4月14日に福井県庁で枝野経産大臣を出迎えた友人の報告です。『地震の多い日本に大量の原発建設を許したのは、むしろデモができなくなったような日本の社会なのだ』(柄谷行人『政治と思想1960‐2011』6ページ)ということがほんとによくわかります。
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福井県庁にいってみて
4月14日、福井の大飯原発の再稼働の説明のため枝野経相が福井県庁を訪問する、という知らせをうけ、一市民としての意思を表示すべく、福井県庁までいった。私は、ただの無職のおばさんで、どんな団体にも属していない。まして、政治については何もわからない。だが、福島原発の事故以来、見えない放射能におびえ、スーパーの買い物で原産地を確認しながら買ったり、出身の千葉県で水道水を飲むのをやめたり、する、生活がいやになった。いつも文句をいっている。でも、誰に。文句だけを言って、行動をおこさないのは、卑怯だと思った。そんなわけで、枝野経相の安全宣言に異議を唱えにいったのである。
今回のデモで、二つのことを感じた。
まず、大飯原発の再開がなければ、日本の原発はすべて停止するという、事態をむかえることができる。これは、歴史的出来事になる、と思った。だから、その実現のために、きっと原発に不安をかかえる多くの人が集まっているに違いない、と思った、のだ、が。実際は違った。え?これだけ?という数。まあ、枝野氏の訪問が決まったのが、前日夜だったのでしかたない、か。それに、福井は、東京とちがって、人口も少ないし。しかし、集まっている面々の年齢層が、高すぎる。60歳以上の人が、多数をしめているように感じた。若い人はほとんどいなく、30代40代も少なく思えた。参加者の多数は、安保や全学連の世代、だった。
私は、丁度50歳になったところ。子供のころ、浅間山荘事件や、赤軍派リンチ事件、成田闘争、などをテレビで見ていた。その主張はともかく、子供の頭の中に、あの映像をみながら、デモをする人=機動隊とぶつかる人=てぬぐいで顔を隠している人=悪い人、という公式ができあがっていた。だから、無意識のうちに、デモをする人は国家に反逆する悪人であるという意識がある。だれに、教えられた、言われたわけでもないのに。
14日は、一市民として、自分の正しい意見を表明するために、福井県庁にいった。間違っているのは、どう考えても日本政府である。それは、確信している。にも、かかわらず、多くの制服の警官たちを見たとき、本能的に怖くなった。そして、シュプレキコールをするとき、「マスクしたほうがいいかも」と一瞬思った。 「いやいや、自分は何もやましいことはしていないんだから、顔をだしていていいんだ。」と自分に言い聞かせた。でも、怖かった。 あれは、制服の脅威、なのか、県庁の職員が警備にあたって仁王立ちしている姿をみても、全然怖くなかったのに。つまり、私たちの世代、40代から50代は、国家とは違う自分の意見を言うことを、自分たち自身で検閲してしまう、それをタブーと、自分でしてしまうところがあるのだと思う。だから、デモに参加した、と友人に話せば、白い目でみられ、その意図するところが何であれ、政府と違った意見を持つことを悪として見られてしまう。そういう、無意識から、私たちの世代がどんなに原発の再開に不信感を覚えていても、声にださない、ということがあるのだと思う。次回も、きっと私は参加するだろう。それが、今の私の意思を伝えることのできる唯一の手段だから。そして、やっぱり、怖くって、根拠のない罪の意識をもつと思う。
もうひとつ、今回の福井で感じたこと。翌日、福井という街を少し歩いた。驚いた。素晴らしい都市計画。全ての道は広く、歩道も広い。素敵な街燈。大きな橋が何本もかかり、立派としか言いようがない。地下道も整備されている。なぜ、この町がこんなに素晴らしいのか。県庁所在地だから?出身の千葉県の県庁所在地、千葉市と比べてみたら、雲泥の差。でも、千葉のほうが、福井とは比べ物にならないほどの工業と、若い人口がある。なぜか。そして、私は気がついた。デモに参加した人で、私たちが話した中で、福井出身の人は一人もいなかった。みな、京都とか、滋賀県とか、他府県から来た人だった。そして、デモの参加者に、一番放射能被害を心配する、地元の子育て世代がいなかったこと。そうだ。福井の人は、原発に反対をしていないのだ、と思った。この豊かさを、おそらく社会福祉も他府県とは比べ物にならないくらい充実しているのだろう。原発産業が、この県を信じられないくらい潤していて、(助成金、交付金など)その恩恵を、誰がみすみす捨てることなどするだろう。たぶん、福井県民にとって、他府県から原発を反対されるのは、大きなお世話、迷惑、なのではないか。
誰が、政治をきめるのか。権力をもった政治家、経済界。頭のいい悪人たち。シナリオはもうできている。それを、私たちのような非力な市民が変えることはできるのだろうか。あまりにも、無力。声を出すだけ、無駄、なのか。やっぱり、利口な人たちはだまっているのか。それでも、不合理なことは、不合理だ。これ以上、放射能がおこす病気の可能性におびえて、生きるのはいやだし、他の誰にも、病気になってほしくない。病気になったら、大変なことだ、本当に苦しいんだ、ということを皆に肝にめいじてほしい。
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福井県庁にいってみて
4月14日、福井の大飯原発の再稼働の説明のため枝野経相が福井県庁を訪問する、という知らせをうけ、一市民としての意思を表示すべく、福井県庁までいった。私は、ただの無職のおばさんで、どんな団体にも属していない。まして、政治については何もわからない。だが、福島原発の事故以来、見えない放射能におびえ、スーパーの買い物で原産地を確認しながら買ったり、出身の千葉県で水道水を飲むのをやめたり、する、生活がいやになった。いつも文句をいっている。でも、誰に。文句だけを言って、行動をおこさないのは、卑怯だと思った。そんなわけで、枝野経相の安全宣言に異議を唱えにいったのである。
今回のデモで、二つのことを感じた。
まず、大飯原発の再開がなければ、日本の原発はすべて停止するという、事態をむかえることができる。これは、歴史的出来事になる、と思った。だから、その実現のために、きっと原発に不安をかかえる多くの人が集まっているに違いない、と思った、のだ、が。実際は違った。え?これだけ?という数。まあ、枝野氏の訪問が決まったのが、前日夜だったのでしかたない、か。それに、福井は、東京とちがって、人口も少ないし。しかし、集まっている面々の年齢層が、高すぎる。60歳以上の人が、多数をしめているように感じた。若い人はほとんどいなく、30代40代も少なく思えた。参加者の多数は、安保や全学連の世代、だった。
私は、丁度50歳になったところ。子供のころ、浅間山荘事件や、赤軍派リンチ事件、成田闘争、などをテレビで見ていた。その主張はともかく、子供の頭の中に、あの映像をみながら、デモをする人=機動隊とぶつかる人=てぬぐいで顔を隠している人=悪い人、という公式ができあがっていた。だから、無意識のうちに、デモをする人は国家に反逆する悪人であるという意識がある。だれに、教えられた、言われたわけでもないのに。
14日は、一市民として、自分の正しい意見を表明するために、福井県庁にいった。間違っているのは、どう考えても日本政府である。それは、確信している。にも、かかわらず、多くの制服の警官たちを見たとき、本能的に怖くなった。そして、シュプレキコールをするとき、「マスクしたほうがいいかも」と一瞬思った。 「いやいや、自分は何もやましいことはしていないんだから、顔をだしていていいんだ。」と自分に言い聞かせた。でも、怖かった。 あれは、制服の脅威、なのか、県庁の職員が警備にあたって仁王立ちしている姿をみても、全然怖くなかったのに。つまり、私たちの世代、40代から50代は、国家とは違う自分の意見を言うことを、自分たち自身で検閲してしまう、それをタブーと、自分でしてしまうところがあるのだと思う。だから、デモに参加した、と友人に話せば、白い目でみられ、その意図するところが何であれ、政府と違った意見を持つことを悪として見られてしまう。そういう、無意識から、私たちの世代がどんなに原発の再開に不信感を覚えていても、声にださない、ということがあるのだと思う。次回も、きっと私は参加するだろう。それが、今の私の意思を伝えることのできる唯一の手段だから。そして、やっぱり、怖くって、根拠のない罪の意識をもつと思う。
もうひとつ、今回の福井で感じたこと。翌日、福井という街を少し歩いた。驚いた。素晴らしい都市計画。全ての道は広く、歩道も広い。素敵な街燈。大きな橋が何本もかかり、立派としか言いようがない。地下道も整備されている。なぜ、この町がこんなに素晴らしいのか。県庁所在地だから?出身の千葉県の県庁所在地、千葉市と比べてみたら、雲泥の差。でも、千葉のほうが、福井とは比べ物にならないほどの工業と、若い人口がある。なぜか。そして、私は気がついた。デモに参加した人で、私たちが話した中で、福井出身の人は一人もいなかった。みな、京都とか、滋賀県とか、他府県から来た人だった。そして、デモの参加者に、一番放射能被害を心配する、地元の子育て世代がいなかったこと。そうだ。福井の人は、原発に反対をしていないのだ、と思った。この豊かさを、おそらく社会福祉も他府県とは比べ物にならないくらい充実しているのだろう。原発産業が、この県を信じられないくらい潤していて、(助成金、交付金など)その恩恵を、誰がみすみす捨てることなどするだろう。たぶん、福井県民にとって、他府県から原発を反対されるのは、大きなお世話、迷惑、なのではないか。
誰が、政治をきめるのか。権力をもった政治家、経済界。頭のいい悪人たち。シナリオはもうできている。それを、私たちのような非力な市民が変えることはできるのだろうか。あまりにも、無力。声を出すだけ、無駄、なのか。やっぱり、利口な人たちはだまっているのか。それでも、不合理なことは、不合理だ。これ以上、放射能がおこす病気の可能性におびえて、生きるのはいやだし、他の誰にも、病気になってほしくない。病気になったら、大変なことだ、本当に苦しいんだ、ということを皆に肝にめいじてほしい。