中華街の魅力って何なのだろう。異国趣味ということはもちろんなのだが、それならば川崎のセメント通りにあるコリアンタウンだって充分に異国趣味だ。規模の問題もあるだろう。現在の横浜中華街は随分と広い。韓国料理だって焼肉ばかりではない。中華料理が麺類だけでないのと同断だ。それでも中華料理のほうが人気がある。地理的な距離と心理的な距離は比例しないということらしい。中華料理がたとえば中国一級厨士の腕を宣伝するのにたいして、韓国料理は家庭料理の印象が強いことも関係あるのかもしれない。韓国にも豪勢な宮廷料理の伝統があるのだが。
さて実際に中華街を歩いてみるとわかるのだが、この街には本来の意味でのアウラが立ち込めている。このように書くと、まさに中華街そのものが『複製技術時代』の産物なのだからここにアウラなどあるはずがない、といって反論する向きも出てくるに違いない。しかし、そうだろうか。中華街は本場中国の街の『複製』なのだろうか。私はそうではないと思う。中華街はオリジナルでありけっしてどこかある場所の『複製』ではない。その証拠に中国本土や台湾に『中華街』は存在しない。
最近、食にかかわるテーマパークがいくつも作られている。ラーメン、カレー、餃子、お好み焼きから寿司まである、もちろん中華料理も。みなそれぞれに美味しいのだろうが、しかしこれらがテーマパークという形態に収斂されたとき、各店のオリジナリティは一気に霧散してしまう、言葉を換えていうならアウラが消えてしまう。だからテーマパークで食べた味はどうも今ひとつよろしくない、ということになる。食べ物の味というのはそれ単独で成り立っているわけではない。食べるときの雰囲気とかその他諸々の要素が絡まりあって醸成するアウラによって強く左右されるということがいいたいのだ。むかしむかし小学生のころ食べさせられたあの「給食」というやつに、良い印象を持っている人が少ないのもこれで説明できる。この前亡くなった帝国ホテルのムッシュ・村上が作った料理といえども、デコボコができたアルマイトの皿に盛り付けられ、脱脂粉乳とともに出されたら、おそらくそれを美味しいと感じることはできないと思う。
屋台のラーメン屋には、もちろん不味い店もあるけれども、美味い店が多いらしい。「らしい」と書いたのは、わたし自身が屋台店でラーメンを食べることがないから。じつは学校に通っていた頃、一度だけ屋台のラーメンを食べたことがある。まったく無駄な徹夜をして明かした朝、先輩に奢ってもらって食べたのだけれども、元来徹夜が大嫌いなわたしは、そのラーメンのスープに甘さと辛さ以外の何ものも感じなかった。以来屋台のラーメンが食べられなくなってしまった。
随分と前のことなのだが、城北地区でやくざと関係のある屋台のラーメン屋が、スープのダシを摂る寸胴鍋に野菜や昆布に混ぜて人間の手首を煮込んでいたことが発覚したとして大騒ぎになったことがある。わたしはこの事件を某A新聞で読んだ。やくざが揉め事かなにかで相手の手首を切断し、その処分を件のラーメン屋に依頼したということだったと記憶している。この屋台店のラーメンが地元では美味しいと評判だっただけに、話は盛り上がった。これなどアウラの影響を考えるのに絶好の材料だと思う。「手首ダシ」の話を聞いた後でもこのラーメンの味を文字通り客観的に評価できる人間が、はたして何人いたことか。
今「アウラの影響を考えるのに絶好の材料」と書いた。なぜ「絶好の材料」かというと、じつはこの話、嘘だったのだ。やくざがラーメン屋に手首の処分を依頼したこと自体はその通りだったらしいのだが、さすがに手首でダシを摂ったりなどはしなかった。考えてみれば当たり前のことで、そんなことをしたら味にうるさい客にはすぐばれてしまう。つまり「手首ダシ」の話は単なるうわさでしかなかった。単なるうわさによって味に対する評価が激変する、だから「アウラの影響を考えるのに絶好の材料」と書いた。
さて実際に中華街を歩いてみるとわかるのだが、この街には本来の意味でのアウラが立ち込めている。このように書くと、まさに中華街そのものが『複製技術時代』の産物なのだからここにアウラなどあるはずがない、といって反論する向きも出てくるに違いない。しかし、そうだろうか。中華街は本場中国の街の『複製』なのだろうか。私はそうではないと思う。中華街はオリジナルでありけっしてどこかある場所の『複製』ではない。その証拠に中国本土や台湾に『中華街』は存在しない。
最近、食にかかわるテーマパークがいくつも作られている。ラーメン、カレー、餃子、お好み焼きから寿司まである、もちろん中華料理も。みなそれぞれに美味しいのだろうが、しかしこれらがテーマパークという形態に収斂されたとき、各店のオリジナリティは一気に霧散してしまう、言葉を換えていうならアウラが消えてしまう。だからテーマパークで食べた味はどうも今ひとつよろしくない、ということになる。食べ物の味というのはそれ単独で成り立っているわけではない。食べるときの雰囲気とかその他諸々の要素が絡まりあって醸成するアウラによって強く左右されるということがいいたいのだ。むかしむかし小学生のころ食べさせられたあの「給食」というやつに、良い印象を持っている人が少ないのもこれで説明できる。この前亡くなった帝国ホテルのムッシュ・村上が作った料理といえども、デコボコができたアルマイトの皿に盛り付けられ、脱脂粉乳とともに出されたら、おそらくそれを美味しいと感じることはできないと思う。
屋台のラーメン屋には、もちろん不味い店もあるけれども、美味い店が多いらしい。「らしい」と書いたのは、わたし自身が屋台店でラーメンを食べることがないから。じつは学校に通っていた頃、一度だけ屋台のラーメンを食べたことがある。まったく無駄な徹夜をして明かした朝、先輩に奢ってもらって食べたのだけれども、元来徹夜が大嫌いなわたしは、そのラーメンのスープに甘さと辛さ以外の何ものも感じなかった。以来屋台のラーメンが食べられなくなってしまった。
随分と前のことなのだが、城北地区でやくざと関係のある屋台のラーメン屋が、スープのダシを摂る寸胴鍋に野菜や昆布に混ぜて人間の手首を煮込んでいたことが発覚したとして大騒ぎになったことがある。わたしはこの事件を某A新聞で読んだ。やくざが揉め事かなにかで相手の手首を切断し、その処分を件のラーメン屋に依頼したということだったと記憶している。この屋台店のラーメンが地元では美味しいと評判だっただけに、話は盛り上がった。これなどアウラの影響を考えるのに絶好の材料だと思う。「手首ダシ」の話を聞いた後でもこのラーメンの味を文字通り客観的に評価できる人間が、はたして何人いたことか。
今「アウラの影響を考えるのに絶好の材料」と書いた。なぜ「絶好の材料」かというと、じつはこの話、嘘だったのだ。やくざがラーメン屋に手首の処分を依頼したこと自体はその通りだったらしいのだが、さすがに手首でダシを摂ったりなどはしなかった。考えてみれば当たり前のことで、そんなことをしたら味にうるさい客にはすぐばれてしまう。つまり「手首ダシ」の話は単なるうわさでしかなかった。単なるうわさによって味に対する評価が激変する、だから「アウラの影響を考えるのに絶好の材料」と書いた。