抗議し、議会も違法な諸手続下で「議員に謝罪及び反省を求める決議」を可決した。
 CIRを知らなかったので、一夜漬(実質30分)で調べてみた。
 事業母体は、総務省・外務省・文科省が協力して行う外国青年招致事業(JETプログラム)の受け皿である一般財団法人自治体国際化協会(CLAIR)である。CLAIRは、地方公共団体の協同組織として昭和63年7月に設立され、自治体からの要望に応じて、地域の国際化を支援・推進するための人員の確保(外国からの招致)や派遣をしており、国際交流員(CIR)、外国語指導助手(ART)、スポーツ国際交流員(SEA)の斡旋を任務としている。
 また、JETプログラムに対する監督省庁の主張をHPで眺めると、
・総務省-国別の招致人数を定めた国別招致計画を策定。参加者の報酬、旅費等JETプログラムの所要財源を地方交付税で措置
・外務省-参加者の募集・選考の業務、合格者の配置先の報告
・文科省-学校でのカリキュラムを製作し、教科書や教育の基準を決定。となっている。
 更に、CLAIRの財務報告を見ると、事業経費40億円の大半が公的資金である。
 このことを前提に市議の発言を眺めると、国際交流員(CIR)を準公務員と看做すのは妥当で、であるならば、国家情報法の支配下にある中国人をCIRとすることに不安を感じる市民の意見を代弁したとする市議の主張は適切と観るべきではないだろうか。

 中国が橋頭堡として確保した「軽易な一歩」を時間を掛けて拡大し、何時しか既成事実・実効的事実とする常套手段は尖閣水域で現在進行形として示されている。当初「中国漁船の海難対処のための海警局所属公船の一時的行動」としていたものが、現在では中国海軍海警部の大型艦の常続配備となり、更には目的も日本漁船の違法操業監視・排除に拡大している。
 地方議員と雖も議場における発言を懲罰的に封じることは許されず、ましてやCIR配備を中国の公安部がどのように位置付けているのか、軽易な一歩の橋頭堡としているのではないかが不明な現在、市議の発言を杞憂、あり得ない暴論として糾弾することはあってはならないように思う。
 個人情報の過度・偏重な保護が迅速な行政手続きを阻害していることはコロナ禍で明らかとなったが、人権保護・ヘイト禁止の盲目的単眼で本来自由であるべき言論、それも議場の討論さえ封じることは全体主義の典型的な兆候以外の何物ではないように思える。
 ここにも「日本定説病」の初期症状の一つが顕在化と嘆いて、口説終了。


日本型宗教「定説教」

2022年09月05日 | 社会・政治問題

 栃木県の下野市議が本年6月に行った市議会での一般質問が話題となっている。

 話題となっているのは、同性カップルの主張を栃木県が認めることで異性カップルと同様な行政上の権利を得ると定めた「パートナーシップ宣誓制度」を市が導入することに反対して、「(LGBT)の人達は)できたら静かに隠して生きて頂きたい。その方が美しい」との趣旨の発言である。
 これに対しては、茨城大の清山玲教授が「性自認を告白することで幸せになれる人がいる。他人が告白を妨げるのは相手の権利の侵害に当たり、多様性を認め合う社会づくりにもマイナスになってしまう」と指摘しているとされるのが、時流に沿った「定説」であろうと思える。
 市議の発言は議場で行われた反対意見の陳述であり何ら問題となるものではないが、このことを伝える本朝のテレビ番組のコメンテータが市議の主張を一刀両断していることには些か考えさせられるところがあった。
 我々世代の常識ではカップルは異性であるべきであり、もし自分の子や孫が同性カップルであると知った場合には、表面的には「物分かりの良い常識老人」を演じつつ、内心「何とか考え直して欲しい」・「一過性のことで、治って欲しい」と願うのではないだろうか。

 両者の言い分の何れが採用されるのが是であるかは兎も角、本日書きたかったのは「日本は無宗教・無神論者」の国ではないということである。
 些か唐突な展開であるが、下野市議会に関する報道を見て「日本には定説教」という宗教が存在しているのではないかと思った。以前に紹介した塩野夏生氏の「宗教は信じることで始まるのに対して、哲学は疑うことから始まる」の論を借りるならば、既に定説と化した「東京裁判が認めた価値観」を疑うことや見直しを主張する輩は「教義に疑問を持つ異端者で矯正すべき存在」であるという主張をしばしば耳にするからである。
 かって日本維新の会の代議士(後に除名)丸山穂高氏が北方領土返還に関して「歴史上戦争無くして領土を回復した例は無い」と発言し、「ロシアとの戦争を主張するもので憲法(定説)違反」との非難を受けたことがあったが、現在ウクライナが採っているクリミヤ回復の行動は、丸山氏の指摘そのままに過ぎないように思える。
 定説教の信者にあっては、一転の迷いもなく定説を信じることで平安を得ているのであろうが、定説を疑うことで得られる・見えてくる物も多いのではないだろうか。


武蔵野市長の愚行・愚考

2022年09月01日 | 社会・政治問題

 松下玲子武蔵野市長の愚行が収まらないようである。

 先に、住民登録後3か月以上の「外国人を含む住民に住民投票権を与える」との条例案が否決された松下市長が、今度は「子供の権利に関する条例」を制定しようとしている。
 条例案で論議を呼んでいるのは、学童の「休む権利及び自由に時間を過ごす権利」と同権利の延長としての「子供特別休暇」と、学童が「学校運営の一員」とする点である。
 子供の権利に関する背景を学ぶと、1989(平成元)年に「子供の権利条約」が国連総会で採択され日本も1994(平成6)年に批准したとなっている。
 ユニセフの広報資料によると、条約の理念は《子供(18歳未満)も大人と同じく一人の人間として権利を認め、かつ、大人への成長過程にある「弱い立場」ならではの「保護や配慮」という子供特有の権利をも定める》とされている。また、子供の権利については《生きる権利・育つ権利・守られる権利・参加する権利》を挙げている。
 同条約は以後、紛争の多発やSNS発達の変化に応じて、兵士年齢の引き上げ(15歳⇒18歳)、子供の売買禁止、児童買春及びポルノ禁止等の三つの選択議定書が追加され日本も兵士年齢に関する議定書を除いて批准しているが、同条約達成に対するユニセフの評価は相対的に低く、特に「子供の参加する権利」については改善する必要があると勧告されているとなっている。
 松下市政が準備している条例は、好意的に観れば子供の権利条約の精神を全て網羅・クリアした以上に、条約の理念にも挙げられていない「休む権利」まで付与しようとするものであるように思えるが、急速に悪化・荒廃した子供心理・教育現場を眺めれば、SNSが無かった30年以上も前の条約に立ち返ることが適当とは思えない。
 大量の移民流入によって独自文化の荒廃・消失の危機感を持った西欧諸国が相次いで徴兵制を復活させようとしている現実、「国のために戦うか」という調査に対して、90%以上が「yes」と答えた中国に比べてG7では40%程度日本は10%強である現実、等を見ると、武蔵野市の条例はヴァガボンド(vagabond)の増加に拍車をかける以上の結果をもたらさないように思える。

 児童の成長には親権者や公的な強制・矯正が必要と考え、登校時に警察官に依る所持品検査やスマホの一時預かりを可とするアメリカは条約に署名はしたが批准していない。
 人並以下の知性・徳性しかない自分が80年近い生を保っているのは、18歳以前に受けた強制・矯正の賜物であろうと思っており、同じ感慨を持つ御同輩も少なくないであろうと思う。自分のように底辺に生きざるを得ない素質者に対しても、矯正を放棄する実験場として武蔵野市を運営することが許されるのだろうか。
 この条例が成立した何年後かには、武蔵野市出身の青年が就職等で不利益を被る事態が起こらないとも限らないように思うのだが。


「ナンクル ナイサー」を学ぶ

2022年08月29日 | 社会・政治問題

 産経新聞の読者投稿コラム「朝晴れエッセー」を楽しみにしている。

 タイトルの通り、掲載されるのは朝に相応しく心温まるもので、怠惰に生きてきた自分の半生に比して何と多くの人が真摯に生きて来たのかと自責の念に駆られるものばかりである。
 本日の投降者は、沖縄出身で大阪市在住70歳男性の、沖縄の方言「ナンクル ナイサー」に関するエッセーであった。「ナンクル ナイサー」は、沖縄出身のタレントが紹介したことで、自分なりに「なんとかなるよ」の意味と理解していた。さらには、言外に沖縄県人特有の、良く言えば「おおらかな」悪し様に書けば「やや怠惰な」南国県民気質の代表例とも考えていた。
 しかしながら、エッセーによると「ナンクル ナイサー」の用法は、必ず「人は誠実で嘘をつかずにまっすぐ進めばきっと誰かが援けてくれる」という意味の方言があったのちに「ナンクル ナイサー(だから、なんとかなるよ)」と続くのが一般的であるらしい。勿論、現在では前置きの方言が省略されて使用されるのが一般的のようであるが、それでも「誠実に生きていれば・・・」という前提は沖縄県人の「問わず語りの共通認識」として存在しているのであろう。
 「ナンクル ナイサー」の真の意味を知ると、そこには必ずしも今様には恵まれていなかったであろう地域社会で生きていくための共助の心構えを説いた人生訓・含蓄に富んだ方言で、自分の浅薄・生半可な理解に恥じ入るばかりである。
 高校卒業を機に売り飛ばしてしまった我が郷里も方言に溢れていた。今ではその多くを忘れ、時折のクラス会で「そう云えば」程度に飛び交うくらいであるが、それらの中には自分たちが受け継げ無かった先人の教訓的表現・意味合い含まれていたのかもしれない。

 現在、地方創生、地域の活性化が叫ばれて担当大臣まで置かれているが、内実は「地方の東京化」に他ならず、加えてマスメディアやSNSの普及で方言と方言が持つ地方文化は消え去る運命にあるように思える。朝晴エッセーの投降者は子供や孫に「ナンクル ナイサー」の真の意味を教え伝えていると結ばれておられるが、素晴らしい生き方であると感じ入っている。
 本ブログでも時折、「日本人としてのアイデンティティ希薄化」を嘆いているが、原因は方言に含まれる先人の教訓の伝承を怠った、伝承を断ち切った我々世代にあるのかもしれない。