蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

智利房屋

2005年09月27日 03時43分13秒 | たてもの
硝酸カリュームは火薬原料でもあり、また窒素肥料の原料としても使用されるものでその需要はきわめて高いのだが、天然にはごく限られた地域でしか産出されない。しかし一九〇六年ハーバー・ボッシュ法が開発され、窒素と水素からアンモニアを直接合成できるようになり、硫酸アンモニウムや尿素など合成窒素肥料の工業的な大量生産が可能となった。ということは、つまり一九〇六年以前は硝酸カリュームは須らく天然物に頼っていた。さてそれではこの貴重な硝酸カリュームつまり硝石をどこで採っていたかというと、南米はチリ北部のアタカマ砂漠。
このチリ硝石の輸入と加工で大儲けしたのがハンブルクの商人ヘンリー・ブラレンス・スローマンという人物だった。一九二一年に、不動産業に関しては素人同然だったスローマンは当時の六千万マルクを投じてハンブルク旧市街のオフィス地区、ブッチャードプラッツとメスベルクの間つまりフィシャー・トヴィーテ(漁師小路)の両側の土地を購入した。そしてここに建築するビルの設計者についてコンペを行った結果、フィシャー・トヴィーテをまたがったひとつの建物という革新的なプランで選ばれたのが、当時四十四歳の気鋭建築家であったヨハン・フリードリッヒ・ヘーガー(フリッツ・ヘーガー)だった。設計段階で何度も変更を重ねた結果、一九二二年から一九二四4年の二年間でヘーガーはこの十階建てのオフィスビルを完成させたが、現在でも人目を引く奇抜なデザインは、当時においてはなおさらその実現に色々な障害があったようで、例えばあの有名な南側ファサードのS字湾曲に難色を示した市建設局にたいしては、当時Oberbaudirektorの職にあったフリードリッヒ・ヴィルヘルム・シューマッハ(フリッツ・シューマッハ)の尽力により特別許可を取ることができたのである。
スローマンのチリ硝石商売に由来してこの商館建築につけられた「チリ・ハウス」の名称からは、今日その圧倒的なマッシブにかかわらずレストランかバーのような軽い印象を受ける。ハンブルクのハウプトバーンホフの約1キロほど南、現在の最寄り駅はUバーンのU1駅。戦艦を髣髴させるこの北ドイツ表現主義建築を代表する建物の威容は今も変わることなく(とはちょっと言いにくいのだが、とにかく)、ここを訪れる観光客を魅了して止まない。
建築家ヨハン・フリードリッヒ・ヘーガーは一八七七年六月十二日ハンブルク西北の街Bekenreihein Elmschornに、家具職人の親方にして大工の息子として生まれました。一八七七年は日本では明治十年、西南戦争で南洲西郷隆盛が城山で自刃した年にあたる。ところでヴォルフガング・ペーント著『表現主義の建築』の邦訳版では「ホルシュタイン州の小作農家に生まれた」とある。いったいどちらが正しいのか、あるいは彼の父親は小作農にしてマイスターだったのか。どうもこのあたりはよく判らない。仮に小作農であったとしたなら、大切な労働力を徒弟修業に出すだろうか。というのもヘーガーは十四歳でエルムショルンの大工に弟子入りし、さらに鍛冶の仕事と家具製作を学んでいるからだ。その後二十歳でハンブルクの建築学校に入学しマイスター試験を受けた後一八九九年、つまり二十二歳から二年間兵役についてる。除隊後の一九〇一年から一九〇五年までハンブルクの建築事務所Lundt & Kallmorgenに入り技術製図工として本格的に建築を学びはじめるが、この事務所での仕事を後年彼は「とても不毛だった」と語っている。すべてのスタイルにおいて見本帳から下絵を起こすようなLundt & Kallmorgenのやりかたは、ヘーガーの才能からは退屈極まりないものであったことは容易に想像できる。
一九〇七年、念願かなって自分の事務所をハンブルクのニーマンスハウスに持つことができたが、第一次世界大戦の勃発で一九一四年から一九一八年までフランドルで軍務に就き、ドイツの敗戦で復員したのはよいけれど戦前のような繁盛を回復するのは大変難しかった。そのような彼の一発逆転の契機となったのがこのチリ・ハウスで、ヘーガーはこれにより職業的逼塞状況を突破したというわけだ。
一九三三年以降のヘーガーの評価は、ナチズムとのかかわりという視点からいろいろ論じられている。しかし彼は建築にたいする美意識をヒトラーと共有することはなかったので、一九三二以来のナチ党員である彼がラジオ演説で「全ての外国人とドイツの血族でない者は帝国から追放しろ」と発言したり、あるいはその他過激な発言をしても、宣伝相ゲッベルスは彼の作品を「ソヴィエト的」だと指摘し、結局ヘーガーは望んでいた国家建築家の称号を得ることができなかった。
一九四五年以降は破壊された都市の再建計画に専念しつつも、過去の栄光が戻ることもなく、一九四九年六月二十一日リューベックの西、バッド・ゼーゲベルクで亡くなった。享年72。

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