閉ざされた集団の中では、ときに信じられないことが起こる。部外者の目には滑稽とも奇怪とも見える行為がその集団内では真顔で実行されたりする。遡れば連合赤軍リンチ事件があるし最近ではカルト教団のテロルや、もっと身近なところでは学校のいわゆる「いじめ」など、まあ例に事欠くことはない。ところでわたしはあの「いじめ」という言い方が大嫌いだ。アホな新聞雑誌、テレビのニュース番組などで気安く使われるようになったのはいつ頃からか記憶にないが、「いじめ」という通常は子供の世界の言葉を安易に使用することで行為自体の野蛮性、卑劣性、陰湿性が隠蔽されてしてしまうからだ。
閉ざされた世界を描いた、文学史に残る名作の一つがトーマス・マンの『魔の山』。この作品には当然ながらいくつかの山場があって、例えば「ヴァルプルギスの夜」などが有名だが、わたしの好きな、というより引き付けられる山場は終盤の"Die groß Gereiztheit"「苛立ち状態」と名づけられた章。岩波文庫版ではこれを「ヒステリー蔓延」としているけれども、意訳が過ぎるのではないか。まあそれはそれとして、この章であのイエズス会士になり損ねたレオ・ナフタが人文主義者ゼッテムブリーニとの決闘で死んでしまう。いやそれは形式こそ決闘だったが、まったく決闘の体をなしてなどいなかった。ゼッテムブリーニは銃を明後日の方向に発射し、ナフタは自らの頭部に銃口を向けて引き金を引いたのだから。
事の起こりはハンス・カストルプにたいしてナフタが彼一流の理性主義、啓蒙主義批判を吹き込むのに我慢できなくなったゼッテムブリーニが、ナフタにたいして"Infamie"という言葉を吐いたことによる。原文では"Einer solchen Aufforderung, mein Herr, bedarf es nicht. Ich bin gewohnt, nach meinen Worten zu sehen, und mein Wort wird präzis den Tatsachen gerecht, wenn ich ausspreche, daß Ihre Art, die ohnehin schwanke Jugend geistig zu verstören, zu verführen und sittlich zu entkräften, eine Infamie und mit Worten nicht strenge genug zu züchtigen ist..."(注1)「そのような要求は、あなた、必要ありません。私は自分の言葉を評価するのに慣れています。そしてもし私が次のように言うならばその言葉は事実にまさしくかなっています。つまり、あなたの手段それはそうでなくとも心の不安定な青年を精神的に混乱させたり、誘惑したり、倫理的に衰弱させたりもするのだが、そのような手段が下劣"Infamie"(原文ではイタリック体)なものであり、言葉をもってしては充分に厳しく懲らしめることができない、と言うとき...」となっている。
"Infamie"はラテン語の女性名詞"infamia"が起源の言葉だが、イタリア人であるゼッテムブリーニの発言ということでマンはイタリア語の女性名詞"infàmia"も念頭に置いてこの女性名詞"Infamie"を用いたのに違いない。そしてカトリックでは"Infamie"は「名誉剥奪」という意味もあることに注意する必要がある。イエズス会士になれなかったナフタにしてみれば神経を逆撫でされる気分だったのだろう。そのことが彼を怒らせ物語は一気に決闘へと展開していくわけだが、この部分をどう読んでもナフタが"Infamie"に過剰反応しているとしか、わたしには思えない。
おそらくナフタにとって言葉などどうでもよかったのではないか。ただすべてをご破算にするきっかけが欲しかっただけなのではないか。決闘の場面を読むたびに、わたしはいつも重苦しい気分になってしまう。
(注1)"Der Zauberberg"s.736 Thomas Mann Fischer Tschenbuch Verlag 1982.4
閉ざされた世界を描いた、文学史に残る名作の一つがトーマス・マンの『魔の山』。この作品には当然ながらいくつかの山場があって、例えば「ヴァルプルギスの夜」などが有名だが、わたしの好きな、というより引き付けられる山場は終盤の"Die groß Gereiztheit"「苛立ち状態」と名づけられた章。岩波文庫版ではこれを「ヒステリー蔓延」としているけれども、意訳が過ぎるのではないか。まあそれはそれとして、この章であのイエズス会士になり損ねたレオ・ナフタが人文主義者ゼッテムブリーニとの決闘で死んでしまう。いやそれは形式こそ決闘だったが、まったく決闘の体をなしてなどいなかった。ゼッテムブリーニは銃を明後日の方向に発射し、ナフタは自らの頭部に銃口を向けて引き金を引いたのだから。
事の起こりはハンス・カストルプにたいしてナフタが彼一流の理性主義、啓蒙主義批判を吹き込むのに我慢できなくなったゼッテムブリーニが、ナフタにたいして"Infamie"という言葉を吐いたことによる。原文では"Einer solchen Aufforderung, mein Herr, bedarf es nicht. Ich bin gewohnt, nach meinen Worten zu sehen, und mein Wort wird präzis den Tatsachen gerecht, wenn ich ausspreche, daß Ihre Art, die ohnehin schwanke Jugend geistig zu verstören, zu verführen und sittlich zu entkräften, eine Infamie und mit Worten nicht strenge genug zu züchtigen ist..."(注1)「そのような要求は、あなた、必要ありません。私は自分の言葉を評価するのに慣れています。そしてもし私が次のように言うならばその言葉は事実にまさしくかなっています。つまり、あなたの手段それはそうでなくとも心の不安定な青年を精神的に混乱させたり、誘惑したり、倫理的に衰弱させたりもするのだが、そのような手段が下劣"Infamie"(原文ではイタリック体)なものであり、言葉をもってしては充分に厳しく懲らしめることができない、と言うとき...」となっている。
"Infamie"はラテン語の女性名詞"infamia"が起源の言葉だが、イタリア人であるゼッテムブリーニの発言ということでマンはイタリア語の女性名詞"infàmia"も念頭に置いてこの女性名詞"Infamie"を用いたのに違いない。そしてカトリックでは"Infamie"は「名誉剥奪」という意味もあることに注意する必要がある。イエズス会士になれなかったナフタにしてみれば神経を逆撫でされる気分だったのだろう。そのことが彼を怒らせ物語は一気に決闘へと展開していくわけだが、この部分をどう読んでもナフタが"Infamie"に過剰反応しているとしか、わたしには思えない。
おそらくナフタにとって言葉などどうでもよかったのではないか。ただすべてをご破算にするきっかけが欲しかっただけなのではないか。決闘の場面を読むたびに、わたしはいつも重苦しい気分になってしまう。
(注1)"Der Zauberberg"s.736 Thomas Mann Fischer Tschenbuch Verlag 1982.4