蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

被隠蔽文化

2005年09月19日 12時43分55秒 | 古書
「樺太の緯度に相當する處に在る伯林は、氣候が寒い。九月になるともう室を暖め出し、これが翌年の四、五月頃迄續く。しかし、この少年團の家には火の氣がない。我々一行は、身にしみる寒さに外套の襟を立てて、頤を深く埋めて居たが、この少年達は誠に元氣である。短い黒色の上衣を着け、半ズボンをはき、膝の部分には何も着けてゐない。中には黒の上衣を脱いで、褐色のシャツと黒のネクタイだけと云ふ、身輕ないでたちのものもまじつてゐる」(注1)。これは歯車工学の権威、東北大学名誉教授成瀬政男がナチス時代ベルリン郊外の「ヒットラー少年團の夕べ」を訪れた際の印象を綴った一節。
昨今ナチズム研究の著作は非常に多く出版されていて、その中には当時の一般大衆のナチズム観に関する研究書も一冊や二冊に止まらない。ところが、わたしたちがあの時代の新聞雑誌、大衆小説などを見たり読んだりしようとすると、これが結構難しい。映像については一部DVDやビデオで見ることもできるが、ほんの一部分でしかない。それも既に何度も見ているような映像ばかり。最近やっとゲッベルスの小説が邦訳されたが、多分品切れで一般書店では入手困難なのではないだろうか。つまり、研究者ではないわたしたち一般の人間にとって、一九三三年から一九四五年までのドイツ帝国の文化はほとんど封印されているに等しい状況なのだ。これはどう考えてもおかしい。
さらに、冒頭に挙げた成瀬政男の随筆のような視点、もっといえばナチズムを知らぬ人々による当時のドイツ社会の記述は、すべて抹殺されてしまったかのようだ。リアルタイムで記述された第三帝国の日常を、歴史家や思想家たちのフィルターがかかっていない形で知ろうとすることはとても難しい。成瀬のこの著書にしてもこれを古書店ですぐに見つけることはおそらくできないだろう。インターネットで検索したら某古書店で二千八百円の値がつけられていたが、私は件の本を最近できた神保町古書モールでゴミのようなグズグズの古書の山から発見してかなりの安値で購入した。
小説についていうならば、ナチス時代の小説家の作品が現在読まれることはない。ゲッベルスの作品が今日邦訳されること自体、非常にめずらしいとしかいい様がない。
『現代のドイツ文學』(注2)という本がある。「現代」といってももちろん二十一世紀のことではない。昭和一九年に初版二千部が刊行されてる。著者はHermann Schäfer、訳者が稲木勝彦。Schäferは知らないが稲木勝彦なら知ってる。シュルツ/グリースバッハの『ドイツ文法』、ヴィルヘルム・ユーデの『基本ドイツ文法』の翻訳者だからだ。シュルツ/グリースバッハの本は役に立っていて、今でも時折参照している。
この『現代のドイツ文學』は二部構成となっていて、第一部が「概論と展望」、第二部が「作家と作品」。「概論と展望」ではRudolf G. Binding、 Hans Grimm、Gerhard Schumannの三名をとりあげ、多くのページを割いて紹介している。このなかでわたしがかろうじて知っている作家はHans Grimmだけだ。三名の誕生年はBindingが一八六七年、Grimm一八七五年。そしてSchumannが一九一一年で最も若い。掲載されている軍服姿のポートレートは眼鏡をかけていて、いかにもドイツのインテリ青年然としている。経歴にはナチス突撃隊だったとあり、現在は戦線にいるとのこと。
「作家と作品」においては百七十六名の作家の紹介が載っている。残念なことにこの中の一人としてわたしは知らない。もともと小説はあまり読まないほうだし、ドイツ文学で読んだものといったらトーマス・マンとギュンター・グラスくらいしかないのだから、知らなくて当たり前といってしまえばそれまでだが、しかし改めて自分の物知らずを痛感しないではいられなかった。

(注1)『ドイツ工業界の印象』367-368頁 成瀬政男 育成社弘道閣 昭和17年7月5日再版
(注2)『現代のドイツ文學』Hermann Schäfer 稲木勝彦訳 東京開成館 昭和19年3月10日初版

芳賀留学日誌(四)

2005年09月18日 04時25分33秒 | 黎明記
先ずはごめんなさいの話。前回の終わりの方で「梨園叢書」について触れた。要すればわたしの浅学ゆえこの書籍についてはよく判らないというのが結論だった。しかしこれではなんとも居心地がわるい。そこで芳賀留学日誌(三)の回を公開した後、再度『支那學藝大辭彙』を調べてみると「梨園叢書」ではなくて『梨園集成』が載っていた。おそらく芳賀はこれのことをいっていたのではないか。「【梨園集成】十八巻、清の李世忠編刊、光緒六年成る。皮黄戯四十六種の全本および散齣を集む。概ね當時の新作に係り、其中「魚蔵剣」、「取南郡」、「罵曹」、「探母」、「走雪」等今に行わるゝ齣少からず」(注1)というものだそうだ。光緒六年といえば西暦一八八八年、明治の二十一年にあたる。芳賀渡欧の十二年前だから当時としてはまだ新刊書に属していたこの中国戯曲の叢書を彼は上海の本屋で探していたということらしい。
それにしてもほんの少しの手間を惜しんだばかりに、とんでもなく恥ずかしい思いをする羽目になってしまった。発行年やその内容から勘案すれば桂湖村『漢籍解題』などに出ているわけが無い。『日本文学大辭典』に載っていないのは、国文学に大した影響を与えなかった書物だったからだろう。などとうっかり書くとまたとんでもないどんでん返しに会うとも限らないのでこの辺りで止しにしておくけれども、自分が不案内な分野の事柄はよくよく注意して調べなくてはならない、ということを改めて痛感させられました。
さてここから本題。
「食卓に集まる蠅を見るに太りて頭赤し」(注2)。上海東和洋行に止宿する芳賀たちの昼食のテーブルは、わたしたちの感覚からするとあまり清潔とはいい難い。食後「清人来りて筆墨を購はんことを勧む 夏目氏余と少許を購ふ 懸直の多き驚くに堪へたり」(注3)。まあ中国だからしようがないか。ちなみに「懸直」は「掛け値」と読む。このような用字は広辞苑の第四版にも載っていないので、使われなくなって久しいのだろうと『大言海』を見たらこちらにも出ていなかった。
九月十四日午後三時、一行は再び小蒸気ブレーメンでプロイセン号に戻る。「今夜新旅客本船に入るもの頗多く談話室食堂大に賑う 別を送りて来りし人々七時頃かへりゆくとて接吻処々にておこる 余に取りては一奇観たり」(注4)。芳賀ばかりではない。じつは現代に生きているわたし自身も、目の前で接吻をされると「奇観」だと感じてしまう。これはなにも日本人が行うのが「奇観」だというだけではない。西洋人のそれを見てもやはり「奇観」であり、しかもそれらは欲情の一欠けらも感じられない、おそろしく薄汚く見える「奇観」なのだ。これはわたしの倫理的な見解などではなくて、まったくの生理的な印象だからどうしようもない。
台風到来のため出航が大幅に遅れ、翌十五日土曜日、午後二時に錨を上げたプロイセン号は二時間ほど航行して再び停船するといった状況で、十六日午前二時頃ようやく正常な航行に入ったものの波は依然として高く、みな船酔いに苦しめられながら次の寄港地である福州へと向かったのである。

(注1)『支那學藝大辭彙』1333頁 近藤杢編 立命館出版部 昭和20年6月5日再版
(注2)『芳賀矢一文集』616頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注3) 同上 616頁
(注4) 同上 616頁

國立國會圖書館的謎

2005年09月17日 05時30分29秒 | 彷徉
随分と前に、国立国会図書館について書いたことがある。食堂のスパゲティー・ナポリタンが不味いの、書籍の出庫が請求してから三十分はかかるの、と不満を書いた。しかしそんな不満を補って余りある価値が国会図書館にはある。たとえば古い官報はここでしか閲覧できないし、なによりその蔵書量の多さが魅力だ。わたしが学校時代にドイツ語を教えて頂いたS先生は、借りて読むというよりは本そのものの確認のため国会図書館を使っているとおっしゃっていた。要すればいろいろな使い道があるということなのだろう。
原理的に国会図書館とは未完の建築物であるということができる。地方自治体の図書館は主に閲覧を目的としているのにたいして、国会図書館はそれに加えて蒐集保存を重要な使命としているからだ。蒐集保存すりゃあ蔵書はどんどん増えていく。ましてや国内の出版物はすべからく(ビニ本も含めて)蒐集保存するのが国会図書館のしごとであるとくればなおさらだ。そんなわけで本館の書庫だけでは不充分となり、新館を建設して地下八階三十メートル下まである書庫を設けた。
ところで妙な話を読んだことがある。某A新聞の記者がこの新館書庫の地下八階を見学したいと国会図書館側に要請したところ、「何もありませんから」とやんわり拒否されたというのだ。まだ書籍の収納されていない空っぽの書庫など見てもしょうがないと図書館側が親切心で記者の徒労を事前に回避したのだと、そのときは思った。しかしこれはなんだか変だ。そもそも取材対象が興味あるものかそうでないかは、取材する記者の判断によるのであって、取材される側が判断すべきものではない、いやそもそも判断などできない。ということは、これは明らかに国会図書館側の何らかの意図、親切心などとはまったく関係ない意図による取材拒否なのではないと思えてきたのだ。ふつうに考えれば、非公開収蔵物でもあれば拒否するということもあるだろうが、何もないからこそ見学自由なはずではないか。
これらのことから結論を導き出すのはいたって簡単だ。取材拒否の理由としては、そこには見せたくない何ものかがあるか、あるいは職員自身がそこに入って行きたくない事情があるか、この二つしかない。
まず「見せたくない何ものかがある」ということについて想像力を逞しくするならば、実はこの書庫の地下八階は書庫などではなく、外国からの軍事攻撃に際して、閣僚や官僚が執務するための巨大な地下「霞ヶ関」への入り口があるという説。残念ながらしかしこれはまったくの妄想でしかない。秋庭俊とかいう人物がその著『帝都東京・隠された地下網の秘密』のなかで営団地下鉄(現在の東京メトロ)荻窪線は戦前秘密裏に造られていたといったようなことを書いているけれども、考えても見て欲しい、地下鉄工事というものがどれほど多くの労働力と物資と施設を必要とすることか。ましてや戦前とあっては規模は今日の比ではない。そんな工事を秘密になどできるわけがない。事情は機械化や掘削技術が進歩した現在でも変わらない。東京のど真ん中に巨大な地下施設を造るのはよいが、その建設工事を秘密のうちに実施することが可能とはとうてい考えられない。
とすると二つ目の理由。「職員自身がそこに入って行きたくない事情」があるのではないかという推測。わたしはこちらの方が現実的なような気がする。しかし「入って行きたくない事情」と一口にいってもまだ漠然としている。もっと具体的な状況を推測しなくてはならない。
「シックハウス症候群」というのはどうだろう。防腐剤、塗料溶剤、接着剤、木材保存剤、防蟻剤など建築材料の中に含まれる科学物質を原因として起こる症状なのだが、これなど大方の理解を得やすい説明ではないか。だがこれの発症には個人差があり、皆が皆同様に身体に異常を来たすというわけでもない。図書館職員が現在何人いるかは知らぬが、なかにはまったく影響を受けない体質の者もいるだろうから、そのような職員が案内すればよい。
そこで最後に考えられるのが、ずばり何らかの「超常現象」。これなら体験者だけではなく非体験者も心理的な影響を受けるので誰もが行きたがらなくなる理由を説明できる。国立国会図書館新館地下八階の書庫でどのような超常現象が起こっているかは分らないが、とにかく何か理解できない現象が起こり、それを体験した職員が複数存在し、それはひそひそ話で他の職員たちにも伝わり、その結果地下八階は開かずの書庫となっている。
しかしそんなことを公然と発言しようものなら、たちまち税金の無駄使いを指摘されるのがオチである。マスコミは「超常現象」を埋め草には使うけれども、真剣に取り上げることはまず無いというのが現実だから。

羅甸語事始(十七)

2005年09月16日 06時28分28秒 | 羅甸語
形容詞とは何か。答えは簡単で"The adjective adds a quality to the substantive"(注1)、これだけだ。しかし日本語の形容詞についての知識がかえって躓きの石となる。日本語における形容詞の機能は「連体修飾語になる(美しき花)だけでなく、単独で述語になり得るのは、西洋語の形容詞と大いに違う点で、たとえば、英語の形容詞(adjective)は、The boy is honest. のように、be動詞がなくては述語になることはできないが、日本語の場合は「花美し」のように、形容詞が単独で述語になる。また、「美しく咲く」の場合は、動詞を修飾するのであり、それだけ取り出せば、むしろ副詞と呼ばれるべきものである」(注2)。要すればラテン語、というよりヨーロッパ語に共通していえるのは、形容詞とは名詞に性質を付加する品詞だ、といことだけでそれ以外になにもない。だからわたしたちが"pulcher"を読むとき、これは「美しい」何かであって、「美し」でも「美しく」何かをすることでもない、ということを常に意識する必要があるわけだ。まったく理屈っぽい話なのだが、そもそも日本語の「美しい」を形容詞としているのにはヨーロッパ語文法の影響が多分にあることを忘れないでおこう。そして何か他の語を修飾するという意味では形容詞も副詞も同じで、だからこそ現代語の英語にしてもドイツ語にしてもそうなのだが、形容詞を副詞として読まねばならない文章が多々あるわけだ。この辺りの事情は日本語とて同様で上の引用にもあるように「美しく咲く」といった用法も可能。馬鹿なわたしはこのことを知らずに学校で英文を読んでいたのだから、まったくお話にもならない。
ここで人称代名詞について確認しておく。既に明らかなようにラテン語は動詞の活用で機械的に人称が確定する。"amo"なら「わたしは愛する」、"amatis"なら「あなた方は愛する」という意味になる。したがって普通「わたしは愛する」をわざわざ"Ego amo"とは言わない。もしそのように書いてあったとすれば、よほど「私」を対比的に強調したいときなのだ。たとえば「君は愛さなくとも、この私は彼女を愛するのだ」というような場合"Tu non amas, sed ego amo eam."となる。ここで"tu"、"ego"が人称代名詞。曲用は一人称単数がego,mei,mihi,me,me、複数がnos,nostri(nosutrum),nobis,nos,nobisとなる。長短母音に注目するとego,mei-,mihi-,me-,me-、no-s,nostri-(nostrum),no-bi-s,no-s,no-bi-s。注意すべきは属格には所有格の意味はないということ。動詞、形容詞が属格支配であるときに用いられる。これはちょっと気をつけないといけない。所有を表したいならば所有代名詞というのがる(そんなものいらないってか)。二人称単数は、tu-,tui-,tibi-,te-,te-、複数は、vo-s,vestri-(vestrum),vo-bi-s,vo-s,o-bi-s。属格の括弧で括った綴りは部分属格(genetivus partitivus)用法の際に用いる。部分属格とは「~のうちの」というほどの意味で、"vestrum multi"「あなた方の内の多くは」といったような使い方をする。
では三人称代名詞はどうか。英語ではhe,she、ドイツ語ではer,sie,es、となるところだが面白いことにラテン語には三人称固有の代名詞はなく、指示代名詞であるis,ea,idが用いられるがこれについては次回に回すことにする。
さて理屈ばかりでは力が身に着かないので今回も長文にチャレンジしてみる。といっても他愛ない内容の文章なのだが。
"Societatem jungunt leo, equus, capra, ovis. Multam praedam capiunt, et in unum locum comportant. Tum in quattuor partes praedam dividunt. Leo,autem, "Prima pars," inquit, "mea est, nam leo rex animalium est. Et mea est pars secunda, propter magnos meos labores. Tertiam partem vindico, quoniam major mihi quam vobis, animalibus imbecillis et parvis, fames est. Quartam, denique, paretm si quis sibi arrogat, mihi inimicus erit."(注3)

(注1) "Latin Grammer"p.37 B.L.Gildersleeve Gonzalez Lodge Macmillan 1974
(注2)『日本文法大辞典』198頁 松村明編 明治書院 昭和46年10月15日
(注3)『新羅甸文法』97頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷

午餐

2005年09月15日 03時27分39秒 | 彷徉
仕事の都合で、このところ立て続けに八重洲に通っている。所番地は八重洲だけれども実質的には京橋に限りなく近い。で、気が付いたのだが安価なラーメン屋がほとんどないのだ。それと立ち食い蕎麦屋も回転寿司屋もほとんどない。これは意外だった。高い店は何軒かあるが、安い店が圧倒的に少ない。店舗の賃貸料が高いからそれが商品に転嫁されているためなのだろうか。
立ち食い蕎麦屋Kはいつも満員で入れないし、同じ立ち食い蕎麦屋Nは回転が速いためか比較的空いているのだが、店内が臭い。中国人スタッフで営業されている中華料理屋Sは味付けが気に入らない。いや気に入らないにもなにも、わたしたちが普段食べ慣れているような味付けがなされていない。これを美味いと感じている客もいるようだが、少なくともわたしには合わない。ではなぜ入るのかというと、他に食べるところが無いからだ。しかしさすがに盛夏の時期にはそんな店々にも入る気にもならず、昼餐を抜くことが週に二三度はあった。そんなこんなで、わたしは精神的および肉体的にすっかり消耗してしまったが、このような状況も今月末までの辛抱。それにしてもたかが昼飯でこれだけ悩むなどという馬鹿げたことは金輪際願い下げだ。
八重洲といえば広い地下街があり、そこには何軒もの飲食店が入っているので食事する場所に困ることはない、と思われるかもしれないが、何軒店があったとしても昼食時間中に利用できなければまったく無意味なのだ。それになにより値段が高い。わたしは偶さか東京を訪れる旅人ではないのであって、一回の昼食に出費できる金額の上限は七百五十円といったところ。いやこれでも多すぎると思う。もっと倹約したいところなのだ。おまけに八重洲ブックセンターも比較的近いときている。二日と空けず各フロア―を視察しているので、必然的に本を購入する機会も多くなる。これでは倹約しろと言うほうが無理だ。先月もドイツで出版されているナチズム関係の本を何冊か買ってしまった。昔に比べると安くなっているとはいえ、それでも痛い出費だった。
今回も相変わらず取り留めのないはなしになってしまったが、要すればわたしは客に行列を作らせるような食べ物屋は大嫌いなのだ。そもそも味自体の差なんて素人にはそうそうわかるとも思えない。そしてなにより味は気分に左右されるものなのであってみれば、待たされたあげくのいらいら状態でたべたって、美味い不味いがわかるわけがない。いくら繁盛しているとはいえ、客が店の前に並ぶようなったら店主はそれを歓ぶのではなく、客の感じているであろう不満にこそ配慮すべきなのではないか。
またも真夏日になった今日、昼食に何を食べたらよいのか悩みながら、わたしは八重洲の街を徘徊しなくてはならなかった。

臨時雇用

2005年09月13日 05時34分59秒 | 彷徉
むかしむかし学校に通っていた頃、東販(東京出版販売、現在のトーハン)でアルバイトをしていたことがある。部署は確か注文管理課と記憶している。朝の9時から夜の8時まで。各書店に配送する書籍を仕分けする仕事だった。
上の階から地域ごとに仕分けされた書籍が樹脂製のバケットに入れられてベルトコンベア―で流れてくると、東販の正職員がさらに細かく仕分けする。それをわたしたちアルバイトが受け取って、各書店のロッカーに運んでいくといった、きわめて単純にして、かつ疲れる仕事だった。ロッカーの大きさはだいたい書店の規模に比例していて、大きな書店ほどロッカーのスペースを広く取ってあった。なかにはアメリカの大学だったか議会だったかの図書館用のロッカーもあり、そこにははじめて見る国語学や国文学の浩瀚な書籍が何冊も収まっていた。
繁忙時にはアルバイトの他に臨時雇労働者が投入されていた。彼らは皆中高年の男たちで、宿舎で集団生活をしながら働いているようだった。昼時近くになると班長がアルバイト一人ひとりにの食券を配る。わたしは社員食堂のけっして美味しいとはいえない昼食を(食べるのではなく)掻きこむと、仕分場に戻って商売ものの本、たとえば笠間しろうのエロ漫画を捲っているか、さもなければ屋上に出て東五軒町の景色をぼんやりと眺めたりしていた。
集まったアルバイトはやはり学生が多かったが、中にはなんだか訳のわからない人間も混じっていて、話してみるとごく普通の人なのだが、顔には刃物による大きな切り傷があり、ダボシャツに毛糸の腹巻姿で出勤する競艇大好きといった年齢不詳の人物や、朝の作業前に朝食代わりの硬そうなパンを洗面所の水道水で流し込んでいる二人組みとか、とにかくしょぼくれた連中がかなり混じっていたように思う。学生たちはこのとんでもなく過酷な労働現場にすぐ見切りをつけ、最短契約期間の二週間が過ぎるとさっさと辞めていってしまった。八時かあるいは残業などあると九時になってしまうが、とにかく作業が終了すると地下のロッカー室で着替えるのだが、作業用の運動靴を脱ぐとその悪臭に眩暈がした。正職員たちはシャワーを浴びていたが、わたしたちはそれができず作業用の服から普段着に着替え、靴も通勤用のものに替ただけで帰宅していた。毎週月曜日の朝、業務開始前の職場には東販の社歌がいつも勇ましく流れていた。「東販、東販、文化のまもり」というフレーズが今でも耳にこびり付いている。
どこの職場でもそうなのだけれども気の合わない人間は必ずいるもので、この職場でのそれはアルバイト仲間だったり、あるいは正職員のひとりだったりした。不愉快なアルバイト仲間とは、たとえば正職員にしか支給されない軍手をどうしたわけかそいつも着けていて、あたかも正職員であるかのように振舞う奴。わたしはナチス強制収容所のカポを連想した。正職員の中にも陰険なやつがいて、名前をGといったが、元来不器用なわたしが本の函詰めに手間取っていると、「なにやってるんだ、そんなんじゃあ百年経っても終らねえぞ」といってせきたてた。わたしと同年輩くらいだったと思う。その態度からはわたしにたいする侮蔑とも憎悪とも、あるいは嫉妬ともとれるブルーカラーの屈折した感情が伝わってきた。
わたしは当時から本好きだったが、さすがにこのアルバイトをしている間は書店に入る気がまったく失せてしまった。「東販、東販、文化のまもり」だと。馬鹿をいってはいけない。文化をまもっているのは他でもない、低賃金重労働に従事させられている使い捨て労働者なのだ。
このときに稼いだ金を何に使ったか。たいした金額ではなかったが、白水社の『キェルケゴール著作集』と『ショーペンハウエル全集』を購入したことだけは憶えている。

耶蘇會士

2005年09月12日 06時44分48秒 | 言葉の世界
閉ざされた集団の中では、ときに信じられないことが起こる。部外者の目には滑稽とも奇怪とも見える行為がその集団内では真顔で実行されたりする。遡れば連合赤軍リンチ事件があるし最近ではカルト教団のテロルや、もっと身近なところでは学校のいわゆる「いじめ」など、まあ例に事欠くことはない。ところでわたしはあの「いじめ」という言い方が大嫌いだ。アホな新聞雑誌、テレビのニュース番組などで気安く使われるようになったのはいつ頃からか記憶にないが、「いじめ」という通常は子供の世界の言葉を安易に使用することで行為自体の野蛮性、卑劣性、陰湿性が隠蔽されてしてしまうからだ。
閉ざされた世界を描いた、文学史に残る名作の一つがトーマス・マンの『魔の山』。この作品には当然ながらいくつかの山場があって、例えば「ヴァルプルギスの夜」などが有名だが、わたしの好きな、というより引き付けられる山場は終盤の"Die groß Gereiztheit"「苛立ち状態」と名づけられた章。岩波文庫版ではこれを「ヒステリー蔓延」としているけれども、意訳が過ぎるのではないか。まあそれはそれとして、この章であのイエズス会士になり損ねたレオ・ナフタが人文主義者ゼッテムブリーニとの決闘で死んでしまう。いやそれは形式こそ決闘だったが、まったく決闘の体をなしてなどいなかった。ゼッテムブリーニは銃を明後日の方向に発射し、ナフタは自らの頭部に銃口を向けて引き金を引いたのだから。
事の起こりはハンス・カストルプにたいしてナフタが彼一流の理性主義、啓蒙主義批判を吹き込むのに我慢できなくなったゼッテムブリーニが、ナフタにたいして"Infamie"という言葉を吐いたことによる。原文では"Einer solchen Aufforderung, mein Herr, bedarf es nicht. Ich bin gewohnt, nach meinen Worten zu sehen, und mein Wort wird präzis den Tatsachen gerecht, wenn ich ausspreche, daß Ihre Art, die ohnehin schwanke Jugend geistig zu verstören, zu verführen und sittlich zu entkräften, eine Infamie und mit Worten nicht strenge genug zu züchtigen ist..."(注1)「そのような要求は、あなた、必要ありません。私は自分の言葉を評価するのに慣れています。そしてもし私が次のように言うならばその言葉は事実にまさしくかなっています。つまり、あなたの手段それはそうでなくとも心の不安定な青年を精神的に混乱させたり、誘惑したり、倫理的に衰弱させたりもするのだが、そのような手段が下劣"Infamie"(原文ではイタリック体)なものであり、言葉をもってしては充分に厳しく懲らしめることができない、と言うとき...」となっている。
"Infamie"はラテン語の女性名詞"infamia"が起源の言葉だが、イタリア人であるゼッテムブリーニの発言ということでマンはイタリア語の女性名詞"infàmia"も念頭に置いてこの女性名詞"Infamie"を用いたのに違いない。そしてカトリックでは"Infamie"は「名誉剥奪」という意味もあることに注意する必要がある。イエズス会士になれなかったナフタにしてみれば神経を逆撫でされる気分だったのだろう。そのことが彼を怒らせ物語は一気に決闘へと展開していくわけだが、この部分をどう読んでもナフタが"Infamie"に過剰反応しているとしか、わたしには思えない。
おそらくナフタにとって言葉などどうでもよかったのではないか。ただすべてをご破算にするきっかけが欲しかっただけなのではないか。決闘の場面を読むたびに、わたしはいつも重苦しい気分になってしまう。

(注1)"Der Zauberberg"s.736 Thomas Mann Fischer Tschenbuch Verlag 1982.4

仮綴本

2005年09月11日 04時55分14秒 | 本屋古本屋
高円寺の都丸書店を覗いてみた。本店ではなくて中央線ガード下の支店のほう。随分以前ここの棚にバレリーのカイエがずらっと並んでいた。大判の洋書というのは迫力があるものだが、いつの間にか売れてしまった。もっともわたしはフランス語が解らないので多分購入することはなかったろう。この店は店内にも面白いものがあるけれども、店の外側に作り付けられた棚に並ぶ廉価本のなかにも掘り出し物が多い。とくに人文系洋書の廉価本コーナーとしては神田の崇文荘にも劣らぬ内容ではないだろうか。しかし廉価本ゆえその大半はコンディションがわるい。専門家が放出したものにはコメントや傍線の書き込みが多く、わたしでも購入するのをためらってしまう。
そんななかできれいな本があったので買ってしまった。フィレンツェのLa Nuova Italiaから刊行されたIl Pensiero Filosofico叢書の第十一巻、"Il Pensiero degli Idéologues Seienza e filosofia in Francia (1780-1815)"という仮綴本。八百五十ページほどの浩瀚なものだが、まだ一回も読まれていないことは明らかだった。なにしろ天や小口の部分が裁断されていないのだから。自慢ではないがわたしはイタリア語はまったくといってよいほど解らない。それでも買ってしまったのはいつかイタリア語を学んでこれを読むときもあるだろうという期待があるからだ。もっともそれがいつになるのかは見当さえつかないが。もう一つの理由は値段が恐ろしく安かったこと。500円という値札のうえに300円の値札が貼り付けられていた。概して英語以外の洋書のセコハンは安い。読む人間が少なくなかなか捌けないからだ。とくに西ヨーロッパ圏ではイタリア語やスペイン語はすランス語やドイツ語の書籍より安価であり、ロシア語なども冷遇されているようだ。これが北欧諸語となるともう二束三文。そりゃあそうだろう、デンマーク語やスウェーデン語、格が十幾つもあるフィンランド語の出版物を読める人間がこの日本にそう多く住んでいるとも思えない。
それにしてもこの仮綴本ってのはいいですねえ。ヨーロッパの伝統として本の装丁は購入者の側でおこなうので、あちらの古書は飾っておいて見栄えのするものが多い。家具や食器と同じように扱われている。だからサザビーなどで競りにかけられるレベルのものも出てくる。そしてそのような立派な装丁を施される前の仮綴状態の本に、わたしは生まれたばかりの赤子のような初々しさを感じてしまう。いま書いたように本の装丁を購入した者がおこなうということは、それができる経済的余裕のある人々のために本があったということで、この構図は現在でもあまり変わりはない。たとえばエコールノルマル・シューペリュー受験のための書籍購入費は半端ではないとどこかで読んだ記憶がある。要すればあちらでは本が高いのだ。だから公共図書館が充実している。
そうであればこそ、一九四〇年ボローニア生まれのフィレンツェ大学教授Sergio Moravia先生の力作がたった300円というのはちょっと可愛そうじゃないか。神保町のイタリア書房辺りで購入したならば、はたしていくら位になったことだろう。おそらく五千円以上はするはずだ。そういえばイタリア書房にも随分といっていない。自分の解さない言語の本を扱う店ということもあるのだけれど、靖国通からちょっと外れているというのも原因。とはいえ専大通をたかだか五十メートルほど入るだけなのだが。以前はスペイン語やイタリア語のセコハンも置いてあったが最近は新刊書ばかりなので棚を眺める面白さはない。丸の内のゲーテ書房同様自分の求めている本があって初めて役に立つ店になってしまった。

粘華(上)

2005年09月10日 07時27分47秒 | 不知道正法眼蔵
「霊山百万衆前、世尊粘優曇華瞬目。干時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、「我有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉」(注1)。
お釈迦様が霊鷲山で弟子たちに説法していたとき、優曇華の花を手でぐじゃぐじゃにして一瞬眼を閉じた。それを見て弟子の摩訶迦葉がにっこりすると、お釈迦様は「わたしの会得している正法眼蔵涅槃妙心をお前に付託しよう」とおっしゃった。
花をぐじゃぐじゃにしたのを見ただけで、お釈迦様の伝えようとしていたことをすべて悟ってしまった摩訶迦葉という弟子は、その仏教理解においておそらくお釈迦様とほとんど同じレベルにまで達していたに違いない。だからお釈迦様は彼を自分の後継者に選んだわけだ。一般にはこれを指して「以心伝心」といっている。美しい優曇華の花もちょっと手で捻っただけでバラバラになってしまう。しかも優曇華にしてみれば、そのような形で自分が消滅することなど思ってもいなかった。「無常」という概念を直接的に示す、なんとも遣り切れない気分になってくる話だ。この有名な粘華微笑のエピソードはなんでも「大梵天王問仏決疑経」というお経が元ネタなのだそうだが(注2)、道元禅師はこれにたいして「正法眼蔵第六十四 優曇華」で独特の詳細な解釈を行っている。
「七仏諸仏はおなじく粘華来なり、これを向上の粘華と修証現成せるなり。直下の粘花と裂破開明せり」(注3)。過去、現在、未来の諸仏はみな同じように粘華してきたのであり、これを過去の粘華であるとして修証を現成させたのだ。そして現在の粘花であると明らかにさせたのだ。ここでは粘華が単なる行為ではなくて仏教の根本概念として捉えらな直されている。粘華すなわち正法眼蔵涅槃妙心。わたしの感じた感傷的「無常」などもはや入り込む隙間もない。
「しかあればすなはち、粘華裏の向上向下、自他表裡等、ともに渾華粘なり。華量仏量、心量身量なり。いく粘華も面々の嫡々なり、附属有在なり。世尊粘華来、なほ放下着いまだし。粘華世尊来、ときに嗣世尊なり。粘花時すなはち尽時のゆへに同参世尊なり、同粘華なり」(注4)。そうであるからには、すなわち粘華における上に向かうとか下に向かうといったこと、自分と他人、表と裏など、すべてまったく区別のないもの、つまり粘華という概念にそのような区別は一切ない。花の力、仏の力、心の力、身の力があるだけなのだ。いくつもの正法眼蔵涅槃妙心としての粘華の継承者はそれぞれ正しい跡継ぎなのであり、正しい教えの附属が行われているのである。この伝統は世尊が粘華して以来、いまだ捨てられてしまったことはない。粘華つまり正法眼蔵涅槃妙心そのものである世尊が到来して、次の世尊が粘華を継いでいく。粘華するのはあらゆる時にわたるのであるから、同じように世尊が参じ、同じように粘華するというわけだ。

(注1)『日本思想体系13 道元(下)』215頁 岩波書店 1972年2月25日第1刷
(注2)『『正法眼蔵』読解8』70頁 森本和夫 筑摩書房 ちくま学芸文庫 2005年1月10日第1刷
(注3)『日本思想体系13 道元(下)』同
(注4)『日本思想体系13 道元(下)』同

芳賀留学日誌(三)

2005年09月09日 07時01分53秒 | 黎明記
芳賀矢一、夏目金之助、藤代禎輔、戸塚機知、稲垣乙丙の一行は明治三十三年九月十三日、上海に到着した。
「五時眼覚む 蓬窓より海面を覗へば濁浪瀰漫船は早く揚子河口にあるなりけり 九時前小蒸気ブレーメンにに搭じて大江の支流黄浦江に遡る 両岸の楊柳翠色滴るが如し 處々に支那流の楼門を見る 農家亦その間に点綴す 航行二時間十一時の頃上海に達す」(注1)。当時の船旅では日本から上海まで五日もかかったわけだ。今だったら飛行機で約三時間少々で行ける。さて当然ながら一行は上海でもあちらこちらと歩き回っている。投宿したのは鉄馬路にあった東和洋行という日本旅館だった。日本旅館といっても設備は洋風ホテルなみだが、食事に日本食が供されるところに「日本旅館」たる所以がある、と芳賀は書いている。夜の九時頃になって芳賀たちは街の散策に出かけた。
「南京路を歩し左折して四馬路にいたる 同路は夜店のあるところにして戯場、寄席、酒楼等櫛比し京都京極通の趣あり 一酒楼に芸妓の盛粧して客を待つを見る 又轎に乗りて街上を往復するもの多し 轎は二人にて之を肩舁し一人提灯を持ちて前に立つ 提灯の大さ吉原遊廓の古図を見るが如し 一書肆に就きて試に梨園叢書の有無を問ふに無しといふ」(注2)。それにしても時代を感じてしまう。四馬路の賑わいを「京都京極通」に比較している、つまり当時の東京には上海に比肩しうる繁華街がまだなかったということか。また「吉原遊廓の古図」といわれても今日では好事家以外にはぴんとこないに違いない。勝手に想像するのだけれども、芳賀自身吉原遊郭に偶さか通っていたのではないか。しかしあからさまに書くことを差し控え「古図」としたのだと思う。芳賀はこの日記が将来公表されることを明らかに意識して書いているからだ。
ここでわたしが気になったのが「一書肆に就きて試に梨園叢書の有無を問ふに無しといふ」の一文。「梨園叢書」ってなんだ。もちろん「梨園」がナシ畑に関係するものでないのは当たり前としても、浅学のわたしは「梨園叢書」を知らなかった。しかし近藤杢の『支那學藝大辭彙』(注3)を見ても藤村作の『日本文学大辭典』(注4)にあたってみても該当する項目は載っていなかった。桂湖村の『漢籍解題』(注5)にも出ていなかった。芳賀が適当な書題をいって本屋をからかっているとも思えないので、もしかしたら本来の題をつづめて言ったのかもしれないし、あるいは「梨園叢書」を「梨園」つまり演劇界に関する文を収めた叢書一般というほどの意味で言ったのかもしれない。

(注1)『芳賀矢一文集』613頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上
(注3)『支那學藝大辭彙』近藤杢編 立命館出版部 昭和20年6月5日再版
(注4)『日本文学大辭典』全7巻 藤村作編 新潮社 昭和12年2月25日
(注5)『漢籍解題』桂湖村 明治書院 明治39年2月7日再版