玄文講

日記

C・クラックホーン「文化人類学の世界」

2005-06-19 18:56:47 | 
人間の本性を決めるのは遺伝だろうか、それとも環境だろうか?
答えは簡単だ。両方とも重要。この一言につきる。

現代の課題は人の性質の基本がどのような遺伝要素で決められ、それが環境要素でどのように発達するかを調べることである。白か黒かという議論は今では過去のものとなっている。

最近のアメリカの科学番組を見ると、この話題が頻繁に特集されている。
たとえば人間が内向的なのか外交的なのかは生まれつきの遺伝によるところがある。
しかも自分がそのどちらなのかを調べる方法は簡単だ。
レモンを舌にたらしてだ液の分泌量を調べればいいのだ。

そのテレビ番組では物理学者のグループと観光接客業のグループを比較して、前者の方がだ液の分泌量が多かったことを報告している。
物理学者のグループが内向的だと仮定すると、酸に反応してだ液を多く出す人は内向的に生まれついていることになる。
詳しい実験手順やサンプル数の適正さについては知らないので、この実験が正しいかどうかは分からない。
ただ一般向けの科学番組でも人間本性が遺伝により決められていることを堂々と放送するようになったということは興味深い。

70年代のアメリカだったのならば、こんな番組を放送すればファシストの再来として糾弾されたことであろう。
アメリカの文化人類学にはボアズ学派と呼ばれる人々が多かった。
彼らの主張は

人間の性格や本性は、行動パターンは全て後天的に与えられる環境や文化によって決められる。

というものである。それは環境一元主義であり、遺伝が人間性に影響を与えているなんてことは迷信とされた。せいぜい人は空を飛べないとか10メートルの巨人になれないといった程度の消極的な生物要因を認める程度であった。
内向的か外交的といった性格が生まれつき決まっているなんて言ったら彼らは激怒することであろう。

ボアズ以降の人類学者は更に過激になり、ミードは男女の性差は環境によって作られたフィクションだとした。

「文化人類学の世界」の著者である有名なアメリカの人類学者クラックホーンも遺伝的要素を強く否定する。
この本の最終章にその主張が多くのせられている。

共産主義者には「人間性」は時間と空間を超越して、いつどこでも同一であると考える傾向がある。

人類学者は、(性格を)人間が個人として持つ独自性ではなく、社会の構成員が生物としてまた社会的存在として持つ欲望と欲求を取捨して作り上げたものとして研究してきた。

(考え方、感じ方が)独特な生物学的遺伝と特殊な生活経験によって創られるのはごくまれで、たいていは文化によって創られるのである。


このように性格は大部分が学習の産物であり、学習はまた多くの部分が文化によって決められ、規制されていることを認めた上で、考え出された教育論は、人間は教育次第でどんな人間にでもなれるという平等思想である。
この本はその後、道徳教育等や性格教育について論じている。良い習慣にはパブロフの犬みたいに褒美を与えてやればいいそうだ。

そして彼は遺伝主義をこう批判する。

ある子供が優秀な血筋を継いでさえいればいれば当然なるべきはずの有能で魅力的な人物にならなかったとしても、悪いのは親戚のせいにしてしまえば、この理論は擁護することができる。

つまり遺伝主義は偏見の温床となるからダメだという論理だ。
確かに失敗の理由を遺伝にするのはよくないことだ。同じ運命を与えられていながら成功した人間はいくらでもいる。人は運命に逆らう力を持っている。

しかし彼等は、あらゆる事実が偏見を生みうるのだということを忘れている。

遺伝主義は、優生学や「悪いのは俺じゃなく、自然だ」という偏見を生む。

一方で環境主義は別の偏見も生むであろう。
クラックホーンは最後にベイトソンの言葉を引用している。

われわれは(略)もし充分な愛情を注ぎさえすれば、この子はかぎりなくすばらしい、偉大で幸福な人間になれるかもしれないという希望を感じている母親のようにいきなくてはならないのである。

余計なお世話だという気もするが、そのように生きたいのならば勝手にすればいいことである。
しかし逆に言えば、この考え方は子供が悪くなればそれは親の愛情が不足していたせいにされかねない。

お前の子どもが犯罪者になったのは親であるお前の教育が悪かったからだ。お前の子どもの性格が悪いのはお前が子どもを愛さなかったからだ。
俺が犯罪を犯すのは社会が悪いからだ。劣悪な環境が俺を殺人者にし、強盗にし、レイプ魔にさせたのだ。俺の責任ではない。
あらゆる犯罪、悪徳、反社会的行動は親や周囲の社会のせいにできてしまう。

しかし、それは偏見だ。
同じ悲惨な運命を与えられていながら罪を犯さなかった者も大勢いる。

そしてこの偏見は犯罪者の家族を不当に苦しめる。
世間はこう言うのだ。
あの犯罪はお前らのせいでもある。お前らに愛がなかったせいで殺人が起きた、強姦が起きた。
そのように責められてしまうのだ。この偏見は犯罪者の善良なる母や父、兄弟たちを苦悩させ、社会的地位を失わせ、彼等の家庭や幸せを崩壊させる。

ではこの偏見を否定したからといって、私たちは環境が人に与える影響を否定すべきだろうか?
答えは否である。
憎むべきは「事実を曲解して生まれた偏見」であり「事実」そのものではない。

遺伝主義も同じである。
それがエリート主義、優生思想、他民族排斥、純血願望といった偏見を生み出すからといって、事実までを憎む必要はない。

環境を理由に責任逃れをすることができないように、遺伝を理由に責任逃れをすることはできない。
それに原因をいくら列挙しても、悪しき結果が消えるわけではない。そして責任は結果に対して生じる。人は自分の行動の責任は自分の肉体で償わなくてはいけない。


現在では遺伝VS環境の不毛な争いも、最大の反対者グールド氏もお亡くなりになり学問の場ではあまり見かけなくなった。
今後は遺伝要素を最大限に生かす教育法や、遺伝ごとに人間の適性を判断するのが盛んになることであろう。

それは人間に「遺伝」という運命を受け入れて諦めさせることを意味しない。
運命の正体、遺伝という原因が分かっていれば対処の方法も分かるのだから。
自分に良い運命が与えられているのならばそれを伸ばすべきであり、悪い運命があるのならばそれを意識的に避けることができる。
これからは運命を知り、運命に逆らう方法を求める時代になるのである。