蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

乗用車

2005年09月08日 09時33分57秒 | 彷徉
毎日生活しているといろいろな場面を目撃する。自宅やその周辺、公園あるいは繁華街、わたしの愛する神保町や西早稲田、本郷、あらゆる場所で見られる光景は一回限りのもので二度と同じものを見ることはない。だから考えてみればそれらの一つ一つはけっして疎かに眺めていてはいけない。なかにはとんでもないものもあるからだ。
その日、わたしは長年の友人Kの住んでいるマンションを訪れていた。偶さか仕事が暇な時期だったので、久方ぶりにKと他愛ない話がしたくなったのだ。彼の妻君は外出していたので、わたしが土産に持っていった安井屋の鳥皮焼(これは本当に美味しい)を肴にKと学校時代の昔話に興じたり、最近ではすっかり省みられなくなってしまったモンタギューの形式意味論におけるシンタックスとセマンティックスの同型性についての取り留めない話をしたりして過ごした。
時刻はまだ午後の二時ころだったと思う。Kが「今日は消火訓練があるんだよ、一緒にみてみるか」と言いだした。わたしもそろそろ外の空気が吸いたくなってきていたので、さっそく彼とマンション前の駐車場に降りることにした。一般的には消火訓練など午前中に実施するものだ。午後の二時からというのは、少なくともわたしの知る限りではそんな時刻に行ったことはない。しかしここはそういうところなのだろうと自分で納得することにした。駐車場には既にマンションの住人が五十名ほど出てきていて訓練の開始を待っていた。所轄の消防署からもはしご車が出動し雰囲気は徐々に盛り上がっている様子だった。やがて開始時刻となり係りの消防官が説明を始めたが、わたしはぼんやりとその光景を眺めながら、そろそろ帰りの時刻が気になりだしていた。夕食に遅れるといろいろと面倒なことがあったからだ。わたしは所在無く隣のマンションの玄関の方を見遣った。訓練はというと、いよいよクライマックスともいえるはしご車の出番となった。銀色に輝く金属製の梯子が十二階くらいの高さまで徐々に伸ばされ、訓練に参加した人々はKも含めてその有様を興味深げに眺めていて、地上で起こっている出来事にはいっさい気がついていない様子だった。
最初のうちは何の違和感もなかった。法事でも行われているのだろうと思っていた。喪服を着た人々が三々五々隣棟マンションの玄関前に集まってきて、黒いセダンも数台ほど横付けされていた。しかしKやそのほかの住民ははしご車の演習に眼がいっていて隣のマンションの玄関には見向きもしない。こちらで消火訓練の続くなか喪服の人々はやがてそれぞれセダンに乗り込み出発してゆく。車ははしご車の横を通りやがてわたしのすぐ傍を走りぬけ一般道へと出ていった。奇妙だと感じたのはそのときだった。わたしは車には滅法弱くてライトバンとワンボックスカーの違いさえ判らないのだが、それでもそれらの黒塗りセダンが普通の乗用車よりもひとまわりもふたまわりも小さいということに気がついた。あのように小さな車をわたしははじめて見た。どう考えてみても大人が何人も乗れるような大きさではなかったのだが、車内には運転手を含め無表情な喪服の人々が五人乗車しているのが確認できた。わたしはKの様子を窺がった。ところが彼もそしてそのほかの住人たちもそれらの車がまるで存在していないかのように、はしごの上で演習する消防隊員の仕草を眺めているだけだった。
ところで、このような小さな車の話を以前どこかで読んだことがある。松谷ふみ子の編集した本だったか、持っているはずなのだけれど探し出せなかったので詳しい出典が書けないが、そこにも同じように黒いセダンが出てくる。しかし場所は山道で車内には黒い服を着た小さな人間たち(いわゆる小人ではない)が乗っていたというものだ。

我愛欧羅巴影片(五)

2005年09月07日 03時09分07秒 | 昔の映画
むかしむかし学校でドイツ語初級の授業のとき、アーベントィアと聞いて何のことだか判らなかった。アバンチュールと聞けば恋愛事のイメージしか浮かばなかった。これらがラテン語の"advenio"を語源としていると知ったのはもっと後のことだった。"advenio"の意味は動詞"venio"「来る、生ずる、起こる、(ある状態に)陥る」に方向を表す前綴り"ad"が付いてできた合成語であり、ここから"advena"「異国の人、旅人」という言葉が出てくる。なるほどね、「恋の旅人」か、なかなかロマンチックじゃないか。などと当時のわたしは馬鹿みたいに感心したものだ。
今回はフランスSociété Nouvell de Cinématographie1967年製作の"Les Aventuriers"、邦題「冒険者たち」について。某サイトにこの作品をアメリカ映画であるとしてご丁寧に"The Last Adventure"などという下卑た英語題名まで紹介してくれていたが、これはあくまでフランス映画です。
ところで、この作品についてはもう語りつくされていて、この上いったい何を付け加えることができるのだろう。フランソワ・ド・ルーベの音楽や海上要塞の廃墟風景などの美しさにも多く言及されているけれども、その語られている内容を煎じ詰めれば要するに「三角関係」「マヌーとローランの友情」「レティシアへのプラトニックラブ」この三点に尽きるように思われる。べつに間違いだとはいわない。たしかにそうなのかも知れない。作品中で明示的に物語られていない限り、観客がどうのうように解釈しようとそれは自由だし、むしろそのようにいろいろな解釈がある物語ほど人をひきつけるものだから。しかし解釈があまりに似通ったものに集中してくると、これはちょっとつまらないのではないか。わたしはそう思う。
たとえば上記の三点についていうならば、一番目の「三角関係」、これにわたしは賛同しかねる。三角関係を「一人の男と二人の女、または一人の女と二人の男との間の複雑な恋愛関係」という意味に取る限り、これは主人公三人の関係には当てはまらない。この映画のどこを観てもレティシアとマヌー、レティシアとローランの「恋愛」関係は直接的にも間接的にも見て取ることがわたしにはできないからだ。もしも「恋愛」関係が成り立ったならばこの映画はその時点で破綻してしまう。
「マヌーとローランの友情」、先ほども書いたように間違いではない。でもこの二人の関係を単なる「友情」という言葉に還元してしまうと、とたんに作品全体が薄っぺらくなってしまう。ロベール・アンリコはハリウッド型冒険活劇を作ろうとしたわけではない。マヌーとローランの関係が同年輩同士の友情だけで繋がっているのでないことは、この二人の年齢差を見れば歴然としている。青年期を終わろうとしているマヌーと、老眼鏡をかけなければ計器類が見えなくなってきている中年男ローランの間には「友情」だけではない何かがる。かつて折口信夫は師弟関係は恋愛関係となってこそ本物なのだ、というようなことを言ったとどこかで読んだ記憶があるけれども、折口はもちろんこれを男色という意味で言っていることは確かだが、「恋愛」感情というのが異性間でしか成立しないという考え方のほうがむしろ特異なのであって、そもそも人間同士の関係は「友情」や「恋愛」に厳密に分類できるものなのだろうか。ことはそれほど単純ではないように思う。
そのように考えてくると「レティシアへのプラトニックラブ」というのもかなり紋切り型の解釈ではないか。この場合「プラトニックラブ」は性交を伴わない恋愛関係という意味で使われる。これはこの言葉本来の意味ではなのだが、たしかに「プラトニックラブ」というキーワードは便利だ。しかしそもそも「愛情」とは精神的な衝動なのでる。異性関係には性交のない「恋愛」感情もあれば、「恋愛」感情のない性交もある。現実には後者のほうが多いのではないか。
何回読んでも飽きない小説、何回観ても飽きない芝居や映画には必ず謎が仕込まれていて、この謎の部分が読むごとに、観るごとに変化してくる。物語の本当の楽しみはここにあるのだと思う。

遷居

2005年09月06日 03時10分38秒 | 彷徉
横浜橋商店街を伊勢佐木町通り側から抜けて、中村川にかかる横浜橋を渡って小さな商店街の途中あたりで左折して路地に入ると、まもなく急峻な坂道を登ることとなる。ここを登りきると平楽に出る。なにもそんなところを息せき切って上っていくこともないのだろうが、わたしはこの坂道がすきなので、というよりもその辺り一帯の家並みが好きなのでそのようなアホな真似をするわけだ。もちろん坂の途中には民家が密集して立ち並んでいる。雨ならまだ凌げるが、これが雪でも降った日にはとんでもない事になるのは目に見えている。降った直後ではない、その後のアイスバーン状態の坂道のことだ。などと人ごとのように書いているが、わたしもここと似たようなところに住んでいるので降雪時の難儀は実感としてわかる。
そんなこともあったりして(じつは他にも原因があったのだが)引っ越すことにした。引っ越すのは良いが、それではどこにするか。いろいろと迷った末、都内の大森あたりにしようかと思って物件を探してみたのだがどうも適当なものがない。目黒区の中根や大岡山も探してみた。やはり高い、がしかし中根には魅力を感じた。最寄駅が東横線の都立大学駅なのがよい。渋谷まで十分ほどか。そしてこの町には今井館があるから。
今井館は一九〇七年(明治四十年)に大阪の香料商今井樟太郎・信(のぶ)夫妻の寄付により東京新宿の柏木に建てられ、そこであの内村鑑三が聖書の講義を行った。一九三五年(昭和十年)に今井館は現所在地である目黒区中根町に移っているので、一九三〇年(昭和五年)に亡くなっている鑑三が中根で聖書講義を行ったわけではない。しかしこの建物は内村鑑三以外にもいろいろな有名人と繋がりがある。たとえば長谷川町子とか。もっともわたし自身はクリスチャンではないので宗教的な意味での興味はまったくない。あとは王貞治の自宅があったりもする。表札が出ていないのと、大きな家のわりにとても地味な創りなので、人に教えてもらわないと判らない。ちなみにこの中根の隣町、緑ヶ丘には南馬込に移る前の三島由紀夫とその家族が住んでいた。これはむかしむかしのことなので今ではもうどうでもよいことだが。
いろいろとすったもんだした結果、中根に引っ越すことに決めた。何十年かぶりで再び東京都民に戻ることとなった。そうかといって特別な感慨が沸いてくるわけでもない。今までよりも楽な生活環境、つまり雪の心配をすることのない土地に移れてほっとしたということくらいか。家族の者のほうがよほど歓んでいるがわたしにはどうでもよいことだ。何十年というスパンで自分の行末を考えることができない年齢になってしまうと、すべてが色褪せて見えてくる。大声を立てて笑ったりすることも他人と意気投合することも、無くなってしまった。

坑外写真集

2005年09月05日 06時41分50秒 | 彷徉
大型書店を覗いてみると必ず写真集のコーナーがある。風景写真集、動物写真集、ヌード写真集(いささか食傷気味)、入れ墨写真集それに死体写真集なんていうのもある。「表現の自由」が保証されているわが国のこととてほとんどなんでもありの世界だが、その中で最近は廃墟になったラブホテル、廃墟になった病院、廃墟になった鉱山まで出版される賑わいぶりだ。とくにこの鉱山廃墟の光景にはなんともいえない迫力がある。山の仕事は直接生命の危険にかかわる要素があるので、見る側としてもついつい思い入れしてしまうからだろうか。
ところで、わが国の炭鉱写真はどうもいけない。あの稀代の天才写真家土門拳による『筑豊のこどもたち』が頭にこびり付いて離れないのだ。この写真集の強烈な印象が炭鉱にたいする、あるいは鉱山業にたいするある種紋切型の先入観をわたしに植え付けてしまった。気の荒い作業員、貧しい住宅、いつ起こるともわからない坑内爆発、要すれば貧困と事故がそのすべててあるかのような、きわめて暗澹とした世界が鉱山労働者の日常なのだという先入観である。もちろんこれはおかしい。何事も暗があれば明もあるはずなのだ。あるはずなのだが、やはり日本の鉱山労働者はたとえばヨーロッパの鉱山労働者と比較すれば生活環境、労働条件などで一段と貧しいように思われる。
さて鉱山写真集というと、わたし気に入りの一冊がある。"Die Steinkohlenzechen"(注1)、直訳すると「石炭鉱山」というほどの意味。しかしこれには炭坑内の光景も労働者の住宅もでてこない。坑外施設の写真ばかりが収められている。炭鉱とは周知の通り石炭を採掘、加工する施設である。採掘は当然として、加工というのは実は石炭は掘り出しただけでは商品にはならない。水で洗ったり篩で越したりして品質を上げる必要がある。さらに石炭を原料とする加工製品、つまりコークスを製造する設備がある場合は当然ながらコークス製造工程で発生する一酸化炭素を回収する設備が必要となってくる。いまの日本ではLPGが主流だが、かつてはこの一酸化炭素が都市ガスとして利用されていた。
件の写真集なのだが、ルール、アーヘン、ニーダーザクセン各地の炭鉱施設が淡々と紹介されているだけの内容にもかかわらず、無機質な工場施設にリリシズムさえ感じてしまう。ルール地方ヘルツェンのRobert Müser炭鉱、手前に広がる畑地の遥か彼方に煙で霞む工場群を遠望するショットにはモノクロームならではの幻想的雰囲気が漂っている(注2)。またエッセン近郊ボットロプのProsper II.炭鉱の正門からの眺めは学校か教会へのエントランスを彷彿させるし(注3)。同じくエッセン近く、マールのBrassert I.炭鉱では荷役に馬が使われている場面が撮影されている(注4) 。この写真集は戦後の一九五九年に刊行されているので、ドイツにおいて遅くとも五十年代までは馬が機械化された炭鉱施設でも使用されていたことがわかる。
焼酎のコマーシャルで有名になった福岡の炭鉱にのこる立抗巻上塔は完全な廃墟だけれども、こちらの写真集は石炭産業がまだ華やかだった時代の活気もうかがわれて、リリカルでいて、しかもノスタルジックな当時の西ドイツ工業地帯の雰囲気を直接的に伝えてくれている。

(注1)"Die Steinkohlenzechen Ruhr・Aachen・Niedersachsen Das Gesichte der Übertageanlagen in der zweiten Häifte des Jahrhunderts" Fotos:Jos.Stoffels Text und Redakution:Wilhelm Hermann Industriedruck AG, Essen 1959
(注2) ibid. s.220
(注3) ibid. s.91
(注4) ibid. s.89