いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(68)「永遠の命とは」

2013年11月28日 | 聖書からのメッセージ
ヨハネによる福音書3章16節から21節までを朗読。

16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この3章16節は、神様の御思い、どんな思いをもって私たちに臨んでおられるかをここではっきりと告白してくださっている。神様からのラブレターのようなものです。ある方は、これは聖書の「へそ」のようなもので、これがなければ聖書は成り立たないと言われます。その方は、それほどにこの御言葉から得られる恵みに感謝し、喜んでいるのです。

16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。まず、「この世」というのは私たちのことです。ですから、ここに皆さんの名前を入れて読まれるが良いと教えられています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、『榎本』を愛して下さった」と私は読みます。皆さんも、それぞれにお名前を入れて読まれると、神様が、十把一からげでまとめてではなく、一人一人、個別に名を呼んで、愛していると告白しています。イザヤ書の43章にも「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ」と、私たち一人一人の名を呼んでくださって、一人一人に目を留めていらっしゃる。神様は私たちを愛してくださったのですが、「ひとり子を賜わったほどに」という以外にその愛を表せない。高価なダイヤモンドの指輪を、世の人は期待するかもしれませんが、神様の御愛の深さ、大きさをどういう言葉で表現すべきか、どう言ったらいいのか、わかりません。

ご夫婦で「お前は俺を愛しているか」「愛していますよ」「口先ばかりで、お前の愛はどこにあるのか、ちょっと見せてくれ」と言われても、これはちょっと困ります。あなたのためにこんなにした、あんなにした、と言っても、自分の心の中はそんな言葉以上だ、と思います。それと同じように、神様は、私たちを愛してやまない、その御愛の大きさをどう表現し伝えようか、その結果が「ひとり子を賜う」、言うならば、自分の命のようなものです。ある意味で、自分の命を捨てることのほうが楽です。愛する自分の子どもが苦しんだり嘆いたりしている姿を見るとき、耐えられないと、親御さんがよく言われます。私は残念ながら子供がいませんから、その気持ちは良くわかりませんが、推測はつきます。だから、近頃、子どもに関するいろいろな事件が報道されますが、その度にその親の気持ちは、心が張り裂けるばかりだろうかと思います。むしろ、自分が身代わりになって、死んだほうがよかったと思うでしょう。

私の母は、幼子を二人天国に送りました。一人は半年くらいで、もう一人は二週間くらいで召されましたが、それから、十年近く、母はそのことのために、生活の調子が狂って、いろいろと事が多かったことを、子供心に覚えています。そのころ母がいつも召された子どものことを言います。それは随分長い間そのことを言っていました。子どもが召されたころ、幼子の虐待だとか、事故死のニュースなどを聞くと、母はぼろぼろ涙を流して泣きます。私どもはまだ子どもですから、どうしてそんなに泣かなければいけないんだろうか、と思いました。母にとってみれば、自分の経験した悲しみや、深い絶望感のようなものを繰り返して感じるのです。私は子供心にいい加減に忘れたらと思うことがありました。親にとって、子どもを失うことは、本当に痛い。最近若い人の中にはそういう気持ちのない人がいまして、理解に苦しみます。まさに、神様はそういう痛みと苦しみの中、「ひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです。私たち一人一人を愛してくださった。

そのあとに「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と。ここに「それは」とありますから、つい愛する目的は「永遠の命を得させるためである」というふうに読みやすいのですが、ここで言っているのは、神様は御自分の御子、イエス様を私たちの所に送ってくださったのですが、それほどに私たちを愛してくださったと同時に、御子を信じて永遠の命にあずかることでもあるのです。だから、神様が愛してくださったことと、永遠の命を得ることは同じことです。私たちを愛してくださった愛の故に、永遠の命を与えてくださるという、因果関係ではありません。神様の愛はどういう形か?というと、私たちが永遠の命にあずかることなのです。これが神様の御愛です。だから、私たちが、神様の御愛を知るというのは、ただに、イエス様が神の位を捨て世に降り、十字架に命を捨ててくださったということばかりでなく、私たちがイエス様によって永遠の命を受けることができる。そこに神様の御愛があるのです。

「ヨハネの第一の手紙」4章に「神は愛である」と記されています。神様は愛なる方です。この世の中には、神様と呼ばれるものがたくさんあります。しかし、「神は愛である」と告白されている神様が、ほかにいるでしょうか。いないというか、ありようがない。日本の社会には八百万の神がいる。あちらこちらに神様がいるのは、生活の中でご存じのとおりですね。かまどの神様から、井戸の神様、何とかの神様、百貨店のようにすべてそなわっている。しかもそれぞれ専門化されている。交通安全の神様、学問の神様、商売繁盛の神様と、分業化された神様でしょう。そこには愛なんてひと欠けらもない。だから、私どもはこういう社会に住んで、真(まこと)の神様を知らないで生きてきましたから、神様は商売繁盛であるとか、交通安全であるとか、病気の癒しであるとか、この世のご利益を期待する。同時に、この世の神様は別の面では怖(こわ)い神様です。触らぬ神にたたりなし、というように、神様には、下手にちょっかいを出すといいますか、何か関わりを持ったら、とんでもない災難、災いに遭うという考えがあります。だからといって、その怖い神様と無縁ではおれない。神様をうまい具合に、上手に利用して、神様の力だけは自分に都合の良いように欲しい。それでいて、神様の怒りであるとか、のろいであるとか、たたりはできるだけ避けたい。これは人間が考える神様の姿です。

父が例話に話していましたが、福岡の近くのUという所に八幡宮がありますが、そこは安産の神様で、ある奥さんが、産気づいた。奥さんが苦しくて、苦しくてたまらない。そのときにご主人が、八幡宮のお札の前で拝んだ。「神様、今出産しておりますから、どうぞ安産を与えてください。もし無事に出産させてくださったら、金の何とかを差し上げますから……」と言ったのです。そしたら、陣痛の苦しみの中で聞いていた奥さんが「あんた、あんた、ちょっとそんなことを言わんで、うちにはそんなものはない」。「おい。黙っとけ!今、神様をだましているから、今のうちに早く産め!」と言ったというのです。私どもの心の中にも、神様をうまく利用して、ご利益だけはいただきたいけれども、ほかのものはいらないと考えます。

先日、皆さんもご覧になったかもしれませんが、私は、テレビを見ていて大笑いしました。ある地区では、先祖代々アワビを食べないという話がありました。それは、昔、その地区には神様がいなかった。それで海を隔てた新潟から神様に来ていただこうとお願いしたのです。そしたら、神様は海を渡ってどんぶらこ、どんぶらこと、船をこいでやって来た。ところが途中でしけて、思い掛けなく浅瀬の岩にぶつかり、舟底に穴が開いて沈みそうになった。神様は、これは沈むぞと思って、ひょっと見たら、水が止まった。それは、アワビが丁度その穴にくっ付いて水を防いでいる。これ幸いと、目的の村まで無事に着いた。私は、その話を聞いて、神様は、自分の命も救えないのか。なんということかと思いました。ところが、神様より立派なのはアワビですよ。神様の命を救ったのだから……。それ以来、村の人はアワビを一切食べずに大切にした。現在でも、アワビを一切食べないというのですから。私は、人間とはそこまで愚かになりえるかなと思いました。テレビではアワビが穴を塞ぐかどうか、実験していましたが、実験はさておいて、そういうのを信じて、今もなおアワビを食べないという。聖書にも、人が山で切ってきた木や、金を溶かして像を造り、それを拝むけれど、それはものを言うこともできない、走ることも歩くこともできないではないか、とイザヤ書に記されていますが、自分の命すら救えないような神様をどうして頼るのだろうかと不思議です。私は今受けている神様の恵み、真の神様を信じる者としていただいたことは、どんなに大きな恵みであり、幸いであろうかと思います。しかし、そればかりではなくて、ここにあるように「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。そして私たちを、神様の所に帰ってきなさいと、いつでも神様の前に立つことができるように、罪を赦し、潔(きよ)めて、神と共に生きることができるようにしてくださったのです。

ローマ人への手紙5章1,2節を朗読。

1節に「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから」とあります。私たちは、イエス様がすべての者の罪を負って、ご自身をささげて犠牲となり、それによって私たちを義としてくださった。「義とする」というのは、私たちを神様に受け入れられる者、言い換えると、その後にありますように「神に対して平和を得る」ことです。神様と仲良くなるというのは語弊がありますが、神様との間にとがめるものがなくなる。人と人との間でも、いさかいがあって、なんか気まずくなりますね。そのときは、お互いの間に壁ができてしまい、顔を見てもそっぽを向かれるし、一緒の部屋にいても気まずいし、ものが言えない。実は、そういう関係が、神様と私たちの間にあったのです。私たちが、イエス様を知らないとき、神様を信じることができない。神様はなんだか怖い。変なことをする。神様は厳しい方だ、裁く方だ、という思いがある。また、逆に言うと、先ほどお話ししたように、自分の命を救えない程、そもそも神様は弱いもの、頼りにならないのだ。アワビの方がしっかりしていると思いやすい。神様をそういうふうにしか見ることができないのは、私たちと、神様との間に隔てるもの、「中垣」とパウロはエペソ書の2章で語っていますが、神様と私たちの間に妨げるものがどこかにある。だから、素直になれない。

私の家内の父親が、先だってからお話をしているように、入院をしています。自分の病気のことを知って、悔やむわけです。俺もとうとうこの年になってこういう病気になってしまったか、と。また、俺も90歳になったのだから、死んでも当たり前だと思い、あきらめようとする。気持が揺れます。家内は娘ですから、赤裸々に自分の気持ちを打ち明ける。俺はもう駄目だと。気が弱いんですよ。家内は、かわいそうに思って「神様がいらっしゃるから……」と一生懸命に神様のお話をする。ところが、その話になると途端に元気になる。「いや、俺はいい!それはもう和義さんに任せておくから、俺はもういい!」と。そこが大切なのですが、それでいて、「ああ、どうしよう、もう俺はやれん、お母さんを独り残しては、俺が先に逝くわけにはいかんし、なんなら、できれば二人一緒に死ねるといいんだけれど……」。あるときは、「もう自殺しようかと考えた」と、「一晩眠れなかった」とか言います。そうすると家内はたまらない。何とか神様のことを知ってほしいと、神様を信じてと、勧めるのですが、その話になると途端に元気になる。それは神様との間になにか隔てるものがあるのです。私たちの心の中にそういうものがあるのです。じゃ、自分がどれ程のことができるかというと、できない。そのためにいろいろと思い悩む。毎日のように苦しんでいる。だから、あまり苦しむから、説教テープを聞かせてあげようかと言うと、ああ、それはいらんと言うのです。なんだか、神様に近寄りたくないという感じです。私は、それが人の罪なのだと思います。気の毒です。ところが、人がいくら説得しても、どうこうなるわけではない。ただ祈る以外にないし、きっと神様はその心に届いてくださって、その時がくるに違いないと信じて祈っています。

私はその姿を見ていると、「キリストにより、神に対して平和を得ている」ということが、どんなに大きな恵みであろうかと思います。しかも、神様が私を愛してくださっていることを、徹底して信じ続けることができたら最高です。どんな状況に置かれても、「神は愛です」、神様は私を愛してやまない方ですと信じる。神様は一番よいことを私にしてくださると信じて、安心していることができます。これが与えられている大きな恵みです。つい、その恵みに慣れてしまうから、当たり前のように思っているけれども、これは掛け替えのない大切な、大きな恵みです。そういう神様を知らないが故に、神様に反抗して信じようとしないが故に、苦しんでいる人を見ていると、なお更のように、恵みの大きさを感謝せざるをえない。だから、どんな事の中に置かれても、そこで神様の愛に目をとめていくのです。どうぞ、皆さん、つぶやきたい思いがあるとき、なんか不安を感じるとき、思い煩いに満ちるとき、神様がどんなに私を愛してくださっているかを、もう一度細かく、思い返していただきたい。

ローマ人への手紙5章6節から8節までを朗読。

神様に愛される私は、一体、どういう人間か。自分の心を探って、振り返っていただきたい。神様からそんなに愛される値打ちがあり、資格があるだろうか。私たちは、何一つ誇る所はない。いや、それどころか、神様の思いから遠く離れて、あの放とう息子のように、わがままで、自分勝手な歩みをしてはつまずいたり、ひっくりこけたり、けがをしたりして痛む。そうしておいて、八つ当たりして、あいつがいけない、こいつがいけないと、世をのろい、人を恨み、苛立ちと怒りと憤りの中にいた私たちです。そのときに既に、2千年前、あなたのために、私のために、十字架に命を捨ててくださった。6節にあるように「わたしたちがまだ弱かったころ」とあります。「不信心な者たち」とも言われています。8節には「罪人であった時」、「わたしたちのためにキリストが死んで下さった」。

私はイエス様の死についてよくわからなかった時期があります。神様のことはよくわかる。私がお祈りしたら、なんでも聞いてくれる方だと、そのくらいに思っていたのです。ところが、イエス様のことがよくわからない。大学4年生のころ、21,2歳のころですけれども、その当時、学生運動が盛んでした。私の行っていた大学も大紛争になって、学内が大荒れに荒れました。半年間学校が完全に封鎖されてしまったのです。機動隊とぶつかっていた時代、私もシンパといいますか、機動隊にぶつかるのは怖いし嫌だから、うしろの方にいて、はやし立てる方だったのです。懐かしい言葉だと思うのですが、大衆団交であるとか、そういうことをやりました。学長を非難したり、学部長を非難したり、世の中の政治家やなにかの不正や不公平を弾劾する痛快な気分でいました。不正がまかり通っている世の中は、許せん!という思いで義憤に感じていた。そのような気持ちを代弁してくれる仲間たちがいるから、それにひっ付いていた。それで留飲を下げるといいますか、自分の義を立てる。私は正しいという思いが常にありましたから、人を裁く。見る人、聞くもの、なにもかもがしゃくの種です。あいつはこんなことをして駄目!こいつも駄目!と言っている自分の心の中には、いつもいらだっている。そうするとくたびれるのです。そういう自分でないこともよく知っています。そういう活動をやって、自分の下宿に帰り、四畳半の部屋の畳の上に、ああ、疲れた!といって休む。そんな時、聖書を開いて、いつも読んでいる箇所を読んでいた。丁度、それが「ルカによる福音書」の十字架のところ、イエス様が、十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈っている。それまでも繰り返し読んでいて知っているはずですが、そのときイエス様の言葉に触れたのです。それまでは、これはその当時のイエス様を十字架につけた人たちのことだと思っていた。だから、私とは関係がない。私は正しい人間、いい人間で、この人たちのようでない。まさか、私のこととは思わない。ところが、その時は、なにかむなしい思いがした。私が正しいと、事実正しくて、それを主張して、相手を非難して、あなたは間違っているよ、私が正しいんだよ、と言って、相手をコテンパンにやっつけて、ざまを見ろと思うかもしれないけれど、そのあと心が沈みます。

先日も家内の母が、ショートスティから戻って来て、義弟が家で迎えてくれた。そしたら、お母さんが帰って来たけれども、しばらく離れていたし、その前に入院もしていた間に、お父さんが何もかも家の中の置き場を変えてしまって、あれが無い、これが無いと困惑していた。何かが無いというので、とうとう家内の所に電話があって、「あなたがどこかへやったんでしょう!」と厳しく言われる。そうすると家内が「そんなことはない、私はああした……」と、電話で激しいやり取りをしている。家内からよく話を聞いてみると、なるほど、それはお母さんに渡している。じゃ、そう言いなさい。「お母さんに渡しているはず」「もらっていない!」で、弟に代わってもらい、「お母さんに渡したから、ちょっと見てちょうだい、お母さんの袋に入っているはず」と話した。保険証だったか何かですけれども、それで弟が探してみたら「これ何?」とお母さんに渡した。そしたら、お母さんがパッと見て、「あ、あった」。それまでに家内と激しいやり取りをし、主張をしていたのに「あ、あった。あはぁはぁ……」と言って電話を切られた。納まらないのは家内です。それから、もう一度電話して「何!その今の言い方は!私がそう言ったじゃないの」と言ったら、今度はお母さんが泣き出して、私が代わりましてなだめて、なかなか大変です。家内は一応言うべきことは言いましたから終ったのです。そして翌日、今朝ですけれども、家内が起きたら、「くたびれた」「どうして?」「夕べ寝られなかった」「どうして、わかったんだから良いじゃない」「でも、あんな激しいことを自分が言ってしまった。言わなきゃ良かった。それが悔やまれて、夜中自分は眠れなかった」と言う。「自分が正しいことを主張したんだから、良かったんじゃない」と、私は意地悪く言ったのです。そしたら、そうじゃないと言う。自分が正しいと主張したけれども、しかし、そのあとやはり心が沈む。皆さん、ご経験があるでしょうからおわかりでしょう。そこをイエス様が許してくださる。

それが、今読んでいる所の8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって」。イエス様が、そういう私のために……。私も、「ルカの福音書」のイエス様の言葉に出会ったとき、今まで私が正しい!と思っていたのですが、そうじゃなくて、人を非難しているその刃は、実は自分に向かうのです。自分の義であって、神様の義ではなかった。そこではじめて、イエス様が、誰のために死んだのか、イエス様が許してくださったのは誰なのか。この私ではないか!その時、私は許されて、本来は死ぬべき者を、イエス様が、父よ、彼らを許し給え、と今日も執り成し、許してくださって、その許しにあずかって生きているのだ。だったら、誰が悪いと言えない。あいつがどうとか、こいつがどうとか言えない。パウロはそう言っています。「私は罪人のかしらです」と。どうぞ、ご自分がどれほど大きな愛を神様から受けて、イエス様が私のために何をしてくださったのかを、しっかりと心に信じて受け入れていくときに、人が何しようと、どうしようと、文句が言えない。あの人も気の毒としか思えない。どうぞ、私たちはそんな大きな御愛を神様から賜っているのです。

ですから、ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。「ひとり子を賜わったほどに」、私を、皆さん一人一人を愛して、その次に「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。「ひとりも滅びないで、永遠の命を得る」とは、何のことでしょうか?昔、子供のころに『くわばらくわばら、死んでも命がありますように』と、これを唱えたら、怖くないという、じゅ文のような言葉がありました。しかし、永遠の命とは私たちの肉体がズーッと生き続けるということじゃない。もし、私たちが死なない体だったら、これは大変な悩みであります。

105歳でお召されになられた一人の姉妹は、102歳くらいの時、私に「先生、私は悩みがあります」と言う。「何ですか?」「ひょっとしたら、私は死なないんじゃないかと思って心配です」と言われて、はぁ、生きるというのは苦しいなぁ、と思いました。だから、そういう肉体が生き続けることじゃなくて、この「永遠の命」とは、イエス・キリスト御自身を私たちのうちに持つことなのです。私たちはイエス様に救われて、イエス様につながって一つとなっていくところに永遠の命がある。永遠の命という形をした金色の玉みたいなものを、もらってくるというのではありません。イエス様は私のために来てくださって、死んで甦り、私と共にいてくださる。私はイエス様のものとなり、イエス様は私のすべてです、と信じる。そこに、永遠の命がある。

よく言われますが、「先生、永遠の命と言うから、極楽にいくことでしょうね。キリスト教では天国と言いますけれど、そっちへ行くんでしょうか」と言われる。それも当たらずとも遠からずの内容ですが、わかりやすくいうと「天国にいくことです」と説明はしますが、皆さんに申し上げたいことは、イエス様を私たちの心に持つことです。これが永遠の命なのです。イエス・キリストを信じていくことです。イエス様を信じるとは、今、キリストが私のうちにあって、生きてくださっていらっしゃる。これを信じるのです。

クリスマスを迎えますが、このクリスマスは、私たちが永遠の命を得るために、ベツレヘムの飼い葉おけの中に生まれてくださったイエス様のご降誕を記念することですが、それは二千年前の飼い葉おけの中じゃなくて、実は、私たちの心に住むために来てくださった。「言(ことば)は肉体となり。わたしたちのうちに宿った」と「ヨハネによる福音書」1章に宣言されています。イエス様が心の中に今日宿ってくださって、永遠の命となってくださった。私たちはイエス様に許され、執り成され、導かれて、その中で今日も、生きる者とされている。この恵みを心から感謝して、主の命に絶えず潤されていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。