玄文講

日記

分をわきまえる

2004-12-14 12:59:51 | 個人的記録
研究会に行ってきた。
そこで分かったことは、やはりここは私ごときがいてよい場所ではないということであった。
彼らの頭の回転の速さと知識の豊富さにはとてもかなわないと思わされた。
この世界は無能な人間が存在できる場所ではない。
私は大学を退学、もしくは早期に卒業することにした。

ところで、分をわきまえるというのは大事なことである。
自分の限界や分際をわきまえない人間というのは、いつまでもありもしない自分の可能性や本当の姿を求めて無駄な努力をするはめになってしまうからだ。

また自分の分をわきまえない人間は自分が挫折した理由を他人のせいにしたり、本当は挫折していないと思いこもうとしたりする。
そんな自分の挫折を自覚しないまま生きている人間は、自分にはできないことをやろうとして失敗したりする。
更には自分にはできるはずのことでさえも、ふてくされてやらなくなる。
たとえば医師を目指して失敗し、仕方なく獣医師や薬剤師になった人間がふてくされて自分の技能の向上を怠り、インチキ治療でペットを殺しておきながら法外な診察代を取ったり、薬の営業に来た人間に嫌がらせをしたという話を聞いたことがある。

しかし卑屈になるのも良くない話だ。
卑屈な人間は他人を不愉快にさせるし、何よりも本人の精神衛生上も良くない。

私の研究室にも自信を失い卑屈になってしまった人がいる。
その人はたとえば研究室訪問に来た人に向かって「(僕たちが)バカだから、がっかりしたでしょう?」としきりに言ったりするのである。
そんな質問は女性から「私ってブスでしょう?」と言われるのと同じくらい返答に困る問いかけである。
(ちなみに私は昔そういう問いかけに対して「ええ、まぁ」と答えてしまい絶交されたことがある。)

それは自分をあらかじめ卑下することで自分が傷つかないように防衛線をはっているだけのように見えた。
何よりも目の前のお客さんをもてなすことも忘れて、自分のプライドを守るために卑屈な質問を浴びせてお客さんを困らせている光景が私にはとても不愉快であった。

心の中や身内の前で自虐的になるのは仕方がないが、他人に対して卑屈な態度を示さないというのは礼儀である。

しかし私の場合、問題なのは自分の分をわきまえると自動的に卑屈な態度にしか見えない結果に落ち入るということである。
結局一番いいのは、自分は分をわきまえているかとか卑屈になっていないかなどという細かいことでグチグチと悩んだりせずに、目の前の仕事に対してできることはやり、できないことはしないことである。

「できること」(荷物運び、皿洗い、クズ絵作り)をしていれば卑屈になんてならないし、「できないこと」(裁判官、映画スター、ばく転、芸術)をやらなければそれは分をわきまえているということになる。

簡単なことである。