玄文講

日記

相撲の八百長

2005-06-24 22:45:03 | 怪しい話
今日、経済学者のレーヴィット氏の本「Freakonomics」を読んでいたら、相撲における八百長について分析していた。

私は相撲に八百長があるのは当然だと思っている。たとえば先日実家に戻ったさいテレビで貴乃花を見て思い出したことがある。
95年に彼ら兄弟が優勝決定戦で同門対決をしたことがあるのだが、その直前の試合が非常にわざとらしかったのだ。
確か貴乃花と若乃花の勝ち星が同じで、二人とも勝てば兄弟対決をするはずだった。

しかし貴乃花は珍しく負けてしまい、これで若乃花が優勝するのは確実と思われた。(逆だったかも。記憶が不鮮明である。)
しかし次の試合で若乃花は前につんのめって倒れるというおよそ信じられない負け方をした。
テレビの前で父が「でたらめだ」とぼやいていたのを覚えている。

その後の兄弟対決では若乃花が勝ち、直後のテレビの対談でひどくつまらなそうな顔をしていた。
「優勝おめでとう」と書かれた視聴者からの能天気なFAXと「もう2度と兄弟対決はしたくない」という若乃花の暗い発言が対照的だった。

直前の取り組みや優勝決定戦で本当に八百長があったかどうかは分からないが、ものすごく怪しかったことだけは確かだ。
少なくとも我が家では「あれは八百長だ」ということになっている。

(、、、今ネットで当時の試合について調べたてみたところ、この試合について貴乃花が八百長を認める発言をしたことが話題になっていたので驚いた。
墓場まで持っていく話だと思っていたが、大丈夫なのだろうか。)


本題に戻ると「Freakonomics」では八百長の根拠として、千秋楽の日に勝ち越しか負け越しかの瀬戸際にいる7勝7敗の力士が8勝6敗の力士に勝つ割合が79.6%、9勝5敗の力士に勝つ割合が73.4%もあることを示している。
明らかに偏りすぎである。勝ち越しが決まっている力士が、瀬戸際にいる力士に勝ち星をゆずってやっている可能性が高い。だがこれだけなら「火事場の馬鹿力」「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」で説明できるかもしれない。
そこでレーヴィット氏は更に怪しい試合をした7勝7敗力士と8勝6敗力士の再戦記録も調べてみた。すると前回に7勝7敗で勝ち星を上げた力士の負ける確率が60%と非常に高かったのだ。これは前回勝たせてもらったお礼に負けてやっているものと思われる。

ついでにレーヴィット氏は元大鳴戸親方と橋本成一郎氏が相撲の八百長を告発しようとして、その直前に同日に同病院で同じ病気により二人とも死亡してしまったという怪事について言及している。
これは暗殺説も流れた有名な話である。貴乃花も暗殺されないことを祈る。

(追記)

最後の一文は冗談なのです。

元大鳴戸親方と橋本成一郎氏の出来過ぎた逝去は、あまりにも出来過ぎているため「本当にただの偶然かもしれない」とも思っています。
マヌケな奇跡が至る所で起きている世の中ですから。

いずれにせよ、真偽はまるで分からないので、「恐ろしく、やがて面白きゴシップかな」といった程度の懐疑的な態度でいるのがいいと思います。

陰鬱日記1

2005-06-23 22:52:57 | 個人的記録
当たり前のことなのかもしれないが、人生はつらいものであるということを最近思い出した。
そしてそれも悪くないと思っている。

悪くないと言うと現在辛い目にあっている人は「無責任なこと言いやがって」と怒るかもしれない。
確かに切実に辛い人はたくさんいる。

また今と比べれば、中世時代の農奴や戦時下の人々はひたすら辛かったことであろう。
食べる物はない。税は重く、戦争は多い。冬は寒さに耐えるしかなく、自然災害にあがらう術も無い。便利な家電製品もないし、娯楽なんて高級品とは一生無縁な生活。病気を治す技術もなければ、法や権利というものさえ無い時があった。犯罪は今より遥かに多く、人命は限りなく軽かった。彼らの平均寿命の短いことだけが唯一の救いだ。苦しみがそれだけ短くて済むのだから。

当時の人たちにとって生きるのが辛いのは当たり前のことだったはずだ。
今は幸福な時代である。そして未来は今よりも更に幸福な時代となっていることであろう。
私たちを哀れむ未来人の姿が目に浮かぶ。

しかし幸福な時代でも、やはり生きるのが辛いことであるのは変わりがないことだろう。
どれだけ環境が良くなっても人は不平不満を言うことができるからだ。
誤解がないように言えば私は、「幸せは相対的だ。何をもって幸せかは人それぞれだ」、なんてことを言いたいのではない。
たいていの不幸は1000万円くらいで治すことができる。意外と幸福は絶対的だ。
私が言いたいのは、人は辛さを感じるように生まれながらに作られているということだ。

生きていれば活動しなくてはいけない。
働くことは大変だ。幸運にも働かなくていい人間でも食べたり、動いたり、眠ったりと活動しなくてはいけない。
そして活動すれば辛くなる。楽しくもなれるが、辛いことの方が多いと思う。しかも人は活動しなくても辛くなる。逃げ道なしである。
うまく体を使うことは難しい。

また生きてく中で自我や自尊心はたいてい満たされないものである。
自分はどうでもいい人間で、好きになった人は自分を好きにはならず、相互理解は絶対に不可能である。
それは辛いことであろう。

自分自身の存在が苦痛である人もいれば、他人の存在が苦痛であるという人もいる。
人間の集団が互いに依存するために作った「社会」というものになじめない人たちだ。
しかし社会なくして人は生きられない。そういう人にとっては生きること自体が辛いことだ。

人が人である限り病気や死からは逃れられない。いや、未来には死をさける技術も可能だろう。人が人以外になることも可能だろう。
だけど死なないことも辛いことだと思われる。

衣食住、医療福祉、娯楽がどれだけ進歩しても上に挙げた辛さはなくならない。
人が完全に幸せになる世界だなんて私には想像できない。
しかし私は思う。楽しいことや幸せにいったいどれ程の価値があるというのだろうか。

そんなに年がら年中HAPPYな気分でいたいものなのだろうか。
幸せな気分なんて1年に3回くらいあれば十分ではなかろうか。
死ぬほど辛いことや、実際に死んでしまうような辛さはなくすべきだが、生きていくのに困らない程度の辛さならばあってもいいではないかと私は思っている。
そういう意味で「悪くない」と考えているのだ。

しかし、こう言っておいてなんだが私はわりあい幸せだ。辛いはずだということを思い出しただけで、辛いと実感するには至っていない。

呉氏の「日本人とユダヤ人」批評引用

2005-06-21 08:46:02 | 
以前、私は山本七平氏の「日本人とユダヤ人」について「面白いが、心酔できない。これは信用できない本だ」と言った。
しかしそれは、この本は何か臭いという非常にあいまいな批判と言えないような批判でしかない。

最近読んだ呉智英氏の「読書家の技術」で「日本人とユダヤ人」が次のように批評されていた。

「日本人とユダヤ人」が受け入れられた理由は、戦後復興におけるナショナリズムの興隆にあるのだが、そこに書かれた知識の新しさ、珍しさも理由であった。

ユダヤ=キリスト教の知識さえあれば、その部分を除いた「日本人とユダヤ人」など、日本人よ、甘っちょろいことを言っていると、欧米人に負けちまうぞ、というアジテーションだけなのだから、何一つ学ぶべきものなどない

ユダヤ=キリスト教を法律・契約という視点からしか見ないくせに、それですべてこと足れりとする。そこにも世俗だの秩序だの規範だのといった、すでにできあがった制度からしか人間(の良い面も恐るべき面も)を見ることができない山本の限界、といよりもイデオロギー性が現われている。

山本七平の読書論は、通念としての事実に世俗教養という衣をかぶせただけのきわめていかがわしい代物になる。


呉氏は近代の教養の解体という視点から山本氏を批判しているのである。
またアジテーションの多い文化論は信用できないところがある。
なるほど、確かに山本氏の本にはアジテーションがある。私はそこに不信感を抱いたのかもしれない。


********************

やたら「日本人が」「日本民族が」「日本の伝統が」と言って現在の制度を擁護したり、批判したりするのはいかがわしいことである。
制度は時代や環境により、その有効性が強くなったり、役に立たなくなったりする。
そのようになる原因はまず法学、経済学や人間の心理などの普遍的な科学法則に求められる。それなのにそれを自分たちの文化や民族性の優秀さに結び付けて喜んだり、逆に自分たちを卑下してアジってみせても問題解決は遠のくばかりである。

通俗経済書にそういうことをしている本が多い。

自由の価値

2005-06-20 22:23:31 | メモ
朝の9時から夜の12時まで計算をしても何一つ成果が得られないような日には、徒労感に襲われてしまうものである。そしてそんな日は決して珍しくはない。そんな日には寝て起きる前に何かやり残しているような気がしてなかなか寝つけなくなる。


まるで進まない研究に一日のほぼ全ての時間を投入し、友達と遊ぶことも、趣味に時間を費やすこともない。つまり院生というものは情緒的な生活や自由の多くをドブに捨てなくてはいけないのである。


数学者の藤原正彦氏の本には、こんな女性院生の話が出てくる。
彼女は趣味のピアノにさわる暇もないような情緒にかける生活に我慢が出来ず、「人間らしさを犠牲にしなくてはいけないのなら研究を拒否する」と宣言し、失われた人間性を取り戻すため自由を求めて研究を止めたのである。


しかし私に言わせれば、これは決して研究が人間性と両立しないという話ではない。彼女は単に数学よりもピアノやおしゃべりが好きだっただけである。
不自由な暮らしが嫌で、自由を求めて数学を捨てただけである。彼女には自由を捨てる勇気がなかっただけなのである。


何事も極めれば苦しくなるのは当然のことだ。ピアノが好きでプロの音楽家になった人も、やがて自分の技術の限界とか過酷な練習に悩まされることになる。スポーツでも、絵でも、ビジネスでも何でもそうだ。好きで始めたことが楽しいことだけでできているわけはない。趣味を生活の中心に置いた時、その趣味は彼らから多くの自由を奪う。
何かをしたいと望む人間は、友達とのおしゃべり、読書、恋人や家族との交流、ビリヤード、麻雀、、、そういったものの多くを捨てないといけない。


彼女は自由であることを人間性の証と信じ、不自由で非人間的な趣味人としての生き方を捨てたのである。

しかし自由はそれ自体が価値のあるものではない。自由はお金と同じである。それを持っているだけでは意味がない。お金は使ってこそ始めて意味があるように、自由も自らの意思でそれを捨てて何かに束縛されてこそ意味が生まれる。何かをするということは、自分の持っている自由を犠牲にするということである。
山形氏は「たかがバロウズ本」の中でこう言っている。


貯めた自由は使わなきゃいけない。

自由というのは、とりあえず好きなものにコミットできる、ということではある。使えば―つまり何かにコミットすれば―自由は減る。ある意味で。

でも自由が減るのを恐れて何にもコミットしなければ、つまり何もしなければ、そんな自由はあっても仕方なかったとも言える。

いやいやながらでも、何かをやってくれたほうが自他共に良くて、だからそもそも自由なんかくれてやったのが間違いで、尻を叩いてでも働かせるべきだったとすら言える。そうならないように、人は自由を使って自分が価値を生み出せるのを実証しなきゃいけない。

自分探しとやらで、自分の中にある静的な価値を掘り出すんじゃないぞ。動的に価値を作り出すこと、既にあるものに価値を追加すること、それをやんなきゃいけない。少なくともそれをいずれ実現できるような努力をしなきゃいけない。


私は自由を捨てる意志こそが勇気であると信じている。私は自由の価値とは捨ててこそ発揮されるものなのであると信じている。そして私は自分の自由を自分の意志で捨てられる環境のことを幸福と言うのだと信じている。
私は現在、不自由であり、幸福である。

(追記)
上の文章は昔別の場所に書いた文の再録である。

ちなみに自由には様々な定義があるが、ここで私の言う自由とは単純に

他者に強制されることなく、自主的に自分の目的やその実現手段を選択する権利

のことである。精神の自由とか、政府の下での自由とか難しい話をするつもりはないのである。

またどこかでこの文章についての感想に「反論したいけどできなくてイライラする」みたいなことが書かれていた。

何を悩む必要があるのだろうか?たかが言葉である。
私如きが書いた、たかがこの程度の文章なんかに捉われてしまうだなんて意外である。
気に入らないのならば無視すればいいだけである。そして自分の好きな生き方を自分なりの態度で貫けばいいのである。
生き方に迷うところがなければ言葉なんかに害されることはないはずである。

C・クラックホーン「文化人類学の世界」

2005-06-19 18:56:47 | 
人間の本性を決めるのは遺伝だろうか、それとも環境だろうか?
答えは簡単だ。両方とも重要。この一言につきる。

現代の課題は人の性質の基本がどのような遺伝要素で決められ、それが環境要素でどのように発達するかを調べることである。白か黒かという議論は今では過去のものとなっている。

最近のアメリカの科学番組を見ると、この話題が頻繁に特集されている。
たとえば人間が内向的なのか外交的なのかは生まれつきの遺伝によるところがある。
しかも自分がそのどちらなのかを調べる方法は簡単だ。
レモンを舌にたらしてだ液の分泌量を調べればいいのだ。

そのテレビ番組では物理学者のグループと観光接客業のグループを比較して、前者の方がだ液の分泌量が多かったことを報告している。
物理学者のグループが内向的だと仮定すると、酸に反応してだ液を多く出す人は内向的に生まれついていることになる。
詳しい実験手順やサンプル数の適正さについては知らないので、この実験が正しいかどうかは分からない。
ただ一般向けの科学番組でも人間本性が遺伝により決められていることを堂々と放送するようになったということは興味深い。

70年代のアメリカだったのならば、こんな番組を放送すればファシストの再来として糾弾されたことであろう。
アメリカの文化人類学にはボアズ学派と呼ばれる人々が多かった。
彼らの主張は

人間の性格や本性は、行動パターンは全て後天的に与えられる環境や文化によって決められる。

というものである。それは環境一元主義であり、遺伝が人間性に影響を与えているなんてことは迷信とされた。せいぜい人は空を飛べないとか10メートルの巨人になれないといった程度の消極的な生物要因を認める程度であった。
内向的か外交的といった性格が生まれつき決まっているなんて言ったら彼らは激怒することであろう。

ボアズ以降の人類学者は更に過激になり、ミードは男女の性差は環境によって作られたフィクションだとした。

「文化人類学の世界」の著者である有名なアメリカの人類学者クラックホーンも遺伝的要素を強く否定する。
この本の最終章にその主張が多くのせられている。

共産主義者には「人間性」は時間と空間を超越して、いつどこでも同一であると考える傾向がある。

人類学者は、(性格を)人間が個人として持つ独自性ではなく、社会の構成員が生物としてまた社会的存在として持つ欲望と欲求を取捨して作り上げたものとして研究してきた。

(考え方、感じ方が)独特な生物学的遺伝と特殊な生活経験によって創られるのはごくまれで、たいていは文化によって創られるのである。


このように性格は大部分が学習の産物であり、学習はまた多くの部分が文化によって決められ、規制されていることを認めた上で、考え出された教育論は、人間は教育次第でどんな人間にでもなれるという平等思想である。
この本はその後、道徳教育等や性格教育について論じている。良い習慣にはパブロフの犬みたいに褒美を与えてやればいいそうだ。

そして彼は遺伝主義をこう批判する。

ある子供が優秀な血筋を継いでさえいればいれば当然なるべきはずの有能で魅力的な人物にならなかったとしても、悪いのは親戚のせいにしてしまえば、この理論は擁護することができる。

つまり遺伝主義は偏見の温床となるからダメだという論理だ。
確かに失敗の理由を遺伝にするのはよくないことだ。同じ運命を与えられていながら成功した人間はいくらでもいる。人は運命に逆らう力を持っている。

しかし彼等は、あらゆる事実が偏見を生みうるのだということを忘れている。

遺伝主義は、優生学や「悪いのは俺じゃなく、自然だ」という偏見を生む。

一方で環境主義は別の偏見も生むであろう。
クラックホーンは最後にベイトソンの言葉を引用している。

われわれは(略)もし充分な愛情を注ぎさえすれば、この子はかぎりなくすばらしい、偉大で幸福な人間になれるかもしれないという希望を感じている母親のようにいきなくてはならないのである。

余計なお世話だという気もするが、そのように生きたいのならば勝手にすればいいことである。
しかし逆に言えば、この考え方は子供が悪くなればそれは親の愛情が不足していたせいにされかねない。

お前の子どもが犯罪者になったのは親であるお前の教育が悪かったからだ。お前の子どもの性格が悪いのはお前が子どもを愛さなかったからだ。
俺が犯罪を犯すのは社会が悪いからだ。劣悪な環境が俺を殺人者にし、強盗にし、レイプ魔にさせたのだ。俺の責任ではない。
あらゆる犯罪、悪徳、反社会的行動は親や周囲の社会のせいにできてしまう。

しかし、それは偏見だ。
同じ悲惨な運命を与えられていながら罪を犯さなかった者も大勢いる。

そしてこの偏見は犯罪者の家族を不当に苦しめる。
世間はこう言うのだ。
あの犯罪はお前らのせいでもある。お前らに愛がなかったせいで殺人が起きた、強姦が起きた。
そのように責められてしまうのだ。この偏見は犯罪者の善良なる母や父、兄弟たちを苦悩させ、社会的地位を失わせ、彼等の家庭や幸せを崩壊させる。

ではこの偏見を否定したからといって、私たちは環境が人に与える影響を否定すべきだろうか?
答えは否である。
憎むべきは「事実を曲解して生まれた偏見」であり「事実」そのものではない。

遺伝主義も同じである。
それがエリート主義、優生思想、他民族排斥、純血願望といった偏見を生み出すからといって、事実までを憎む必要はない。

環境を理由に責任逃れをすることができないように、遺伝を理由に責任逃れをすることはできない。
それに原因をいくら列挙しても、悪しき結果が消えるわけではない。そして責任は結果に対して生じる。人は自分の行動の責任は自分の肉体で償わなくてはいけない。


現在では遺伝VS環境の不毛な争いも、最大の反対者グールド氏もお亡くなりになり学問の場ではあまり見かけなくなった。
今後は遺伝要素を最大限に生かす教育法や、遺伝ごとに人間の適性を判断するのが盛んになることであろう。

それは人間に「遺伝」という運命を受け入れて諦めさせることを意味しない。
運命の正体、遺伝という原因が分かっていれば対処の方法も分かるのだから。
自分に良い運命が与えられているのならばそれを伸ばすべきであり、悪い運命があるのならばそれを意識的に避けることができる。
これからは運命を知り、運命に逆らう方法を求める時代になるのである。