玄文講

日記

自由の価値

2005-06-20 22:23:31 | メモ
朝の9時から夜の12時まで計算をしても何一つ成果が得られないような日には、徒労感に襲われてしまうものである。そしてそんな日は決して珍しくはない。そんな日には寝て起きる前に何かやり残しているような気がしてなかなか寝つけなくなる。


まるで進まない研究に一日のほぼ全ての時間を投入し、友達と遊ぶことも、趣味に時間を費やすこともない。つまり院生というものは情緒的な生活や自由の多くをドブに捨てなくてはいけないのである。


数学者の藤原正彦氏の本には、こんな女性院生の話が出てくる。
彼女は趣味のピアノにさわる暇もないような情緒にかける生活に我慢が出来ず、「人間らしさを犠牲にしなくてはいけないのなら研究を拒否する」と宣言し、失われた人間性を取り戻すため自由を求めて研究を止めたのである。


しかし私に言わせれば、これは決して研究が人間性と両立しないという話ではない。彼女は単に数学よりもピアノやおしゃべりが好きだっただけである。
不自由な暮らしが嫌で、自由を求めて数学を捨てただけである。彼女には自由を捨てる勇気がなかっただけなのである。


何事も極めれば苦しくなるのは当然のことだ。ピアノが好きでプロの音楽家になった人も、やがて自分の技術の限界とか過酷な練習に悩まされることになる。スポーツでも、絵でも、ビジネスでも何でもそうだ。好きで始めたことが楽しいことだけでできているわけはない。趣味を生活の中心に置いた時、その趣味は彼らから多くの自由を奪う。
何かをしたいと望む人間は、友達とのおしゃべり、読書、恋人や家族との交流、ビリヤード、麻雀、、、そういったものの多くを捨てないといけない。


彼女は自由であることを人間性の証と信じ、不自由で非人間的な趣味人としての生き方を捨てたのである。

しかし自由はそれ自体が価値のあるものではない。自由はお金と同じである。それを持っているだけでは意味がない。お金は使ってこそ始めて意味があるように、自由も自らの意思でそれを捨てて何かに束縛されてこそ意味が生まれる。何かをするということは、自分の持っている自由を犠牲にするということである。
山形氏は「たかがバロウズ本」の中でこう言っている。


貯めた自由は使わなきゃいけない。

自由というのは、とりあえず好きなものにコミットできる、ということではある。使えば―つまり何かにコミットすれば―自由は減る。ある意味で。

でも自由が減るのを恐れて何にもコミットしなければ、つまり何もしなければ、そんな自由はあっても仕方なかったとも言える。

いやいやながらでも、何かをやってくれたほうが自他共に良くて、だからそもそも自由なんかくれてやったのが間違いで、尻を叩いてでも働かせるべきだったとすら言える。そうならないように、人は自由を使って自分が価値を生み出せるのを実証しなきゃいけない。

自分探しとやらで、自分の中にある静的な価値を掘り出すんじゃないぞ。動的に価値を作り出すこと、既にあるものに価値を追加すること、それをやんなきゃいけない。少なくともそれをいずれ実現できるような努力をしなきゃいけない。


私は自由を捨てる意志こそが勇気であると信じている。私は自由の価値とは捨ててこそ発揮されるものなのであると信じている。そして私は自分の自由を自分の意志で捨てられる環境のことを幸福と言うのだと信じている。
私は現在、不自由であり、幸福である。

(追記)
上の文章は昔別の場所に書いた文の再録である。

ちなみに自由には様々な定義があるが、ここで私の言う自由とは単純に

他者に強制されることなく、自主的に自分の目的やその実現手段を選択する権利

のことである。精神の自由とか、政府の下での自由とか難しい話をするつもりはないのである。

またどこかでこの文章についての感想に「反論したいけどできなくてイライラする」みたいなことが書かれていた。

何を悩む必要があるのだろうか?たかが言葉である。
私如きが書いた、たかがこの程度の文章なんかに捉われてしまうだなんて意外である。
気に入らないのならば無視すればいいだけである。そして自分の好きな生き方を自分なりの態度で貫けばいいのである。
生き方に迷うところがなければ言葉なんかに害されることはないはずである。