玄文講

日記

モロワ「フランス史」(1)

2004-12-22 22:06:58 | 
天才でもあり野心家でもあったカエサルによりガリアは征服され、敗者さえも自分たちと対等な立場に置くローマの伝統的政策によりガリアは急速にローマ化し繁栄した。
農耕文化に移ることで人々は飢えから解放され、劇場や公衆浴場が作られ、交通網が完備されることで通商による富が増え、法と秩序という概念を彼らは覚えた。
しかしローマ帝国の衰退とともに統治システムは崩壊し、ガリア・ローマ人は重税に苦しみ、ゲルマン人の脅威にさらされるようになった。

やがて各地の貴族や大地主が各地域を支配するようになり、統一的な統治システムは崩れた。
そして王が死ぬごとに王国を息子たちに分配する制度が生まれ、それは2つの欠点をもたらした。
それは王が死ぬたびに国が分散されるため、国家が長期的に繁栄できないこと。
そして親兄弟、本妻と妾同士が利権をめぐり殺しあうはめになったことである。

空虚がヨーロッパを覆った。田畑は焼かれ、人々は殺され、女は略奪され、法は捨てられた。
イスラム教徒の進出によりスペイン及び地中海は彼らに独占され、異教の壁によりヨーロッパは孤立し、彼らに通商権を奪われることで富も失った。
そんな中でキリスト教会だけが唯一の統一的な行政機関となり、「破門」と「聖務禁止令」を武器に王侯貴族たちさえをも震え上がらせる権力を持った。

やがて平凡だが幸運な王シャルルマーニュが父からフランク王国とローマとの同盟を引き継いだ。彼は43年間という長い統治期間に恵まれた。長い統治期間は国力の分散を防いだ。
善良な人物で熱心なキリスト教徒であったシャルルはローマ教会をたびたび助け、キリスト教圏の保護者として西ローマの皇帝に任命された。

しかし彼の死後、国は再び分断され、現在のフランスとドイツに分かれ、骨肉の争いが再開した。
それでもシャルルはヨーロッパ再生の第一歩を踏み出したのである。

ローマ帝国崩壊で失われた秩序を求めて、人々は領主、領主は大領主に頼り、彼らはその見返りとして裁判権と課税権を得た。封建制度の始まりである。
この時代は各地域の領主、侯、家門が台頭し、フランクの王政は個人的な土地を持つただの一領主同然の力しか持たなかった。しかし神権による王として認められることでのみフランクの王たちは唯一無二の特別な存在でいられた。
人々は王に触れるだけで神の奇跡により病が治るとさえ信じていた。しかしそのためにフランクの王たちは神の代理人たる教会に対して服従しなくてはならなかった。もし破門でもされれば彼らは唯一無二の存在ではなくなってしまうからだ。

この人々のキリスト教ヘの情熱はこの時代に十字軍という形で表われる。
その目的も戦略もない不合理な戦争は「神がそれを望んでおられる」のセリフの下で熱狂的に実行された。
貴族たちは崇高な目的のために冒険に出かけ、財産を無駄に浪費し、また命も浪費した。彼らは弱体化した。
彼らの失墜は王と都市の商人「町人(ブルジョア)」たちを大いに利した。フランス王はおかげで封建領主の第一人者、大領主の中の大領主となることができた。
そして中世時代、王たちが外交と戦争にしのぎを削る時代が始まった。

フィリップ・オギュストは商人を保護し、様々な税制を作り(ユダヤ人の迫害、聖職者への課税)、経済力を高めることで王権を確かなものとした。

その孫のルイ9世は高潔な人物で、人民に愛され、人民を味方にすることで諸候を圧倒し、十字軍に2回参加し、イギリスとの戦争に勝ち、行政機関を作り内政を整え、死後 聖人に列せられた。彼はフランク一族に揺るぎない神聖性を与え、絶対君主制を正当化させた。

さらにその孫のフィリップ4世は王室の行政を発展させ絶対王政を確かなものにした。しかし強大な政府は維持するのに大金が必要だった。彼は官職を売り、ユダヤ人の財産を没収し、貨幣の質を下げ、聖堂騎士団を訴訟し拷問の末彼らに嘘の罪を告白させて処刑しその財産を奪った。この訴訟手続きはやがて魔女裁判に適用され、無実の人間を殺すのに大いに活用されることになる。
彼は聖職者にも課税し、そのため教会と対立し、教皇をローマからアヴィニョンに追放した。この「バビロンの虜囚」は1377年まで続いた。
教会に依存しなくては権力を保てない時代は終わり、フランス王が教会と愛憎入り交じった対立を始める時代となったのである。

こうしてフランスはフランスとなっていったのである。