玄文講

日記

文化の伝播と著作権

2005-06-06 18:45:40 | 人の話
私は個人と全体を同一視する考え方が嫌いである。
たとえば私が日本人というだけで先の戦争の責任を問われたり、相手が支那人というだけで彼の国の暴動の責任を問うのは筋違いというものだ。
個人の責任は個人の行為についてのみ生じるものであり、民族や国籍が罪になってはいけない。

しかし国ごとに民族性というものが存在することも確かなことである。歴史、風習、食生活、政治、経済といったものが人格に影響を与えることを否定する人はそう多くはないであろう。

根本敬氏の「ザ・ディープ・コリア」に書いてあったことなのだが、韓国、朝鮮人の民族性というか物の考え方の一つにとにかく何でもかんでも自慢して「民族の優越性」を誇りたがるというところがある。

氏はそれを「体重自慢」の比喩で表現している。

日本人が体重計に乗るとメーターは60キロと表示した。
すると側にいた韓国人がこう言った。
「ほぉ、日本の60キロはそんなものですか。韓国の60キロはもっと重いですぞ」

60キロは世界中のどこで測っても60キロだが、韓国人はその60キロもウリナラ(我が国)では「もっと重い」と主張するのだ。
もちろんこれはたとえ話であり、実際にそういうことがあったわけではない。
何でもかんでも誇りたがる性質を大げさに書いているだけである。
また根本氏は決してこれをもって韓国人をバカにしているわけではなく、むしろ好意的に見ている。

テレビのインタビューで韓国のあるアジマはこう発言した。
「日本文化は私たちの文化のまねだから価値がないのよ」

私はこの発言を全否定はしない。文化は独自の進化もとげるから全ての日本文化がマネから生まれたわけではない。しかし朝鮮から陶磁器などの技術を輸入したのは確かなことだ。
そしてその朝鮮文化は日本で模倣を繰り返し、やがて日本独自の文化になった。

だがそれをもってまねした方、伝播先の文化に価値がないだなんて言い掛かりである。それを言うならあなた方の文化だって支那の模倣であり、人類の文化は全てアフリカで生まれた最初の人類の模倣なのだからアフリカ文明以外は無価値ということになる。

これは体重自慢である。文化に優劣があるわけではない。
また独創性や個性という幻想を無制限に拡大していることが、こんな自明なことをも人に分からなくさせているのだ。
「模倣したものには価値がない。伝播したものは発祥地のそれより劣ったものでしかない。なぜならそれらは独創的ではないから」というわけだ。

韓国ではキムチの材料であるとうがらしが日本からもたらされたものであることを絶対に認めたがらない人がいる。
農作物が他国へ伝わり、それがその国の食文化の一部になるのは数千年前からあらゆる国で起きていることであり、それは誇ることでも卑下することでもない。
これも体重自慢の裏返しである。意味のないことを自慢するように、意味のないことを気にしているのだ。

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文化がどのように変化するかについては2つの考え方がある。

進化と伝播である。

どれだけ環境が違ってもしょせんは同じ生物種。すること、作る物は似たりよったりになる。
放っておいても人は同じような道具や文明を発明し、発展させる。つまり文化は各々が独自に同じような道筋をたどって進化していく。

一方で人間は交流をする生物である。自分の文化を相手に教え、相手からも何かを教わることは当然起こるべき事態である。
だから文化は独自の進化だけではなく、他からの伝播によっても変化する。

多くの文化は模倣から生まれる。
まねて、まねて、それでもまねしきれない部分が彼ら独自の文化となり、技術となる。
元の文化が優れているわけでもなければ、後から生まれた文化のほうがより良いものだということでもない。

たとえば支那と日本の伝説には内容が似ているものがある。幽霊が子供に与えるアメや食べ物を買いに来る話はどちらの国にも存在する。この民話はおそらく支那から日本に伝わり拡散したのであろう。

これをもって
日本の民話や伝説は支那のパクリだ。
人の国の話を盗んでおいて涼しい顔をしているなんて日本人は卑怯な奴らだ。
これは支那が日本より優れている証拠だ。
などと言う人はいないであろう。いたとしてもバカにされるだけだ。

しかし似たような議論をしている人をたまに見かける。
日本のマンガやアニメはアジア地方で人気があるらしい。それで韓国で日本のアニメに似た作品が存在したりするそうだ。確かに似ていると思うものを私も数点見ている。

しかしそれをもって韓国は日本文化をぱくっている、卑怯だ、民度が低い、ウリナラマンセー野郎などと批難するのは誤りである。
模倣は大いにけっこうなことであり、推奨されるべき行為である。それらの模倣を繰り返すことでやがて韓国には独自のマンガ、アニメが生まれるであろう。いや、既に生まれているのだ。
まねをしているからそれに価値がないと言うのでは韓国人の体重自慢を笑えまい。あえて彼らが一番不愉快になる言い方をすれば「日本人のくせに思考回路が朝鮮人と同じだ」と言えよう。


一方で韓国では日本文化を悪と退廃と愚劣の象徴のようにとらえ、自国の文化がそれに犯されていると思い込んでいる哀れな人もいる。
これも文化は伝播するものであることを理解できない人の典型であろう。
戦前の日本が徹底的に朝鮮文化を見下し、否定したのと同じことをしている。
彼らが一番不愉快になる言い方をすれば「韓国人のくせに思考回路が日本帝国軍と同じだ」と言えよう。

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さて、今まではわざと大事な話をしなかった。
今と昔では文化の伝播において決定的に違う点がある。それは著作権の存在である。
大昔に支那から稲作文化が伝わってきた時、その農耕技術や稲の権利を主張する人はいなかった。
しかし今では技術にも農作物の遺伝子にも権利が存在し、その使用には金銭を払わなくてはいけない。

この問題を議論する時には「模倣は悪か」という問題と「著作権はどうする」という問題を明確に分けないと混乱を招く。
前者が悪いことではないというのが私の主張だが、後者については難しいところだ。
私も著作権問題について韓国を批難する人をバカにしたりはしない。
文化の優劣という視点から韓国の模倣をバカにするべきではないが、商取引きにおける不公正として韓国の模倣を批難することには正当性がある。

著作権。これが存在しなくてはマンガも映画も音楽も小説もアニメも産業として成立しなくなり、生産数が激減することだろう。
一方で著作権は文化の伝播をさまたげるものでもある。過激な表現をすれば「著作権が文化を殺す」こともある。

支那は著作権の意識が薄く、私の師が支那の大学に行った際、現地の研究室には山のように学術書の海賊版が積まれていたそうだ。国の研究機関が堂々と著作権を無視しているのである。
中には自分の書いた本の海賊版もあって、私の師は

「なかなかしっかりした装丁で、持ち運びに便利になっていて海賊版とは思えなかったよ。実は気に入ったから一冊もらってきたんだ」

と言ってそれに気分を害するどころか喜んでさえいた。

考えてみれば一冊1万円もする学術書を支那人の給料で買えるわけがない。
もし正規の値段で本を買うことを強制すれば、学問をする上で大きな障害となってしまう。そうなれば彼の国の文化は閉鎖的になり、遅れていくことだろう。
理系の学者には本や論文でお金を儲ける気なんてない人が多く、国籍に関係なく議論できる相手が増えることの方が嬉しいのである。
支那に市場を持たない出版社としても、彼らの行為は大きな損失をもたらさない。むしろそれは将来の進出に備え今の内に市場を開拓していることになる。いずれ著作権が厳しくなり、支那人は彼らから本を買うようになることだろう。
これが著作権を無視することで文化の伝播がスムーズにいき発展していく一例である。

しかし映画などはそうはいかない。それで儲けなくてはいけないのだから、海賊行為は大問題である。しかも海賊商品が海外に出回り全ての市場を荒らすことも多い。

日本ではウイニーだとかJASRAC、マンガ喫茶で「文化か著作権か」という問題が議論されている。
この問題について私は上記した以上の考察を持たない。どちらか一方に偏るのをさけるべきだとしか言いようがない。