今日はクリスマス・イブであり、彼女のいない男性はこの日に自虐的に騒いだりいじけみせることが義務づけられているようである。
私の研究室でも私の同僚たちは「こんな日にバイトだよー」とか「俺なんて一日中論文を書かないといけないよ」と愚痴をこぼしながら、しかし本心ではみんな今の状況を楽しんでいたりする。
例外的に本気で落ち込んでいるのは「クリスマスまでに彼女ができなければ5千円払う」という賭けをしたO君だけである。
さて、今日は聖なる日ゆえに「宗教と思想、および神と理性」について考えてみたいと思う。
日本においては神を信じないことが合理的な行為であると思われているふしがある。
「神様や宗教なんて非科学的だ」
というわけである。たしかに神は実験では観測されない存在なので、非科学的である。
一方で西洋ではキリスト教の影響が強く有名な学者がクリスチャンであることも珍しくない。
インドでは神々を信じていない人間を探すことの方が難しく、かの国の偉大なる学者のほとんどが神々を信じている。
また共産主義者は「宗教はアヘンである」と言い、神を信じることを否定した。
しかし神はいないと信じることも宗教的な行為である。彼らは「無神」という神を信じているのである。
もちろん日本における無神論者もいくらか宗教的である。
神を信じる信じないという議論には常にこのような混乱がつきまとう。
この混乱は「神の正体」を知らないことから生じるものである。
私はここに神の正体を断言しよう。
「思想」に人格を投影した時、そこに「神」が生まれるのである。
仏教はその悟りの教えを人類史上唯一の解脱者である「釈迦」に投影することで彼を神となし、
キリスト教はイエスの教えを父と子と聖霊の三位一体として「イエス」に投影することで彼を神となした。
つまり「思想」を体現する人物を求めた時、それは「神」となるのである
それだけではない。
自然の恵みに感謝し、そこに人格を見い出せば豊穣神が生まれる。
自然現象の脅威に人格を与えれば、雷神が生まれ、竜神が生まれる。
神は人間の思考や感情に宿るのである。
だから神が非科学的ならば、もちろん思想も非科学的な存在である。
なぜなら人の心は観測にかからないからである。
しかし思想を非合理的と非難する人はいない。何故なら人が何かを思うことは必然であり、それを否定することなどはできないからである。
「思想」と「宗教」は異なる存在ではない。
進歩的な人は「宗教」を野蛮な迷信として退け、「思想」を文明を開く理性の力として使いたがる。
しかしそのような区別は錯覚なのである。
「共産主義」は単に「思想へ人格を投影しないがゆえに神が生まれなかった宗教」に過ぎない。
同じことは当然、民主主義にも資本主義にも言える。
そして「英雄は死んで無害な聖人に列する」という言葉通りに、ソビエト共産主義はその思想を「レーニン」や「スターリン」という人格に投影し、彼らを神のような存在にした。
北朝鮮もその思想を金正日という人格に投影することで、彼を神にしてしまった。
このように思想は簡単に宗教へと変化できるのである。
もちろん民主主義も宗教化とは無縁ではない。
作家の塩野七生さんはあるシンポジウウムで「民主主義は欧米の輸出する最後の宗教か」と問題提起して大反撃をくらったと書いている。
しかし現在、民主主義の思想は「人権」や「市民」に投影され、それらは神になりつつある。神になったのは市民である私たちだ。
クリスチャンは今も昔も個人では善良な人間であるが、その教えを世界に普及させようとした時に多くの惨劇を生んだ歴史がある。
同じように、民主主義者も一人一人は個人の確立した立派な人格者であっても、世界を民主主義化しようという情熱は宗教戦争に発展しやすい。
神を信じる人は単に自分の思想が人格と結びついていただけのことであり、神を信じない人は人格と結びついていなかったという、ただそれだけの違いしかないのである。
だから神を「信じる」か「信じない」かの差は小さなものなのであり、この2つが正反対の立場だとみなすことが誤りなのである。
最後に個人的なことを言えば、現在の私は自然法則や数学に人格を投影し、森羅万象の中に神を見い出す自然崇拝主義(アミニズム)的な宗教を信じている。
当然この森羅万象の神々の中には「唯一神ヤハウエ」、「神の御子イエス・キリスト」も含まれているので、私は彼らの祝日を祝うのはやぶさかではない。
メリー・クリスマス!!
天にまします我等の神よ!願わくば御旨の天に行わるごとく、地にも行われんことを!
私の研究室でも私の同僚たちは「こんな日にバイトだよー」とか「俺なんて一日中論文を書かないといけないよ」と愚痴をこぼしながら、しかし本心ではみんな今の状況を楽しんでいたりする。
例外的に本気で落ち込んでいるのは「クリスマスまでに彼女ができなければ5千円払う」という賭けをしたO君だけである。
さて、今日は聖なる日ゆえに「宗教と思想、および神と理性」について考えてみたいと思う。
日本においては神を信じないことが合理的な行為であると思われているふしがある。
「神様や宗教なんて非科学的だ」
というわけである。たしかに神は実験では観測されない存在なので、非科学的である。
一方で西洋ではキリスト教の影響が強く有名な学者がクリスチャンであることも珍しくない。
インドでは神々を信じていない人間を探すことの方が難しく、かの国の偉大なる学者のほとんどが神々を信じている。
また共産主義者は「宗教はアヘンである」と言い、神を信じることを否定した。
しかし神はいないと信じることも宗教的な行為である。彼らは「無神」という神を信じているのである。
もちろん日本における無神論者もいくらか宗教的である。
神を信じる信じないという議論には常にこのような混乱がつきまとう。
この混乱は「神の正体」を知らないことから生じるものである。
私はここに神の正体を断言しよう。
「思想」に人格を投影した時、そこに「神」が生まれるのである。
仏教はその悟りの教えを人類史上唯一の解脱者である「釈迦」に投影することで彼を神となし、
キリスト教はイエスの教えを父と子と聖霊の三位一体として「イエス」に投影することで彼を神となした。
つまり「思想」を体現する人物を求めた時、それは「神」となるのである
それだけではない。
自然の恵みに感謝し、そこに人格を見い出せば豊穣神が生まれる。
自然現象の脅威に人格を与えれば、雷神が生まれ、竜神が生まれる。
神は人間の思考や感情に宿るのである。
だから神が非科学的ならば、もちろん思想も非科学的な存在である。
なぜなら人の心は観測にかからないからである。
しかし思想を非合理的と非難する人はいない。何故なら人が何かを思うことは必然であり、それを否定することなどはできないからである。
「思想」と「宗教」は異なる存在ではない。
進歩的な人は「宗教」を野蛮な迷信として退け、「思想」を文明を開く理性の力として使いたがる。
しかしそのような区別は錯覚なのである。
「共産主義」は単に「思想へ人格を投影しないがゆえに神が生まれなかった宗教」に過ぎない。
同じことは当然、民主主義にも資本主義にも言える。
そして「英雄は死んで無害な聖人に列する」という言葉通りに、ソビエト共産主義はその思想を「レーニン」や「スターリン」という人格に投影し、彼らを神のような存在にした。
北朝鮮もその思想を金正日という人格に投影することで、彼を神にしてしまった。
このように思想は簡単に宗教へと変化できるのである。
もちろん民主主義も宗教化とは無縁ではない。
作家の塩野七生さんはあるシンポジウウムで「民主主義は欧米の輸出する最後の宗教か」と問題提起して大反撃をくらったと書いている。
しかし現在、民主主義の思想は「人権」や「市民」に投影され、それらは神になりつつある。神になったのは市民である私たちだ。
クリスチャンは今も昔も個人では善良な人間であるが、その教えを世界に普及させようとした時に多くの惨劇を生んだ歴史がある。
同じように、民主主義者も一人一人は個人の確立した立派な人格者であっても、世界を民主主義化しようという情熱は宗教戦争に発展しやすい。
神を信じる人は単に自分の思想が人格と結びついていただけのことであり、神を信じない人は人格と結びついていなかったという、ただそれだけの違いしかないのである。
だから神を「信じる」か「信じない」かの差は小さなものなのであり、この2つが正反対の立場だとみなすことが誤りなのである。
最後に個人的なことを言えば、現在の私は自然法則や数学に人格を投影し、森羅万象の中に神を見い出す自然崇拝主義(アミニズム)的な宗教を信じている。
当然この森羅万象の神々の中には「唯一神ヤハウエ」、「神の御子イエス・キリスト」も含まれているので、私は彼らの祝日を祝うのはやぶさかではない。
メリー・クリスマス!!
天にまします我等の神よ!願わくば御旨の天に行わるごとく、地にも行われんことを!