いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(69)「わたしに呼び求めよ」

2013年11月29日 | 聖書からのメッセージ
エレミヤ書33章1節から9節までを朗読。

3節「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。
今年も残り少なくなりまして、一年を振り返ってみると、さまざまなことがありました。こうして神様の御前に歩ませていただける恵みを味わい、感謝しています。私自身、この一年、神様のあわれみによって、休むことなく、主の御用に用いていただいたことを、心から感謝せずにはおられません。自分自身の健康のことも気になりますが、今のところは、こうして神様が健康を支えてくださいます。けれどもいつ何がどういうふうになるかはわかりません。しかし、ここまで主が守ってくださった。「主は、今に至るまでわれわれをたすけられた」と、心から感謝しています。

2節に「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者」と記されています。これは、神様が、御自分がどういうものであるかを語った一節です。「地を造られた主」、文語訳をよみますと「事をおこなふエホバ」と訳されていましたが、いわゆる天地万物の創造者でいらっしゃる。まず、これが事のはじまりであることは、私どももよく知っています。「地を造られた」、天地万物の創造者、すべてのものの根源でいらっしゃる御方、「アルパでありオメガである」、「初めであり終りである」というのです。すべてのものの始まり、それは神様がいらっしゃって、神様によってすべてのものが造り出されてきたのです。だから、私たち自身も含め、住んでいるこの地球も、ありとあらゆる森羅万象の一切のものが、神様によって造られ、存在しているのです。

哲学の言葉で、「第一原因」ということを言います。私は、初めてこの言葉を聞いたときに、何のことかなぁ、と思いました。哲学では、神という言葉をあまり使いたがらない。それは宗教用語であって、哲学者は、そんなわけのわからん言葉は使わない、という思いがあるのでしょう。「第一原因」て何だろうと皆さんも思われるでしょう。それはすべてのものには、因果関係、原因があって結果がある。自分がしたことの結果として、それがあるという、原因があって結果が出る。私たちが今日生きている。ここに命があって生活している原因は、どこにあるか。「第一原因」は、神様なんですが、神様と言わない。それでいて、すべてのものの根源があると、哲学は語ろうとしているのです。ただ、聖書で語られている「神様」だと言えない。だから、おかしな「第一原因」という言葉を作り出した。そんなものは、神様以外にないのです。

一年の日々の生活、365日という日々は、誰が造ってくださったか? まさに、神様が始めているのです。いわゆる第一原因というわけです。その方がいらっしゃるから、今日があり、明日があり、また昨日があったのです。すべてのものが神様によって造られたのです。だから、2節に「地を造られた主」とありますが、神様が、地を造られたというのは、見える山や空や海や、あるいは森羅万象、ありとあらゆる動植物に至るまで、一切の物を造られた。あるいは、無機物から有機物に至るまで、すべてのものを神様が造られたといっても、私の一日一日の生活は自分がつくっていると思っています。そうではなくて、そこにも神様の業がある。神様が造られた。だから、毎日、24時間、365日連続していて、一度も途切れません。しかし、とりあえず、暦に従って夜の12時に次の日に変わる、また新しくなると思います。それに従っていうならば、毎朝、毎朝、神様が造り出してくださっている。自分で計画して、今日の一日、あれをしてこれをしてと、いろんなことを心に思います。また、それを実現するためにいろいろと知恵を働かせ、またない力を振り絞って、ああして、こうしてと思い煩いますが、その一つ一つの業も、実は、私がしている、皆さんがしているのでなく、その事を導かれる神様、それを造り出す御方がいらっしゃる。

今年も振り返って、いろんなことがありました。あのとき、私があんなことをしなきゃ良かった。このとき私が、ああでなかったら良かった。あの人が言ったから、こうなってしまった。あそこであの人の言うことに従わなかった私が悪かった。でも、私も悪いかもしれないけれど、あのことを言ったあの人がいけないと、原因をどこかに探します。ところが、その原因は、いわゆる第一原因、神様にある。そのことにいつも目を留めていることが大切です。だから、私の責任だとか、私が何とかだと、自分で背負い込む、事を自分で抱え込もうとしますが、それは大きな間違いです。多くの人々は、神様のことがわからないから、やり場がない思いを自分に向けるのです。子どものことや、家族のこと、あるいは自分自身のこと、また仕事のことや自分にかかわりのあるいろんな事柄、失敗したとか、成功したとか、良いことについても、悪いことについても、すべてが自分のことに引っ掛かってくる。だから、うまく事がいっているときは、有頂天になる。ほら、見てご覧、私がこんなに頑張ったから、私がこんなにやったんだから、うまくいったじゃないかと、自分が天狗(てんぐ)に、高慢になります。ところが、逆にうまくいかないと、ペシャンと青菜に塩のように、シュンとなる。そして力を失って、私はもう駄目だ!私が悪かった!私が悪かったというまではまだいいのですが、それがもっと悪くなると、私は駄目だ!こんな者は生きていても仕方がない、と自分を否定する所までいく。けな気な思いのように見えますが、神様の目からご覧になれば、これほど高慢なものはない。自分では卑下しているように思います。私が悪かった、私が何とかだ、と。ところが、神様からご覧になったら、何をお前はえらそうなことを言うか。わたしが主じゃないか、わたしが造ったんじゃないか、わたしが今、このことをしているではないか。それなのに、神様の業を横取りして、私が!と言い張るというところに、実は私たちの大きな問題があります。

じゃ、人に責任はないのかというと、もちろん、限られた意味での責任といいますか、そのことについて自分の思慮が浅かった、あるいは神様に聞こうとしないで勝手なことをしてしまったという、そういう神様に対して悔い改めるべきことはもちろんあります。それは神様に悔い改めるべきことであって、自分を責めるべきことではありません。ですから、私たちは、地を造られた主、神様がすべてのことを造り出していることを知るとき、自分の重荷が半分以上は軽くなります。人の重荷、苦しみとはどこにあるかというと、自分が悪かったと、自分を責める思いを持ち続ける。あのとき、ああしなきゃ良かったとか、このときこうしなければよかったという思いを持つ。

先日、ある方とお話ししていましたら、その方は、お子さんのことで大変な悩みの中におられたそうです。また、今も状況はあまり変わりがないそうですが、その方が、神様の救いにあずかって、段々と心が変わってきた。それは何かというと、自分の子どもに対する育て方がうまくいかなかった。幼い時にあんなことをしなきゃ良かったと、自分を責めて、それを何とかしようとして、あっちに走ったりこっちに走ったりしたそうです。そのときは、苦しくてたまらなかった。ところが、イエス様の救いにあずかって、神様のいますこと、すべてのことが主の御手の中にあること、そして、失敗だらけで、知恵も力もないけれども、そういう者を神様が哀れんでくださった。だからここまでくることができたと、感謝するようになった。今でも、悩みがあり、問題の中にいますが、これは神様が、私のために愛をもって備えてくださったこと、「神は愛である」と、そこに立ち返ることができて、「心が軽くなりました」と、喜んで感謝していました。といって、状況に変化はない。相変らず問題の中にいる。しかし、その方の心が軽くなっている。自分を責めていたのです。私が悪かったと責める思いが強かったのです。その方のお話しを聞きながら、人間はどこまでも高慢なといいますか、神様に取って代わろうとするのですね。そういう思いが私たちのうちにあるのです。神様が地を造られた御方である、神様がすべてのものを造り出したと信じているだろうかと、自分の心を探ってください。良かったことも、失敗と思うことも、神様がなさっていることです。

哀歌3章37節41節までを朗読。

この37節に「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか」とあります。地を造られた主、言い換えますと、神様が命じてすべてのことがそこに存在している。だから、38節に「災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか」。「災もさいわいも」、どんなこともすべて神様の口から出る。その次39節に「生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか」。先ほど申し上げたように、自分が悪かったとか、自分が何とかだ、あの人がどうだとか、この人がどうだとか、いろんな事でつぶやきます。つぶやくことに私たちの罪がある。何が罪かというと、神様を認めない、神様ではなくて、何かほかのものがすべての原因であるかのように思うから、つぶやくのです。私たちの心がピタッと神様に向いて、主がこのことをしてくださった、と言い切れたときに、つぶやくことが無くなります。ところが、それ以外のものに原因を求めているとき、絶えずつぶやいています。自分であったり、人であったり、事情や境遇や、与えられた問題や事柄をつぶやくことになります。実は、それが罪です。神様は、災いも幸いも、すべてのことを備えて、何をなさるかというと、40節に「われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう」というのです。ここが神様の本懐、本心なのです。「主に帰ろう」。神様は、いろんな災いも幸いもお与えになります。そのご目的はなにか?私たちが主に帰るためです。神様の所に帰って、そして41節に「われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう」。昔、イスラエルの祈りは手を上に上げて祈っていました。モーセがアマレクと戦うときに、モーセが手を上げればイスラエルが勝ち、手を下げればアマレクが勝ったとあるでしょう。お祈りするときに手を上げます。ところが、ここに「心をもあげよう」と、手も心も上げる。お手上げというのはこのことです。神様に降参するのです。神様はこれを求めているのです。いろんな災いにも幸いにも会いますが、そのことを通して主に帰るのです。これが神様が求められる事です。私たちが神様の所へ帰っていく。「帰る」というのは、「手も心も」全部主の手に、神様にささげるのです。これが私たちの求められることであり、また、神様が願っている、またそうしてくださるのです。

エレミヤ書33章2節に「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主」、文語訳によると「事をおこなふエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」となっていますが、「形造って堅く立たせられる」というのはどういうことでしょうか。宇宙には無数のいろんな星が動いています。太陽系の星を考えてみると、太陽を中心として星が運行している。これが気まぐれに、いつどうなるか動きがわからなかったら、これは大変なことです。地球も太陽の周りを決まった周期で運行しています。また地球自体も自分で回っています。そのおかげで春夏秋冬があり、また夜があり昼があり、自然現象がきちっと行われている。千年前はそうじゃなかった、というのではない。何十億年という長い間、同じように変わりません。「堅く立たせられる」、きちっと変わらない不動のものとしてくださっているのです。だから、すべてのことがうまくいく。前にもお話ししましたように、月にロケットを送ったり、あるいはどこかの星に無人探査機が飛んでいったりできるのも、天体がきちんと定まった動きをしているからこそ、できるのです。気まぐれに、日によって地球が早く回ったり遅く回ったりしたら、よし、これで月に向かってロケットを飛ばそうと、飛ばした途端に地球の動きが止まったなら、とんでもないことになります。ロケットは決められた軌道に乗って、月にぶつかるように飛んでいくわけです。月も動いているから、それを計算してロケットは飛びます。うまい具合に月に届くように打ち上げるのは、人間の力じゃなくて、神様のきちっと定められた動きがあればこそです。神様は、春夏秋冬を問わず、常にひとつの決まった不動のルールに従って動かしておられる。

これは目に見える天体の動きばかりでなくて、実は、私たちの心や、生活のすべてのことも、このように「堅く立たせられる」、神様がしっかりと握っておられる。神様の御手の中にあって、一つ一つの事が起こっている。それを堅く立たせていて、最後まで全うしてくださる。神様が、不動のルール、きちっと動かないことをしてくださる。と同時に、この堅く立たせられるというもう一つの意味は、終わりまでそのことを完成なさる。わたしたちは事を始めてもなかなか完成にいかない。途中で嫌になったり、気まぐれですから予定変更などがあったりします。しかし、神様は、真実な御方とあります。神様が、真実な御方だということは、すべてのことを最後まで責任を持って下さることです。神様が私たちをこの地上に造り出してくださって、生きる者としてくださった。ですから、その終わりまで神様はちゃんと責任をもっている。真実に私たちを顧みてくださっています。

そうやって、この一年を導かれてきたのです。神様は真実な御愛と恵みをもって、きちっと握っているのです。不動のもの、変わらない御方となっていらっしゃる。しかも「その名を主と名のっておられる」。「主と名のる」というのです。『名は体を表す』と言います。呼び方によって、その人の性格が決まります。「社長」と呼ばれたら、やはり社長らしくなります。だから、名称を付けるのです。その名前らしく変わっていくことがあります。どういう名前を付けるかによって、その子どもが将来どういうふうになっていくかが決まるように思います。だから一時話題になりましたね。「悪魔」という名前を付けようとしたら、役所の方が拒んだのです。そうだろうと私も思います。やはり大切なのは名前です。

「その名を主と名のっておられる」、「主と名のる」というのです。主と言うのは、中心という意味です。主人です。家の中の中心は、主人です。主婦という人もいますけれど、主であることは、その中心であるということです。だから、ここで神様が「その名を主と名のっておられる」。物事の中心なのだ。徹頭徹尾、アルパでありオメガである。初めであり終りである。すべてのことを貫いているのは神様です。その御方がなんとおっしゃるのか。3節に「わたしに呼び求めよ」です。この一年、どれ程、神様に祈り続けてきたかわからない。おそらく皆さんもそうだと思いますが、絶えず祈り続けてきた日々ではないでしょうか。そして、祈り求める相手はどういう御方であるか。それがまさに、2節に「地を造られ」、また「形造って堅く立たせ」、そして「主と名のっておられる」、こんな御方に、天のお父様と、イエス様のゆえに、近づくことができる一年であったと思います。もし私たちに祈るべき御方がいなかったら、それを想像しただけで、人生がどんなに悲惨なものであろうかと思います。

先日、一人の方が、私はイエス様に救われましたが、何が良かったか考えると、祈ることですと言われました。毎日毎日いろんなことで神様に祈らせていただいてきました。祈ることがなかったら、ここまで生きることができなかったと思いますと。その方の具体的な生活ぶりを聴いていますと、確かにそうだろうと思います。私たちもそうです。どうですか、皆さん、この一年、どれだけ主に祈ったことでしょうか。しかも、無料ですから、こんなうれしい話はない。弁護士さんは一時間5千円です。この一年間に祈った時間を足して御覧なさい。何十時間になっているかわからない。それでも神様は、もっと祈れとおっしゃいます。ここに「わたしに呼び求めよ」。しかも、その「わたしに呼び求めなさい」と言われる御方が、力のない人、弱い人であって御覧なさい。なにも頼むことができません。

先日の礼拝でもお話ししましたように、あわびが神様を助けて、その神様に祈ろうというのだから、人間とはおかしな者だと思います。そういう神様が私に呼び求めよと言われても、あなたは溺れかけた神様じゃないの、自分の命も救えない神様にどうして頼めますか、となります。私たちが信じる神様は、「地を造られた」、「堅く立たせられた」、「その名を主と名のっておられる」、この御方が「わたしに呼び求めよ」と言われるのです。どうぞ、お祈りをするときに、今私は誰に向かって祈っているか。その御方はどういう方であるのか、しっかりと確信をもって祈りたいと思います。何か知らないけれど、祈っておけば誰かが聴いているかも知れないという、そんなあやふやな思いじゃなくて、はっきりと、あなたが今日私を造り、生かしてくださっている、主であるあなたにお祈りするのですと、心をきちっと神様に向ける。そうするならば、なんとありますか。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」。しかも、その主は、私たち一人一人、小さな存在、あるかないかわからない、はかりの上のちりのような存在とイザヤ書にありますが、何の存在、値打ちもない、軽い、軽い、そういう私たちにすらも、「そうすれば、わたしはあなたに答える」と言われるのです。神様は、私の祈りに直接答えてくださいます。

この一年を振り返って、祈った祈りに主が答えてくださって、今日、私たちがあるのです。ところが、私どもは、いい加減ですから、年もとって忘れますから、何をお祈りしたか思い出せない。この一年間いろんなことを祈ってきた、その祈りに答えられて、生活の隅から隅まで、一つ一つ、思いもかけない、考えもしなかった恵みの中に感謝をもって過ごすことが出来ました。ですから、先程の哀歌3章22,23節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。いつくしみとあわれみが絶えず注がれている。日々祈らせていただき、主の真実によって支えられてきました。3節に「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」、と約束です。新しい一年も、この主に呼び求めていく。神様に信頼していく。しかも、その後に「そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。私たちがまだわからない、まだ思いもしない、考えもしない、願いもしないような「大きな隠されている事」、想像のつかないことを神様は成してくださいます。私たちの祈りに答えてくださる、その答え方は、私たちの願ったとおり、細かくそれに従ってじゃなくて、神様の御心にかなって、それどころか、私たちの思いを知り給う御方は、私たちの願うよりも、思うよりも、もっと大きな素晴しい隠れたことを私たちにしてくださいます。

ザカリヤとエリサベツの記事がルカの福音書にあります。彼らは年老いて子供がいませんでした。そして神殿で祈っている時に、ザカリヤさんに神様の使いが来て、願いに答えられる。それでびっくりして彼は、それが信じられなくて、とうとうものが言えなくなってしまったのです。その後で、エリサベツさんが、「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」(ルカ1:25)と喜び、賛美、感謝しています。思い掛けない、自分にも想像しないことをして、神様は、彼女の心の痛みであったものを取り除いてくださいました。こんな形で実現するとは思わなかった、と言うのが、正直な告白でしょう。私たちもこの一年そうではなかったでしょうか。長年祈っていたことが、神様がこういう形で解決してくださった。このことについては、こうなるとは思わなかったことばかりです。こうしてこうなるに違いないと思ったが、そうじゃない。神様のなさることはもっと大きな、とてつもない事です。

旧約聖書にあるナアマン将軍がそうでしょう。祈ってもらおうと預言者エリシャの所へ行きました。彼はきっと預言者が出てきて、じかに手を置いて祈って、それらしいことをして、元気になるに違いないと、自分の考えた筋書きがあった。ところが、ヨルダン川に行って七たび身を浸すように、しかも顔ひとつ見せないで、あいさつひとつしないで、使者を通して言われた。こんなことがあるか!と怒った。彼の想像を超えていたのです。神様に対してそういう失敗をよくやるのです。お祈りしながら、「神様、どうぞよろしく導いてください」と言いながら、次はこうなって、その次はこうなって、神様はきっとこういう形で答えてくださるに違いない、感謝しますと密かに計算している。ところが、神様は、そんなことを超えて、ナアマン将軍が思っていたことを超えて、彼を癒してくださいました。その道筋はわからない。しかし、そこにありますように「あなたの知らない大きな隠されている事」、何もわからない、驚くべき事を神様がしてくださいます。事実、ナアマン将軍は、ヨルダン川に身を浸した時に、自分の願ったようにすっかり病が癒されたのです。彼の思ったとおりの手順やそういう仕方ではなかったけれど、神様は、神様らしい業を行ってくださいました。

どうぞ、来るべき新しい一年を迎えますけれども、この神様に対して期待していこうではありませんか。あらゆる祈りに、答えてくださいます。地を造り、それを力ある御手を持って支え導いている、しかもすべてのものの主でいらっしゃる御方に対して、「わたしに呼び求めよ」とおっしゃいますから、真剣に熱心になってしっかり祈って、主の御業を待ち望んでいきたい。神様は、私たちに答えるとおっしゃいます。真実な御方です。どうぞ、主のお語りになった御言葉を、きちっと信じて、そのとおりに私たちも神様の御業を味わう者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。




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