研究会に行ってきた。
そこで分かったことは、やはりここは私ごときがいてよい場所ではないということであった。
彼らの頭の回転の速さと知識の豊富さにはとてもかなわないと思わされた。
この世界は無能な人間が存在できる場所ではない。
私は大学を退学、もしくは早期に卒業することにした。
ところで、分をわきまえるというのは大事なことである。
自分の限界や分際をわきまえない人間というのは、いつまでもありもしない自分の可能性や本当の姿を求めて無駄な努力をするはめになってしまうからだ。
また自分の分をわきまえない人間は自分が挫折した理由を他人のせいにしたり、本当は挫折していないと思いこもうとしたりする。
そんな自分の挫折を自覚しないまま生きている人間は、自分にはできないことをやろうとして失敗したりする。
更には自分にはできるはずのことでさえも、ふてくされてやらなくなる。
たとえば医師を目指して失敗し、仕方なく獣医師や薬剤師になった人間がふてくされて自分の技能の向上を怠り、インチキ治療でペットを殺しておきながら法外な診察代を取ったり、薬の営業に来た人間に嫌がらせをしたという話を聞いたことがある。
しかし卑屈になるのも良くない話だ。
卑屈な人間は他人を不愉快にさせるし、何よりも本人の精神衛生上も良くない。
私の研究室にも自信を失い卑屈になってしまった人がいる。
その人はたとえば研究室訪問に来た人に向かって「(僕たちが)バカだから、がっかりしたでしょう?」としきりに言ったりするのである。
そんな質問は女性から「私ってブスでしょう?」と言われるのと同じくらい返答に困る問いかけである。
(ちなみに私は昔そういう問いかけに対して「ええ、まぁ」と答えてしまい絶交されたことがある。)
それは自分をあらかじめ卑下することで自分が傷つかないように防衛線をはっているだけのように見えた。
何よりも目の前のお客さんをもてなすことも忘れて、自分のプライドを守るために卑屈な質問を浴びせてお客さんを困らせている光景が私にはとても不愉快であった。
心の中や身内の前で自虐的になるのは仕方がないが、他人に対して卑屈な態度を示さないというのは礼儀である。
しかし私の場合、問題なのは自分の分をわきまえると自動的に卑屈な態度にしか見えない結果に落ち入るということである。
結局一番いいのは、自分は分をわきまえているかとか卑屈になっていないかなどという細かいことでグチグチと悩んだりせずに、目の前の仕事に対してできることはやり、できないことはしないことである。
「できること」(荷物運び、皿洗い、クズ絵作り)をしていれば卑屈になんてならないし、「できないこと」(裁判官、映画スター、ばく転、芸術)をやらなければそれは分をわきまえているということになる。
簡単なことである。
そこで分かったことは、やはりここは私ごときがいてよい場所ではないということであった。
彼らの頭の回転の速さと知識の豊富さにはとてもかなわないと思わされた。
この世界は無能な人間が存在できる場所ではない。
私は大学を退学、もしくは早期に卒業することにした。
ところで、分をわきまえるというのは大事なことである。
自分の限界や分際をわきまえない人間というのは、いつまでもありもしない自分の可能性や本当の姿を求めて無駄な努力をするはめになってしまうからだ。
また自分の分をわきまえない人間は自分が挫折した理由を他人のせいにしたり、本当は挫折していないと思いこもうとしたりする。
そんな自分の挫折を自覚しないまま生きている人間は、自分にはできないことをやろうとして失敗したりする。
更には自分にはできるはずのことでさえも、ふてくされてやらなくなる。
たとえば医師を目指して失敗し、仕方なく獣医師や薬剤師になった人間がふてくされて自分の技能の向上を怠り、インチキ治療でペットを殺しておきながら法外な診察代を取ったり、薬の営業に来た人間に嫌がらせをしたという話を聞いたことがある。
しかし卑屈になるのも良くない話だ。
卑屈な人間は他人を不愉快にさせるし、何よりも本人の精神衛生上も良くない。
私の研究室にも自信を失い卑屈になってしまった人がいる。
その人はたとえば研究室訪問に来た人に向かって「(僕たちが)バカだから、がっかりしたでしょう?」としきりに言ったりするのである。
そんな質問は女性から「私ってブスでしょう?」と言われるのと同じくらい返答に困る問いかけである。
(ちなみに私は昔そういう問いかけに対して「ええ、まぁ」と答えてしまい絶交されたことがある。)
それは自分をあらかじめ卑下することで自分が傷つかないように防衛線をはっているだけのように見えた。
何よりも目の前のお客さんをもてなすことも忘れて、自分のプライドを守るために卑屈な質問を浴びせてお客さんを困らせている光景が私にはとても不愉快であった。
心の中や身内の前で自虐的になるのは仕方がないが、他人に対して卑屈な態度を示さないというのは礼儀である。
しかし私の場合、問題なのは自分の分をわきまえると自動的に卑屈な態度にしか見えない結果に落ち入るということである。
結局一番いいのは、自分は分をわきまえているかとか卑屈になっていないかなどという細かいことでグチグチと悩んだりせずに、目の前の仕事に対してできることはやり、できないことはしないことである。
「できること」(荷物運び、皿洗い、クズ絵作り)をしていれば卑屈になんてならないし、「できないこと」(裁判官、映画スター、ばく転、芸術)をやらなければそれは分をわきまえているということになる。
簡単なことである。
俺に較べれば、晴天のテルテル坊主未満だがな。
奴等の頭の回転が速いのは、その方向での頭の利用頻度に比例し、アクセス速度が高いだけだ。慣れているだけさ。
しかしまぁ、お前程の才覚なら「こっち側」でやりたい放題生きるのも悪くないだろう。
悔いの無い選択をするがいい。
給料日後なら飯くらい奢ってやる。
私が他人と比べて遜色があるかないかは分からないが、こちらの周囲にいる人間はノーベル賞候補者とかそんなモンスターマインドな連中ばかりなので、同じ空気を吸っているだけで憂鬱になるというものである。
とにかく発つ鳥あとを濁さず、で行く予定なのだがどうなることやら、、、
ところで貴殿の家の犬が死んだそうで、残念なことである。
心身ともに貴殿の100倍は健全な良い犬であり、畜生の中では唯一 友情を感じることのできる思い出深い犬であった。
玄関を守る老犬の姿を私は懐かしく思う。
この場を借りて、良犬の冥福を祈らせていただきたい。
歴史の語るとおり、挫折したがな。
犬の弔辞は、素直に受け取っておく。
ここまで惜しまれるとは、飼い主冥利に尽きるというものだ。
都内の霊園に弔ったので、機会があれば連れて行こう。
殉死も大歓迎だぞ。
ところで、東京では狂風吹き荒れているが、もう東京に来てしまっているのか。
来てしまっているなら、いつ頃まで居てしまう積もりなのか。
東京都の治安維持上必要不可欠な事項故、教えて貰おう。
虫もいない部屋でカビとたわむれる今日この頃なり
次のサバトの準備 よしなに
詳細はメールにて、、、