「仲良きことは美しき哉」とは私の嫌いな言葉である。
日中友好。日韓友好。皆が仲のいい平和な世界。
よく使われる言葉である。そして私はそんなものが永遠に実現しないことを確信している。
いつの時代、どこの国でも隣国とは仲が悪いものである。
身近な他人は憎くなるものなのだから。
仲がいいとは同じ価値観、同じ文化、同じ風習、同じ意見を持った人間との間で成立することが圧倒的に多い。
もちろん人間同士の付き合いがあれば、異なる文化や価値観を理解して仲良くすることも可能である。だから個人レベルでは外国人と仲良くするのは難しいことではない。
しかし何千万、何億人という集団同士では人間同士のつきあいなどできるわけもなく、直接に文化と文化が対立するしかない。
国というマクロな集団同士の仲が悪くなるのは必然である。
もし無理にでも仲良くしようとすれば、相手を自分好みに改造するしかない。
相手を自分と同じ価値観、文化、風習、意見を持つ国に変えるのだ。
それは他人の精神の自由を認めない行為であり、しかもその実行には必ず戦争行為がつきまとう。しかしそれなくして世界中の人間が仲良くなるなんてことはありえないはずだ。
私はそこまでして皆が仲良くなる必要なんてないと思っている。
****************
一部の人は支那や韓国が国力をつけることを喜ばないようである。
彼らが強くなると日本の立場が脅かされるとでも思っているようだ。
しかし政情不安定な隣国を持つことほど危険なことはない。
支那や韓国が国力をつけて、政治が安定することは、結果的には日本の安定にもつながる。
支那の繁栄は私たちの繁栄でもあり、韓国の喜びは私たちの喜びでもある。
だから支那が抱えている経済問題、老人の比率の増加、内陸部との経済格差の解決のために日本は協力すべきである。
また韓国が抱える北朝鮮という問題を日本はともに考えていくべきである。もしあの国が崩壊したとき韓国には莫大な負担が生じるのだから。
私の考える良き隣国との関係とは、利害が一致する状態のことである。
そういう意味でならば私は「日中友好」も「日韓友好」も支持するし、それは可能であると信じる。
しかし「友好」の定義を「意見が一致すること」だとするならば、私はそんなものは犬にでもくれてやれと言いたい。
仲が悪くてもいいではないか。利害さえ一致すれば私たちはヘドの出るような嫌いな相手とでも生きていくことができる。
だから私は最近のニュースで日中のケンカを見て嘆いている人を見るたびに、あんなものは憂う必要のないことだと思うのである。
好きなだけケンカすればいいのだ。ケンカをさけて軽蔑されるくらいなら、とことんやって憎まれた方がいい。
日中友好。日韓友好。皆が仲のいい平和な世界。
よく使われる言葉である。そして私はそんなものが永遠に実現しないことを確信している。
いつの時代、どこの国でも隣国とは仲が悪いものである。
身近な他人は憎くなるものなのだから。
仲がいいとは同じ価値観、同じ文化、同じ風習、同じ意見を持った人間との間で成立することが圧倒的に多い。
もちろん人間同士の付き合いがあれば、異なる文化や価値観を理解して仲良くすることも可能である。だから個人レベルでは外国人と仲良くするのは難しいことではない。
しかし何千万、何億人という集団同士では人間同士のつきあいなどできるわけもなく、直接に文化と文化が対立するしかない。
国というマクロな集団同士の仲が悪くなるのは必然である。
もし無理にでも仲良くしようとすれば、相手を自分好みに改造するしかない。
相手を自分と同じ価値観、文化、風習、意見を持つ国に変えるのだ。
それは他人の精神の自由を認めない行為であり、しかもその実行には必ず戦争行為がつきまとう。しかしそれなくして世界中の人間が仲良くなるなんてことはありえないはずだ。
私はそこまでして皆が仲良くなる必要なんてないと思っている。
****************
一部の人は支那や韓国が国力をつけることを喜ばないようである。
彼らが強くなると日本の立場が脅かされるとでも思っているようだ。
しかし政情不安定な隣国を持つことほど危険なことはない。
支那や韓国が国力をつけて、政治が安定することは、結果的には日本の安定にもつながる。
支那の繁栄は私たちの繁栄でもあり、韓国の喜びは私たちの喜びでもある。
だから支那が抱えている経済問題、老人の比率の増加、内陸部との経済格差の解決のために日本は協力すべきである。
また韓国が抱える北朝鮮という問題を日本はともに考えていくべきである。もしあの国が崩壊したとき韓国には莫大な負担が生じるのだから。
私の考える良き隣国との関係とは、利害が一致する状態のことである。
そういう意味でならば私は「日中友好」も「日韓友好」も支持するし、それは可能であると信じる。
しかし「友好」の定義を「意見が一致すること」だとするならば、私はそんなものは犬にでもくれてやれと言いたい。
仲が悪くてもいいではないか。利害さえ一致すれば私たちはヘドの出るような嫌いな相手とでも生きていくことができる。
だから私は最近のニュースで日中のケンカを見て嘆いている人を見るたびに、あんなものは憂う必要のないことだと思うのである。
好きなだけケンカすればいいのだ。ケンカをさけて軽蔑されるくらいなら、とことんやって憎まれた方がいい。
だなんて、とんでもないことです。
当ブログは自己紹介にも書いてある通り「批判、訂正大歓迎。遠慮無用」です。
それにどうか大人の方が子供に遠慮をなさらないで下さい。
今後ももっときつく、より率直に批判していただければ幸いです。
「次元の違うもの」という意味はよく分かりました。
私の主張の枕詞にあの詩を置いたのは確かに筋違いであり、無礼であったかもしれません。
耳目をひくためにあえて暴言を吐いてみたのですが、武者小路実篤さんにとっては御不快なことであったでしょう。
武者小路実篤さんから苦情が来た際には、謝罪し、あの文章を削除したいと思います。
私には「(美しき)仲良きこと」を美しんだ経験があまりないのでpolestar様のような考え方は予想もつかないことでした。
polestar様のお言葉を心に留め、いつかそういう美しきことを実感する機会があれば「仲良きことは美しきかな」という言葉をもう一度思い出してみます。
嫌いな人を好きになる必要はないと思います。
嫌いな相手と仲良くすることは美しきこと、と言っているのではなく
「仲良き事は・・・」
の真意は、
「仲のよいことは実に美しいことだなぁ」
という意味と解釈されては如何でしょうか。
イラン・イラク戦争の時に、イラクに取り残された日本人を救出する為にトルコ航空機が飛んだ美談があります。
そりゃあウラも表もある世の中ですから美談の賛美ばかりしているのも不毛ですが、美談を味わうことは楽しいことです。
味わえることは楽しいことです。
楽しめることは楽しいことです。
だからといって、そうでないものを不満に思ったり「仲良くするべきだ」と仲の良くないことを悪しく思ったりする必要もありません。
なんというか・・・所詮は仲良くできないんだから、それに関して「仲が良いことは美しいこと」というモノサシを持ってくるというのは、レベルが違うと言うより、筋が違うと申しましょうか、意味のないことです。
どうして敵同士が仲良くない、ということが 問題になってしまうのか? という意味です。
まして、「仲良き美しきこと」のモノサシで、「仲良くなり得ない対象」を測るというのは、変です。
また、偽善的な夫婦愛だとか家族愛、人類愛がイカガワシク感じ嫌悪感を感じるということについても、「仲良きことは美しきこと」の範疇ではないでしょう。
ちっとも美しくはないのですから。
美しくないどころか、ヘドが出そうな気分の悪さがあります。
そういうのは、美しくはないのです。
美しいものに対して
「仲良きことは美しきこと」
と歌っているのですから、それを否定することによって 玄文講さんが、感じた「不快感」を表現するのは、「仲良きことは美しきこと」と歌った歌人に対して、失礼ではありませんか? ということです。
どうぞ、ご自分のことばで事象を語られたし。
※ ちょいと言葉がきつかったかな。。。ごめんね
私が予想するに2+2は6か10くらいではないですかねぇ。
「次元の違うもの」の意味がはっきり分からなかったので返事をしづらいのですが、積極的に誤解を招きやすい言葉を使ったのは確かなことです。
真価が分かっていないと言われてしまえば「はい、その通りです」と答えるしかありませんが。
私も個人と個人が感情を通じて仲良くすることは、美しいとまでは賛美しませんが、悪いことではないと思っています。
それならばそこまで嫌いはしません。
ですが国と国は仲良くすべきだなんて考え方は嫌いです。
不毛です。
仲良くしようとしてそれに失敗すると、今度は相手を恨むようになるものです。
個人なら誰を恨もうが問題は小さいですが、国同士が恨みあえば悲劇です。
国は自分の利害だけを考えればよく、好きとか嫌いなんて理由で行動されては迷惑なのです。
イラク戦争だってアメリカがイラクと仲良くしたくて起こした戦争ですし。
それに仲良くしていると思っているのは自分だけで、相手はこちらを「扱いやすい奴だ」と思って軽蔑しているだけなんてこともありますしね。
おほほ。
「2+2=4 なんて、うそだ、間違いだ」と言っている子供のようですね。
2+2=4 が正解ですが、そうでない解釈も、もちろん成り立ちます。
「仲良きことは美しき哉」
この言葉の正しさ(真価)は、玄文講さんの視点、おっしゃることとは次元の違うものですから、相撲の土俵に科学者をひきずりあげて投げ飛ばすようなものです。