玄文講

日記

会合

2005-06-11 15:26:16 | 個人的記録
会の集まりがあった。
新しく入った方に「何をやっているのですか?」と問われて、一時間弱も物理の話を長々としてしまった。
その間、みんな飲まず食わず。悪いことをしたかもしれない。申し訳ない。

昔も女の子の前でそういうことをしてしまい、ものすごく場をしらけさせたことがある。
黒体放射の古典統計の破綻から光電効果による光の粒子性を話し始めたときは彼女らも関心のある振りをしてくれていたのだが、発散についてくりこみ理論やそれがアノマリーと違うことを解説する頃には悲惨な状況になっていたそうだ。
それに私はまったく気がつかないでいた。

それ以来、物理の話を人前でしないように気をつけていたのだが、会では地が出てしまった。

鳥を逃がす

2005-06-09 23:20:26 | 個人的記録
早朝4時ごろ仮眠を取るために人のあまり来ない談話室に入ると、それと同時にコブシくらいの大きさの何かが天井に向かって飛び跳ねた。

見ると白い身体に黒い模様のある鳥(ハクセキレイだろうか?)が八の字を描きながら逃げ惑っていた。
窓にはわずかに隙間があり、そこから入り込んで逃げ出せなくなったと思われる。
床には糞が5ヶ所ばかり落ちており、わりと長い時間閉じ込められているようだった。

窓を大きく開けてやると、そこからすぐに逃げ出した。
そのあと窓際のイスの上に寝転がると、窓から見える木にその鳥がとまってこちらを見ていた。

「鳥の恩返し」というメルヘンチックな単語を連想したが、たかが窓を開けたくらいで恩返しを期待するのは図々しいことであろう。

「一度やそこらのやさしさで つけあがられるのは とても迷惑なんだ」という中島みゆきの曲を頭の中で歌いながら私は眠った。

昨日の補足「パクリの巨匠」「文化と遺伝」など

2005-06-08 03:08:15 | 人の話
昨日は文化は伝播するものであり、模倣は必ずしも悪ではないことを主張した。
しかし言葉足らずと思われる点が幾つかあったので追加したい。

**************

コピーはオリジナルには勝てないと言われている。
しかし何かを参考にして後から作ったもののほうが面白くなることもある。
むしろ後続が先発より面白い例のほうが多い気さえする。
たとえば次の巨匠がそうだ。

パクって巨匠と呼ばれるようになった人

逆に昔の作品は今の作品より劣っているからダメだと言われたりもする。

ここ数年、手塚治氏の原作をもとにして多くのアニメやマンガが作られている。
映画ブラックジャックやPLUTOなどがそれなのだが、(私には)原作より面白くなっているように見える。
しかしそれをもって手塚氏がすごくないと言う人はいないであろう。

ライト兄弟の作った飛行機が59秒しか飛ばなかったからと言って彼らを否定することがないのと同じことだ。
最初に何かをやった個人は偉大なのである。

**************

私は人間の性質が全て後天的に環境からの影響を受けて形成される、とは考えない。

あらかじめ人間には生まれながらに組み込まれた性質がある。
それはより効率的に文化を模倣し、学ぶための仕組みである。

たとえば幼児は親が何を考えているかを予測しながらマネしており、自閉症児にはそれができないことが知られている。
先天的な遺伝子の仕組みが文化の伝播に影響を与えているのだ。

遺伝と環境は相互に依存を与えている。
環境の影響だけが強調される傾向があるが、カエルの子はカエルという言葉にも真実は含まれている。

**************

私はすべての文化が保存されるべきだとは考えていない。
文化の多様性という言葉はどこかインチキくさい。
より便利な文化が自然淘汰で生き残るということを極端に無視しているように見えるからだ。

原始的な文化しか持たない民族が便利さを求めて近代文明を輸入するのはよくあることだ。
伝統を守れと言っているのは外野だけで当事者たちは迷惑がっているということもある。

たとえば合掌造りの古い家屋をマンションや快適な家にしたいのに、国から文化財に指定されて困っているという話がある。

**************

民族性に言及するのと人種差別は紙一重だ。
私も民族性は全体的な傾向に過ぎないとみなし、過度の一般化をしないように注意しているつもりである。
また民族性は遺伝よりも環境の影響により獲得されるものであり、人種の性質ではない。

(追記)
民族性と偏見をどうやって区別するのか、と言われると返答に困る。

それは有名な日本研究書である「菊と刀」で分析された日本人像が当たっているようでもあり、偏見でもあるように感じるのと似ている。

また自分が見知っている外国人だけから、その国の全体像を想像するのも乱暴な考え方かもしれない。
個人の体験を安易に普遍化している。

しかし民族ごとに特性があるのも確かなことと思われる。
私見では韓国人の民族性は

「人情が厚い」「大雑把」「激情に走りやすい(怒りすぎて死ぬことができるほどだ)」「愛国心が強い(体重自慢はこの延長にある)」「差別に無頓着」「ケンチャナヨ(気にすんな)」

というのがある。やはり偏見だろうか。

文化の伝播と著作権

2005-06-06 18:45:40 | 人の話
私は個人と全体を同一視する考え方が嫌いである。
たとえば私が日本人というだけで先の戦争の責任を問われたり、相手が支那人というだけで彼の国の暴動の責任を問うのは筋違いというものだ。
個人の責任は個人の行為についてのみ生じるものであり、民族や国籍が罪になってはいけない。

しかし国ごとに民族性というものが存在することも確かなことである。歴史、風習、食生活、政治、経済といったものが人格に影響を与えることを否定する人はそう多くはないであろう。

根本敬氏の「ザ・ディープ・コリア」に書いてあったことなのだが、韓国、朝鮮人の民族性というか物の考え方の一つにとにかく何でもかんでも自慢して「民族の優越性」を誇りたがるというところがある。

氏はそれを「体重自慢」の比喩で表現している。

日本人が体重計に乗るとメーターは60キロと表示した。
すると側にいた韓国人がこう言った。
「ほぉ、日本の60キロはそんなものですか。韓国の60キロはもっと重いですぞ」

60キロは世界中のどこで測っても60キロだが、韓国人はその60キロもウリナラ(我が国)では「もっと重い」と主張するのだ。
もちろんこれはたとえ話であり、実際にそういうことがあったわけではない。
何でもかんでも誇りたがる性質を大げさに書いているだけである。
また根本氏は決してこれをもって韓国人をバカにしているわけではなく、むしろ好意的に見ている。

テレビのインタビューで韓国のあるアジマはこう発言した。
「日本文化は私たちの文化のまねだから価値がないのよ」

私はこの発言を全否定はしない。文化は独自の進化もとげるから全ての日本文化がマネから生まれたわけではない。しかし朝鮮から陶磁器などの技術を輸入したのは確かなことだ。
そしてその朝鮮文化は日本で模倣を繰り返し、やがて日本独自の文化になった。

だがそれをもってまねした方、伝播先の文化に価値がないだなんて言い掛かりである。それを言うならあなた方の文化だって支那の模倣であり、人類の文化は全てアフリカで生まれた最初の人類の模倣なのだからアフリカ文明以外は無価値ということになる。

これは体重自慢である。文化に優劣があるわけではない。
また独創性や個性という幻想を無制限に拡大していることが、こんな自明なことをも人に分からなくさせているのだ。
「模倣したものには価値がない。伝播したものは発祥地のそれより劣ったものでしかない。なぜならそれらは独創的ではないから」というわけだ。

韓国ではキムチの材料であるとうがらしが日本からもたらされたものであることを絶対に認めたがらない人がいる。
農作物が他国へ伝わり、それがその国の食文化の一部になるのは数千年前からあらゆる国で起きていることであり、それは誇ることでも卑下することでもない。
これも体重自慢の裏返しである。意味のないことを自慢するように、意味のないことを気にしているのだ。

********************

文化がどのように変化するかについては2つの考え方がある。

進化と伝播である。

どれだけ環境が違ってもしょせんは同じ生物種。すること、作る物は似たりよったりになる。
放っておいても人は同じような道具や文明を発明し、発展させる。つまり文化は各々が独自に同じような道筋をたどって進化していく。

一方で人間は交流をする生物である。自分の文化を相手に教え、相手からも何かを教わることは当然起こるべき事態である。
だから文化は独自の進化だけではなく、他からの伝播によっても変化する。

多くの文化は模倣から生まれる。
まねて、まねて、それでもまねしきれない部分が彼ら独自の文化となり、技術となる。
元の文化が優れているわけでもなければ、後から生まれた文化のほうがより良いものだということでもない。

たとえば支那と日本の伝説には内容が似ているものがある。幽霊が子供に与えるアメや食べ物を買いに来る話はどちらの国にも存在する。この民話はおそらく支那から日本に伝わり拡散したのであろう。

これをもって
日本の民話や伝説は支那のパクリだ。
人の国の話を盗んでおいて涼しい顔をしているなんて日本人は卑怯な奴らだ。
これは支那が日本より優れている証拠だ。
などと言う人はいないであろう。いたとしてもバカにされるだけだ。

しかし似たような議論をしている人をたまに見かける。
日本のマンガやアニメはアジア地方で人気があるらしい。それで韓国で日本のアニメに似た作品が存在したりするそうだ。確かに似ていると思うものを私も数点見ている。

しかしそれをもって韓国は日本文化をぱくっている、卑怯だ、民度が低い、ウリナラマンセー野郎などと批難するのは誤りである。
模倣は大いにけっこうなことであり、推奨されるべき行為である。それらの模倣を繰り返すことでやがて韓国には独自のマンガ、アニメが生まれるであろう。いや、既に生まれているのだ。
まねをしているからそれに価値がないと言うのでは韓国人の体重自慢を笑えまい。あえて彼らが一番不愉快になる言い方をすれば「日本人のくせに思考回路が朝鮮人と同じだ」と言えよう。


一方で韓国では日本文化を悪と退廃と愚劣の象徴のようにとらえ、自国の文化がそれに犯されていると思い込んでいる哀れな人もいる。
これも文化は伝播するものであることを理解できない人の典型であろう。
戦前の日本が徹底的に朝鮮文化を見下し、否定したのと同じことをしている。
彼らが一番不愉快になる言い方をすれば「韓国人のくせに思考回路が日本帝国軍と同じだ」と言えよう。

********************

さて、今まではわざと大事な話をしなかった。
今と昔では文化の伝播において決定的に違う点がある。それは著作権の存在である。
大昔に支那から稲作文化が伝わってきた時、その農耕技術や稲の権利を主張する人はいなかった。
しかし今では技術にも農作物の遺伝子にも権利が存在し、その使用には金銭を払わなくてはいけない。

この問題を議論する時には「模倣は悪か」という問題と「著作権はどうする」という問題を明確に分けないと混乱を招く。
前者が悪いことではないというのが私の主張だが、後者については難しいところだ。
私も著作権問題について韓国を批難する人をバカにしたりはしない。
文化の優劣という視点から韓国の模倣をバカにするべきではないが、商取引きにおける不公正として韓国の模倣を批難することには正当性がある。

著作権。これが存在しなくてはマンガも映画も音楽も小説もアニメも産業として成立しなくなり、生産数が激減することだろう。
一方で著作権は文化の伝播をさまたげるものでもある。過激な表現をすれば「著作権が文化を殺す」こともある。

支那は著作権の意識が薄く、私の師が支那の大学に行った際、現地の研究室には山のように学術書の海賊版が積まれていたそうだ。国の研究機関が堂々と著作権を無視しているのである。
中には自分の書いた本の海賊版もあって、私の師は

「なかなかしっかりした装丁で、持ち運びに便利になっていて海賊版とは思えなかったよ。実は気に入ったから一冊もらってきたんだ」

と言ってそれに気分を害するどころか喜んでさえいた。

考えてみれば一冊1万円もする学術書を支那人の給料で買えるわけがない。
もし正規の値段で本を買うことを強制すれば、学問をする上で大きな障害となってしまう。そうなれば彼の国の文化は閉鎖的になり、遅れていくことだろう。
理系の学者には本や論文でお金を儲ける気なんてない人が多く、国籍に関係なく議論できる相手が増えることの方が嬉しいのである。
支那に市場を持たない出版社としても、彼らの行為は大きな損失をもたらさない。むしろそれは将来の進出に備え今の内に市場を開拓していることになる。いずれ著作権が厳しくなり、支那人は彼らから本を買うようになることだろう。
これが著作権を無視することで文化の伝播がスムーズにいき発展していく一例である。

しかし映画などはそうはいかない。それで儲けなくてはいけないのだから、海賊行為は大問題である。しかも海賊商品が海外に出回り全ての市場を荒らすことも多い。

日本ではウイニーだとかJASRAC、マンガ喫茶で「文化か著作権か」という問題が議論されている。
この問題について私は上記した以上の考察を持たない。どちらか一方に偏るのをさけるべきだとしか言いようがない。

「2chのこわい話」の思い出

2005-06-04 16:01:37 | バカな話
昨日の記事は知人から「長い、読めない、うざい、金貸して、今何時?」と評判が悪かった。
だから興味のない人にとってはどうでもいい経済話を3日間も連続でやるのはやめにして、今日はぜんぜん関係ない話をしたいと思う。

私は2chを見ない。
だが私は2chが嫌いなわけではない。匿名だからダメだとか、犯罪の温床だから、無礼だから、便所の落書きだからというのは私にとって嫌う理由にはならない。
文章に貴賎はないというのが私の考えである。

私があそこを見ないのは時間が無駄だからである。レスの量は膨大だが欲しい情報は少ない。
下らなくて無意味な話をするのは楽しい。しかしああいう場所をダラダラと楽しめるゼイタクを私は持っていない。

だから2chの議論をまとめたサイトはよく見る。最小の時間でかなりの娯楽が得られる。

今は閉鎖した2chの論争をレポートしていたバトルウォッチャ-、軍事板常見問題、社会常識に欠けた恋愛ゲームマニアを2チャンネラーが吊るし上げた2chネカマ作戦記、、、
いわゆる「まとめサイト」はいくらでもある。

そんなまとめサイトの1つに「2chのこわい話」というサイトがあった。カレーマニア氏が運営する素晴らしいサイトであった。
氏は2chの掲示板から文字通り恐い話を集めて、選りすぐりの話を公開してくれた。
しかもこのサイトには「面白画像」「グロ画像」「エロ画像」の掲示板があり、エログロナンセンスという私が最も好む要素も含んだおもちゃ箱のような場所だった。

何よりも氏の鑑識眼は素晴らしかった。
恐い話というのは何も幽霊だけではない。

サイコパス、人格破綻者は恐い。
大きな動物、未確認生物は恐い。
事故、災害、遭難は恐い。
なんでもない日常の風景も恐い。

氏はそういう恐さを理解できる人だった。そして氏はそれを面白く、かつ見やすくまとめることができた。編集能力が高いというべきだろう。
同じようなことをしている他の類似サイトは情報量が少なかったり、私の趣味とあわないものが多い。
幽霊話に偏っていたり、私には面白くない話を紹介してばかりいる。
(これは私の趣味とあわないということで、それらのサイトがダメということではない。)

なかには「カレーマニアは他人の話を無断で盗用しているだけじゃないか。あいつがスゴイわけじゃないだろ」

と言って批判する人もいた。
しかしその人は知らないのである。あの膨大な情報群から適切な取捨選択を行い提示するのには高い編集能力と莫大な労力を要求されるということを。

2chのレスの著作権という問題はあるが、個人的には便書の落書きが権利を主張しないでほしいと思っている。
たとえば実際に本当の便所の落書きを集めた民俗学の本があるが、その本に対して落書きの著作権を主張する者はいないであろうし、学会で「すごいのは落書きをした人で、この本を書いた研究者ではない」と言う人もいないであろう。
落書きを集め、編集し、その意味を分析して世に示した研究者の実績を否定することはない。

カレーマニア氏はこのサイトをまとめて本にしたが、それは一部の卑しい人間のくだらない嫉妬心に火をつけた。
他人が楽をして金もうけするのが許せない、という最低の理由で彼らは怒った。

先にも言ったように、編集作業は楽な仕事ではなく氏は十分に働いている。
よしんば働いていなくても他人がどうやって金を儲けようが、それは批難するべきことではない。

これはもちろん社会常識、法に反しない限りで何をしてもいいということだ。著作権という問題があるかもしれないが、それならば論争や交渉は当事者たちが法を介して行うべきである。外野が遠くから石を投げる行為こそが法を軽んじる逸脱行為である。

それが理由かどうかはわからないが、この本の刊行後そのサイトは閉鎖してしまった。
別の人があとを引き継いでおられるが(2ちゃんねるの超怖い話)それはもう別のサイトであり、あの楽しいおもちゃ箱は今はもうない


、、、今日の話も長くなってしまいました。読めないですか?うざいですか?お金は貸しません。時間は時計を持っていないので分かりません。