いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(66)「目標をめざして」

2013年11月26日 | 聖書からのメッセージ
コリント人への第一の手紙9章24節から27節までを朗読。

24節に「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」。
競技場で走るとあるように、陸上競技を例えに語っている箇所です。パウロの時代、ギリシャのアテネでは古代オリンピックが行なわれていました。おそらく、パウロも知っていたと思います。彼もアテネの町に行きましたし、いろんな所で競技者や競技場を見たこともあるでしょう。古代オリンピックを見物に行ったかどうかは分かりませんが、スポーツとか、競技者とか、走ることが彼の話の中によく出てきます。私どもの日常の生活の中でも、競技をする人たちのニュースやそういうレポートを読んだり見たりいたします。先だっても、東京女子国際マラソンですか、高橋尚子選手が、何年ぶりかで優勝しました。ドラマチックな感動的な話でした。そういう競技をする人たちの話を聴くと大変だなぁ、と思います。

しかし、ここでパウロは、この地上での人生、生きることを例えてスポーツ、競技について語っています。24節に「競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである」とあります。マラソンや水泳とか陸上競技もそうですが、スポーツはやはり優勝する、入賞する、上位に入ること、自分の持っている力を出し切って、以前より良い成績を残すのが目的です。オリンピックに行ったけれども競技は欠場して町を見物してきたという人は困ります。競技に出る人はスタートラインに立ったとき自分は何とか一等賞になりたい、栄冠を勝ち取りたいと思って走ります。初めから、私は下位でいいという人はいません。市民マラソンのように、楽しみましょうというマラソンだったら、とにかく完走すれば良いとか、あるいは途中で脱落したって、走れる所まで走ったらいいですよという、楽しみとしてのスポーツもありますが、ここでいうのは、オリンピック選手のように国内で選ばれて、国を代表して競技に参加する選手です。スタートラインに並んだとき、何人いようともみんながそれぞれ、自分こそ一番になるのだ、自分こそあの決勝点に一番先に入るのだと願って、走り出します。そして全力を尽くすのです。一生懸命に、長い時間を走り続けます。そして、やむなくうしろのほうであったり、真ん中であったりという結果になるのです。けれども、はじめから私は最後尾でいいとか、そんなことは思わない。やはり賞を得るように走ります。

私たちの人生も同様です。人生は何を賞とするか、何を目標として生きるのでしょうか?26節に「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない」と語っています。走るときには、やはり入賞、少なくとも3位以内に入って、金、銀、銅メダルと何かの賞を得たいと思って走ります。それぞれ目標を持って走ります。その目標は、もっと早くから、何年か先の北京でのオリンピックを目指してとか、そういう目標に向かって、生活のすべてを賭けます。同様に、私たちは神様によってこの地上に命を与えていただいて、人生のはせ場を走っているのです。では、私たちは何のために走っているのか。あるいは何を得ようとしているのか、その目標をしっかりと持っておかなければ、走っても意味がない。26節に「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず」と。というのは、目標を持つことが人生にとって大切です。目標を持つことで努力をする。あるいは忍耐する。節制することができます。25節に「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする」とあります。オリンピックなど、あるいは国際的な大会に出場する選手になるには、まず予選、国内の選考会といわれる競技をいくつか通ります。そして良い成績を残して、代表選手に選ばれます。選手に選ばれたから終わりではなく、今度は、いよいよ何ヶ月か先の本大会に向けてまた努力しなければなりません。そうやって常に目標を持って、スポーツ選手は生活をしている。そのためには自分の生活を厳しく節制します。

先のアテネオリンピックで女子マラソンに優勝した野口みずき選手のレポートをテレビで見ましたが、4年間、ほとんど生活はマラソンに終始しています。海外に出かけて、いろんな条件のところで走ります。一日に何十キロと走る。しかも毎日です。だいたい一ヶ月に2千キロ近くを走るという。大変激しい走り込みを続けるのです。その成果が4年後に出る。私は彼女の生活を記録したドキュメントを見ましたとき、こんなにまでするのかとびっくりしました。食べるものから、体重から、睡眠時間から、何から何まで全部管理されているのです。選手一人でするのではなく、支援するチームがあります。海外のどこかに行って、2ヶ月か3ヶ月合宿をします。その間ドクター、栄養士、トレーナーからいろんな人々、20人くらいがチームなんです。だから、一人の選手を育てていくには、そういう人たちが周囲にいて、生活管理から、食べるものから、こと細かく管理、記録されながら生活をしている。選手一人が好きなように走っているかと思っていたのですが、そうじゃなかったのです。大変な苦労をしています。自分が楽しみたいこともあるでしょうし、したいこともあるでしょう。遊びたいときもあるに違いない。しかし、それらを全部止めて、一つの目標に向かって、生活をそれに注ぎ込みます。

おそらく、パウロの時代でも、そういうスポーツ選手は、節制して、禁欲的にというか、自分のしたいこと好きなことを止めてでも、一生懸命に励んだようですね。しかも25節に「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」。オリンピックで金メダルを取るのは素晴しい栄誉、栄冠です。しかしそれは朽ちるものなのだとパウロは言います。この世の栄誉であり、名誉であって、その人にとっては、一時的な誉れにはなりますが、それはそれでおしまいです。次なる人が出てきたら、今度はその人が注目を浴び優勝します。かつて優勝した人たちは歴史の中に刻まれて名前は残りますが、それは永遠には続きません。ひと時の栄誉のために、また栄冠のために、彼らは自分の生活の一切を懸けます。それに対して、私たちの人生、日々の生活を何のために費やしていくのか? 目標をはっきりさせなければ、生きる力がなくなります。目標を持つことは、選手にとっても、私たちの人生を生きる上でも大切なことです。目標を持つと、それに向かって一生懸命に努力をする、そのために節制をする。

生活の中で、これをしなければとか、これをしようと目標を立てると、毎日が充実した感じがある。あと何日、早くこれをしておこう、あれをしておこうと。旅行があったりあるいは孫に会う楽しみがあったり、いろんな事を目標に定めてやります。ところが今申し上げたように、それが終るとガタッとなります。目標がなくなった、私はどうしよう。私たちの言うところの目標は短期的です。目先のことを追い過ぎるのです。どうもそう言われると途端に訳が分からなくなり、人生の目標、そんなものが私にあったかしら、なんだか仕方なしに生きている、目が覚めて、今日は生きていると感じ、目標もなく、今日一日、一体何して過ごしたのだろう? 今日の時間はあったのだろうか。夢のような、寝ているやら覚めているやら分からない生き方をしています。それをパウロが26節で「目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない」。目標がはっきりしないとだらだらになります。出掛ける予定があるとか、あのことをするのだという目標があると、それを目指して朝も早くから起きたり、自分の生活を整えてこうしておかなければ、ああしておかなければとなります。

わが家でも、家内が旅行が好きですから、出かけることが決まると、家の中が段々きれいになります。一週間留守をするから、その間不自由のないようにあそこを片付けて、ここを片付けて、その次はこうしてああしてと、普段しない所の掃除までします。窓拭きまでする。そんなこと、旅行前の忙しいときにしなくていいと言う。いやひょっとして私がこれで帰って来られなかったらいけないから、事故があって死ぬかもしれないからとか、いろんなことを考えて、出発する日に向かって勢いづく。一つの目標ですね。ところがそういうものがないと、だらだらとなります。生きているやら死んでいるやら、起きているのか寝ているのか分からないようになってしまう。それは目先のことだけを求めると、どうしてもそうなる。そうじゃなくて、生きることについての目標をしっかりと持っているかどうかです。このことをパウロが24節に「あなたがたも、賞を得るように走りなさい」と言っているのです。どこに向かって、この人生を生きるか。生きることを通して、何を得ようとしているのか。

ピリピ人への手紙3章12節から14節までを朗読。

13節以下に「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14 目標を目ざして走り」とあります。目標を目ざして走っているのだというのです。今日一日生きる目標はどこにあるか。ただ単に楽しみや、うれしいことや行事を追いかけていくのではない。そうである限り、失望しますし、力を失います。私は今この仕事をしているから、この会社に勤めているから、この仕事を、その目標も、会社に勤めている間は目標に成り得るでしょうが、定年退職したら途端に自分を失ってしまうことになります。若い人が結婚して、子供を育てるときには、一生懸命にこの子を育てるのだと熱心になって、自分の生き甲斐として励みます。だから、振り返って子育ての時代を思い出すと、自分の一番充実していた時期じゃないかなと思うでしょう。それに比べて今は抜け殻、目標がなくなったと……。

主婦だから、あるいは子育ての間だからと、自分の長い人生の区切り区切りに、それぞれに与えられた使命とか条件とかがありますが、それに左右されない目標を持たなければならない。元気であろうと、寝た切りになろうと変わらない生きる目標は何か?それがパウロの14節で言う「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」。神様からの賞与、賞を得る。やがてこの地上の旅路を終って神様の所へ私たちは帰っていく。その帰るときに「善かつ忠なる僕よ」と、神様のお褒めの御言葉をいただく、神様から報いをいただく。賞を得るための人生を、目標として持っていなければならない。私たちは地上に生かされている間、神様の備えてくださった人生を力を尽くして賞を得るために生きている。このことを絶えず自覚することです。子育てが終ったら、それはひとつの使命が終ったのであって、目標を達成したのではありません。それが人生の目標ではなくて、それはこの人生を生きていくために、神様が託してくださった使命を果たすことであって、それはそれでおしまいです。しかし、私たちの目標は終らない。私たちの目標は、上に召してくださる神様の賞与を得ることが目標です。神様が、果たすべき責任をその時々に応じて与えている事柄がある。若い夫婦にとっては、幼い子供たちを育てるという使命を神様からいただく。しかし、それはやがて終ります。終るけれども、目標が終わることにはならない。私たちはそこで取り違えるのです。神様から使命を与えられて、この地上で果たすべき責任を負わされていることは確かです。ご主人のために、あるいは奥さんのために、家族のためにと尽くすときもある。あるいは社会に出ていろいろ持ち場立場を神様は備えておられる。しかし、それは目標ではなくて、私たちが目標に達していくために果たすべき責任ではあります。だから、神様の賞与を得るために、与えられた持ち場立場で、今という時を神様の備えられたものとして、神様が私に求められる事柄として確信をもって全力を尽くす。その事が終ったならば、それはそれでおしまいです。次なるものを神様が与えてくださる。それは必ずしも体を動かしたり、あるいは目に見える業績を残すことばかりではありません。神様は、寝た切りになって、ベッドの中で果たすべき責任を負わされるかもしれない。あるいはなにか違った形で神様は私たちに果たすべき責任を負わせるでしょう。私たちが目指しているのは何かを絶えず自覚すること。

ですからテモテへの第二の手紙4章6節から8節までを朗読。

7節に「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」。パウロは自分の終わるべきときがきたことを知って、もう一度過去を振り返り、感謝しています。私は果すべき責任を果たしたし、戦うべき戦いを戦い抜いて、信仰を守り通して、今ここにきた。8節に「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。私には神様からの賞与が待っている、誉れが、栄冠が備えられている。これが私たちの人生の最終目標です。私たちはそれぞれこの地上にあって果たすべき責任、負うべき重荷を神様が与えられます。しかし、それが目標じゃないのです。それは、やがて神様の賞与を得るためのはせ場であります。走るべきところであり、戦うべき場所なのです。それを通り越して、やがて神様の前に立つことができるのです。そのときまで、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」とパウロが言っています。全力を尽くして、そのことに一切を捨てて、尽くして行こうではありませんか。義の冠を得るために、神様の賞与を得るために、地上にあって、私たちがなすべきこと、神様の与えられたはせ場で全力を尽くす。そのために、私たちは節制をする、自分のわがままな思いを捨て、自分のしたいこと、楽しみを捨ててでも、神様の求め給うところに自分を沿わせていく。神様が願っているところに私たちが従っていく、このことに全力を尽くしていくとき、やがて終わりのとき、私たちには「義の冠がわたしを待っている」。ここにパウロが「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」と告白した、この信仰を私たちが持つことができたらどんなに幸いか分かりません。

11月、12月というのは、別の意味で終わりを考えさせられます。この時期になると、「年賀の欠礼」はがきを貰います。皆さんも増えていると思いますが、私も年々増えます。昨日もある方から「父が亡くなりました。95歳でした」と書いてあります。夏までお元気でいらっしゃった。教会の近くに住んでいた方ですが、まさか病気だとは思っていなかった。今日また貰ったのを見ますと、「夫が召されました。年賀を欠礼させていただきます。72歳でした」と。それらを見ていますと、こちらも段々ゴールが近づいているように感じます。ご丁寧に亡くなった歳を書いてくれると、なお身につまされます。こんな年で、この人と同じ歳になると、私は後何年だと、ついつい考えるでしょう。もうゴールが目の前に近づいていることを自覚させられます。けれども、私たちは目標を目指して走っている。私たちの備えられた義の冠が私を待っているばかりと、そう言い切れるまで、神様は私たちに果たすべき責任を求めておられます。私たちはどんなことがあっても、賞を得ようと励むのです。

初めのコリント人への第一の手紙9章24節に「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」。「賞を得るように」、今日の一日がその日につながっているのです。毎日節制し、走るべき行程を今走っている真っ只中です。だから熱心になって主を追い求めつつ、その御声を聞く者となりたい。義の冠を得るために、今日の一日がある。そして私たちはまず何をすべきなのか? 目標に向かって走るために、今すべきことは何なのか? それを考えると、何が大切で、何があまり必要でないかがよく分かる。目標がないものだから、だらだらと締まりやケジメがなくなります。この24節に「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」。「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」とパウロは言うのです。前に向かって、スポーツ選手が、去年よりも今年、今年よりも来年、もっと自分の記録を伸ばそうと節制し、努力し、努めます。私たちが受ける褒美、賞は朽ちる冠のためにではなく、朽ちない冠に向かっているのです。このことを心に絶えず覚えておきたい。私たちの目標は「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得るため」である。その義の冠を目指して、全力を尽くして、一切のものをそこに注ぎ込んで、神様の前に主に従っていく一日一日を歩みたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。