蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

正法眼蔵啓廸

2005年09月24日 07時08分02秒 | 古書
「汗牛充棟」の回で「古書というのは不思議なもので、自分を買う客を選ぶことがある。まるでむかしの吉原の花魁みたようなのだ。たとえばこちらが気になっていた本が突然店頭から消えてしまうことがある。ついに誰かに買われてしまったのかと諦めていると、或る日突然棚に並んでいたりする」と書いた。
『正法眼蔵啓廸』という本がある。仏教それも禅宗について興味のない向きはおそらく聞いたことも見たこともない本だと思う。『正法眼蔵』はもちろん鎌倉仏教の大物の一人、道元禅師の著した本邦初の和文で書かれた仏教書として夙に有名で、国文学においても研究対象となっているけれども、じつはこの本かなり難解で、どれほど難解かは「回憶正法眼蔵」の回でちょっとふれているのでそちらを参照して下さい。ま、難解ということは裏を返せばそれだけ各人各様の読み方が可能なわけで、たとえばヘーゲルがいまだに人気があるのもそのためなのだが、といって一見解り易いようでいてじつは難解なものもある。プラトンなどはその代表格。
で、この『正法眼蔵』にはむかしからいろいろな注解書が書かれている。『道元禅師研究の手引』には、経豪の『正法眼蔵抄』、俗に面山端方の説示の記録とされている『正法眼蔵聞解』、父幼老卵『正法眼蔵那一寶』をはじめとして四十四種余りの注解書が挙げられているが、現在までの出版物を考慮すればもちろんこれですべてではない。西有穆山の『正法眼蔵啓廸』もこの中で取り上げられている注解書の一冊で「眼蔵の注釈書と言ふものは、眼蔵と自分との距離を縮めてくれるもの、眼蔵に到達する梯子の如きものであるが、多くの注釈書がこの役目を果たしてゐない。然るに穆山の啓廸はこの点に於いて諸注釈に傑出してゐる。」「この啓廸によりて眼蔵を参究すれば自ら通入親近の一線路が開けてくることを疑はない」(注1)とえらく評価されている。しかし『正法眼蔵啓廸』に書かれていることすべてが首肯されるわけではない。中には間違った解釈だってみられるからだ。そうはいうものの、やはり一級の注解書であることに変わりはないが。
わたしは以前からこの『正法眼蔵啓廸』が欲しかった。現在大法輪閣からオンデマンドで全三巻が出ているがこれは分売不可で定価が税込みに二万八千百四十円と、これでは手軽に手が出せない。そこで気長に探していたら東京古書会館の即売展で下巻が安く出ていたので購入した。これはかなり幸先がよいと思った。一概に複数巻で構成される出版物は後になるほど入手しにくい。つまり第一巻より第十巻、上巻より下巻のほうが古書としては入手しにくいのだ。というのもだいたい第一巻や上巻、つまり最初に出すものは宣伝も兼ねて比較的多くの部数を刷り、売れ方に応じて後々の巻の発行部数を調整する。だから後のほうの巻は古書市場に出回る部数も少なくなる。ここで『正法眼蔵啓廸』下巻から手に入れることができたので、中巻、上巻も近いうちに必ず見つかるだろうとわたしは確信した。それからしばらくたって東陽堂の店先の廉価本コーナーに中巻が千円で出ていたので、これも迷うことなく買った。ところが上巻がなかなか現れてこない。古書展にも出てこないし、廉価本コーナーにも並ばない。そうこうするうちにこれも東京古書会館の古書展だったが、旧版の『正法眼蔵啓廸』全二巻が出たのでこれを購入した。大法輪閣版を揃えるのをほとんど諦めかけていたところが、先週あまり期待もせずに巖松堂書店二階の仏教書コーナーを覗いてみたら上巻が千三百円で並んでいた。
古書というものは絶対手に入れるという強い意志をもって探すとかならずその本はみつかるものだが、今回はわたしの意思が萎えかけているのを不憫におもったのか、本のほうで姿を現してくれた。と勝手に思っている。

(注1)『道元禅師研究の手引』155頁 永久岳水 山喜房佛書林 昭和15年10月25日第三版

最新の画像もっと見る