むかしむかし学校に通っていた頃、東販(東京出版販売、現在のトーハン)でアルバイトをしていたことがある。部署は確か注文管理課と記憶している。朝の9時から夜の8時まで。各書店に配送する書籍を仕分けする仕事だった。
上の階から地域ごとに仕分けされた書籍が樹脂製のバケットに入れられてベルトコンベア―で流れてくると、東販の正職員がさらに細かく仕分けする。それをわたしたちアルバイトが受け取って、各書店のロッカーに運んでいくといった、きわめて単純にして、かつ疲れる仕事だった。ロッカーの大きさはだいたい書店の規模に比例していて、大きな書店ほどロッカーのスペースを広く取ってあった。なかにはアメリカの大学だったか議会だったかの図書館用のロッカーもあり、そこにははじめて見る国語学や国文学の浩瀚な書籍が何冊も収まっていた。
繁忙時にはアルバイトの他に臨時雇労働者が投入されていた。彼らは皆中高年の男たちで、宿舎で集団生活をしながら働いているようだった。昼時近くになると班長がアルバイト一人ひとりにの食券を配る。わたしは社員食堂のけっして美味しいとはいえない昼食を(食べるのではなく)掻きこむと、仕分場に戻って商売ものの本、たとえば笠間しろうのエロ漫画を捲っているか、さもなければ屋上に出て東五軒町の景色をぼんやりと眺めたりしていた。
集まったアルバイトはやはり学生が多かったが、中にはなんだか訳のわからない人間も混じっていて、話してみるとごく普通の人なのだが、顔には刃物による大きな切り傷があり、ダボシャツに毛糸の腹巻姿で出勤する競艇大好きといった年齢不詳の人物や、朝の作業前に朝食代わりの硬そうなパンを洗面所の水道水で流し込んでいる二人組みとか、とにかくしょぼくれた連中がかなり混じっていたように思う。学生たちはこのとんでもなく過酷な労働現場にすぐ見切りをつけ、最短契約期間の二週間が過ぎるとさっさと辞めていってしまった。八時かあるいは残業などあると九時になってしまうが、とにかく作業が終了すると地下のロッカー室で着替えるのだが、作業用の運動靴を脱ぐとその悪臭に眩暈がした。正職員たちはシャワーを浴びていたが、わたしたちはそれができず作業用の服から普段着に着替え、靴も通勤用のものに替ただけで帰宅していた。毎週月曜日の朝、業務開始前の職場には東販の社歌がいつも勇ましく流れていた。「東販、東販、文化のまもり」というフレーズが今でも耳にこびり付いている。
どこの職場でもそうなのだけれども気の合わない人間は必ずいるもので、この職場でのそれはアルバイト仲間だったり、あるいは正職員のひとりだったりした。不愉快なアルバイト仲間とは、たとえば正職員にしか支給されない軍手をどうしたわけかそいつも着けていて、あたかも正職員であるかのように振舞う奴。わたしはナチス強制収容所のカポを連想した。正職員の中にも陰険なやつがいて、名前をGといったが、元来不器用なわたしが本の函詰めに手間取っていると、「なにやってるんだ、そんなんじゃあ百年経っても終らねえぞ」といってせきたてた。わたしと同年輩くらいだったと思う。その態度からはわたしにたいする侮蔑とも憎悪とも、あるいは嫉妬ともとれるブルーカラーの屈折した感情が伝わってきた。
わたしは当時から本好きだったが、さすがにこのアルバイトをしている間は書店に入る気がまったく失せてしまった。「東販、東販、文化のまもり」だと。馬鹿をいってはいけない。文化をまもっているのは他でもない、低賃金重労働に従事させられている使い捨て労働者なのだ。
このときに稼いだ金を何に使ったか。たいした金額ではなかったが、白水社の『キェルケゴール著作集』と『ショーペンハウエル全集』を購入したことだけは憶えている。
上の階から地域ごとに仕分けされた書籍が樹脂製のバケットに入れられてベルトコンベア―で流れてくると、東販の正職員がさらに細かく仕分けする。それをわたしたちアルバイトが受け取って、各書店のロッカーに運んでいくといった、きわめて単純にして、かつ疲れる仕事だった。ロッカーの大きさはだいたい書店の規模に比例していて、大きな書店ほどロッカーのスペースを広く取ってあった。なかにはアメリカの大学だったか議会だったかの図書館用のロッカーもあり、そこにははじめて見る国語学や国文学の浩瀚な書籍が何冊も収まっていた。
繁忙時にはアルバイトの他に臨時雇労働者が投入されていた。彼らは皆中高年の男たちで、宿舎で集団生活をしながら働いているようだった。昼時近くになると班長がアルバイト一人ひとりにの食券を配る。わたしは社員食堂のけっして美味しいとはいえない昼食を(食べるのではなく)掻きこむと、仕分場に戻って商売ものの本、たとえば笠間しろうのエロ漫画を捲っているか、さもなければ屋上に出て東五軒町の景色をぼんやりと眺めたりしていた。
集まったアルバイトはやはり学生が多かったが、中にはなんだか訳のわからない人間も混じっていて、話してみるとごく普通の人なのだが、顔には刃物による大きな切り傷があり、ダボシャツに毛糸の腹巻姿で出勤する競艇大好きといった年齢不詳の人物や、朝の作業前に朝食代わりの硬そうなパンを洗面所の水道水で流し込んでいる二人組みとか、とにかくしょぼくれた連中がかなり混じっていたように思う。学生たちはこのとんでもなく過酷な労働現場にすぐ見切りをつけ、最短契約期間の二週間が過ぎるとさっさと辞めていってしまった。八時かあるいは残業などあると九時になってしまうが、とにかく作業が終了すると地下のロッカー室で着替えるのだが、作業用の運動靴を脱ぐとその悪臭に眩暈がした。正職員たちはシャワーを浴びていたが、わたしたちはそれができず作業用の服から普段着に着替え、靴も通勤用のものに替ただけで帰宅していた。毎週月曜日の朝、業務開始前の職場には東販の社歌がいつも勇ましく流れていた。「東販、東販、文化のまもり」というフレーズが今でも耳にこびり付いている。
どこの職場でもそうなのだけれども気の合わない人間は必ずいるもので、この職場でのそれはアルバイト仲間だったり、あるいは正職員のひとりだったりした。不愉快なアルバイト仲間とは、たとえば正職員にしか支給されない軍手をどうしたわけかそいつも着けていて、あたかも正職員であるかのように振舞う奴。わたしはナチス強制収容所のカポを連想した。正職員の中にも陰険なやつがいて、名前をGといったが、元来不器用なわたしが本の函詰めに手間取っていると、「なにやってるんだ、そんなんじゃあ百年経っても終らねえぞ」といってせきたてた。わたしと同年輩くらいだったと思う。その態度からはわたしにたいする侮蔑とも憎悪とも、あるいは嫉妬ともとれるブルーカラーの屈折した感情が伝わってきた。
わたしは当時から本好きだったが、さすがにこのアルバイトをしている間は書店に入る気がまったく失せてしまった。「東販、東販、文化のまもり」だと。馬鹿をいってはいけない。文化をまもっているのは他でもない、低賃金重労働に従事させられている使い捨て労働者なのだ。
このときに稼いだ金を何に使ったか。たいした金額ではなかったが、白水社の『キェルケゴール著作集』と『ショーペンハウエル全集』を購入したことだけは憶えている。