玄文講

日記

100年戦争「騎士と敗北」 ~モロワ「フランス史」(2)

2004-12-29 23:23:55 | 
イギリスはフランスを求めて戦争を始めた。

フランス王フィリップは戦争の価値を「騎士道精神を発揮する」ことに求め、イギリス王エドワード3世は「勝利」に求めた。

エドワード3世は強力な弓を持つ歩兵部隊を作り、近代的な軍隊を編成した。
そして艦隊を作り制海権をにぎり、兵力の不備を補うためにフランドルや皇帝と交渉をし大陸内に同盟を作った。
「イギリスの戦争」の基本は既にこの時代に出来上がっていた。
第2次世界大戦において、イギリスのチャーチルはナチスのアシカ作戦から制海権を死守し、真珠湾攻撃の報を聞いてアメリカ大陸との同盟の誕生を確信し天に感謝して安眠したのである。

そしてフランスの騎士たちは名誉の為に一人一人が勝手に敵の群れの中に突っ込んでいき、勝手に討ち殺された。
フランスは西部フランスで負け、エクリューズで負け、アブヴィルで負け、カレーにおいても負けた。

ラシャ、装身具、宝石、金銀の器。イギリス軍は思うがままに略奪し、そのおかげでイギリス国内は全身を宝石でおおった婦人であふれた。

エドワード3世のモットーは

IT IS AS IT IS ! (「あるがままに!」)

風雅にして冷酷、野心家にして現実主義者であるこの王はフランスを「あるがまままに」侵略した。


この戦争には動機が2つあった。名誉と富である。
エドワード3世は旧フランス王フィリップ4世の娘イザベラが自分の母親であることを大義名分にかかげ、フランス王位を望んだ。
またイギリス人はフランドル地方を望んでいた。何故なら当時のイギリスは羊毛が主な産物であり、ラシャを加工する織り技術を持つフランドル地方を掌握(しょうあく)したかったからである。

事の起こりは1328年、前フランス王シャルル4世の死後、フランスに3人の王候補者がいたことである。
一人はイギリス人、エドワード3世
一人は評判の悪いナヴァールの人間、フィリップ・デヴール
一人は王の直系ではないフランス人、フィリップ・ド・ヴォロワであった。

「三部会」は前王の直系ではなく政治的才能もない、しかしフランス人であるフィリップ・ド・ヴォロワを王に選んだ。
何故なら人々はフランス人の王を望んだからである。

エドワード3世は表面上は服従しながら、1337年に戦争準備を整えるとフランス王位の正統性を否定し、宣戦布告をした。
そしてイギリスは勝利し、カレーを手に入れて休戦をした。



戦争再開時のフランス王「お人好しのジャン2世」にも政治的才能はなかった。
王と騎士たちは4分の1の兵力しか持たないイギリス軍に負け、王は捕虜になった。
この時代より騎士が役立たずになることで階級制度が変わろうとしていた。

敗北はフランスを荒廃させた。
物価が上がり、兵士がペストを運び疫病が広がり、農民くずれの野盗が村々を荒らしまわり、田畑は荒れ、人口は減少し、財産は奪われた。
一揆では2万人以上の農民が殺された。

大規模な反乱も起きた。
マルセルは三色旗(トリコロール)をかかげ民主的変革を目指した。
しかし彼は過激にやりすぎて失敗した。
王太子の眼前で元帥を暗殺し、敵であるイギリスと同盟し、人々の支持を失ったのである。
マルセルは暗殺された。

そしてブレティニの条約で諸州がイギリス領となり、休戦が成立した。
しかしフランス人は言った。

「我々は口ではイギリス人を認めるが、心は決して渡しはしない」、と。
今も昔もフランスでは、フランス人でなくてはフランス人にはなれないのである。


捕虜となった王の代わりに摂政となり、困難な反乱の時を寛大さで乗り切り、イギリスとの休戦を得た王シャルル5世は最小の力を最大限に活用することのできる王であった。
彼は身分に関係なく有能な人材を登用し、軍隊を再編成し、治安の回復に務めた。

虚弱で信心深く、小男で博学で真面目な王は国力を回復させることで「1380年に死んだとき、すでに王国をイギリス人の手からほぼ解放していた。しかもほとんど戦闘を交えずにそうした」のである。

かくして反撃の準備は整った。あとは立ち上がるだけだった。
しかし次の王は立ち上がらず、その代わりに発狂した。

フランスの暗黒時代は続く、、、