高円寺の都丸書店を覗いてみた。本店ではなくて中央線ガード下の支店のほう。随分以前ここの棚にバレリーのカイエがずらっと並んでいた。大判の洋書というのは迫力があるものだが、いつの間にか売れてしまった。もっともわたしはフランス語が解らないので多分購入することはなかったろう。この店は店内にも面白いものがあるけれども、店の外側に作り付けられた棚に並ぶ廉価本のなかにも掘り出し物が多い。とくに人文系洋書の廉価本コーナーとしては神田の崇文荘にも劣らぬ内容ではないだろうか。しかし廉価本ゆえその大半はコンディションがわるい。専門家が放出したものにはコメントや傍線の書き込みが多く、わたしでも購入するのをためらってしまう。
そんななかできれいな本があったので買ってしまった。フィレンツェのLa Nuova Italiaから刊行されたIl Pensiero Filosofico叢書の第十一巻、"Il Pensiero degli Idéologues Seienza e filosofia in Francia (1780-1815)"という仮綴本。八百五十ページほどの浩瀚なものだが、まだ一回も読まれていないことは明らかだった。なにしろ天や小口の部分が裁断されていないのだから。自慢ではないがわたしはイタリア語はまったくといってよいほど解らない。それでも買ってしまったのはいつかイタリア語を学んでこれを読むときもあるだろうという期待があるからだ。もっともそれがいつになるのかは見当さえつかないが。もう一つの理由は値段が恐ろしく安かったこと。500円という値札のうえに300円の値札が貼り付けられていた。概して英語以外の洋書のセコハンは安い。読む人間が少なくなかなか捌けないからだ。とくに西ヨーロッパ圏ではイタリア語やスペイン語はすランス語やドイツ語の書籍より安価であり、ロシア語なども冷遇されているようだ。これが北欧諸語となるともう二束三文。そりゃあそうだろう、デンマーク語やスウェーデン語、格が十幾つもあるフィンランド語の出版物を読める人間がこの日本にそう多く住んでいるとも思えない。
それにしてもこの仮綴本ってのはいいですねえ。ヨーロッパの伝統として本の装丁は購入者の側でおこなうので、あちらの古書は飾っておいて見栄えのするものが多い。家具や食器と同じように扱われている。だからサザビーなどで競りにかけられるレベルのものも出てくる。そしてそのような立派な装丁を施される前の仮綴状態の本に、わたしは生まれたばかりの赤子のような初々しさを感じてしまう。いま書いたように本の装丁を購入した者がおこなうということは、それができる経済的余裕のある人々のために本があったということで、この構図は現在でもあまり変わりはない。たとえばエコールノルマル・シューペリュー受験のための書籍購入費は半端ではないとどこかで読んだ記憶がある。要すればあちらでは本が高いのだ。だから公共図書館が充実している。
そうであればこそ、一九四〇年ボローニア生まれのフィレンツェ大学教授Sergio Moravia先生の力作がたった300円というのはちょっと可愛そうじゃないか。神保町のイタリア書房辺りで購入したならば、はたしていくら位になったことだろう。おそらく五千円以上はするはずだ。そういえばイタリア書房にも随分といっていない。自分の解さない言語の本を扱う店ということもあるのだけれど、靖国通からちょっと外れているというのも原因。とはいえ専大通をたかだか五十メートルほど入るだけなのだが。以前はスペイン語やイタリア語のセコハンも置いてあったが最近は新刊書ばかりなので棚を眺める面白さはない。丸の内のゲーテ書房同様自分の求めている本があって初めて役に立つ店になってしまった。
そんななかできれいな本があったので買ってしまった。フィレンツェのLa Nuova Italiaから刊行されたIl Pensiero Filosofico叢書の第十一巻、"Il Pensiero degli Idéologues Seienza e filosofia in Francia (1780-1815)"という仮綴本。八百五十ページほどの浩瀚なものだが、まだ一回も読まれていないことは明らかだった。なにしろ天や小口の部分が裁断されていないのだから。自慢ではないがわたしはイタリア語はまったくといってよいほど解らない。それでも買ってしまったのはいつかイタリア語を学んでこれを読むときもあるだろうという期待があるからだ。もっともそれがいつになるのかは見当さえつかないが。もう一つの理由は値段が恐ろしく安かったこと。500円という値札のうえに300円の値札が貼り付けられていた。概して英語以外の洋書のセコハンは安い。読む人間が少なくなかなか捌けないからだ。とくに西ヨーロッパ圏ではイタリア語やスペイン語はすランス語やドイツ語の書籍より安価であり、ロシア語なども冷遇されているようだ。これが北欧諸語となるともう二束三文。そりゃあそうだろう、デンマーク語やスウェーデン語、格が十幾つもあるフィンランド語の出版物を読める人間がこの日本にそう多く住んでいるとも思えない。
それにしてもこの仮綴本ってのはいいですねえ。ヨーロッパの伝統として本の装丁は購入者の側でおこなうので、あちらの古書は飾っておいて見栄えのするものが多い。家具や食器と同じように扱われている。だからサザビーなどで競りにかけられるレベルのものも出てくる。そしてそのような立派な装丁を施される前の仮綴状態の本に、わたしは生まれたばかりの赤子のような初々しさを感じてしまう。いま書いたように本の装丁を購入した者がおこなうということは、それができる経済的余裕のある人々のために本があったということで、この構図は現在でもあまり変わりはない。たとえばエコールノルマル・シューペリュー受験のための書籍購入費は半端ではないとどこかで読んだ記憶がある。要すればあちらでは本が高いのだ。だから公共図書館が充実している。
そうであればこそ、一九四〇年ボローニア生まれのフィレンツェ大学教授Sergio Moravia先生の力作がたった300円というのはちょっと可愛そうじゃないか。神保町のイタリア書房辺りで購入したならば、はたしていくら位になったことだろう。おそらく五千円以上はするはずだ。そういえばイタリア書房にも随分といっていない。自分の解さない言語の本を扱う店ということもあるのだけれど、靖国通からちょっと外れているというのも原因。とはいえ専大通をたかだか五十メートルほど入るだけなのだが。以前はスペイン語やイタリア語のセコハンも置いてあったが最近は新刊書ばかりなので棚を眺める面白さはない。丸の内のゲーテ書房同様自分の求めている本があって初めて役に立つ店になってしまった。