たわいもない話

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

天の浮橋 (Ⅰー3)

2023年09月11日 10時13分43秒 | 天の浮橋

 


カランコロン、カランコロン、静かな青石畳通りの敷石を、リズムでも奏でるようにわざとらしく弾く下駄の音が近づいて清左衛門の着物の裾を揺らした。 


「お父さま、お母さまが朝餉の準備ができましたよって」


清左衛門が振り向くと、六歳になる舞が、フランス人形のような大きな瞳を輝かせ、頬を赤く染めた二歳になったばかりの雛と手をつないですがりついてきた。 


清左衛門は雛の手を取って両脇を抱えると”たかいたかい、たかいたかい”をするような仕草で肩にのせ、小さく柔らかな足首を淡雪でも包み込むように優しく支えた。


そして、舞の清左衛門の腰のあたりまでしかない体を、着物の裾に包む込むようにして明るくなっていく美保湾を眺めた。


天使のように無邪気にはしゃぐ雛の爽やかな重さを肩にか感じながら、清左衛門は銀線ような光が降り注ぎ、魚鱗のように輝く沖合に目をやり幸福感に慕った。 


そんな清左衛門の姿を見つめる辰吉の目に涙が浮かんでいた。


「旦那さま、そろそろ店に帰りましょうか?」


清左衛門は辰吉に促されると、一瞬の夢から覚めたかのような顔をして、雛を肩車し、左右に揺らしながら歩き出した。


町の商店が軒を連ねる青石畳通りまで帰ってきたとき、清左衛門の下駄の歯が敷石の割れ目に挟まり、プッと鼻緒が切れた。


 


清左衛門はバランスを失い、雛を肩車したまま敷石にもんどりうって倒れそうになった。


 


「危ない!」


清左衛門が前のめりになって倒れそうになったわずかな隙間に、辰吉は仰向けになりながら咄嗟に身を投げ出した。


間一髪、清左衛門は雛を支えたまま、辰吉の体の上におおいかぶさるように倒れ込んだ。


「旦那さま、旦那さま、お怪我は、お怪我はありませんか。お嬢さまは」


辰吉は清左衛門と雛の下敷きのなりながらも、わずかに首をもたげ呻くように叫んだ。


舞も咄嗟の出来事に放心状態になって、その場にしゃがみ込んでしまった。


「お父さま、お父さま、雛、雛、だいじょうぶ、だいじょうぶ!」


舞は、泣きじゃくりながら震える声で叫んだ。


清左衛門が雛を支えながら立ち上がると、辰吉も着物の裾を払いながら立ち上がり、清左衛門の手から雛を受け取った。


辰吉に抱かれた雛は、あまりの出来事に声を出すこともできず体をこわばらせ震えていたが、幸いどこにも怪我は負ってはいなかった。


「辰吉、ありがとう。お前がいなかったら雛に大怪我を負わせるところだった」


「旦那さま、雛お嬢さまも、怪我がなくて本当に幸いでした」


辰吉の言葉に清左衛門は、息を整えながら静かにうなずいた。


清左衛門は着物の土を払い、この事は店の者は無論のこと妻の糸にも話さないようにと固く口止めをした。


 


 

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天の浮橋 (Ⅰー2)

2023年02月01日 10時27分05秒 | 天の浮橋

 そんな関の港の早朝の波止場に、廻船問屋を営む、坂江屋の主人 清左衛門と番頭の辰吉が立って穏やかな美保湾の沖合を眺めていた。


あたりがしだいに白み始めてくると、沖合は靄に覆われ、漁をする舟の漁火がかすかに見え隠れしている。


夜明けと共に輝きを失った月と、港に係留された船が墨絵のように海に浮かんで見える。


東の空が、柔らかなオレンジ色から銀色に変わり始めると、海にかかっていた靄はしだい晴れて、あたりは急に明るくなり霊峰大山が顔をのぞかせた。


太陽は眩しい光を放ち、空には雲ひとつない小春日和。


沖合から吹きつける風が、清左衛門の細身で華奢な体を小刻みに震わせた。


「旦那様、冬も近くなり風が冷たくなってまいりましたなぁ」


辰吉の言葉に、清左衛門は腕組みした両腕で身体を擦りながら頷いた。


「そうだなぁ、もうすぐに霜月になる。美保丸は、今、どのあたりを航行しているか知らせは入らぬか?」


清左衛門は沖合をみつめながら言った。


「蝦夷を長月の初めに発って、越後、加賀、若狭、の国々で荷積み済ませ、但馬の国を、三、四日前に出港するとの知らせがございました。今頃は因幡国の沖合を航行しているものと思います」


「そうか。それでは今日、遅くとも明日の朝の内には帰ってこような」


さも、待ち遠しそうに頷いた。


清左衛門の父親の彦左衛門は、背丈は低かったが、骨太で頑健な躯体の浪花節堅気で人情に厚い当主であったが、清左衛門が三十路を過ぎたばかりの頃、急な病に倒れたために、当主の座を清左衛門に譲り、隠居の身となって療養に努めていた。


しかし、彦左衛門の病は療養の甲斐もなく、平癒するどころかさらに悪化していった。


死を悟った彦左衛門は、辰吉を枕元に呼び寄せて、清左衛門の後見役と店の将来を辰吉にして託して静かに浄土へと旅立って行った。


辰吉の父親の辰蔵は、この界隈では名の知れた漁師だったが、一人息子の辰吉が七歳のとき、節句に揚げる鯉のぼりを買う金を稼ごうと、荒海に舟を漕ぎだして時化に遭い、行方不明になってしまった。


あとに残された母親の峰は、消息の分からなくなった辰蔵の身を案じる日々が続くうちに、心労や疲労も重なり辰蔵の後を追うように亡くなってしまった。


子供のなかった彦左衛門は、身寄りもなく、独りになってしまった辰吉を引き取り、我が子のように大切に育てた。


それから数年たって清左衛門が生まれたが、彦左衛門は辰吉と清左衛門を差別することなく、歳の離れた兄弟のように、読み書き算盤から礼儀作法まで、分け隔てすることなくたたき込み、大店、坂江屋の大番頭が任せられる器にまでに育てたのだった。


 

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天の浮橋 (Ⅰー1)

2022年12月03日 11時05分53秒 | 天の浮橋

天  の  浮  橋


 


白 雲 善 恕 


日本海をさえぎるように延びる島根半島は、岬と湾が交互に鋸歯する荒々しい岩肌が続く半島で、岬の尖端には鳥居が建てられ遙配所も設けられている。


鳥居の正面に立って海を眺めると、遥か彼方には沖之御前と呼ばれる島が望め、眼下の深く落ち込んだ断崖の先には地之御前と呼ばれる島が浮かんでいる。


この二つの島には事代主神が鎮座され、古くから神の宿る島として地元の人々から崇拝され崇められてきた。


古のころ、この岬の断崖の岩場に海運業や漁業を生業とする人の手によって、七体のお地蔵さんが祀られ、航海の安全や大漁を祈願したことから、いつしかこの岬を人々は地蔵御崎と呼ぶようになった。


また、この半島のふところに抱かれるように広がる、穏やかな内海は美保湾と呼ばれ、その一角にある袋状の天然の入江に、関の港は開かれ、時化の日本海を航行する船舶や漁船の避難場所として重要な役割を担っている。


港から望む対岸には、美保湾から中海に通じる境水道を挟んで、弓ヶ浜半島の白い砂浜と松林が弧を描くように延び、霊峰大山の麓へと流れるように続いている。


うららかな小春日和ともなれば、深い藍色に染まる美保湾と、大山山麓のモミジ、カエデ、ナナカマド、ブナなどに彩られた、色彩豊かな眺望は絶景である。


そして晩秋の頃には、大山山麓から霞が湧きあがり、雪におおわれた山頂から朝日が昇ると、まるで天女が天空で舞でも舞っているかのような神秘の世界にいざなわれ、我を忘れ吸い込まれるように立ちすくむこともある。


このような風光明美な地にある関の港は、三日月形の狭あいな地にも関わらず、往時のころは廻船問屋、呉服問屋、米問屋、海鮮問屋、醸造所、旅館などがひしめくように軒を並べ、北前船も行き交う出雲、伯耆、因幡の海の玄関口として大いに栄えていたという。

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電力事業の変遷

2022年09月27日 10時24分40秒 | 雲雀のさえずり

我が国の電力事業の歴史は、明治16年東京電灯会社が民間資本で設立されたのが始まりで、同21年から30年にかけて主要都市でも民間資本による電灯会社が相次いで設立されると、それが地方の中核都市にも次々と波及していった。


その後、日露戦争後の明治40年頃の急激な経済拡大に伴う好景気を背景に、参入企業はさらに増大して電力事業は活況を呈した。


しかし、明治42年から43年の日露戦争景気の反動を契機に起こった不況で、基盤の脆弱な企業は整理統合される一方、不況を乗り越えた会社でも企業間競争が激化した。


大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、翌4年から7年にかけて好景気を迎えて、急激な工業化によって電力需要が増大し供給力に不足をきたしたため、卸売火力発電会社が設立されるに至った。


しかし、第一次世界大戦後の大正10年頃になると、一転して大恐慌となり既設電力会社に甚大な影響を及ぼし、合同、合併、譲渡が進んだ。


このような過程を経ながらも明治40年から大正14年の間に、事業者数は116から738社と約6倍に、また、発電量は12万kwから280万kwと24倍に増大し、日本の経済活動ならびに国民生活にとって重要かつ主要な地位を占めるようになった。


昭和2年頃から政府内部において、日本経済の伸長に対応する電力供給の長期安定化を趣旨とする、電力統制の議論が持ち上がるようになった。


同5年4月に第二次若槻内閣は、電力統制を目的とした電気事業法の抜本的改革案を提出し、翌6年4月に以下の内容で公布し同7年12月より施行した。


1.電気事業統制下における発送電設備の建設と利用面の合理化。


2.供給責任と需要家の保護。


3.電気事業会計規定の改定。


同年10月、岡田内閣により設置された内閣調査局の「電気は空気、水、光と同じくこれを営利事業の対象とすべきではない、良質な電気を、豊富・低廉に供給するには国営にすべし」との主張の下に、電力国営化論が台頭した。


これに対し電気事業者からは「政府が電力を国家管理しようとするのは、経済構造全般を変革しようとするもので国営論には幾多の無理がある。これは一電力会社だけの問題ではない、国家主義を基にした思想的な問題である」と、一般世論を巻き込んだ反対運動が起こり成立に至る過程には紆余曲折があったが、同13年3月に国家管理法を次の要旨で決定した。


1.管理の範囲


(1)    主要新規水力発電設備、主要火力発電設備は国家がこれを管理する。


(2)    (1)の設備は、新たに設立する特殊会社において新設し、既存の設備はこの特殊会社に出資させる。


2.配電事業


(1)    配電事業についても統制強化を図るため、区域の整理統合を行い供給事態の改善、電気利用の普及促進を図るとともに、料金の低廉かつ均衡を得るよう監視を拡大する。


上記の国家管理法の基、昭和14年に日本発送電(以下、日発という)が発足した。


その後、日発の発送電管理は更に強化されることになり、同17年には国内の発電設備の65%を所有することになった。


また、配電会社についても昭和16年の国民総動員審議会において、全国9特殊配電会社を設立するとの審議を経て410余りの電気事業者を、第一次、第二次統合を経て、同18年に9配電会社の体制が完了した。


我が国の電気事業は、戦時経済という特殊な条件の中で、既存の電気事業者の全面的な合同の基に、日発と9配電会社の10社による独占体制となった。


第二次世界大戦の敗北を機に、電気事業の運営体制について活発な議論が巻き起こるようになった。


地区別配電一貫論、日発および配電会社の拡充強化論、発送配電一元論等、電力事業再編案は激しい論議を経ながらも、三鬼隆(日本製鉄社長)松永安左衛門(東邦電力社長)などの努力によって作成された「発送配電一貫経営の全国9ブロック会社案」が、昭和25年10月の国会に提出され、同26年5月1日から現在の9電力会社体制が発足した。


その後の各電力会社は、昭和40年代後半までの高度成長の波に乗り、自由化の下に


安定経営に努めてきた。


昭和40年代後半からは、二度にわたって石油危機に襲われて調整期を迎えたが、昭和60年代に入って円高不況を克服するとバブル経済による平成景気を迎えた。


平成5年頃からの長期不況に襲われながらも、公益事業としての地域独占体制の基に着実の発展を続けてきた。


しかし、平成23年3月11日の東日本大震災に伴い発生した、東京電力福島第一原子力発電所事故対応の不手際から、原子力発電所の全面停止という非常事態に追い込まれ電力の需給バランスが逼迫し、各電力会社は未曽有の危機に直面している。


競争力導入を目的として平成12年3月21日に公布された、電力の自由化議論が東京電力福島第一原子力発電所の事故以降、官民の間でさらに活発に行われるようになり数年後には、電力の完全自由化が実施される見通しとなっている。


今日までの電気事業の歩み大きく分類すれば、明治16年から大正14年頃までの電気事業創業時期を第一期、昭和2年から同25年までの電力統制を含めて時期を第二期、昭和26年から平成12年の9電力体制下での地域独占時期を第三期、平成12年から現在に至るまでの電力の部分自由化の時代を第四期とするならば、地域独占による9電力体制を解体し、平成26年より順次実施されようとしている、発電、送配電、販売を分離した電力全面自由化の時代を第五期として分類できるのではないか。


 


電気事業を取り巻く政治情勢


 


景気回復が一向に進まず閉塞状態が続く中、小泉純一郎氏は「構造改革なくして景気回復なし」を旗印に掲げ自民党総裁選に臨み、国民の世論を背景に自民党員の高い支持を得て、4月24日橋本龍太郎首相他の候補を大差で破り新総裁に選任され、4月26日の首班指名選挙で首相に就任した。


小泉内閣の支持率は、各種世論調査で80%以上の圧倒的な国民の支持率を得て順風満帆な船出をした。


小泉首相が掲げる「構造改革なくして景気回復なし」の政策実現の施策は、以下の4点に要約できるのではないか。


1.特殊法人で民営化できるものは民営化し、民間活力を活かす。


2.規制の緩和、撤廃の見直しを徹底的に行い競争力に導入を図る。


3.緊急経済対策の速やかな実行。


4.不良債権の早期処理。


しかし、これらの政策実現には当然痛みを伴うものであるが、先般報道されたフジテレビ系で放映された「報道2001」の世論調査では「構造改革には痛みが伴うが我慢できるか」の問いに対して、我慢できる65.6% 我慢できない27.4% と多くの国民は小泉首相の政策を支持している。


従って、これらの世論の趨勢から考えると、電力事業においても規制の緩和、撤廃は更に進み、新規参入企業を含めた各電力間の競争が激しくなることが予想され、早急な企業体質の強化が求められる。


 


電気事業の現状


電力業界が現在の9電力体制に再編されて、平成13年5月1で創立50周年を迎えた。


この半世紀の間に全国の電力需要は27倍に増加し、各電力会社は着実に成長を遂げてきたが、平成不況による景気低迷で電力需要に急ブレーキのかかる中、第三期時代に風穴を開け第四期時代の引き金となったのは、平成12年3月21日から始まった電力の部分自由化である。


総合商社、石油会社、ガス会社、外国企業等が電力市場に参入するとともに、地域独占に守られてきた既存の電力会社間の競争も始まった。


電力安定供給を目指す自民党のエネルギー政策基本法(案)の評価には「米カリフォルニア州の電力危機を受け、やみくもな自由化は危険である」との意見もあったが。冒頭で述べてように、小泉内閣の発足の経緯から推測すれば、二年後の制度見直しでは自由化対象が拡大されるのは確実で、新規参入者を含めた競争の激化は避けられないものと考えられた。


本格化する電力自由化は、電力事業の第一期後半から第二期前半かけて電力会社が乱立して、競争が激化した時代に戻る可能性もとの指摘もある。


自由化の行くつく先は、サービス、料金値下げの競争であり体力勝負となることは容易に予想され、また、石油、ガス、燃料電池、自然エネルギー、分散型電源などを含めた各エネルギー間の競争も激化するであろう。


しかし、この半世紀にわたって電気事業者が営々と努力し築き上げた「良質な電力の安定供給体制の確立」この精神は、電力事業がいかなる形態に変容しようとも確実に継承しなければならない。


 


<p/p>

政治に望むこと


  これまで述べてきた、政治の流れ、電気事業の変遷と現状、現業部門での対応策等は、電気事業の未来を危惧し記述したものであり、電気事業がいかなる形態に変わろうとも電気は国民生活にとって欠かすことのできないエネルギー源であることには変わりはない。


ひとたび、過去のアメリカ カリフォルニア州で発生したような大停電が日本で発生すれば、日本経済、国民生活にとって計り知れない大打撃を与えることになろう。


今後、電力事業は新規参入企業、各電力会社、エネルギー源間での激しいお客さまの争奪戦が起こるであろうが、国民生活を守るためには競争の中にも秩序ある政策を望むものである。


 


 


 

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お地蔵さまは百面相(4)

2022年07月29日 11時09分38秒 | 朝の散歩

おはようございます、お地蔵さん。


今日は、ほんとにさむいは、何とかならんだ―か?


 


お前、そげなことわしに言ったって、どげしょやもないがなー


春になったら、ぬくんなーけん、もーちょっと辛抱せやれ!


 


まぁー お地蔵さんも、どげしょやもないだらーけん、しかたがないわなぁー


 


まぁー それはそれとして、お地蔵さん。


去年の年末ジャンボ、また九百円だったぜ! もう、そろそろ当ててごしなっても、ええと思うけどなー


 


お前、そげに欲だすもんだないけん。


今日も元気で、こげして散歩さしてやっちょうがな。


ちったぁー 感謝せんと罰があたあぞ。


 


そげいわれーと、返す言葉もないわ。


ぼくの村に、同級生が八人おっただーもん、もお、三人も死んでしまったけんなー


 


そげだらぁー 欲だすもんだない。


元気なのが一番だけん。


 


そやー そげだーもん、一回ぐらいは夢みしてごしないやい。


 


まぁー 気が向いたら、いつぞあてちゃーがな。


 


お地蔵さん、あてにせずに待っちょうけん。


ほんなら、少ないだーもん、賽銭箱に十円入れちょくけん、頼むは。


 


いつんなーだか分からんだーもん、あてにせずに待つちょれやい。


それと、賽銭を毎日入れーのだけは忘れんなよ!

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高齢者医療費問題について

2022年06月15日 13時38分30秒 | 負け犬の遠吠え

民主党は税と社会保障の一体改革なるものを閣議決定し、自民党・公明党に協議に応じるように働きかえている。


しかし、自民・公明はなんやかんやと屁理屈をこねては協議に応じようとはしない。


同じ日本人ではないか、日本の将来、天下国家を考えれば、多少の主義主張の違いだけでもめている場合か!


今の国会議員のないふりかまわぬ発言や行動を見ていると、悪がきの喧嘩より始末が悪く日本沈没の前兆さえ感じる。


この有様は、まるで暴力を伴わない、かの国の宗教戦争のようにさえ見えてしまうのは私だけだろうか。


さて、この社会保障の改革の中で、私が疑問を抱いている事は多々あるが、その中でも、特に納得いかないのが65歳以上の医療費の問題である。


一般的なサラリーマンは、65歳までには殆どの人が退職し年金生活を余儀なくされているのが現状である。


しかるに、医療費負担は


65~69歳は3割負担


70~74歳は1割負担 (時限立法廃止後2割負担)


75歳以上は1割負担


65歳以上で年金生活に入れば、66歳だろうが80」歳だろうが同じ年金生活者のはずである。


同じ勤続年数等の条件で試算すれば、かえって高齢者の年金支給額が高い場合もあり、これらの余裕資金が貯蓄に回っていることも考えらる。


今の国家的危機を回避するには、高度成長時代を謳歌してきた者が、次世代を担う若者に対し、夢と希望のある未来をさし示すための応分の負担はすべきでなかろうか。


したがって、65歳以上の医療費負担割合を、2割または3割に統一して財源を生み出し、その財源をもとに、子育て、少子化等の対策をさらに充実すべきと考える。


【私は、ブログで政治的な書き込みは極力控えてきた。しかし、昨今の政治・経済状況はあまりにもひどく、我慢できなくなり投稿することにした】


みなさんはどうお考えですか?


 

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電気事業の変遷

2022年04月16日 11時40分32秒 | 雲雀のさえずり
『 電力の全面自由化は国家・国民にとって、本当に正しい選択なのか今一度考えてみては 』

我が国の電力事業の歴史は、明治16年東京電灯会社が民間資本で設立されたのが始まりで、同21年から30年にかけて主要都市でも民間資本による電灯会社が相次いで設立されると、それが地方の中核都市にも次々と波及していった。
その後、日露戦争後の明治40年頃の急激な経済拡大に伴う好景気を背景に、参入企業はさらに増大して電力事業は活況を呈した。
しかし、明治42年から43年の日露戦争景気の反動を契機に起こった不況で、基盤の脆弱な企業は整理統合される一方、不況を乗り越えた会社でも企業間競争が激化した。
大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、翌4年から7年にかけて好景気を迎えて、急激な工業化によって電力需要が増大し供給力に不足をきたしたため、卸売火力発電会社が設立されるに至った。
しかし、第一次世界大戦後の大正10年頃になると、一転して大恐慌となり既設電力会社に甚大な影響を及ぼし、合同、合併、譲渡が進んだ。
このような過程を経ながらも明治40年から大正14年の間に、事業者数は116から738社と約6倍に、また、発電量は12万kwから280万kwと24倍に増大し、日本の経済活動ならびに国民生活にとって重要かつ主要な地位を占めるようになった。
昭和2年頃から政府内部において、日本経済の伸長に対応する電力供給の長期安定化を趣旨とする、電力統制の議論が持ち上がるようになった。
同5年4月に第二次若槻内閣は、電力統制を目的とした電気事業法の抜本的改革案を提出し、翌6年4月に以下の内容で公布し同7年12月より施行した。
1. 電気事業統制下における発送電設備の建設と利用面の合理化。
2. 供給責任と需要家の保護。
3. 電気事業会計規定の改定。
同年10月、岡田内閣により設置された内閣調査局の「電気は空気、水、光と同じくこれを営利事業の対象とすべきではない、良質な電気を、豊富・低廉に供給するには国営にすべし」との主張の下に、電力国営化論が台頭した。
これに対し電気事業者からは「政府が電力を国家管理しようとするのは、経済構造全般を変革しようとするもので国営論には幾多の無理がある。これは一電力会社だけの問題ではない、国家主義を基にした思想的な問題である」と、一般世論を巻き込んだ反対運動が起こり成立に至る過程には紆余曲折があったが、同13年3月に国家管理法を次の要旨で決定した。
1. 管理の範囲
(1) 主要新規水力発電設備、主要火力発電設備は国家がこれを管理する。
(2) (1)の設備は、新たに設立する特殊会社において新設し、既存の設備はこの特殊会社に出資させる。
2. 送配電事業
(1) 配電事業についても統制強化を図るため、区域の整理統合を行い供給事態の改善、電気利用の普及促進を図るとともに、料金の低廉かつ均衡を得るよう監視を拡大する。
上記の国家管理法の基、昭和14年に日本発送電(以下、日発という)が発足した。
その後、日発の発送電管理は更に強化されることになり、同17年には国内の発電設備の65%を所有することになった。
また、配電会社についても昭和16年の国民総動員審議会において、全国9特殊配電会社を設立するとの審議を経て410余りの電気事業者を、第一次、第二次統合を経て、同18年に9配電会社の体制が完了した。
我が国の電気事業は、戦時経済という特殊な条件の中で、既存の電気事業者の全面的な合同の基に、日発と9配電会社の10社による独占体制となった。
第二次世界大戦の敗北を機に、電気事業の運営体制について活発な議論が巻き起こるようになった。
地区別配電一貫論、日発および配電会社の拡充強化論、発送配電一元論等、電力事業再編案は激しい論議を経ながらも、三鬼隆(日本製鉄社長)松永安左衛門(東邦電力社長)などの努力によって作成された「発送配電一貫経営の全国9ブロック会社案」が、昭和25年10月の国会に提出され、同26年5月1日から現在の9電力会社体制が発足した。
その後の各電力会社は、昭和40年代後半までの高度成長の波に乗り、自由化の下に安定経営に努めてきた。
昭和40年代後半からは、二度にわたって石油危機に襲われて調整期を迎えたが、昭和60年代に入って円高不況を克服するとバブル経済による平成景気を迎えた。
平成5年頃からの長期不況に襲われながらも、公益事業としての地域独占体制の基に着実の発展を続けてきた。
しかし、平成23年3月11日の東日本大震災に伴い発生した、東京電力福島第一原子力発電所事故対応の不手際から、原子力発電所の全面停止という非常事態に追い込まれ電力の需給バランスが逼迫し、各電力会社は未曽有の危機に直面している。
競争力導入を目的として平成12年3月21日に公布された、電力の自由化議論が東京電力福島第一原子力発電所の事故以降、官民の間でさらに活発に行われるようになり、平成28年4月から電力の完全自由化が実施されることが決定している。
今日までの電気事業の歩み大きく分類すれば、明治16年から大正14年頃までの電気事業創業時期を第一期、昭和2年から同25年までの電力統制を含めた時期を第二期、昭和26年から平成12年の9電力体制下での地域独占時期を第三期、平成12年から現在に至るまでの電力の部分自由化の時代を第四期とするならば、地域独占による9電力体制を解体し、平成28年4月より実施される電力全面自由化の時代を第五期として分類できるのではないか。

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どうする原子力行政 

2022年03月16日 09時36分21秒 | 負け犬の遠吠え

東日本大震災で発生した、東京電力福島第一原子力発電所事故の恐怖緊迫感は、歳月の流れとともに私たちの記憶から次第に薄れていきつつあるが、原子炉の廃炉作業、除染水の処理問題等何一つ解決の目途は立ってはいない。


また、原子力発電所の再稼働問題は政府の方針とは裏腹に深刻化するばかりで、、国民の合意形成も解決策も一向に見えてこない。


このまま状態が続き再稼働が出来なければ、仮に政権が変わったとしても、議論が堂々巡りするばかりで国民の理解は得られず、再稼働はさらに遠のくことが予想される。


そこには、これまで自民党を中心とした政権が主導してきた、原子力行政に対する国民の不信があり、また、民主党政権下での福島第一原子力発電所の、事故時対応の不手際と不透明さに起因する事は誰の目にも明らかであろう。


資源小国日本、新たな電力確保に向けて、再生可能エネルギーや自然エネルギーを導入すべきとの論評が、学者・評論家・知識人等から発せられ世論もこれに同調しつつある。


しかし、これらのエネルギーの開発を行うには、短・中・長期にわたるエネルギー基本計画に基づく国民的合意と、継続的かつ長期の取り組みが必要となる。


現在の日本社会は、交通・情報・通信はもとより、上下水道・ガス・空気に至るまで電力に依存しており、電力不足が現実のものとなれば日本経済は失速し、国民の生活水準の低下は避けられないだろう。


電力系統を安定した状態で運用するためには、常に需要と供給のバランスを均衡させる必要があり、一分一秒でもこのバランスが崩れると大停電に移行する危険をはらんでいる。


政府の発表によると、関西電力・九州電力・四国電力の供給予備力が特に厳しいと公表されている。


万一、ピーク時期に大規模発電所が一カ所でも事故等で止まれば、送電系統の電圧が下がって周波数の低下を起こすことで、連係している他の発電所の運転にも支障をきたし、次々と停止することで大停電に移行することも考えられる。


また、一度、ダウンしてしまった送電系統を正常な状態に復旧するには、需要と供給のバランスを均衡させながら、止まった発電所を再稼働して順次送電網に接続する必要があり、復旧までに長時間の停電と混乱を覚悟しなくてはならない。


仮に、大停電が発生した場合、私のように猿や熊に出没するような田舎で暮らしている者は、比較的影響は少ないかも知れないが、東京や大阪の大都会では都市機能が完全に麻痺し、人々は暗闇の中に放り出され、不安や混乱、生命の危険にさえ晒され、パニック状態に陥ることは容易に想像できる。


さりながら、原子力発電の再稼働の目途は一向に見えず、時だけは無情に流れ国民の不安はますます増大するばかりである。


戦後の一時期と石油ショックの原油高騰時期を除いて、電力は電力会社が責任を持って供給するものと誰もが信じ、電力が不足するなどということは意識さえしてこなかった。


しかし、福島第一原子力発電所の事故を境に、日本の電力需給は逼迫し、各電力会社の自主努力、電力会社間の融通だけでは到底乗り切れない危機的状況になりつつあり、政府・国民を巻き込んだ早期の対応が不可欠となっている。


人間が集団で窮地に追い込まれ、生死の瀬戸際に立たされた時、人々は一体どんな行動を起こすものだろうか?


人によっては明日の命より、今の命を死守しようと必死でもがき苦み、一億二千七百万人分の一人より、一分の一億二千七百万人の一人としての立場を選択する者も現れるだろ。


現状において原子力発電所の再稼働がベストの選択でないことは、多くの国民の一致した意見であろうし早計かもしれない。


しかし、原子力発電の再稼働なくして、今の日本経済、国民の生活水準を維持することは困難ではなかろうか。


原子力発電の再稼働に反対されている方々に問いたい。


・あなたは停電が発生した場合の備えは十分ですか?


・不便さに耐え節電に協力する覚悟はできていますか?


・停電で発生するであろう、混乱・危険性等のリスクに備えた本当の覚悟はありますか?


・あなたは節電に向け、友人・知人を説得する自信はありますか?


・再稼働するより、再稼働しない方が良い、と言うような安易な考えだけで反対をしていませんか?


私は、今の日本の現状を考えた時、原子力発電の再稼働は安全対策・体制を十分に講じた上での短期的な再稼働は止むなしと考えています。


その上で、中期的には原子力発電を国有化し、原子力行政、原子力発電の運転・維持・管理は防衛省で一元化すべきと考える。


防衛省に原子力発電の運転・管理、原子力行政を移管することには、国内外から多くの異論・反発が噴出し、国際問題に発展することも予想される。


しかし、原子力行政は歴代の政権が主導し、原子力発電を民間企業である各電力会社等に導入させたものであり、その解決には現国会議員・政府が一体となって責任を持つべきと考える。


東日本大地震で人命救助・復旧作業等に命を賭して活躍した自衛隊、日本人の誇りであり、最も信頼され、頼もしい組織として多くの国民が認めている。


防衛省に原子力庁(仮称)を新設し、原子力発電所の運転員や関係者を電力会社等から移籍させ、全国17カ所に点在している原子力発電所を一元的に管理することで、安全対策・事故時の対応能力は一段と向上するであろうし、万が一、事故が発生した場合の復旧要員の確保も、迅速かつ容易に行えるようになるものと考える。


また、自衛隊は国内で唯一、戦闘能力・重装備を備えた最強最大の集団であり、原子力災害・テロ・外国からの侵略等にも迅速に対抗しうる頼もしい組織力を有している。


原子力発電所を再稼働するにせよ、廃炉にするにせよ、核廃棄物は、今後、50年・100年、いや、それ以上の長きに亘って、厳重に保管・管理していかなければならない日本国にとって、苦しく、長く、重い課題である。


日本国民の命運と共に自衛隊があり、核問題があるとすれば、たとえ優秀な経営者・社員がそろった電力会社といえども、燃料費の高騰・設備の老朽化・政権の不安定化など種々の要因により経営が危機に陥ることもあろうし、社員のモラルの低下をきたすことも考えられる。


核物質の処理・管理・保管といった長期にわたって取りくまざるを得ない、重大かつ責任の重い事業を一民間企業である電力会社等に負わせて、日本の安全が将来に亘って果たして守れるものであろうか?




 

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鯉 恋 コイ の 散 歩 道

2021年11月21日 17時10分56秒 | 朝の散歩
世界の中には、戦争や内戦で命の危機にさらされ、難民として国を追われる人々も産まれている。
私はポケットから、ビニル袋に入れて餌を左手でつかみ、高さ4mくらいの土手の上から、鯉に向けて力いっぱい投げ込んだ。
餌が霰のように水面に波紋を描くと、鯉は一斉に深みにと逃げ込んでしまった。
やっぱり、想像していた通り餌を食べてはくれない。
そう簡単に餌づけができるはずがない、これからは、鯉と私との根比べの始まりだと肝に銘じた。
鯉への餌やり、こんな些細なことで満足し、優雅に泳ぐ恋を眺めながら、平和の大切さを改めて実感した。
幸せとは、自分にできる、こんな小さな行動の積み重ね、思いやりの中にあるのかも?
コロナ禍などで混迷する国内の政争が一日も早く治まり、殺伐とした人々の心に、貧しくとも、公平で平穏な日が戻ることを願いたい。
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鯉 恋 コイ の 散 歩 道

2021年11月20日 16時58分01秒 | 朝の散歩
いつもと同じ、何の変哲もない散歩コースを歩いていても、その日の気分、心の持ち方によって、一日として同じ景色を見ることはないだろう。
人生、異なもの粋なもの。
時として思いもよらない事象、事態に遭遇することもある。
「ここにいる鯉を餌づけできるかな?」
「難しいと思うよ」
「明日から餌づけしてみるから、ここに鯉がいるなんて、絶対人に言ったらいけんよ!」
「誰かが、ここで鯉釣りをしたら、二度とここには寄らなくなってしまうからな‼」
「わかってますよ」
次の日、10時30分に車の一年点検を終え、その足で整形外科での2か月ぶりの診察を受けて飲み薬を処方していただいた。
帰り道の途中、コメリによって4㌔入りの鯉の餌を購入した。
家に着くと、さっそく餌の袋の封を切り、餌をビニル袋に小分けした。
小分けしたビニル袋をポケットに押しこむと、弾む心で単車にまたぐった。
胸をときめかせながら、○○川の溜りに向かって単車を走らせた。
川面には小春日和の、午後の柔らかい日差しが降り注ぎ、十数匹の黒鯉が楽しそうに浮かんでいる

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