蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

芳賀留学日誌(三)

2005年09月09日 07時01分53秒 | 黎明記
芳賀矢一、夏目金之助、藤代禎輔、戸塚機知、稲垣乙丙の一行は明治三十三年九月十三日、上海に到着した。
「五時眼覚む 蓬窓より海面を覗へば濁浪瀰漫船は早く揚子河口にあるなりけり 九時前小蒸気ブレーメンにに搭じて大江の支流黄浦江に遡る 両岸の楊柳翠色滴るが如し 處々に支那流の楼門を見る 農家亦その間に点綴す 航行二時間十一時の頃上海に達す」(注1)。当時の船旅では日本から上海まで五日もかかったわけだ。今だったら飛行機で約三時間少々で行ける。さて当然ながら一行は上海でもあちらこちらと歩き回っている。投宿したのは鉄馬路にあった東和洋行という日本旅館だった。日本旅館といっても設備は洋風ホテルなみだが、食事に日本食が供されるところに「日本旅館」たる所以がある、と芳賀は書いている。夜の九時頃になって芳賀たちは街の散策に出かけた。
「南京路を歩し左折して四馬路にいたる 同路は夜店のあるところにして戯場、寄席、酒楼等櫛比し京都京極通の趣あり 一酒楼に芸妓の盛粧して客を待つを見る 又轎に乗りて街上を往復するもの多し 轎は二人にて之を肩舁し一人提灯を持ちて前に立つ 提灯の大さ吉原遊廓の古図を見るが如し 一書肆に就きて試に梨園叢書の有無を問ふに無しといふ」(注2)。それにしても時代を感じてしまう。四馬路の賑わいを「京都京極通」に比較している、つまり当時の東京には上海に比肩しうる繁華街がまだなかったということか。また「吉原遊廓の古図」といわれても今日では好事家以外にはぴんとこないに違いない。勝手に想像するのだけれども、芳賀自身吉原遊郭に偶さか通っていたのではないか。しかしあからさまに書くことを差し控え「古図」としたのだと思う。芳賀はこの日記が将来公表されることを明らかに意識して書いているからだ。
ここでわたしが気になったのが「一書肆に就きて試に梨園叢書の有無を問ふに無しといふ」の一文。「梨園叢書」ってなんだ。もちろん「梨園」がナシ畑に関係するものでないのは当たり前としても、浅学のわたしは「梨園叢書」を知らなかった。しかし近藤杢の『支那學藝大辭彙』(注3)を見ても藤村作の『日本文学大辭典』(注4)にあたってみても該当する項目は載っていなかった。桂湖村の『漢籍解題』(注5)にも出ていなかった。芳賀が適当な書題をいって本屋をからかっているとも思えないので、もしかしたら本来の題をつづめて言ったのかもしれないし、あるいは「梨園叢書」を「梨園」つまり演劇界に関する文を収めた叢書一般というほどの意味で言ったのかもしれない。

(注1)『芳賀矢一文集』613頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上
(注3)『支那學藝大辭彙』近藤杢編 立命館出版部 昭和20年6月5日再版
(注4)『日本文学大辭典』全7巻 藤村作編 新潮社 昭和12年2月25日
(注5)『漢籍解題』桂湖村 明治書院 明治39年2月7日再版

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