いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(70)「だれの信仰か」

2013年11月30日 | 聖書からのメッセージ
マルコによる福音書5章25節から34節を朗読。

34節「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』。」
これは、12年間も病気で苦しんでいた女の人の記事です。人生にはいろいろな問題があります。生活上の問題、仕事の問題、人間関係の問題、あるいは、自分自身の性情性格について悩む。しかし、一番普遍的でしかも最も人を悩ますものは、やはり病気です。健康であるときにはあまり自覚しませんが、一旦病気をしますと、健康がどんなに有難いかと思います。また事実、健康であればこそ、生活が楽になり、いろいろな楽しみがあります。古来、病気は人を苦しめる問題でした。

よく世間でも、生・老・病・死という言葉を使います。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気、そして死の恐れがあります。現代日本では、生きるのに何を食べようかと、食べるのに困った問題は比較的少ないと思います。むしろ最近では、どうやって食べないでおくか、という悩みのほうが大きい。だから、ダイエット、ダイエットといって食べるのを控えようとします。物があふれて、冷蔵庫がいっぱいになっている。ところが、昔はそんなことは考えられなかった。物がなくて、乏しい中をその日暮らし、一日一日、何を食べようかと、食べるものがあるだろうかという生活をしました。その点では、今はたいへん恵まれて、生きる生活上の労苦は少なくなりました。

もう一つは、老いるという問題があります。健康である間、元気でいるときは、まだ自分は老人ではないと思います。だから、自分が年取っている、老人であること、そして年を取ったことから生じるさまざまな問題を前もって理解できないのです。そのときにならないとわからない。その歳にならないとわからないのが現実です。だから、老いる悩みを感じながらも、自分がその真っただ中にいるという自覚はない。いよいよ人の世話を受けなければならないようになり、物忘れもひどくなり、自分の家も忘れ、家族も忘れて、という状態になれば、悩みも深くなるでしょう。しかし、それでも当事者よりも家族や周囲の人のほうが、老人問題の悩みは大きいのです。

家内の両親が年を取ってきまして、最近そのことを感じます。本人たちは、いたってケロッとしている。こうなればああなる、ああなれば……。悩んでいるのは、周囲の子どもたちです。これからどうなるだろうか、ああなったらどうしようか。こうなったら……。ところが、本人たちは、幸いに祈りに応えられて、神様が二人に力を与えて、今はとりあえず小康状態、平穏に夫婦げんかもなく、お互いに助け合って、老々介護をやってくれます。見ていると、こちらがはらはらドキドキしますが、本人たちは、いたって自信がありますから、「何も心配することはない」と。だから家内が心配して電話をしたら、「何の用事だ」と言う。「いや、心配だから電話した」と言ったら、「俺たちのことは心配せんでいい。お前たちのことをちゃんとやっているか」と、逆に励まされました。この場合、何が問題かというと、本人たちは問題と思っていないのです。ところが、周囲の者のほうが、老人問題で困ったなぁ、と頭を抱えてしまいますが、これだって、それほど深刻にはなりません。

しかし、死の問題も実際に直面しなければわかりません。いつ死んでもおかしくないと思っていながらも、まだ死ぬことはないと思っています。ここが難しいのです。聖書にあるように、明日の命がわからない。そのとおりだと、頭ではわかるけれども、心で死を感じることはあまりない。何か具体的な不治の病で青息吐息。死ぬかもしれない。お医者さんが、脈を取りながらウーンと首をかしげると初めて、「すぐに死ぬのかな」と思うに違いない。それでもなお且つ、人は、いつまでも、いや、ひょっとしたら生きるのではなかろうか、死ぬことはないのではないかと思う。だから、本当に死の問題を深刻に受け止めるのには、自分の生活ができなくなり、体力を失い、健康を失って、いよいよにならないとわからない。だから、人生四大問題と言われますけれども、もっとも柘植先生は、そのほかに罪の問題を取り上げられましたが、私たちにとって、何が一番身近な問題かというと、病気です。ひょっとしたら私はこんな病気で……と。事実、年を取ると持病と称するものが増えてきます。あそこが痛いとか、ここがどうであるとか、血圧が高いとか、糖尿の気があるとか、いろんな事で自分の健康に不安を持つ。だから、古くから病気治癒が重要な問題として生活上の大部分を占めている、と言ってもいい。おそらく皆さんの中にも、大体一年間の3分の2くらいは、病気のことを心配しながら過ごしているに違いないですね。確かに、病気が癒されることを願います。

今読みました25節に「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた」とあります。12年間の長い持病、これはかなり深刻です。大体、病気は長くても3年か5年くらい。まぁ、10年同じ病気で苦しむ人はかなり少ない。大体、人間の体は、3年か5年位すればいろんなものが変わっていきます。ところが、この女の人は、12年間も一つの病気で苦しんでいる。そのために26節に「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが…」。病気をするとお金がいると言われます。だから、テレビで医療保険に入りなさいと宣伝していますね。「入院したらこれだけもらえますよ」と宣伝しているのを見ると、病気になったほうがいいなと思いますね。病気になりたくなるような宣伝をしてくれます。しかし、それは病気にお金が掛かると言っているのです。イエス様の時代ですらもそうでした。26節にあるように「多くの医者にかかって」と。病気になると医者が治してくれるに違いないと思って、あちらの医者、こちらの医者、良いといわれるところに一軒も二軒も三軒も、まるで診察券がトランプのカードのごとく、今日はあそこに、明日はこちらにと病院を回っている。だから、26節「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ」。「あれをしたらいいですよ」「いや、これがいいですよ」といろいろなことを、医者に言われるとおりにやって、それがいい結果を生めばいいですが、必ずしもそうはいかない。「さんざん苦しめられ」と、これは今も変わらない問題ですね。過剰医療であるとか、医療の質の問題であるとか、最近言われますが、そこにありますように、「なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる」という。もう泣き面に蜂です。どんどん悪くなる。しかも「持ち物をみな費してしまった」。財産もなくなってしまう。こうなったらお手上げです。この女の人の絶望、落胆はどんなに深かっただろうかと思います。これをご自分に引き比べて考えていただきたい。あちらに走り、こちらに走り、ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようかと、多くの医者に行き、お金は費やし、とうとう悪くなって、見込みがなくなって、見放され、失望落胆していた。

そのとき、27節に「この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」。「この女がイエスのことを聞いて」、イエス様が彼女の住んでいる町に来られた。イエス様は有名人でしたから、あちらこちらにうわさが流れる。イエス様に祈っていただいたら、イエス様に触っていただいたら、病気が治った、目が開かれた、足がなえていた人が立つようになった。耳の聞こえない人が、聞こえるようになった。いろいろな奇跡が起こった。そういったうわさ話はすぐに広まりますね。この女性もイエス様のことを聞いていたのです。その人が私の所に来てくれれば助かるのだと、心ひそかに願っていた。そこへ、千載一遇、チャンスがきた。彼女はなんとしてもイエス様のみ衣にでも触ろうと、なり振りかまわず近づいた。イエス様の周囲にはたくさんの人が群がっていました。だから「群衆の中にまぎれ込み」、押し合いへし合いしている人の間に紛れ込んで、イエス様の所に近づいて、なんとかイエス様の衣に触った。28節に「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである」。彼女は、イエス様ならば、必ず私を癒してくださると信じていた。たとえイエス様から、直接手を触れていただかなくても、イエス様の体の一部分、着ているもの、その衣でもいいから触ったらという、その強い思いが彼女の中にあった。そして信じて触った。そうしたら、なんと、29節に「すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた」。この女の人は触った瞬間に、今までの自分と違う体の変化を感じた。力がわいて、今まで出血していたのでしょうか、その現象が具体的に現れたのです。彼女はうれしかった。12年間、しかも、財産も使い果たして何もかもなくして、失望していた彼女が、イエス様に触れたことによって、全く新しく造り変えられたのです。

30節に「イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた」と。イエス様は、その時自分のうちから力が出ていったことを感じたのです。そこにはたくさんの人が肩を押し合うようにして、イエス様に触れていました。でも、触っているからといって、その人の何かが治るとか、あるいは、その人の気が付かないうちに、イエス様のそばにいたら、なにか知らないけれども、願いもしないけれど、いい具合になったという話ではない。イエス様を求めて、信じて、近づいて触れたのです。そのときイエス様の体からも、思いがけない力が出ていったことを感じられた。すぐにイエス様は、30節に「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。イエス様は、そこで立ち止まって、「誰かが私に触った。誰だ」と言った。弟子たちはあきれて「こんなにたくさん人がいて、誰もが触っていますよ、先生!」と。その時32節に「しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた」。彼女は、戦々恐々、びくびくしたと思います。こっそり触ったのですから。「これでよし、治った。良かった」と、「やれやれ、しめた」と思った途端に、イエス様が立ち止まって「誰か」触った者がいると見まわしている。これはえらいことになった。もし見つかったら、どんなにしかられるかわからない。また法外なお金を要求されるかしれない。彼女は本当に恐れました。33節に「その女は自分の身に起ったことを知って」、「恐れおののきながら」、怖かったのです。この前後を見ますと、一人の人が死にかかっていると知らせを受けて、イエス様はそこへ向かっていく途中です。早く行かないと間に合わないかもしれないのに、イエス様はじっと止まってしまって、動こうとしない。彼女はそういう事情は知りませんが、とにかく出て行かざるをえない。33節に「恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」。彼女は覚悟をしたのです。何を言われようと、何をされようと、治ったのだから、感謝して、イエス様の前に出ました。これまでのことを全部話しました。多くの人が聞いている中ですから、恥ずかしかったかもしれない。自分の有様を全部打ち明けたのです。

もし、彼女が、触って癒され、良かった、良かったで、隠れて去ってしまったら、それだけだったでしょう。ところが、イエス様はそれをすべて、有りのままに語るよう求められました。これは証詞(あかし)です。それによって彼女自身の信仰が、誰によってこの病気が治ったか、はっきりするのです。そうでなかったら、家に帰った拍子に、もうそろそろ治る時期がきていたに違いない。あるいは、イエス様に触れる前に、出がけに飲んだ薬が効いたかもしれないと、何かほかのものに取って代られてしまいます。しかし、この時、イエス様の前ですべてのことを打ち明けた。それを通して、イエス様は「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』」。素晴らしい。イエス様が、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。

これはわかりにくいことですが、これがイエス様を信じる信仰のあり方です。この時、この女の人の病気が治ったのは、イエス様がなにか不思議な力を働かせて、彼女にしてくださったというよりは、まず、彼女がイエス様ならば、私の病気を必ず癒してくださる、イエス様はそれができると信じたことが、一番大切なことです。というのは、イエス様に近づいてきた人はたくさんいました。イエス様の体に触って、意識しないで、押し合っていますから、体が触れ合ったり、衣のどこかに触ったりした人は、いくらでもいたと思います。しかし、その人たちには何の変化もありません。ただこの女の人だけが触ったときに、確かにイエス様のうちから力が出ていって、癒されたのです。まず、彼女がイエス様をどのような方と信じたか。そしてイエス様は何が出来ると信じたのか、ここが大切です。神様の私たちに対するお取り扱い、恵みはそこなのです。私たちが、どのように神様を受け止め、信じようとしているのか。神様をどういう方と信頼しようとしているのか。イエス様を、私にとってどういう方であると信じて祈り、求め、すべてを打ち明けているのか。これが大切なのです。

確かにイエス様は神ご自身、全能者ですから、どんなことでもできないことはありません。しかし、求めない人にまで、与えることはしません。イエス様のほうから近づいて、あなた、今日は顔色が悪い、どこか悪いのではない? 癒してあげようと、そのようにはおっしゃらない。福音書を読むと、いろんな奇跡が書かれていますが、必ず、その当事者自身がイエス様を求めるのです。イエス様、どうぞこれをこうしてください。あるとき、目の不自由な人が、イエス様に、「ダビデの子イエスよ、あわれんでください」と呼びかけました。そのときに、イエス様は「何をしてほしいのだ」と言われました。その人が目が不自由だから、それを癒していただきたいと思っているのは、明らかにわかっています。「イエス様、あわれんでください」と呼びかけて、イエス様もちゃんと見ている。けれども、「何をしてほしいのだ」と、丁寧に聞くのです。「見えるようになることです」と言った、そのとき「あなたの信じたとおりになるように」。信仰というのは、神様を信じて、神様の力を受けることです。そのためには、私たちがイエス様をどのような方と信じて、信頼しているかにかかっている。たくさんの人がいながら、たった一人だけ、この女の人だけが、イエス様を求めて、癒すことがお出来になる癒し主でいらっしゃると信じて、触れたのです。そうするとき、イエス様は、その願いと、求めるところに応えてくださる。私たちが、神様の前に出て行くときに、大切なのはこれだけです。神様は私たちがどのような方と信じ、信頼するかに従って、そのように取り扱ってくださる。

マタイによる福音書10章40節から42節までを朗読。

41節に「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受ける」とあります。イエス様をどのような方と信じるか、それによって神様は、そのように応えてくださる。だから、イエス様に期待し、望みを持つときに、イエス様だったら、この程度はできるけれども、これは難しいだろうと思ったら、その程度です。イエス様を義人だとか、あるいは、預言者であるというのだったら、それだけのことなのです。だから、「マタイによる福音書」16章にありますように、イエス様が、弟子たちを集めて、「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。彼らは、自分たちが聞いた世間のうわさを伝えました。預言者であるとか、あるいはバプテスマのヨハネだとか、新しい預言者だとか、いろんなことを言ったのです。そのときにイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。これが信仰の中心です。私は、誰と信じていくか。そのときにペテロが、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。「イエス様、あなたは、今も生き、働き給う神の御子、救い主でいらっしゃいます」と告白した。神様が私たちに求めているのは、あなたの信仰はどのような信仰なのかと。イエス様をどのような方と信じて呼び求めているのか。それはひとえに私たちにかかっている。ああだからこうだからと、いくら神様の説明をしても、神様が全能者であることを知っていても、そういう方と信じなければ、あくまでもその方とは無関係です。

もう一度、マルコによる福音書5章に戻りますが、この女の人のように、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた」と、彼女は、イエス様ならば必ず癒してくださると信じていた。私たちも、日々にこの神様をどのような方として信じているのか、信仰が問われます。この一年間、また地上にある限り、いろいろな問題に遭います。その度ごとに、私は、今イエス様をどのような方と信じて、祈っているのだろうか、求めているのだろうか。私の信仰はどこにあるのか。何を信じているのか。それをはっきりと確信し、自覚を持っていきたいと思います。聖書の言葉を聞いても、これは、神様が私に語ってくださっていると信じて、「はい」と従う。神様からのものと信じていくならば、私たちの信じたとおりになる。私たちが、イエス様を神の御子、救い主であると信じたならば、そのように救いを現してくださる。くすしき御業、新しい業を起こしてくださいます。

マルコによる福音書11章20節から24節までを朗読。

これは、イエス様が、弟子たちと道を歩いていたとき、イチジクの木をのろわれたのです。「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。次の日、行ってみると、なる程そのとおりに枯れてしまっていた。それを見てペテロが「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」と伝えました。イエス様は「神を信じなさい」と答えています。それは神を信じる者に力を現してくださる。イエス様は神だから、神の力が現れたというのではないのです。イエス様は、神の位を捨てて、この地上に住み、人となってくださった。しかし、だからといってイエス様が、スーパーマンだったわけではない。どんなにしても死ぬことのない超人になったのではありません。私達と同じ弱い肉体を持ち、同じ悩みと悲しみと痛みを知り、病を知り給う方となってくださいました。それなのに、イエス様は、イチジクを枯らすなんて、やはり人と違っていたのだろう、何か特殊なエネルギーが、どこか遠くからレーザー光線かなにか、ウルトラマンのように、遠くの星からやって来てというような……、イエス様はそのような方と思いやすい。しかし、私達と全く同じ肉体を持った弱い方だったのです。ただ、違っていたのは、神様を信じる信仰があったのです。イエス様は、いつも、父なる神様を信じて、できないことのない方ですと、絶えず信仰に立っていました。だから、いろんな人の病をお癒しになったときも、イエス様の信仰の故に多くの人々がその救いにあずかったのです。先ほどの12年長血を患った人が、イエス様のうちから力が抜けていったという。それは、イエス様は、父なる神様に絶えず結び付いていたので、神の霊が宿っていました。霊が宿ったというのは、特殊なことではなくて、私たちも同じです。イエス様が受けたと同じ神の御霊を私たちも今、受けている。イエス様は、なおいっそう父なる神様を信頼していたから、衣に触ったら、イエス様の信仰によって、彼女が癒されるのです。そこにありますように、22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら』」。イエス様は、神様を心に疑わないで信じる方なのです。一方、私たちは、信じながらどこかで疑っている。信じながら、どこかでひょっとしたらと、そうもいくまいと思っているところがある。ここがイエス様と私たちとの違うところです。

イエス様と私たちは、同じ御霊をいただいています。ただ違うのは、信仰があるかないかです。イエス様は疑わないで、神様に徹底して信頼した。どんな状態、事柄の中にあっても、神様に信頼し続けている。私どもは、それは人によりけりでしょうが、六割くらい、四割くらい、ある人は八割くらいは信じるけれども。イエス様ほどに父なる神様にピタッとくっつこうとしない。だから、イエス様のなさる業ができない。イエス様を信じる者は、ヨハネによる福音書14章にあるように、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」と約束されている。ところが、私たちはイエス様を越えられない。なぜか? 疑ってばかりいるからです。12年長血を患って、その人の信仰によって癒された女の人のように、イエス様を信じようではありませんか。イエス様を信じると言いますのは、神様を信じることです。神様にはできないことはありません。できないことはありませんと信じておいて、すぐに、もうそろそろ焼けたかな、とすぐにひっくり返してみようとする。

子どもが、お母さんとお菓子を焼くとき、いつもオーブンを開けたり閉めたりします。私も子どものころよく言われました。すぐにどのくらい焼けたかと見る。そうではなく、徹底して、死ぬまで信じ続けるのです。これが、神様に対する信頼です。私たちはどこかで疑ってしまう。この12年長血を患った女の人は、イエス様はお出来になると信じて、信仰を持って、イエス様に触れました。その信仰があってその人は救われる。だから、私たちもそうです、徹底してイエス様を信じようではありませんか。

ですから24節に「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」。私たちはいつも、ああしてください、こうしてください、あれをしてください、これをしてください、どうか……、どうか……、と言うでしょう。そうである限り、得たりと信じるわけにはいかない。ここで24節に「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」。「かなえられたと信じ」ていく。かなえられるかどうか、自分の目の前を探って、そろそろ痛い所がなくなるはずだけどと、結果を捜す。信じていない証拠ですよ。信じるとは、とことん最後まで信じ続けていくことです。主が癒してくださったと信じて、絶えずその信仰に立って歩む以外にない。現実、まだ痛い所があったり、あそこがどうであるとか、こうであるとか、いろいろなことがあったりしても、祈ったのだから癒されましたと信じる。癒されたのだと、信じていくときに、そこにありますように「そうすれば、そのとおりになるであろう」。

この女の人のように、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、イエス様から太鼓判を押してもらえるように信じ続けていこうではありませんか。途中でぐらぐらしない。博多弁で「ぐらぐらした」という言葉があります。もう意欲をなくした状態をいうのです。「そんなもん、仕方ない。ぐらぐらした」と使います。そういう気持ちになったら、不信仰です。

はじめのマルコによる福音書の5章34節に「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです』」。イエス様は、私の祈りに応えてくださっている。もう、祈ったことは必ず、かなえられたと信じなさいとおっしゃいます。イエスは癒してくださると信じたから、女の人は近づいていって、触れたのです。そして、その結果を得たのです。どうぞ、私どもも、日々の生活の中で、いろいろな場面があります。病気ばかりではないでしょう。事情、境遇、事柄など。しかし、そのたびごとにイエス様を信じて、確信を持って、信仰に立とうではありませんか。信じていくのです。もう大丈夫、出来ましたと、自分自身が神様の前に、心をきちっと定めていくとき、神様はそれに応えてくださいます。必ず応えてくださいます。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。





聖書からのメッセージ(69)「わたしに呼び求めよ」

2013年11月29日 | 聖書からのメッセージ
エレミヤ書33章1節から9節までを朗読。

3節「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。
今年も残り少なくなりまして、一年を振り返ってみると、さまざまなことがありました。こうして神様の御前に歩ませていただける恵みを味わい、感謝しています。私自身、この一年、神様のあわれみによって、休むことなく、主の御用に用いていただいたことを、心から感謝せずにはおられません。自分自身の健康のことも気になりますが、今のところは、こうして神様が健康を支えてくださいます。けれどもいつ何がどういうふうになるかはわかりません。しかし、ここまで主が守ってくださった。「主は、今に至るまでわれわれをたすけられた」と、心から感謝しています。

2節に「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者」と記されています。これは、神様が、御自分がどういうものであるかを語った一節です。「地を造られた主」、文語訳をよみますと「事をおこなふエホバ」と訳されていましたが、いわゆる天地万物の創造者でいらっしゃる。まず、これが事のはじまりであることは、私どももよく知っています。「地を造られた」、天地万物の創造者、すべてのものの根源でいらっしゃる御方、「アルパでありオメガである」、「初めであり終りである」というのです。すべてのものの始まり、それは神様がいらっしゃって、神様によってすべてのものが造り出されてきたのです。だから、私たち自身も含め、住んでいるこの地球も、ありとあらゆる森羅万象の一切のものが、神様によって造られ、存在しているのです。

哲学の言葉で、「第一原因」ということを言います。私は、初めてこの言葉を聞いたときに、何のことかなぁ、と思いました。哲学では、神という言葉をあまり使いたがらない。それは宗教用語であって、哲学者は、そんなわけのわからん言葉は使わない、という思いがあるのでしょう。「第一原因」て何だろうと皆さんも思われるでしょう。それはすべてのものには、因果関係、原因があって結果がある。自分がしたことの結果として、それがあるという、原因があって結果が出る。私たちが今日生きている。ここに命があって生活している原因は、どこにあるか。「第一原因」は、神様なんですが、神様と言わない。それでいて、すべてのものの根源があると、哲学は語ろうとしているのです。ただ、聖書で語られている「神様」だと言えない。だから、おかしな「第一原因」という言葉を作り出した。そんなものは、神様以外にないのです。

一年の日々の生活、365日という日々は、誰が造ってくださったか? まさに、神様が始めているのです。いわゆる第一原因というわけです。その方がいらっしゃるから、今日があり、明日があり、また昨日があったのです。すべてのものが神様によって造られたのです。だから、2節に「地を造られた主」とありますが、神様が、地を造られたというのは、見える山や空や海や、あるいは森羅万象、ありとあらゆる動植物に至るまで、一切の物を造られた。あるいは、無機物から有機物に至るまで、すべてのものを神様が造られたといっても、私の一日一日の生活は自分がつくっていると思っています。そうではなくて、そこにも神様の業がある。神様が造られた。だから、毎日、24時間、365日連続していて、一度も途切れません。しかし、とりあえず、暦に従って夜の12時に次の日に変わる、また新しくなると思います。それに従っていうならば、毎朝、毎朝、神様が造り出してくださっている。自分で計画して、今日の一日、あれをしてこれをしてと、いろんなことを心に思います。また、それを実現するためにいろいろと知恵を働かせ、またない力を振り絞って、ああして、こうしてと思い煩いますが、その一つ一つの業も、実は、私がしている、皆さんがしているのでなく、その事を導かれる神様、それを造り出す御方がいらっしゃる。

今年も振り返って、いろんなことがありました。あのとき、私があんなことをしなきゃ良かった。このとき私が、ああでなかったら良かった。あの人が言ったから、こうなってしまった。あそこであの人の言うことに従わなかった私が悪かった。でも、私も悪いかもしれないけれど、あのことを言ったあの人がいけないと、原因をどこかに探します。ところが、その原因は、いわゆる第一原因、神様にある。そのことにいつも目を留めていることが大切です。だから、私の責任だとか、私が何とかだと、自分で背負い込む、事を自分で抱え込もうとしますが、それは大きな間違いです。多くの人々は、神様のことがわからないから、やり場がない思いを自分に向けるのです。子どものことや、家族のこと、あるいは自分自身のこと、また仕事のことや自分にかかわりのあるいろんな事柄、失敗したとか、成功したとか、良いことについても、悪いことについても、すべてが自分のことに引っ掛かってくる。だから、うまく事がいっているときは、有頂天になる。ほら、見てご覧、私がこんなに頑張ったから、私がこんなにやったんだから、うまくいったじゃないかと、自分が天狗(てんぐ)に、高慢になります。ところが、逆にうまくいかないと、ペシャンと青菜に塩のように、シュンとなる。そして力を失って、私はもう駄目だ!私が悪かった!私が悪かったというまではまだいいのですが、それがもっと悪くなると、私は駄目だ!こんな者は生きていても仕方がない、と自分を否定する所までいく。けな気な思いのように見えますが、神様の目からご覧になれば、これほど高慢なものはない。自分では卑下しているように思います。私が悪かった、私が何とかだ、と。ところが、神様からご覧になったら、何をお前はえらそうなことを言うか。わたしが主じゃないか、わたしが造ったんじゃないか、わたしが今、このことをしているではないか。それなのに、神様の業を横取りして、私が!と言い張るというところに、実は私たちの大きな問題があります。

じゃ、人に責任はないのかというと、もちろん、限られた意味での責任といいますか、そのことについて自分の思慮が浅かった、あるいは神様に聞こうとしないで勝手なことをしてしまったという、そういう神様に対して悔い改めるべきことはもちろんあります。それは神様に悔い改めるべきことであって、自分を責めるべきことではありません。ですから、私たちは、地を造られた主、神様がすべてのことを造り出していることを知るとき、自分の重荷が半分以上は軽くなります。人の重荷、苦しみとはどこにあるかというと、自分が悪かったと、自分を責める思いを持ち続ける。あのとき、ああしなきゃ良かったとか、このときこうしなければよかったという思いを持つ。

先日、ある方とお話ししていましたら、その方は、お子さんのことで大変な悩みの中におられたそうです。また、今も状況はあまり変わりがないそうですが、その方が、神様の救いにあずかって、段々と心が変わってきた。それは何かというと、自分の子どもに対する育て方がうまくいかなかった。幼い時にあんなことをしなきゃ良かったと、自分を責めて、それを何とかしようとして、あっちに走ったりこっちに走ったりしたそうです。そのときは、苦しくてたまらなかった。ところが、イエス様の救いにあずかって、神様のいますこと、すべてのことが主の御手の中にあること、そして、失敗だらけで、知恵も力もないけれども、そういう者を神様が哀れんでくださった。だからここまでくることができたと、感謝するようになった。今でも、悩みがあり、問題の中にいますが、これは神様が、私のために愛をもって備えてくださったこと、「神は愛である」と、そこに立ち返ることができて、「心が軽くなりました」と、喜んで感謝していました。といって、状況に変化はない。相変らず問題の中にいる。しかし、その方の心が軽くなっている。自分を責めていたのです。私が悪かったと責める思いが強かったのです。その方のお話しを聞きながら、人間はどこまでも高慢なといいますか、神様に取って代わろうとするのですね。そういう思いが私たちのうちにあるのです。神様が地を造られた御方である、神様がすべてのものを造り出したと信じているだろうかと、自分の心を探ってください。良かったことも、失敗と思うことも、神様がなさっていることです。

哀歌3章37節41節までを朗読。

この37節に「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか」とあります。地を造られた主、言い換えますと、神様が命じてすべてのことがそこに存在している。だから、38節に「災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか」。「災もさいわいも」、どんなこともすべて神様の口から出る。その次39節に「生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか」。先ほど申し上げたように、自分が悪かったとか、自分が何とかだ、あの人がどうだとか、この人がどうだとか、いろんな事でつぶやきます。つぶやくことに私たちの罪がある。何が罪かというと、神様を認めない、神様ではなくて、何かほかのものがすべての原因であるかのように思うから、つぶやくのです。私たちの心がピタッと神様に向いて、主がこのことをしてくださった、と言い切れたときに、つぶやくことが無くなります。ところが、それ以外のものに原因を求めているとき、絶えずつぶやいています。自分であったり、人であったり、事情や境遇や、与えられた問題や事柄をつぶやくことになります。実は、それが罪です。神様は、災いも幸いも、すべてのことを備えて、何をなさるかというと、40節に「われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう」というのです。ここが神様の本懐、本心なのです。「主に帰ろう」。神様は、いろんな災いも幸いもお与えになります。そのご目的はなにか?私たちが主に帰るためです。神様の所に帰って、そして41節に「われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう」。昔、イスラエルの祈りは手を上に上げて祈っていました。モーセがアマレクと戦うときに、モーセが手を上げればイスラエルが勝ち、手を下げればアマレクが勝ったとあるでしょう。お祈りするときに手を上げます。ところが、ここに「心をもあげよう」と、手も心も上げる。お手上げというのはこのことです。神様に降参するのです。神様はこれを求めているのです。いろんな災いにも幸いにも会いますが、そのことを通して主に帰るのです。これが神様が求められる事です。私たちが神様の所へ帰っていく。「帰る」というのは、「手も心も」全部主の手に、神様にささげるのです。これが私たちの求められることであり、また、神様が願っている、またそうしてくださるのです。

エレミヤ書33章2節に「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主」、文語訳によると「事をおこなふエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」となっていますが、「形造って堅く立たせられる」というのはどういうことでしょうか。宇宙には無数のいろんな星が動いています。太陽系の星を考えてみると、太陽を中心として星が運行している。これが気まぐれに、いつどうなるか動きがわからなかったら、これは大変なことです。地球も太陽の周りを決まった周期で運行しています。また地球自体も自分で回っています。そのおかげで春夏秋冬があり、また夜があり昼があり、自然現象がきちっと行われている。千年前はそうじゃなかった、というのではない。何十億年という長い間、同じように変わりません。「堅く立たせられる」、きちっと変わらない不動のものとしてくださっているのです。だから、すべてのことがうまくいく。前にもお話ししましたように、月にロケットを送ったり、あるいはどこかの星に無人探査機が飛んでいったりできるのも、天体がきちんと定まった動きをしているからこそ、できるのです。気まぐれに、日によって地球が早く回ったり遅く回ったりしたら、よし、これで月に向かってロケットを飛ばそうと、飛ばした途端に地球の動きが止まったなら、とんでもないことになります。ロケットは決められた軌道に乗って、月にぶつかるように飛んでいくわけです。月も動いているから、それを計算してロケットは飛びます。うまい具合に月に届くように打ち上げるのは、人間の力じゃなくて、神様のきちっと定められた動きがあればこそです。神様は、春夏秋冬を問わず、常にひとつの決まった不動のルールに従って動かしておられる。

これは目に見える天体の動きばかりでなくて、実は、私たちの心や、生活のすべてのことも、このように「堅く立たせられる」、神様がしっかりと握っておられる。神様の御手の中にあって、一つ一つの事が起こっている。それを堅く立たせていて、最後まで全うしてくださる。神様が、不動のルール、きちっと動かないことをしてくださる。と同時に、この堅く立たせられるというもう一つの意味は、終わりまでそのことを完成なさる。わたしたちは事を始めてもなかなか完成にいかない。途中で嫌になったり、気まぐれですから予定変更などがあったりします。しかし、神様は、真実な御方とあります。神様が、真実な御方だということは、すべてのことを最後まで責任を持って下さることです。神様が私たちをこの地上に造り出してくださって、生きる者としてくださった。ですから、その終わりまで神様はちゃんと責任をもっている。真実に私たちを顧みてくださっています。

そうやって、この一年を導かれてきたのです。神様は真実な御愛と恵みをもって、きちっと握っているのです。不動のもの、変わらない御方となっていらっしゃる。しかも「その名を主と名のっておられる」。「主と名のる」というのです。『名は体を表す』と言います。呼び方によって、その人の性格が決まります。「社長」と呼ばれたら、やはり社長らしくなります。だから、名称を付けるのです。その名前らしく変わっていくことがあります。どういう名前を付けるかによって、その子どもが将来どういうふうになっていくかが決まるように思います。だから一時話題になりましたね。「悪魔」という名前を付けようとしたら、役所の方が拒んだのです。そうだろうと私も思います。やはり大切なのは名前です。

「その名を主と名のっておられる」、「主と名のる」というのです。主と言うのは、中心という意味です。主人です。家の中の中心は、主人です。主婦という人もいますけれど、主であることは、その中心であるということです。だから、ここで神様が「その名を主と名のっておられる」。物事の中心なのだ。徹頭徹尾、アルパでありオメガである。初めであり終りである。すべてのことを貫いているのは神様です。その御方がなんとおっしゃるのか。3節に「わたしに呼び求めよ」です。この一年、どれ程、神様に祈り続けてきたかわからない。おそらく皆さんもそうだと思いますが、絶えず祈り続けてきた日々ではないでしょうか。そして、祈り求める相手はどういう御方であるか。それがまさに、2節に「地を造られ」、また「形造って堅く立たせ」、そして「主と名のっておられる」、こんな御方に、天のお父様と、イエス様のゆえに、近づくことができる一年であったと思います。もし私たちに祈るべき御方がいなかったら、それを想像しただけで、人生がどんなに悲惨なものであろうかと思います。

先日、一人の方が、私はイエス様に救われましたが、何が良かったか考えると、祈ることですと言われました。毎日毎日いろんなことで神様に祈らせていただいてきました。祈ることがなかったら、ここまで生きることができなかったと思いますと。その方の具体的な生活ぶりを聴いていますと、確かにそうだろうと思います。私たちもそうです。どうですか、皆さん、この一年、どれだけ主に祈ったことでしょうか。しかも、無料ですから、こんなうれしい話はない。弁護士さんは一時間5千円です。この一年間に祈った時間を足して御覧なさい。何十時間になっているかわからない。それでも神様は、もっと祈れとおっしゃいます。ここに「わたしに呼び求めよ」。しかも、その「わたしに呼び求めなさい」と言われる御方が、力のない人、弱い人であって御覧なさい。なにも頼むことができません。

先日の礼拝でもお話ししましたように、あわびが神様を助けて、その神様に祈ろうというのだから、人間とはおかしな者だと思います。そういう神様が私に呼び求めよと言われても、あなたは溺れかけた神様じゃないの、自分の命も救えない神様にどうして頼めますか、となります。私たちが信じる神様は、「地を造られた」、「堅く立たせられた」、「その名を主と名のっておられる」、この御方が「わたしに呼び求めよ」と言われるのです。どうぞ、お祈りをするときに、今私は誰に向かって祈っているか。その御方はどういう方であるのか、しっかりと確信をもって祈りたいと思います。何か知らないけれど、祈っておけば誰かが聴いているかも知れないという、そんなあやふやな思いじゃなくて、はっきりと、あなたが今日私を造り、生かしてくださっている、主であるあなたにお祈りするのですと、心をきちっと神様に向ける。そうするならば、なんとありますか。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」。しかも、その主は、私たち一人一人、小さな存在、あるかないかわからない、はかりの上のちりのような存在とイザヤ書にありますが、何の存在、値打ちもない、軽い、軽い、そういう私たちにすらも、「そうすれば、わたしはあなたに答える」と言われるのです。神様は、私の祈りに直接答えてくださいます。

この一年を振り返って、祈った祈りに主が答えてくださって、今日、私たちがあるのです。ところが、私どもは、いい加減ですから、年もとって忘れますから、何をお祈りしたか思い出せない。この一年間いろんなことを祈ってきた、その祈りに答えられて、生活の隅から隅まで、一つ一つ、思いもかけない、考えもしなかった恵みの中に感謝をもって過ごすことが出来ました。ですから、先程の哀歌3章22,23節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。いつくしみとあわれみが絶えず注がれている。日々祈らせていただき、主の真実によって支えられてきました。3節に「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」、と約束です。新しい一年も、この主に呼び求めていく。神様に信頼していく。しかも、その後に「そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。私たちがまだわからない、まだ思いもしない、考えもしない、願いもしないような「大きな隠されている事」、想像のつかないことを神様は成してくださいます。私たちの祈りに答えてくださる、その答え方は、私たちの願ったとおり、細かくそれに従ってじゃなくて、神様の御心にかなって、それどころか、私たちの思いを知り給う御方は、私たちの願うよりも、思うよりも、もっと大きな素晴しい隠れたことを私たちにしてくださいます。

ザカリヤとエリサベツの記事がルカの福音書にあります。彼らは年老いて子供がいませんでした。そして神殿で祈っている時に、ザカリヤさんに神様の使いが来て、願いに答えられる。それでびっくりして彼は、それが信じられなくて、とうとうものが言えなくなってしまったのです。その後で、エリサベツさんが、「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」(ルカ1:25)と喜び、賛美、感謝しています。思い掛けない、自分にも想像しないことをして、神様は、彼女の心の痛みであったものを取り除いてくださいました。こんな形で実現するとは思わなかった、と言うのが、正直な告白でしょう。私たちもこの一年そうではなかったでしょうか。長年祈っていたことが、神様がこういう形で解決してくださった。このことについては、こうなるとは思わなかったことばかりです。こうしてこうなるに違いないと思ったが、そうじゃない。神様のなさることはもっと大きな、とてつもない事です。

旧約聖書にあるナアマン将軍がそうでしょう。祈ってもらおうと預言者エリシャの所へ行きました。彼はきっと預言者が出てきて、じかに手を置いて祈って、それらしいことをして、元気になるに違いないと、自分の考えた筋書きがあった。ところが、ヨルダン川に行って七たび身を浸すように、しかも顔ひとつ見せないで、あいさつひとつしないで、使者を通して言われた。こんなことがあるか!と怒った。彼の想像を超えていたのです。神様に対してそういう失敗をよくやるのです。お祈りしながら、「神様、どうぞよろしく導いてください」と言いながら、次はこうなって、その次はこうなって、神様はきっとこういう形で答えてくださるに違いない、感謝しますと密かに計算している。ところが、神様は、そんなことを超えて、ナアマン将軍が思っていたことを超えて、彼を癒してくださいました。その道筋はわからない。しかし、そこにありますように「あなたの知らない大きな隠されている事」、何もわからない、驚くべき事を神様がしてくださいます。事実、ナアマン将軍は、ヨルダン川に身を浸した時に、自分の願ったようにすっかり病が癒されたのです。彼の思ったとおりの手順やそういう仕方ではなかったけれど、神様は、神様らしい業を行ってくださいました。

どうぞ、来るべき新しい一年を迎えますけれども、この神様に対して期待していこうではありませんか。あらゆる祈りに、答えてくださいます。地を造り、それを力ある御手を持って支え導いている、しかもすべてのものの主でいらっしゃる御方に対して、「わたしに呼び求めよ」とおっしゃいますから、真剣に熱心になってしっかり祈って、主の御業を待ち望んでいきたい。神様は、私たちに答えるとおっしゃいます。真実な御方です。どうぞ、主のお語りになった御言葉を、きちっと信じて、そのとおりに私たちも神様の御業を味わう者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。




聖書からのメッセージ(68)「永遠の命とは」

2013年11月28日 | 聖書からのメッセージ
ヨハネによる福音書3章16節から21節までを朗読。

16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この3章16節は、神様の御思い、どんな思いをもって私たちに臨んでおられるかをここではっきりと告白してくださっている。神様からのラブレターのようなものです。ある方は、これは聖書の「へそ」のようなもので、これがなければ聖書は成り立たないと言われます。その方は、それほどにこの御言葉から得られる恵みに感謝し、喜んでいるのです。

16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。まず、「この世」というのは私たちのことです。ですから、ここに皆さんの名前を入れて読まれるが良いと教えられています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、『榎本』を愛して下さった」と私は読みます。皆さんも、それぞれにお名前を入れて読まれると、神様が、十把一からげでまとめてではなく、一人一人、個別に名を呼んで、愛していると告白しています。イザヤ書の43章にも「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ」と、私たち一人一人の名を呼んでくださって、一人一人に目を留めていらっしゃる。神様は私たちを愛してくださったのですが、「ひとり子を賜わったほどに」という以外にその愛を表せない。高価なダイヤモンドの指輪を、世の人は期待するかもしれませんが、神様の御愛の深さ、大きさをどういう言葉で表現すべきか、どう言ったらいいのか、わかりません。

ご夫婦で「お前は俺を愛しているか」「愛していますよ」「口先ばかりで、お前の愛はどこにあるのか、ちょっと見せてくれ」と言われても、これはちょっと困ります。あなたのためにこんなにした、あんなにした、と言っても、自分の心の中はそんな言葉以上だ、と思います。それと同じように、神様は、私たちを愛してやまない、その御愛の大きさをどう表現し伝えようか、その結果が「ひとり子を賜う」、言うならば、自分の命のようなものです。ある意味で、自分の命を捨てることのほうが楽です。愛する自分の子どもが苦しんだり嘆いたりしている姿を見るとき、耐えられないと、親御さんがよく言われます。私は残念ながら子供がいませんから、その気持ちは良くわかりませんが、推測はつきます。だから、近頃、子どもに関するいろいろな事件が報道されますが、その度にその親の気持ちは、心が張り裂けるばかりだろうかと思います。むしろ、自分が身代わりになって、死んだほうがよかったと思うでしょう。

私の母は、幼子を二人天国に送りました。一人は半年くらいで、もう一人は二週間くらいで召されましたが、それから、十年近く、母はそのことのために、生活の調子が狂って、いろいろと事が多かったことを、子供心に覚えています。そのころ母がいつも召された子どものことを言います。それは随分長い間そのことを言っていました。子どもが召されたころ、幼子の虐待だとか、事故死のニュースなどを聞くと、母はぼろぼろ涙を流して泣きます。私どもはまだ子どもですから、どうしてそんなに泣かなければいけないんだろうか、と思いました。母にとってみれば、自分の経験した悲しみや、深い絶望感のようなものを繰り返して感じるのです。私は子供心にいい加減に忘れたらと思うことがありました。親にとって、子どもを失うことは、本当に痛い。最近若い人の中にはそういう気持ちのない人がいまして、理解に苦しみます。まさに、神様はそういう痛みと苦しみの中、「ひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです。私たち一人一人を愛してくださった。

そのあとに「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と。ここに「それは」とありますから、つい愛する目的は「永遠の命を得させるためである」というふうに読みやすいのですが、ここで言っているのは、神様は御自分の御子、イエス様を私たちの所に送ってくださったのですが、それほどに私たちを愛してくださったと同時に、御子を信じて永遠の命にあずかることでもあるのです。だから、神様が愛してくださったことと、永遠の命を得ることは同じことです。私たちを愛してくださった愛の故に、永遠の命を与えてくださるという、因果関係ではありません。神様の愛はどういう形か?というと、私たちが永遠の命にあずかることなのです。これが神様の御愛です。だから、私たちが、神様の御愛を知るというのは、ただに、イエス様が神の位を捨て世に降り、十字架に命を捨ててくださったということばかりでなく、私たちがイエス様によって永遠の命を受けることができる。そこに神様の御愛があるのです。

「ヨハネの第一の手紙」4章に「神は愛である」と記されています。神様は愛なる方です。この世の中には、神様と呼ばれるものがたくさんあります。しかし、「神は愛である」と告白されている神様が、ほかにいるでしょうか。いないというか、ありようがない。日本の社会には八百万の神がいる。あちらこちらに神様がいるのは、生活の中でご存じのとおりですね。かまどの神様から、井戸の神様、何とかの神様、百貨店のようにすべてそなわっている。しかもそれぞれ専門化されている。交通安全の神様、学問の神様、商売繁盛の神様と、分業化された神様でしょう。そこには愛なんてひと欠けらもない。だから、私どもはこういう社会に住んで、真(まこと)の神様を知らないで生きてきましたから、神様は商売繁盛であるとか、交通安全であるとか、病気の癒しであるとか、この世のご利益を期待する。同時に、この世の神様は別の面では怖(こわ)い神様です。触らぬ神にたたりなし、というように、神様には、下手にちょっかいを出すといいますか、何か関わりを持ったら、とんでもない災難、災いに遭うという考えがあります。だからといって、その怖い神様と無縁ではおれない。神様をうまい具合に、上手に利用して、神様の力だけは自分に都合の良いように欲しい。それでいて、神様の怒りであるとか、のろいであるとか、たたりはできるだけ避けたい。これは人間が考える神様の姿です。

父が例話に話していましたが、福岡の近くのUという所に八幡宮がありますが、そこは安産の神様で、ある奥さんが、産気づいた。奥さんが苦しくて、苦しくてたまらない。そのときにご主人が、八幡宮のお札の前で拝んだ。「神様、今出産しておりますから、どうぞ安産を与えてください。もし無事に出産させてくださったら、金の何とかを差し上げますから……」と言ったのです。そしたら、陣痛の苦しみの中で聞いていた奥さんが「あんた、あんた、ちょっとそんなことを言わんで、うちにはそんなものはない」。「おい。黙っとけ!今、神様をだましているから、今のうちに早く産め!」と言ったというのです。私どもの心の中にも、神様をうまく利用して、ご利益だけはいただきたいけれども、ほかのものはいらないと考えます。

先日、皆さんもご覧になったかもしれませんが、私は、テレビを見ていて大笑いしました。ある地区では、先祖代々アワビを食べないという話がありました。それは、昔、その地区には神様がいなかった。それで海を隔てた新潟から神様に来ていただこうとお願いしたのです。そしたら、神様は海を渡ってどんぶらこ、どんぶらこと、船をこいでやって来た。ところが途中でしけて、思い掛けなく浅瀬の岩にぶつかり、舟底に穴が開いて沈みそうになった。神様は、これは沈むぞと思って、ひょっと見たら、水が止まった。それは、アワビが丁度その穴にくっ付いて水を防いでいる。これ幸いと、目的の村まで無事に着いた。私は、その話を聞いて、神様は、自分の命も救えないのか。なんということかと思いました。ところが、神様より立派なのはアワビですよ。神様の命を救ったのだから……。それ以来、村の人はアワビを一切食べずに大切にした。現在でも、アワビを一切食べないというのですから。私は、人間とはそこまで愚かになりえるかなと思いました。テレビではアワビが穴を塞ぐかどうか、実験していましたが、実験はさておいて、そういうのを信じて、今もなおアワビを食べないという。聖書にも、人が山で切ってきた木や、金を溶かして像を造り、それを拝むけれど、それはものを言うこともできない、走ることも歩くこともできないではないか、とイザヤ書に記されていますが、自分の命すら救えないような神様をどうして頼るのだろうかと不思議です。私は今受けている神様の恵み、真の神様を信じる者としていただいたことは、どんなに大きな恵みであり、幸いであろうかと思います。しかし、そればかりではなくて、ここにあるように「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。そして私たちを、神様の所に帰ってきなさいと、いつでも神様の前に立つことができるように、罪を赦し、潔(きよ)めて、神と共に生きることができるようにしてくださったのです。

ローマ人への手紙5章1,2節を朗読。

1節に「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから」とあります。私たちは、イエス様がすべての者の罪を負って、ご自身をささげて犠牲となり、それによって私たちを義としてくださった。「義とする」というのは、私たちを神様に受け入れられる者、言い換えると、その後にありますように「神に対して平和を得る」ことです。神様と仲良くなるというのは語弊がありますが、神様との間にとがめるものがなくなる。人と人との間でも、いさかいがあって、なんか気まずくなりますね。そのときは、お互いの間に壁ができてしまい、顔を見てもそっぽを向かれるし、一緒の部屋にいても気まずいし、ものが言えない。実は、そういう関係が、神様と私たちの間にあったのです。私たちが、イエス様を知らないとき、神様を信じることができない。神様はなんだか怖い。変なことをする。神様は厳しい方だ、裁く方だ、という思いがある。また、逆に言うと、先ほどお話ししたように、自分の命を救えない程、そもそも神様は弱いもの、頼りにならないのだ。アワビの方がしっかりしていると思いやすい。神様をそういうふうにしか見ることができないのは、私たちと、神様との間に隔てるもの、「中垣」とパウロはエペソ書の2章で語っていますが、神様と私たちの間に妨げるものがどこかにある。だから、素直になれない。

私の家内の父親が、先だってからお話をしているように、入院をしています。自分の病気のことを知って、悔やむわけです。俺もとうとうこの年になってこういう病気になってしまったか、と。また、俺も90歳になったのだから、死んでも当たり前だと思い、あきらめようとする。気持が揺れます。家内は娘ですから、赤裸々に自分の気持ちを打ち明ける。俺はもう駄目だと。気が弱いんですよ。家内は、かわいそうに思って「神様がいらっしゃるから……」と一生懸命に神様のお話をする。ところが、その話になると途端に元気になる。「いや、俺はいい!それはもう和義さんに任せておくから、俺はもういい!」と。そこが大切なのですが、それでいて、「ああ、どうしよう、もう俺はやれん、お母さんを独り残しては、俺が先に逝くわけにはいかんし、なんなら、できれば二人一緒に死ねるといいんだけれど……」。あるときは、「もう自殺しようかと考えた」と、「一晩眠れなかった」とか言います。そうすると家内はたまらない。何とか神様のことを知ってほしいと、神様を信じてと、勧めるのですが、その話になると途端に元気になる。それは神様との間になにか隔てるものがあるのです。私たちの心の中にそういうものがあるのです。じゃ、自分がどれ程のことができるかというと、できない。そのためにいろいろと思い悩む。毎日のように苦しんでいる。だから、あまり苦しむから、説教テープを聞かせてあげようかと言うと、ああ、それはいらんと言うのです。なんだか、神様に近寄りたくないという感じです。私は、それが人の罪なのだと思います。気の毒です。ところが、人がいくら説得しても、どうこうなるわけではない。ただ祈る以外にないし、きっと神様はその心に届いてくださって、その時がくるに違いないと信じて祈っています。

私はその姿を見ていると、「キリストにより、神に対して平和を得ている」ということが、どんなに大きな恵みであろうかと思います。しかも、神様が私を愛してくださっていることを、徹底して信じ続けることができたら最高です。どんな状況に置かれても、「神は愛です」、神様は私を愛してやまない方ですと信じる。神様は一番よいことを私にしてくださると信じて、安心していることができます。これが与えられている大きな恵みです。つい、その恵みに慣れてしまうから、当たり前のように思っているけれども、これは掛け替えのない大切な、大きな恵みです。そういう神様を知らないが故に、神様に反抗して信じようとしないが故に、苦しんでいる人を見ていると、なお更のように、恵みの大きさを感謝せざるをえない。だから、どんな事の中に置かれても、そこで神様の愛に目をとめていくのです。どうぞ、皆さん、つぶやきたい思いがあるとき、なんか不安を感じるとき、思い煩いに満ちるとき、神様がどんなに私を愛してくださっているかを、もう一度細かく、思い返していただきたい。

ローマ人への手紙5章6節から8節までを朗読。

神様に愛される私は、一体、どういう人間か。自分の心を探って、振り返っていただきたい。神様からそんなに愛される値打ちがあり、資格があるだろうか。私たちは、何一つ誇る所はない。いや、それどころか、神様の思いから遠く離れて、あの放とう息子のように、わがままで、自分勝手な歩みをしてはつまずいたり、ひっくりこけたり、けがをしたりして痛む。そうしておいて、八つ当たりして、あいつがいけない、こいつがいけないと、世をのろい、人を恨み、苛立ちと怒りと憤りの中にいた私たちです。そのときに既に、2千年前、あなたのために、私のために、十字架に命を捨ててくださった。6節にあるように「わたしたちがまだ弱かったころ」とあります。「不信心な者たち」とも言われています。8節には「罪人であった時」、「わたしたちのためにキリストが死んで下さった」。

私はイエス様の死についてよくわからなかった時期があります。神様のことはよくわかる。私がお祈りしたら、なんでも聞いてくれる方だと、そのくらいに思っていたのです。ところが、イエス様のことがよくわからない。大学4年生のころ、21,2歳のころですけれども、その当時、学生運動が盛んでした。私の行っていた大学も大紛争になって、学内が大荒れに荒れました。半年間学校が完全に封鎖されてしまったのです。機動隊とぶつかっていた時代、私もシンパといいますか、機動隊にぶつかるのは怖いし嫌だから、うしろの方にいて、はやし立てる方だったのです。懐かしい言葉だと思うのですが、大衆団交であるとか、そういうことをやりました。学長を非難したり、学部長を非難したり、世の中の政治家やなにかの不正や不公平を弾劾する痛快な気分でいました。不正がまかり通っている世の中は、許せん!という思いで義憤に感じていた。そのような気持ちを代弁してくれる仲間たちがいるから、それにひっ付いていた。それで留飲を下げるといいますか、自分の義を立てる。私は正しいという思いが常にありましたから、人を裁く。見る人、聞くもの、なにもかもがしゃくの種です。あいつはこんなことをして駄目!こいつも駄目!と言っている自分の心の中には、いつもいらだっている。そうするとくたびれるのです。そういう自分でないこともよく知っています。そういう活動をやって、自分の下宿に帰り、四畳半の部屋の畳の上に、ああ、疲れた!といって休む。そんな時、聖書を開いて、いつも読んでいる箇所を読んでいた。丁度、それが「ルカによる福音書」の十字架のところ、イエス様が、十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈っている。それまでも繰り返し読んでいて知っているはずですが、そのときイエス様の言葉に触れたのです。それまでは、これはその当時のイエス様を十字架につけた人たちのことだと思っていた。だから、私とは関係がない。私は正しい人間、いい人間で、この人たちのようでない。まさか、私のこととは思わない。ところが、その時は、なにかむなしい思いがした。私が正しいと、事実正しくて、それを主張して、相手を非難して、あなたは間違っているよ、私が正しいんだよ、と言って、相手をコテンパンにやっつけて、ざまを見ろと思うかもしれないけれど、そのあと心が沈みます。

先日も家内の母が、ショートスティから戻って来て、義弟が家で迎えてくれた。そしたら、お母さんが帰って来たけれども、しばらく離れていたし、その前に入院もしていた間に、お父さんが何もかも家の中の置き場を変えてしまって、あれが無い、これが無いと困惑していた。何かが無いというので、とうとう家内の所に電話があって、「あなたがどこかへやったんでしょう!」と厳しく言われる。そうすると家内が「そんなことはない、私はああした……」と、電話で激しいやり取りをしている。家内からよく話を聞いてみると、なるほど、それはお母さんに渡している。じゃ、そう言いなさい。「お母さんに渡しているはず」「もらっていない!」で、弟に代わってもらい、「お母さんに渡したから、ちょっと見てちょうだい、お母さんの袋に入っているはず」と話した。保険証だったか何かですけれども、それで弟が探してみたら「これ何?」とお母さんに渡した。そしたら、お母さんがパッと見て、「あ、あった」。それまでに家内と激しいやり取りをし、主張をしていたのに「あ、あった。あはぁはぁ……」と言って電話を切られた。納まらないのは家内です。それから、もう一度電話して「何!その今の言い方は!私がそう言ったじゃないの」と言ったら、今度はお母さんが泣き出して、私が代わりましてなだめて、なかなか大変です。家内は一応言うべきことは言いましたから終ったのです。そして翌日、今朝ですけれども、家内が起きたら、「くたびれた」「どうして?」「夕べ寝られなかった」「どうして、わかったんだから良いじゃない」「でも、あんな激しいことを自分が言ってしまった。言わなきゃ良かった。それが悔やまれて、夜中自分は眠れなかった」と言う。「自分が正しいことを主張したんだから、良かったんじゃない」と、私は意地悪く言ったのです。そしたら、そうじゃないと言う。自分が正しいと主張したけれども、しかし、そのあとやはり心が沈む。皆さん、ご経験があるでしょうからおわかりでしょう。そこをイエス様が許してくださる。

それが、今読んでいる所の8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって」。イエス様が、そういう私のために……。私も、「ルカの福音書」のイエス様の言葉に出会ったとき、今まで私が正しい!と思っていたのですが、そうじゃなくて、人を非難しているその刃は、実は自分に向かうのです。自分の義であって、神様の義ではなかった。そこではじめて、イエス様が、誰のために死んだのか、イエス様が許してくださったのは誰なのか。この私ではないか!その時、私は許されて、本来は死ぬべき者を、イエス様が、父よ、彼らを許し給え、と今日も執り成し、許してくださって、その許しにあずかって生きているのだ。だったら、誰が悪いと言えない。あいつがどうとか、こいつがどうとか言えない。パウロはそう言っています。「私は罪人のかしらです」と。どうぞ、ご自分がどれほど大きな愛を神様から受けて、イエス様が私のために何をしてくださったのかを、しっかりと心に信じて受け入れていくときに、人が何しようと、どうしようと、文句が言えない。あの人も気の毒としか思えない。どうぞ、私たちはそんな大きな御愛を神様から賜っているのです。

ですから、ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。「ひとり子を賜わったほどに」、私を、皆さん一人一人を愛して、その次に「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。「ひとりも滅びないで、永遠の命を得る」とは、何のことでしょうか?昔、子供のころに『くわばらくわばら、死んでも命がありますように』と、これを唱えたら、怖くないという、じゅ文のような言葉がありました。しかし、永遠の命とは私たちの肉体がズーッと生き続けるということじゃない。もし、私たちが死なない体だったら、これは大変な悩みであります。

105歳でお召されになられた一人の姉妹は、102歳くらいの時、私に「先生、私は悩みがあります」と言う。「何ですか?」「ひょっとしたら、私は死なないんじゃないかと思って心配です」と言われて、はぁ、生きるというのは苦しいなぁ、と思いました。だから、そういう肉体が生き続けることじゃなくて、この「永遠の命」とは、イエス・キリスト御自身を私たちのうちに持つことなのです。私たちはイエス様に救われて、イエス様につながって一つとなっていくところに永遠の命がある。永遠の命という形をした金色の玉みたいなものを、もらってくるというのではありません。イエス様は私のために来てくださって、死んで甦り、私と共にいてくださる。私はイエス様のものとなり、イエス様は私のすべてです、と信じる。そこに、永遠の命がある。

よく言われますが、「先生、永遠の命と言うから、極楽にいくことでしょうね。キリスト教では天国と言いますけれど、そっちへ行くんでしょうか」と言われる。それも当たらずとも遠からずの内容ですが、わかりやすくいうと「天国にいくことです」と説明はしますが、皆さんに申し上げたいことは、イエス様を私たちの心に持つことです。これが永遠の命なのです。イエス・キリストを信じていくことです。イエス様を信じるとは、今、キリストが私のうちにあって、生きてくださっていらっしゃる。これを信じるのです。

クリスマスを迎えますが、このクリスマスは、私たちが永遠の命を得るために、ベツレヘムの飼い葉おけの中に生まれてくださったイエス様のご降誕を記念することですが、それは二千年前の飼い葉おけの中じゃなくて、実は、私たちの心に住むために来てくださった。「言(ことば)は肉体となり。わたしたちのうちに宿った」と「ヨハネによる福音書」1章に宣言されています。イエス様が心の中に今日宿ってくださって、永遠の命となってくださった。私たちはイエス様に許され、執り成され、導かれて、その中で今日も、生きる者とされている。この恵みを心から感謝して、主の命に絶えず潤されていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。







聖書からのメッセージ(67)「重荷を負う者」

2013年11月27日 | 聖書からのメッセージ


マタイによる福音書11章28節から30節までを朗読。

28節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
この言葉は希望を与え、励まし、力づけてくれます。「すべて重荷を負うて苦労している者」と言われると、まず自分だな、と思います。皆さん、それぞれ重荷を負うて、苦労しているからです。重荷を負うても、喜んでいる人は来なくてもいいのです。苦労している人は来なさいと言うのですから、こんな嬉しい話はない。私のもとに来なさいと、イエス様は招いてくださる。これは伝道集会のメッセージとして語られて、多くの人がこの言葉を通して主の救いに出合ったことは確かです。

柘植不知人先生も、はじめてイエス様の救いにあずかったきっかけはこの言葉だったそうです。そのとき柘植先生は、大変大きな悩みを持っていました。それは行方不明の妹さんを捜して、なんとか助けてやりたいと思っていたとき、神戸の湊川伝道館で、特別の伝道集会が開かれていた。入り口にこの言葉が書かれていました。それを見た柘植先生は、なんとえらいことを言うのだ、重荷を負うて苦労しているのは私ではないか、そして「あなたがたを休ませてあげよう」と。ひとつ休ませてもらおうじゃないか、とちょっと居直った感じで、もしそうでなかったらこの看板をもらって帰ろう、と思ったと言うのです。その集会で一番前の席でふんぞり返って、俺を休ませてくれ!という態度であったと『ペンテコステ前後』に述懐していますが、そのときのメッセージを通して、罪が示され、それを許してくださる主の御愛に触れて、帰るときには泣き崩れてしまったという。

しかし、これは柘植先生ばかりでなく、私達もイエス様のところへ来て休ませていただけるのです。これはまことに幸いな言葉です。その後29節に「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。「休ませてあげよう」と甘い話をしたあげく、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と、何ということだろうか。一体どっちが本当なのか。「休ませてあげよう」というからには、重い荷物を下ろしなさい、私が抱えてあげるから、あなたはそこで寝ていなさい、温泉にでもつかってゆっくりしなさい、というイメージで理解します。ところが、イエス様が、私たちを休ませてくださるとはどういうことなのか? もう一度この記事を、28節から30節までをひとつの部分だけでなく、これを全体として読んでおきましょう。イエス様は、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と。ここで「休ませてあげよう」と言われるイエス様の言葉の本意、中心は、魂に休みが与えられることです。

人生には、思わない出来事、家族の問題、自分自身の問題、病気の問題、経済的な問題、老後の問題など、沢山あります。あるいは子供や孫たちのそれぞれの進路であるとか、仕事であるとか、いろいろ境遇や事情について悩むこと、思い煩うことばかりです。なんとかそれが解決できたら、そういう事情や境遇という目に見える具体的な問題が解決してしまえば、楽になる、安心が得られると思います。

もう一度、重荷というものの内容をよく考えてみますと、お金が足りないとか、今病気をしているとか、体が動かないとか、寝たきりであるとか、そういう具体的な問題が重荷だと思いがちです。ところが実は、イエス様が見ていらっしゃるのは、そういうことが重荷ではない。魂が重荷と感じている。ここが問題です。私たちはいろんな問題に遭います。具体的な事があります。目の前の事は、どうにでも解決がつくものです。それでは、どんな病気も治るかといったら、もちろん治ることもあるでしょう、治らないこともあるでしょう。しかし、病気にともなう、死ぬかもしれないという不安があり、恐れがあるから、それが重荷と感じます。いろんな事柄が、自分の心の問題、魂の不安と恐れと絶望、希望を失うから重荷となるのです。重荷の原因を考えると、目に見える状況や事柄が重荷なのではなく、それを受け入れられない自分が苦しむのです。問題が起こったとき、大変なことになった。どうしよう、なんでこんなになったの、私は嫌だ!と思うでしょう。こんなのは予定になかった、こんなはずじゃなかった、というので重荷に感じる。自分の考えがあるのに、それを実現できなかった。自分の思いが妨げられてしまった。自分の人生がこれで台無しになるに違いないと。結局は自己中心なのです。行き着く所は、自分の何かを失うのではないか、私が面倒に引き込まれるのではないだろうか、そういうことが私たちの問題点ではないでしょうか。だから、私自身もそういう経験をしましたが、病気だと言われると、それなりの処置をするほかありません。手術をするなり、服薬するなど、治療をしなければなりません。現在の医学でなし得る限りのことをやります。結果はわかりませんが、取り敢えずその治療にあたります。問題は、その事を自分が喜んでそれを受け止められるかどうかということです。これが重荷というものの実体です。

だから、家族がとんでもないことをしでかして、その火の粉が私に掛かってきた。なんであの子があんなことをしてと、人を非難したり、その問題を嘆いたりします。しかし、なぜ苦しいかというと、自分の心がそれを真っ当に受け止めきれない、嫌だと思うからです。その代表がマリヤさんですね。皆さんもよくご存じのようにマリヤさんに「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と天使が告げます。それに引き続いて、とんでもないことを聞きました。「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と、彼女は不安と恐れで重荷になったのです。大きく自分の心にのしかかってきました。

私たちもマリヤさんと同じ体験を日々しています。思いもかけないことが起こってきて、ああどうしよう!そういうときに考えるのは、これから私の時間が取られるかもしれない。健康を失うかもしれない。お金がかかるかもしれない。せっかく貯えた虎の子が消えるかもしれない、ひょっとして私の人生はここで台無しになるかもしれない。こんなことにかかわることになったら、えらいこっちゃと、一瞬にして、自己中心の思いが一杯になります。マリヤさんもそうだったのです。「恵まれた女よ、おめでとう」と「え!何? どうしたの」「こうですよ。こう成りますよ」「えらいこっちゃ、そんなのは嫌です! 」と。私たちも同じことを体験します。それが重荷なのです。

ここでイエス様が「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言われる。まずイエス様のところへいく。これがすべてです。なぜならば、イエス様は「魂に休みが与えられるであろう」と。重荷の原因である私たちの思いを取り除いてくださる方です。ですから、思いもかけないことが起こる、重荷だと思っていることがあったら、よく静まって自分の心を探っていただきたい。一体自分は何を嫌だと思っているのだろうか? 探っていくと、行き着くところは、どこかで自分を守りたい、自分の命を惜しんでいる。自分の何かを失いたくないとしがみついている、嫌だと拒んでいるのです。ここが諸悪の根源です。そのことをはっきりと知っておきましょう。
月曜日でしたが、朝、まだ7時前だったですが、電話がかかってきまして、何事かな、と思ったら、家内の母からでした。今朝、義父が血尿だったので、どうしたらいいか、という相談でした。とりあえず、救急車を呼んで病院に連れて行くようにと伝えました。家内は日曜日の疲れがあって、まだ休んでいました。一瞬家内は「どうしてこんなことになるの! 」と。一週間前に母が、やっと骨折が治って退院したばかりです。今度は、父がそんなで「もう、嫌だ! 」と言ったのです。その気持ちはよく分かります。親だから仕方がないけれどどうしようか。血尿と聞くと、何か重大なことを考え、家内もパニックになっていました。その時、とにかくお祈りしまして、これは主が与えてくださる事、主が負えとおっしゃるのだったら、拒むことができません。まさにマリヤさんと同じです。「恵まれた女よ、おめでとう。あなたのお父さんが病気になりましたよ」と言われた。「なんで今どき」と、「しかも、クリスマスの忙しいときに、私は身動きならないじゃないの! 」と、それはそのとおり。しかし、いろんなことを主が負わされるのです。それで、とりあえず直ぐに出かけて、S病院に行きました。診察の結果膀胱(ぼうこう)ガンということでした。
話を聴いてみると、義父は前から前立腺肥大だと自己診断をしていたようで、ここ数年、時折わずかな出血があったようです。本人は、年を取って前立腺が肥大しているからと勝手に思い込んでいた。それで直ぐに前立腺がんの血液検査をしてもらった。その結果、前立腺ガンが転移して膀胱がんになっていたのです。でも、90歳ですから切ったり縫ったりはできないので、とりあえず内視鏡で膀胱の出血を止めることにして、そのあとどういう治療ができるか考えることにしました。

そこでまた、問題になるのは、今度は
母の処遇をどうするかということです。義父が入院すると一人になります。両足骨折のあとで杖を使っていますし、元来、若いときからひざが悪かったのです。今回の骨折入院のために一気に筋力が落ちたために、両手で支えなければ立つことができないので、とうてい一人で生活できません。義母は、一人で暮らせると言うのです。介護保険を使ってショートステイをケアーマネジャーにお願いしました。そしたら義母は、頑として自分は、ここで、一人で生活すると言う。歳を取っての頑固さというのは始末におえない。できるだけやらせてみよう、そして音を上げたら、そこで考えようと決めました。父を入院させて、すべての手続きを終って帰ってきましたら、夕方義母がデイケアーから戻ってきました。生活をどういうふうにするか? みんな知恵を出して、何もかも椅子(いす)に座っていて使える範囲に持ってきましょうと、やってもらっているうちに、義母は不安になったのです。どうしようか、やれるんだろうか? 現実できません。暗くなって、みんながもう帰ろうというときに、母が「私、どこかへ入れてもらえんやろうか」と、それで早速そばにいたケアーマネジャーの方に手配してもらいました。どこの施設も一杯で断られましたが、一カ所だけ、10日間くらい入れてくださるというので、翌日からそこにお願いするようにしました。

ところが、その月曜日の夜だけ、義母は一人になった。家内も泊まってやらないと言うのです。義母は、娘だから一晩くらい泊まってくれるかなと思ったでしょう。家内は、自分でできないことを知ってほしい。私が泊まって、いつまでもかかわって、介護ができるならいいけれども、どうしても途中で放り出すことになるに違いない。そのときに義母は失望するから、今のうちから、娘は当てにならんと思ってもらいたいと言う。その上で自分はどう対処すべきか、謙そんに考えるようになってほしい。娘だから、して当たり前ということは通らない。肉親の介護ほど悲惨なことはありません。他人ほど幸いなことはない。もちろん、しないわけじゃない。私どももできる限りのことをしようと思うし、しなければいけない。だけれども、どこまで手を出すか、考えなければならない。その晩は泊まらなかった。翌日、ショートステイする入所手続きのために朝から家内も出かけまして、手続きなど全部やりました。そのときに「夕べは眠れんかった。朝まで起きとった」と言う。すると娘として、家内もグッと胸にくる。かわいそうなことをしたと思うのですが、やはり涙を振り払って、これはある意味では苦しい選択です。そして、義母をその施設にお願いしました。そこではとても親切にしてくださっておそらく大丈夫なんだろうと思うのですが、すぐにもう帰りたい、と言い出すのではないかと、家内とも話をしています。しかし、そのときには引き受けると、心を定めておく。どうしても引き受けなければならない、私どもでなければならない事もあります。そういういろんな思い煩いが、たくさんあります。これまで、いろんな方々のことを見てきていますから、余計に想像することが多い。そうすると、困ったなぁ、と思う。まさに重荷です。その困ったなぁ、という思いのどこかに、また迷惑を掛けられると言うか、自分の時間がなくなる、ああいう事も、こういう事も、これから何もかも引っかぶって、私ひとりが大変だな、と思い込むところに問題がある。そこで、何が私たちの支えとなるのか。

ローマ人への手紙5章3節から5節までを朗読。

3節に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」。患難を喜ぶことができる者となる。5節に「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。ここがポイントです。私たちの心に神様の愛が、あふれているかどうか、ここです。そして神様の御愛というのは、6節以下「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。なんと素晴しい神様の御愛ではないでしょうか。「わたしたちがまだ弱かったころ、不信心な者であったとき、罪人であった時」、頑なで、わがままで、自己中心で、神様に従うことをしないで、自分の思いと己の欲と得とに引っ張られて生きていた私たち、そのとき8節に「キリストが死んで下さったことによって」と、イエス様が、あの十字架に父なる神様から呪いを受けてくださいました。そして私たちに神様の御愛を示してくださいました。神様が、赦されざる私たちを赦して神様の御愛を注いで、こんなにあなたを愛しているではないかと言われます。御霊によってキリストの御愛を私たちのうちにいただくことです。ここで大切なのは、キリストの御愛に満たされたら、何でも相手の言う通りにしてやろうとか、相手に優しくなろう、というふうに思いますが、愛とはそういう優しいばかりではありません。ここでいう愛は、神様が私たちを愛してくださった、その愛に応えていくことです。神様が私たちを愛してくださった御愛によって、今度は主の御愛に応え、恵みに感じて、イエス様が与えてくださった事と信じて、重荷を負うものに変えられること。そのときに患難を喜ぶ者となるのです。患難を喜んで、イエス様の負わせてくださる重荷として、私たちが受けていく。神様から愛されている者にとって、神様がこれを与えるよと言われるとき、喜んで負う者となるのです。

小さな子どもを見ていると、お母さんから愛されている子どもは、お母さんが「これをしてね」と言うと「はい!」「ハイ!」とその用事を受けて喜びます。小学校でもそうですが、先生から用事を言いつけられると、得意気にやりますね。授業が終って、「誰か、黒板を消してくれる人はいませんか」と言ったら、「はい」「ハイ」「はい!」と皆手をあげます。先生の手伝いができるという喜びがあるのです。先生が喜んでくれることを、楽しみとする子どもにとっては、どんなことを言い付けられても、喜んで引き受けます。先生が、教室から教員室に帰るとき、「先生の荷物を持ていきます」と言って、誰かが直ぐ先生のノートやかばんを持っていきます。先生は迷惑そうだけれども、喜んでさせますね。愛による交わりがあるとき、何をしても喜びに変わるのです。

皆さんもかつて若いころ、愛し、愛されているとき、奥さんのいうことは何でもしてやりたいと思う。ご主人がすることには、なんでも一緒になって喜ぶ。それは愛があるからです。段々愛が冷えてくると、そう感じなくなって重荷になります。私たちが受けるどんなことも神様が与えているのです。私たちが、嫌だなぁ、こんな大変なことになったと、思うことも、神様から出ている。この度の家内の両親のことを考えると、本人たちが好きでなったわけじゃない。娘に、ひとつ俺の世話をさせるために、病気になってやりましょうと、あるいは、自分はもう足腰が立たなくなって、娘の世話になりたいから、早く病気になろうと考えたのではありません。親は、一生懸命に娘に迷惑を掛けないでおこうと思って、努力してきたのです。本人たちにも思いもかけない患難であったに違いない。それはまた、家内にとっても、ひいては私自身もそうですが、そのことを引き受けなければならないところへ、神様から無理やり引き出されてきた。それを神様から、今託せられた事柄として、愛のうちに受けとけることができるかどうか。それがここで言われている「患難をも喜んでいる」ことです。

ここにいらっしゃる先輩の皆さんは、既に介護するほうの役割を終えられて、もうまもなく介護される側へと変わりつつある方もいると思います。今、話を聞きながら、これはいつか来た道だな、これはかつて私が歩んだ道だと思われるでしょう。大切なのは神様の御愛に絶えず満たされていることです。5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。イエス様は、私たちが罪人であったとき、弱かったとき、不信心な者のために、十字架に命を捨てて死んでくださって、愛を現してくださいました。命を懸けてあなたを愛しているではないかと。そして、そのイエス様が、わたしが負うのだから、私が負う荷物をどうして君も負えないのか? 私たちが、「どうして?」 と思うとき、そのことに目を止めていただきたい。マリヤさんが、「恵まれた女よ、おめでとう」と言われて、とんでもない大きな事柄を神様から託されました。そのとき、どうしても嫌で仕方がなかった。しかし「神には、なんでもできないことはありません」。そうでした。これは神様!あなたが、私に託してくださった。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」、喜んで、神様の業に自分をささげたのです。空っぽになったのです。私たちも同じです。イエス様の愛に溶かされ、消し去られて自分を捨てていくのです。

私は、この度のことを通して、このことを、心に迫られ、決断をさせられました。どんなことがあっても、必要ならば命でもなんでも惜しみなくささげていこうではないか。財を尽くし、健康を尽くし、どんなことでも、主が必要としてくださるならば、イエス様が喜んでくださるのだったら、そこに従っていく。これが私たちの決断です。そこにいくまで私たちは悩みますね。なんとか逃れたい、マリヤさんもそうです。最後の最後、どん詰まりにきたとき、神様から「神には、なんでもできないことはありません」。これは神様の業なのだから、神様がするとおっしゃる。お前はただ私にすべてをささげなさい、と迫られたときに、マリヤさんは「わたしは主のはしためです」と謙そんになって、自分を委ねました。神様の御愛が、マリヤさんを包んだのですね。

ルカによる福音書1章46節から50節までを朗読。
これは後に、マリヤさんがエリサベツを訪ねて、喜び、感謝したマリヤの賛歌、喜びの歌、主をほめたたえた歌です。この46節以下に「わたしの魂は主をあがめ、47 わたしの霊は救主なる神をたたえます」。手放しで神様をほめたたえている。つい何日か前まで、彼女はそんな気持ちになれなかったのです。どうしてそんなことがあるでしょうかと、不満でいっぱいでした。ところが、神様の大能の手のもとに自らを低くして「主のはしためです」、私はあなたから造られた、小さなはしために過ぎない、汚穢(けがれ)果てた者ですと、主の手に自分をささげました。主の御愛を信じたのです。
私たちもそういう問題に出合うとき、思いもかけないことが起こったとき、マリヤさんのように、このことは主から出たことですと、まず、確認したいと思います。あの人がいけない、この人がもっとああしとけばよかったなど、そういう後ろ向きの事柄じゃありません。そうだ、これは神様が、今、事を起こしていらっしゃる。そこで、神様の愛に満たされていくのです。こんな者を愛してやまないイエス様が、この問題を与えてくださった。そして、あなたは私に従え、主が負わせてくださるものを、喜んで負い、感謝して受けるとき、それまで重苦しく覆っていた雲が消えていきます。今までの押しつぶされそうな重荷が、パッと消えてなくなります。皆さんでも、自分がしたいと思うことがあれば、徹夜だろうとなんだろうと喜んでするでしょう。ところが、母親の看病を徹夜ですることになると、「なんで私が!弟がいるじゃないの、兄貴がいるじゃないか」と、押し付け合いになる。嫌だと思うからです。登山をする人を見てください。何十キロという重い荷物を背負って坂道をどんどん登る。大変でしょう、苦しいでしょう、と言ったら、いやこれは楽しみですから、と答えます。自分がしたいと思うから、重荷だろうとなんだろうと、重いリックサックを担いで山に登るのです。頂上に行けば金塊の一つくらいもらえるんだったら、私達も行きますが、何にもないですよ。行ったって、何にも無い頂上に立つだけです。それでも彼らは、自分が登りたいという願いがあり、登ることに喜びを見出しているから、負っている荷物すら軽いのです。
私たちの人生も同様です。強いられた人生だと思っている。何で私がこんな目に遭わなければならない。どうしてこんなに、と思い続けている間、重くて重くてたまらない。イエス様が、私たちのために何をしてくださったか。主の愛が満ちてくると、これも主が喜んでくださるならば、喜んで負いましょうと、私たちの向きが変わってくる。マリヤさんのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」、主よ、あなたの思うとおりにしてくださいと、まな板の上の鯉になりきってしまったとき、喜んでそれを負うことができるのです。しかも、それはもう重荷ではない。山に登る人の重いリックサックは楽しみのためなのです。そして喜んでそれを負って行くのです。
48節に「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」。神様の大きな御計画と大事業の中に、こんな私のような者を選んでくださった。そこにマリヤさんの喜びがある。だから、重荷どころじゃない。「今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう」。誠にそうですね。私たちも、主が負わせ給うときに、その重荷を喜んで、キリストの御愛に応えて負う者となりましょう。49節「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです」。力ある方が、私に大きな事をしてくださった。まだマリヤさんには具体的に事が起こっていません。これからどういうふうになるのか。そして生まれ出てきたイエス様が、どういう人生をたどっていくのか、その最後にどういう困難と苦しみが待ち受けているか、分かりませんでした。しかし、分からないけれども、この事は力ある御方が定めてくださった事柄なのだから、しかも、神様の業に私を選んでくださって、引き入れてくださった名誉を、喜びを感じるのです。
家内が、いみじくも「このクリスマスの忙しいときに、なんでこうなったの!」と言ったのですが、だからこそだと思うのです。このときにこそ、神様がすべての主であって、すべての問題や事柄、御計画の中に、私たちを引き入れて、神様の業を現そうとしている。それに対して、私どもはどう応えるべきなのか。愛してくださる主が、「せよ」と言われるなら、喜んで従っていこうではありませんか。そう心を定めて祈りましたときに、もはや重荷は重荷ではない。あとは神様が、どういうふうに手立てをしてくださるか、これからのことは分かりません。義父が手術を受けることになっていますが、お医者さんの方では、大体2週間から20日以内には退院できると言われています。退院したあと、90歳で非常に体力も弱っていますから、ほかの問題が出てこないとも限りません。家に帰って、動けない母を介護できるだけの体力は残っていないと思います。そうなるとこれからどういうふうに処置をしていくべきか。今直面している問題です。しかし、これも主が、先立ってくださる。私がするのではない。だから、家内にも、私たちが何かをするのでなく、神様がなさるのだから、そこに従っていこうではないかと言うのです。これ以外にない。娘だからしなければいけないと思ったら重荷です。
イエス様が、ゴルゴタの丘へと、ドロロウサという旧エルサレム市街の嘆きの道を十字架を負うて歩いていく。疲れて何度も倒れる。とうとうローマの兵隊は、そこにいたアレキサンデルとルポスの父シモンという人を捕まえて、無理やり十字架を負わせます。気の毒なシモンでしたが、彼は、その十字架を負うことによって、イエス様の救いにあずかるのです。そののち「ローマ人への手紙」16章を見ますとルポスの名があります。シモンの息子であるアレキサンデルもルポスも、イエス様を信じる者となっているのです。一人の人が無理やり負わせられた十字架を負うていくときに、そこに命の道が開かれていく。マリヤさんもそうだったのです。自分をささげて主に従ったとき、「今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう」と、大きな恵みにあずかりました。
マタイによる福音書11章28節に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。イエス様が負わせてくださる、イエス様が与えてくださるものだったら、喜んで主の御愛に応えて、負い、担っていく。それは重荷とは感じません。喜んで感謝して負わしていただけるなら、こんな名誉なことはない。私たちはイエス様の御愛に満たされて、与えられた一つ一つの事柄を負う者となっていきたい。それはなにも介護する側の問題ばかりでなく、介護される者になったときもそうです。神様が、私をこういう状況の中に、こういうところに置いてくださった。そこで頑なになって、こんなに人から世話されなければならなくなって、情けない、もう嫌だ!死んでやる、などと自暴自棄になるのは間違いです。神様の愛の手の中に、置かれていることを感謝して、介護・援助されるならば、それを感謝して受けることができる者になりたい。素直な、従順な心を絶えず主の前に持ち続けていく者でありたいと思います。そのために「あなたがたを休ませてあげよう」と言われる主のもとに立ち返って、イエス様の御愛に日々満たされていこうではありませんか。
ご一緒にお祈りを致しましょう。


聖書からのメッセージ(66)「目標をめざして」

2013年11月26日 | 聖書からのメッセージ
コリント人への第一の手紙9章24節から27節までを朗読。

24節に「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」。
競技場で走るとあるように、陸上競技を例えに語っている箇所です。パウロの時代、ギリシャのアテネでは古代オリンピックが行なわれていました。おそらく、パウロも知っていたと思います。彼もアテネの町に行きましたし、いろんな所で競技者や競技場を見たこともあるでしょう。古代オリンピックを見物に行ったかどうかは分かりませんが、スポーツとか、競技者とか、走ることが彼の話の中によく出てきます。私どもの日常の生活の中でも、競技をする人たちのニュースやそういうレポートを読んだり見たりいたします。先だっても、東京女子国際マラソンですか、高橋尚子選手が、何年ぶりかで優勝しました。ドラマチックな感動的な話でした。そういう競技をする人たちの話を聴くと大変だなぁ、と思います。

しかし、ここでパウロは、この地上での人生、生きることを例えてスポーツ、競技について語っています。24節に「競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである」とあります。マラソンや水泳とか陸上競技もそうですが、スポーツはやはり優勝する、入賞する、上位に入ること、自分の持っている力を出し切って、以前より良い成績を残すのが目的です。オリンピックに行ったけれども競技は欠場して町を見物してきたという人は困ります。競技に出る人はスタートラインに立ったとき自分は何とか一等賞になりたい、栄冠を勝ち取りたいと思って走ります。初めから、私は下位でいいという人はいません。市民マラソンのように、楽しみましょうというマラソンだったら、とにかく完走すれば良いとか、あるいは途中で脱落したって、走れる所まで走ったらいいですよという、楽しみとしてのスポーツもありますが、ここでいうのは、オリンピック選手のように国内で選ばれて、国を代表して競技に参加する選手です。スタートラインに並んだとき、何人いようともみんながそれぞれ、自分こそ一番になるのだ、自分こそあの決勝点に一番先に入るのだと願って、走り出します。そして全力を尽くすのです。一生懸命に、長い時間を走り続けます。そして、やむなくうしろのほうであったり、真ん中であったりという結果になるのです。けれども、はじめから私は最後尾でいいとか、そんなことは思わない。やはり賞を得るように走ります。

私たちの人生も同様です。人生は何を賞とするか、何を目標として生きるのでしょうか?26節に「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない」と語っています。走るときには、やはり入賞、少なくとも3位以内に入って、金、銀、銅メダルと何かの賞を得たいと思って走ります。それぞれ目標を持って走ります。その目標は、もっと早くから、何年か先の北京でのオリンピックを目指してとか、そういう目標に向かって、生活のすべてを賭けます。同様に、私たちは神様によってこの地上に命を与えていただいて、人生のはせ場を走っているのです。では、私たちは何のために走っているのか。あるいは何を得ようとしているのか、その目標をしっかりと持っておかなければ、走っても意味がない。26節に「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず」と。というのは、目標を持つことが人生にとって大切です。目標を持つことで努力をする。あるいは忍耐する。節制することができます。25節に「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする」とあります。オリンピックなど、あるいは国際的な大会に出場する選手になるには、まず予選、国内の選考会といわれる競技をいくつか通ります。そして良い成績を残して、代表選手に選ばれます。選手に選ばれたから終わりではなく、今度は、いよいよ何ヶ月か先の本大会に向けてまた努力しなければなりません。そうやって常に目標を持って、スポーツ選手は生活をしている。そのためには自分の生活を厳しく節制します。

先のアテネオリンピックで女子マラソンに優勝した野口みずき選手のレポートをテレビで見ましたが、4年間、ほとんど生活はマラソンに終始しています。海外に出かけて、いろんな条件のところで走ります。一日に何十キロと走る。しかも毎日です。だいたい一ヶ月に2千キロ近くを走るという。大変激しい走り込みを続けるのです。その成果が4年後に出る。私は彼女の生活を記録したドキュメントを見ましたとき、こんなにまでするのかとびっくりしました。食べるものから、体重から、睡眠時間から、何から何まで全部管理されているのです。選手一人でするのではなく、支援するチームがあります。海外のどこかに行って、2ヶ月か3ヶ月合宿をします。その間ドクター、栄養士、トレーナーからいろんな人々、20人くらいがチームなんです。だから、一人の選手を育てていくには、そういう人たちが周囲にいて、生活管理から、食べるものから、こと細かく管理、記録されながら生活をしている。選手一人が好きなように走っているかと思っていたのですが、そうじゃなかったのです。大変な苦労をしています。自分が楽しみたいこともあるでしょうし、したいこともあるでしょう。遊びたいときもあるに違いない。しかし、それらを全部止めて、一つの目標に向かって、生活をそれに注ぎ込みます。

おそらく、パウロの時代でも、そういうスポーツ選手は、節制して、禁欲的にというか、自分のしたいこと好きなことを止めてでも、一生懸命に励んだようですね。しかも25節に「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」。オリンピックで金メダルを取るのは素晴しい栄誉、栄冠です。しかしそれは朽ちるものなのだとパウロは言います。この世の栄誉であり、名誉であって、その人にとっては、一時的な誉れにはなりますが、それはそれでおしまいです。次なる人が出てきたら、今度はその人が注目を浴び優勝します。かつて優勝した人たちは歴史の中に刻まれて名前は残りますが、それは永遠には続きません。ひと時の栄誉のために、また栄冠のために、彼らは自分の生活の一切を懸けます。それに対して、私たちの人生、日々の生活を何のために費やしていくのか? 目標をはっきりさせなければ、生きる力がなくなります。目標を持つことは、選手にとっても、私たちの人生を生きる上でも大切なことです。目標を持つと、それに向かって一生懸命に努力をする、そのために節制をする。

生活の中で、これをしなければとか、これをしようと目標を立てると、毎日が充実した感じがある。あと何日、早くこれをしておこう、あれをしておこうと。旅行があったりあるいは孫に会う楽しみがあったり、いろんな事を目標に定めてやります。ところが今申し上げたように、それが終るとガタッとなります。目標がなくなった、私はどうしよう。私たちの言うところの目標は短期的です。目先のことを追い過ぎるのです。どうもそう言われると途端に訳が分からなくなり、人生の目標、そんなものが私にあったかしら、なんだか仕方なしに生きている、目が覚めて、今日は生きていると感じ、目標もなく、今日一日、一体何して過ごしたのだろう? 今日の時間はあったのだろうか。夢のような、寝ているやら覚めているやら分からない生き方をしています。それをパウロが26節で「目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない」。目標がはっきりしないとだらだらになります。出掛ける予定があるとか、あのことをするのだという目標があると、それを目指して朝も早くから起きたり、自分の生活を整えてこうしておかなければ、ああしておかなければとなります。

わが家でも、家内が旅行が好きですから、出かけることが決まると、家の中が段々きれいになります。一週間留守をするから、その間不自由のないようにあそこを片付けて、ここを片付けて、その次はこうしてああしてと、普段しない所の掃除までします。窓拭きまでする。そんなこと、旅行前の忙しいときにしなくていいと言う。いやひょっとして私がこれで帰って来られなかったらいけないから、事故があって死ぬかもしれないからとか、いろんなことを考えて、出発する日に向かって勢いづく。一つの目標ですね。ところがそういうものがないと、だらだらとなります。生きているやら死んでいるやら、起きているのか寝ているのか分からないようになってしまう。それは目先のことだけを求めると、どうしてもそうなる。そうじゃなくて、生きることについての目標をしっかりと持っているかどうかです。このことをパウロが24節に「あなたがたも、賞を得るように走りなさい」と言っているのです。どこに向かって、この人生を生きるか。生きることを通して、何を得ようとしているのか。

ピリピ人への手紙3章12節から14節までを朗読。

13節以下に「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14 目標を目ざして走り」とあります。目標を目ざして走っているのだというのです。今日一日生きる目標はどこにあるか。ただ単に楽しみや、うれしいことや行事を追いかけていくのではない。そうである限り、失望しますし、力を失います。私は今この仕事をしているから、この会社に勤めているから、この仕事を、その目標も、会社に勤めている間は目標に成り得るでしょうが、定年退職したら途端に自分を失ってしまうことになります。若い人が結婚して、子供を育てるときには、一生懸命にこの子を育てるのだと熱心になって、自分の生き甲斐として励みます。だから、振り返って子育ての時代を思い出すと、自分の一番充実していた時期じゃないかなと思うでしょう。それに比べて今は抜け殻、目標がなくなったと……。

主婦だから、あるいは子育ての間だからと、自分の長い人生の区切り区切りに、それぞれに与えられた使命とか条件とかがありますが、それに左右されない目標を持たなければならない。元気であろうと、寝た切りになろうと変わらない生きる目標は何か?それがパウロの14節で言う「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」。神様からの賞与、賞を得る。やがてこの地上の旅路を終って神様の所へ私たちは帰っていく。その帰るときに「善かつ忠なる僕よ」と、神様のお褒めの御言葉をいただく、神様から報いをいただく。賞を得るための人生を、目標として持っていなければならない。私たちは地上に生かされている間、神様の備えてくださった人生を力を尽くして賞を得るために生きている。このことを絶えず自覚することです。子育てが終ったら、それはひとつの使命が終ったのであって、目標を達成したのではありません。それが人生の目標ではなくて、それはこの人生を生きていくために、神様が託してくださった使命を果たすことであって、それはそれでおしまいです。しかし、私たちの目標は終らない。私たちの目標は、上に召してくださる神様の賞与を得ることが目標です。神様が、果たすべき責任をその時々に応じて与えている事柄がある。若い夫婦にとっては、幼い子供たちを育てるという使命を神様からいただく。しかし、それはやがて終ります。終るけれども、目標が終わることにはならない。私たちはそこで取り違えるのです。神様から使命を与えられて、この地上で果たすべき責任を負わされていることは確かです。ご主人のために、あるいは奥さんのために、家族のためにと尽くすときもある。あるいは社会に出ていろいろ持ち場立場を神様は備えておられる。しかし、それは目標ではなくて、私たちが目標に達していくために果たすべき責任ではあります。だから、神様の賞与を得るために、与えられた持ち場立場で、今という時を神様の備えられたものとして、神様が私に求められる事柄として確信をもって全力を尽くす。その事が終ったならば、それはそれでおしまいです。次なるものを神様が与えてくださる。それは必ずしも体を動かしたり、あるいは目に見える業績を残すことばかりではありません。神様は、寝た切りになって、ベッドの中で果たすべき責任を負わされるかもしれない。あるいはなにか違った形で神様は私たちに果たすべき責任を負わせるでしょう。私たちが目指しているのは何かを絶えず自覚すること。

ですからテモテへの第二の手紙4章6節から8節までを朗読。

7節に「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」。パウロは自分の終わるべきときがきたことを知って、もう一度過去を振り返り、感謝しています。私は果すべき責任を果たしたし、戦うべき戦いを戦い抜いて、信仰を守り通して、今ここにきた。8節に「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。私には神様からの賞与が待っている、誉れが、栄冠が備えられている。これが私たちの人生の最終目標です。私たちはそれぞれこの地上にあって果たすべき責任、負うべき重荷を神様が与えられます。しかし、それが目標じゃないのです。それは、やがて神様の賞与を得るためのはせ場であります。走るべきところであり、戦うべき場所なのです。それを通り越して、やがて神様の前に立つことができるのです。そのときまで、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」とパウロが言っています。全力を尽くして、そのことに一切を捨てて、尽くして行こうではありませんか。義の冠を得るために、神様の賞与を得るために、地上にあって、私たちがなすべきこと、神様の与えられたはせ場で全力を尽くす。そのために、私たちは節制をする、自分のわがままな思いを捨て、自分のしたいこと、楽しみを捨ててでも、神様の求め給うところに自分を沿わせていく。神様が願っているところに私たちが従っていく、このことに全力を尽くしていくとき、やがて終わりのとき、私たちには「義の冠がわたしを待っている」。ここにパウロが「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」と告白した、この信仰を私たちが持つことができたらどんなに幸いか分かりません。

11月、12月というのは、別の意味で終わりを考えさせられます。この時期になると、「年賀の欠礼」はがきを貰います。皆さんも増えていると思いますが、私も年々増えます。昨日もある方から「父が亡くなりました。95歳でした」と書いてあります。夏までお元気でいらっしゃった。教会の近くに住んでいた方ですが、まさか病気だとは思っていなかった。今日また貰ったのを見ますと、「夫が召されました。年賀を欠礼させていただきます。72歳でした」と。それらを見ていますと、こちらも段々ゴールが近づいているように感じます。ご丁寧に亡くなった歳を書いてくれると、なお身につまされます。こんな年で、この人と同じ歳になると、私は後何年だと、ついつい考えるでしょう。もうゴールが目の前に近づいていることを自覚させられます。けれども、私たちは目標を目指して走っている。私たちの備えられた義の冠が私を待っているばかりと、そう言い切れるまで、神様は私たちに果たすべき責任を求めておられます。私たちはどんなことがあっても、賞を得ようと励むのです。

初めのコリント人への第一の手紙9章24節に「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」。「賞を得るように」、今日の一日がその日につながっているのです。毎日節制し、走るべき行程を今走っている真っ只中です。だから熱心になって主を追い求めつつ、その御声を聞く者となりたい。義の冠を得るために、今日の一日がある。そして私たちはまず何をすべきなのか? 目標に向かって走るために、今すべきことは何なのか? それを考えると、何が大切で、何があまり必要でないかがよく分かる。目標がないものだから、だらだらと締まりやケジメがなくなります。この24節に「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」。「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」とパウロは言うのです。前に向かって、スポーツ選手が、去年よりも今年、今年よりも来年、もっと自分の記録を伸ばそうと節制し、努力し、努めます。私たちが受ける褒美、賞は朽ちる冠のためにではなく、朽ちない冠に向かっているのです。このことを心に絶えず覚えておきたい。私たちの目標は「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得るため」である。その義の冠を目指して、全力を尽くして、一切のものをそこに注ぎ込んで、神様の前に主に従っていく一日一日を歩みたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。