いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(48)「まず、すべきこと」

2013年11月08日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書55章6節から13節までを朗読。

6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」とあります。
日常生活で人と意思疎通をはかる手段として、言葉を使います。いろんな場合に、話し合ってお互いの気持ちを伝え合います。ところが、実際には、なかなか意思の疎通は難しい。コミュニケーションは難しいと、しみじみと感じます。

実は、私も若いころ、ある時期大変そのことを意識したことがありました。丁度、大学院に進んだころでしたが、全国的に学生運動が盛んになりました。私がいた大学もやはり、その先端を切って、学内が大変に荒れました。学内でさまざまな集会が行われました。そのころ、実に燃えていたのです。最近の学生を見ると、実に情けないと思います。今の日本の行く末を考えると、望みがないなと思うくらいに、ウンともスンとも言わなくなりました。そのころ、九州でも、米軍機ファントムが九州大学の校舎に突っ込んだことがありました。あれを切っ掛けにしてエンタープライズという空母が佐世保に入ることでも、大変な大騒ぎになって揺れ動きました。私も大学紛争の真っただ中にありました。私は先頭を切ってというほうではない。尻馬に乗り易いものですから、シンパ(シンパサイザーの略=共鳴者)という、「そうだ!」「そうだ!」と言って、ゲバ棒を持ってヘルメットを被り、走り回る連中の後ろの方に、野次馬根性でついて回っていました。しかし、内心は学生が主張する事に、ある意味ではそのとおりだなと思いました。それは旧体制、世の中のさまざまな古い体制に対しての反抗でした。

大衆団交という言葉も、懐かしく思い出されますが、学長だとか、学部長など、大学の指導者達を呼んできて、いろいろな問題について糾弾します。授業料の値上げをきっかけに学校のやり方について、一体どうなっているのか、なぜ学生から高い授業料を取らなければならないのか、と問いつめる。始まりは純粋な気持ちでしたが、その後、革マルであるとか、中革であるとか、学生のセクト主義が支配して、随分性質が変わっていきました。私が体験した始めのころは、純粋な学生の素朴な疑問です。8時間とか10時間とか連続で長い間、大衆団交をやるわけです。ところが、交わされる言葉が同じであっても、お互いが通じ合わない。そういうもどかしさを常に感じる。その結果、ゲバ棒でコツンをやる。「痛かろうが!」とですね。「目が覚めんか!」という気持ちでやるわけですが、それは暴力ですから、決して良いことではありません。しかし、その心情は、「どうして私の気持ちが分からないんだ!」と言う思いです。また相手は相手で「なぜ、こんなに思っているのにお前たちは分からないんだ!」と、双方の言葉が合わない、行き違う。

その当時、勉強していた事が、まさに言葉の問題、文学であるとか、言語であるとか、そういう分野でしたから、そういうことに興味を持つようになりました。結局、「人間というのは、お互いが分かり合うことは、無理なのだ」という結論です。「話せば分かる」という言葉がありますが、話せば分かるというのは、まだまだ楽観的です。ある文学者は、「人は、孤独な島に住む住民に過ぎない」と表現をしている詩人がいます。人間というのは、それぞれが、無人島に住んでいるのだというのです。私はそれに痛く感動しました。自分の気持ちをぴったり言い表している。どんなに親しくて笑い合って楽しげに喋っていても、どこかで心の底に分かり合えないものが絶えずある。これは、どうにも仕方がない、止むを得ないことです。根本はやはり、お互いが分かり合えないのだということを前提にすべきなのです。ここが大切なことだと思います。人と人が言葉を通して、お互いのことを知り合うことはできない。私たちは、皮膚で包まれたもので、皮膚を越えて先のことは、分からない。自分の事は、自分しか分からない。それはまた人には、伝わらない。悲観的に聞こえますが、そうではありません。ただ、そこで神様を前提にしていかないと、行き詰るのです。まさに悲観的な世界に入っていくのです。お互いに孤独であって、心が通じ合わない、幾ら話したって仕方がない、黙っとくしかない、というレベルがあります。しかし、もう一つその先に、その分かり合えない一人一人が、実は神様によって造られたものである。聖書にあるように、神様は私たちに神の霊を宿してくださった。言い換えると、お互いが直接分かり合えないから、神様を通して相手を知るしかない。と言って、神様を通して相手のことが全部分かるというのではありません。神様が、私たちに教えてくださることがある。自分のことは自分がいちばん知っているように思うけれども、自分も自分のことが分からない。私をいちばんよく知っているのは神様です。

私は、そういう言葉の勉強をしながら、段々と信仰の真髄に触れることができました。そうだ!神様がいなければ、人が、相手を理解することができない。神様を通してしか、相手のことを理解することができない。私は結婚するときに悩みました。果たして生まれも育ちも違う人と、24時間、365日一緒に生活して、相手をどこまで理解できるだろうか、あるいは自分のことをどこまで理解してもらえるだろうか、お互いに分かり合えないままでの生活は悲惨だなぁ、と思ったのです。そのうちに、もう一つ先に神様がいらっしゃって、私たちの心を結び付けてくださる。これを信じなければ……、ということに思い至って、教えられたのです。

後に、私はアメリカへまいりました時に、そこでやはりそういう研究をしている人がいたのです。その先生の許(もと)で一年間いろいろと教えてもらいました。その先生は、一つの文学作品、夏目漱石の『ぼっちゃん』という作品があるとしたら、それを百人が読むと、それから受ける事柄は、全部違うのだ。この作家がこういうことを書いたという、そこからくみ取ってくるものは、それぞれが違っている。一緒のものはありえないと。それぞれが勝手気ままに作品を読んで、自分で納得して「これはいい作品だった。これはこういう意味があった。こういうことを作家が、私に伝えてくれている、感銘を受けた作品です」と、それぞれが言い合って、共通のものは無いのかというと、その先生が言われるのには、人間は、それぞれ個人個人ではあるが、もっと大きな力に持ち運ばれている。そういう力によって人は導かれていくものであるから、それぞれ違った読み方をして、違ったものを受け止めても、だからといって、無軌道に、無秩序になるはずがないと。

どんなに言葉を尽くしても結局のところ、人と人とが分かり合うということは不可能。最後は、私と神様との関係、これだけがすべてなのです。私と神様とが一つの関係に、造り主と被造物、愛してくださる御と、愛される自分という、神様との関係にしっかり根ざしていくと、そこから、隣人を理解することができる。それは、コリント人への手紙にあるように神の御霊が、私たちに伝えてくださることがあるのです。事実そうだと思います。主人のことを何でも分かる、と思っているなら、それは大間違い。私はあの子の親だから、あの子の思っていることは全部分かっているという人は、大間違いです。分からないのです。その証拠に、非常に単純なことですが、隣の人が、「歯がいたい!」と顔をしかめているときに、同じ痛みを感じますか?ああ、痛いんだなと分かりますが、その人の痛みに伴う気持ち、不快感や不安を共有する、一緒に持ち合うことはできない。もちろんそんなことになったら、気が休まるひまがない。だから、言葉で幾ら説明しても分からない。

イエス様の福音を伝えるにもそうです。「信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉による」と聖書にあります。信仰は先ず聞くことから始まる、しかもそれは、キリストの言葉を聞くのだと。人の言葉じゃない。人をつかまえて、イエス様がどんなに恵みに満ちた御方であるか、また、どんなに恵まれるかと、幾ら言葉を尽くして、理路整然と何時間も相手を説得しても、それを分かってもらうことは不可能です。

あんなに言ったのに分かってくれないと腹を立てたり、怒り心頭に発するのは、無駄ですから、どうぞ、分からないのが当たり前と思っていただきたい。そしたら何の腹も立たないし、言う気にもならない。精神衛生にもいいのです。下手に言うと、何か分かってもらえたと思い込んでしまう。そうでない現実に出遭うと、「カチン」とくる。一体何を聞いていたんだ!と、頭の一つもコツンとしたくなります。だから、言わないのがいいのです。それは、「言わざる、聞かざる」という意味じゃありません。聖書にも、「聞くに早く、言うに遅くあるべし」と勧められていますが、まさにそうです。言って分かるはずがない。父もよく言ったのですが、父の説教を聞いた方が、「榎本先生は良いことを言うけれども、実際の生活はどうなんでしょうね」と言う。時には、父の生活を知っている方は、「失望しました。先生にあんな風なところがある。あんなに子供に甘、甘で、情にもろい人とは思わなかった。先生の説教を聞いていると、『十字架に己も何もかも、感情も情も捨て去って……』と言われる。ところが実際に見ていると……」と。だから、父に聞いたことがあります。どうしてそうなのか? 父曰(いわ)く「みんなに理解してもらおうと、説教をしているわけじゃない。自分に語っているのだから」と。自分に弱点があるから、自分がこういう状態だから、そうならないようにと、自分に説教をしている。この説教でいちばん恵まれるのは、私だと。「そうか」と思いました。そうやって、父の説教テープを聞いていただいたら分かると思います。「このとき、あの悩みがあったから、だからこの話をしているのか、自分が足らないことがあったから、このことを言っているのか」と感じると思います。自分に向けて説教されているように思いますが、私も皆さんに理解してもらいたいとか、分かってもらいたいと話しているわけではなく、私自身も父と同じです。お話しながら、自分に語っているのです。自分自身の問題、自分が今、直面していることを、語っている。それは神様との関係なのです。

時に思いがけないことで、「今日は、先生は、私のことを知っていたんですね」「どうしてですか」「いや、説教を聞いていたら、私のことをズバズバ言われて、身の置き所がありませんでした」と言われて、「いや、私は何も知りません。実は私の問題なのですよ」と言う。それは神様が働いてくださるからです。私から聴いているようですが、皆さんに神様が語っているのです。だから、どんな雄弁な、理路整然とした立派なメッセージであろうと、とつとつとした本当に言葉足らずの説教であろうと、そんなことで人の心を動かすわけではありません。言葉の巧みさで人が変わるのではありません。

そうでしょう。皆さんもどちらかというと極めて頑固ですから、人が右といって「はい」といえる人じゃない。そういう皆さんを、造り変えるのはだれかというと、説教でも何でもない、神様の力によるのです。だから讃美歌の514番に「岩のごとく かたき心 砕くものは みちからのみ」と賛美があります。私はそこに赤線を引いています。硬き岩のごとき心を、砕いてくださるのは、神様の力による以外にないのです。神様が働いてくださる以外に、私たちは術(すべ)がない。何とかあの人を説得してやろう。あの頑固な主人を何とか教会に引き出してやろうと、考えないでいい。じゃ、何もしないのか? そうじゃない。神様に働いていただくこと。神様が一人一人を必ず導いていらっしゃる。私たち自身そうでしょう。こうやって、イエス様の所に来て、救いにあずかることができたのは、だれかが説得したからではない。パウロが、「ガラテヤ人への手紙」で語っているように、あなたがたが救いにあずかったのは、律法によるのか、それとも福音を聞いて信じたからなのかと。

徹夜で説得されたから、この信仰を仕方無しに持ちましたという人はいないでしょう。みんな喜んで、「本当にそうだ!」と信じた。なぜ信じたか。それは神様が、皆さんに御霊によって、悟りを与えてくださった。へりくだった思いに心を変えてくださったからです。だから、神様が、私を救いに導き入れてくださったというほかありません。神様が必ずそこに働いていらっしゃると信じていく。これがもっとも大切なことで、また、私たちの信仰でもあります。だから、家族に対しても、子供のことについても、あるいは奥さんのこと、ご主人のこと、だれかれのこと、周囲のどんな人のことについても、私が、鉢巻をしてあいつをとっちめてと、そんなことを幾らしても、できません。義侠心といいますか、自分で「やってやろう!」と思います。しかし、事、信仰については、不可能です。どんなことでも、神様に祈る以外に、人を動かし、人に何かすることはできません。

若い人々を見ていて、あんなことをしていたら、将来こうなるに違いない、あの子はあんなことをしているが、もっとこういう風にしたらと思うことがある。もう少し若かったころは、一生懸命に熱心になって、老婆心ながらあれこれ言ったものですが、最近、言えなくなりました。言っても無駄だなぁ、という思いがする。家内に言わせると、「どうもあなたは、昨年の病気以来ちょっと変わってしまった」と言うのです。そう言われると、なるほど昨年病気してから、自分自身の信仰のありようが、少し変わってきたな、と自分でも思います。それは、人の力ではどうにもならないところを通ってみて、神様に信頼しなければ生きられないと悟ったのです。神様の力と業を期待していくことが、どんなに幸いかと思う。ですから、子供さんや、ご家族の人々、あるいは親しい友人や知人に、「そんなことをしないほうがいい。そんなことをしたら将来ああなる、こうなる」と言いたいことはあるでしょうが、幾ら言っても、分からないのです。うるさがられます。特に年を取ってから言うと、家族からうるさがられます。言わないがいいです。黙ってみている。意地悪なようですけれど、これほど幸いな道はない。下手に老婆心、転ばぬ先の杖で、ハッと杖を出したら嫌がられます。それよりも転んでもらう。そうしたら、どれほど痛いかが分かる。私は最近これだなと思います。自分自身がそうです。病気を通して、始めて知ることが沢山ある。大きな神様の恵みにあずかる。だから、健康で万々歳、どこも悪い所がないという人よりは、むしろ、いろいろな悩みの中に置かれることのほうが、どんなに幸いか分からない。息子の家庭はどうなるだろうか、あんなことをしていたら、孫たちの将来どうなるかしらと、思わなくていいですよ。こけるならこけて欲しい、あるいは擦りむくなら擦りむいて欲しい、骨折するなら骨折したらいい。ただ一つ条件がある。そのときに、主に帰ることです。

だからイザヤ書55章の6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。これです。その先7節に、「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」と、「主に帰れ」というのです。更にその先に、「そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ」、ここですね。「主に帰れ、神に帰れ」、それは取りも直さずこの6節に「主を尋ねよ、呼び求めよ」ということです。私たちが悩みに遭い、悲しみに出遭い、苦しいことの中に出遭うときに、そこで初めて「ああ、そうだ、神様に立ち帰ろう」と思って、主に立ち帰ること、これがすべてです。そうなれば、こけたことも、擦りむいたことも、骨を折ったことも、「万事は益となる」のです。

子供たちがこけないように、何とか家内安全、無事息災でいてくれるようにと、老婆心で一生懸命あっちに杖、こっちに杖、そんなことをしている間、神様に近づくことができない。神様の業を妨げているのです。本当に相手のことを思うならば、こけかかっても手を出さない。とことんこけてもらう。これを待つ、これが親切です。ただ、こけたときに、早くその子が、主に帰ることができるように、絶えず祈り続けることが大切です。神様に求めていくことです。祈っていますと、神様が事を起こされます。問題を与えられる。いよいよしょげ返ったときに、「お父さん、お祈りしてください。お母さん、こんな状態だから、何とか……」と言い出したらしめたものです。お祈りしてあげる。神様の所へ導いてあげる。そうすると、心が砕けているから、心が萎(な)えていますから、神様が語らせてくださることを語るとき、御霊が働いてくださって、その魂を生き返らせてくださいます。だから、どんなことがあっても、心配は要らない。

若い方がこの人と結婚したいと連れて来る。いろんな事情境遇を考えると、これは早晩行き詰るに違いないと思うことがあります。以前は、一生懸命に結婚を止めようとしました。「駄目だよ」と言っていた。ところが、燃え上がっている二人に、幾ら水を掛けても、効き目がありません。あげくの果ては、恨まれるのです。そのころは、まだ元気があったから、恨まれてもいいや、と思ったのですが、人生も長くないから、恨まれるのは嫌だと思って、「いいよ、いいよ、好きなら、結婚したら……」と、そのうち分かるからと思います。神様が知っていらっしゃる。神様を信頼するとはそこです。失敗したら、失敗したところからまた、神様はもっと素晴しいことを、その人にしてくださる。

7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば」とあります。どんな失敗の中からも立ち帰りさえすれば、「主は彼にあわれみを施される」と言うのです。いろんな問題に遭うときに、先ず、神様に立ち帰って、神様を求めるのです。

詩篇119篇65節から73節までを朗読。

この詩篇を歌った記者は、何か大変なつらい困難に出遭いました。67節に「わたしは苦しまない前には迷いました」と告白しています。迷っていたとは、「神様だけに!」という思いになれない。神様もいいだろうが、この世のあれもいい、これもいい。あっちがいいだろうか、こっちだろうか、と。事情境遇や事柄が順調に進んでいる毎日の生活の中では、神様も時にはいいけれども、そう熱心にならないで、礼拝も月に一度くらいにしとこうか、一年で5割に達すれば野球の成績より遥かにいいから、と思っている。迷うのです。ところが、この詩篇の記者は、大変な悩みに遭いました。そのとき、67節の後半に「しかし今はみ言葉を守ります」。彼はその悩みの中から、主に立ち帰る。神様だけに心が、向いているのです。これは幸いですね。この恵みを、子供や孫にも差し上げたい。娘たち夫婦が、仲良くやっていけるように、「少しは私の老後の資金を、年金の一部分でも足してやろう」と、そんな馬鹿なことをするから、若い者達が悩みに遭えない。先ず兵糧攻めです。困らせるのです。その結果、自分ではどうにもならないと思うとき、神に帰れと、神様に帰らせてあげる。それが大切です。ともすると、人間的な情にほだされて、あるいは親の面子(めんつ)や何かで、いろいろと手立てをしてしまうために、せっかく神様の恵みに出会うべきチャンスをつぶしてしまっている。

最近、親父は、ちょっと冷たくなった。あれほど今まで自分たちにしてくれたのに、パタッと無くなったと。無くなって困ったらいい。67節以下にあるように「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。68 あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください」。神様、あなたは善にして善なる方、善きことを必ずしてくださると、その悩みを通して初めて悟るのです。人の言葉で悟るのではありません。人の言葉は通じませんから、神様が教えなさることがある。それを体験することが大切です。71節に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。神様のおきてを学ぶとは、神様がどういう方であるか、神様の思いを悟ることができる。

集会に出て聴いた話を帰りの電車の中では、忘れます。しかし、何か事に当たったときに、思い出されることがある。そして主を求める者と変えられる。これまで過去にいろんな悩みがあった、困難があった、そのとき、それは無駄に終わったでしょうか。そうじゃなかった、そのとき、神様に立ち帰って真剣に主を呼び求めたときに、主はご自身を現してくださいました。神様の御愛と、力と、恵みを悟ることができたではないでしょうか。これからも神様はそれを、私たちに与えてくださる。また、そればかりでなく、周囲の者にも、同じように神様は働いてくださいます。だから、大切なのは、問題に遭い、悩みに遭ったときに、主に帰ることです。これがなければ、大きな失敗です。

アサ王様の記事が歴代志に記されています。エチオピアの大軍が攻めてきたときに、彼は神様の前に直ぐに出て祈った。そして、力ある者を助けるのも、力ない者を助けるのも、あなたには、異なることはありません。私はただあなたに頼る以外にありません、とひれ伏して神様を求めたとき、神様は祈りに応えてくださった。それによって、アサ王様は、神様の力を知り、恵みを知り、神様の思いを知ったのです。ところが、その晩年、彼は病気になったときに、「神を求めず医者を求めて……」とあります。残念ながら神に帰らなかったのです。これは悲劇です。だから、私たちは、どんなことをしても最後は、神様に帰りさえすれば、万事は益となるのです。もし、神様に帰らなければ、永遠の滅びです。

最後に一言読んでおきたいと思います。歴代志下28章22節「このアハズ王はその悩みの時にあたって、ますます主に罪を犯した」。実に一言だけです。アハズ王というのは、エルサレムで世を治めた王様ですが、彼は、そもそもが悪い王様といいますか、神様を離れて、神様の前によからぬことをし続けた王様でした。ところが、神様は彼を憐れんで、何とかして神様に立ち帰るようにと、待っていてくださった。22節に「このアハズ王はその悩みの時にあたって、ますます主に罪を犯した」。悩みにあって、そこで主に帰ればよかったが、帰らなかった。何をしたかというと、ますます悪を行った。ほかの神々を拝むものと変わっていくのです。23節以下にそのことが記されています。とうとう彼は死んでしまうのですが、27節に「アハズはその先祖たちと共に眠ったので、エルサレムの町にこれを葬った。しかし、イスラエルの王たちの墓には持って行かなかった」。実に気の毒な最後でした。王としてその生涯を終ったのですが、残念ながら神様を離れて、ほかの神々を拝む者となって、神様に対して罪を重ねた。何か失敗した、あるいは困難に遭い、悩みに遭ったときに、直ぐに主に帰る。それをしないで、あの人に頼み、この人を求めて、ああして、こうしてと、神様以外のものを神としていくときに、いよいよ滅びに陥っていってしまいます。アハズ王様は死んでも、「イスラエルの王たちの墓には持って行かなかった」のです。王としての尊厳、王としての取り扱いを受けることができませんでした。

もう一度始めのイザヤ書55章6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。ここに「主にお会いすることのできるうちに」、「今は恵みのとき、見よ、今は救いの日」、今はどんな悩みにあっても、そこで主を求めることができ、遠慮なく主に近づくことができる恵みのときです。だからこそ、いろいろな悩みに遭うとき、困難に遭うとき、苦しいつらいことがあるとき、直ぐに主に立ち帰ろうではありませんか。神様を十分に信頼しているから、大丈夫と思いますが、いやいやどうして、いろんな問題に遭うとき、自分の信仰のありようを探られます。自分で信仰があると思っていたけれど、信仰のない自分であることに気付かされます。また、主の御愛と恵みをどれほど信頼しているかを探られます。また、自分が神様の御心にどれほど従ってきたか、問われます。いろんな問題にあって、神様が、私たちに語ろうとしてくださること、恵もうとしていることが沢山ある。悩みに遭ったとき、困難に遭ったとき、人をのろい、事情境遇を嘆いて、つぶやいて、過ごすのではなく、もう一度、謙って、主に立ち帰って、主の恵みを受けましょう。神様は、このことを通して何を語っているのか、何を教えようとしてくださっているのか探り知りたい。そこにありますように「正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」。神様は、恵み豊かな方で、憐れみを施され、豊かな許しをもって私たちを顧みてくださる。新しく造り変えてくださるのです。

どうぞ、この恵みを日々味わっていこうではありませんか。この恵みをあの人にも教えてやろう。今から帰りに寄って一晩掛かって話してやろうと。そんな必要はないのです。そんなことを幾らしたって通じないのですから、祈ることです。問題の中、事柄を通して神様と私との関係をピシッと整えて行く時、神様は、周囲の人々にも働いてくださいます。信仰をもって先ず、自らが主にお会いすることのできるうちに主を尋ね、近くおられるときに、主を呼び求め、与えられた問題事柄の中で主に近づきたいと思います。「これはいい言葉だ、あの人に早く教えてやろう。これを伝えてやりましょう」と。人ではない、自分なのです。自分に対して、神様は今何を語っていらっしゃるか、そのことを深く悟る者となりたい。そして、主を求め、主に立ち帰って、主の与えてくださる、神様が備えてくださる大きな御業を、恵みを受け止めて生きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。