いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

6月30日 日々の聖言

2014年06月30日 | 日々の聖言

「神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、

あなたがたが神に選ばれていることを知っている。」第一テサロニケ1:4 



「神に愛され」、「神に選ばれ」ているとは、なんと光栄なことではないでしょうか。

ところが、わたしたちはそのように思えないでいます。人からの愛を求め、世の

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聖書からのメッセージ(245)「キリストの平安を得よ」

2014年06月30日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書14章25節から31節までを朗読。

 

 27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。

 私たちにとって、平安である、安心があることは大変うれしいこと、幸いなことです。考えてみると、人はそれを求めて生きていると言えるかもしれません。安心を得たい、平安でありたいと願います。ところが、なかなかそれが得られません。

 

 ここにイエス様は「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」と言われます。同じ「平安」という言葉を使いますが、世が与えてくれる平安と、イエス様が与えてくださる平安とは違うものだということです。まずこの世の平安とはどんなものでしょうか。お金のない人は何とかお金があれば安心だと思います。また病気の人にとって見れば、早くこの病気が癒されて健康になれば私は安心なのだと思います。生活に困っている人にとっては、それが取り除かれることが安心だ。そうやって考えますと、世の中の生活は、日々、絶えず自分の安心を求めてあくせくしている、苦労していると言ってもいいと思います。それほどに、誰だって平安でありたい、安心を得たいと思いながら、なかなかそれが得られない。その原因はこの世の安心とか平安と言われるものは、どうしても限界がある。これは本当の平安ではないからです。例えば、病気をして病弱でいつも死の不安を抱えている。何とかこれがすっかり元気になって健康になれば、安心だと思っても、もう二度と病気にならないという保証はありません。人が生きているかぎり、肉体的な、身体的なものは逃れようがありません。また経済的な問題でも、時代が変わり、いろいろなものが変化していきます。昨今のように世界が経済不況に陥ってしまうと、どんなことをしても、安心はすぐに消えてしまいます。この世の与える平安は、そのように絶えずクルクルと変わっていく。だから、いつまでたってもそれに達しない。まるで、ハツカネズミが丸い車の中でぐるぐる走り回っているように、走れど走れど丸いかご自体が動きますから、いつまでも終わらない。世が与えてくれる平安を求めるかぎり、決して得られません。

 

イエス様がこの世に来てくださったのは、そのようにいつまでも得られない、達成できない平安ではなくて、文字どおりの安心を与えてくださるためです。「平安をあなたがたに与える」と言われます。イエス様が私たちに与えてくださる平安とは何か?それを考えるためにはもう一つ、私たちの平安を乱している事柄、私たちの心に不安や恐れを起こしているものはいったい何かを考えねばなりません。確かに、目に見える状態や事柄、事情境遇、お金がないとか、病気であるとか、あるいは、あの人この人とのいろいろな人間関係の問題、目に見えるそういう事態があるから不安だとか、心配だとか言います。しかし、実はもっと深いところで私たちが不安を感じる、恐れを感じている事柄があります。それは、神様と私たちとの関係でしょう。ヨブ記を開きたいと思います。

 

 ヨブ記22章21節から30節までを朗読。

 

 21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」とあります。実は、私たちが求める平安のいちばん根本にある恐れや不安、ある種の自信のなさ、安心感がない原因は、神様と私たちとの間が断絶していることです。言うならば、神様と敵対関係にあること、これがそもそもの原因なのです。それはどういうことかと言いますと、まず私たちは神様に造られたものです。私たち一人一人が神様によってこの地上に命を与えられ、生かされている者です。私たちは誰のために生きているわけでもない。自分のためでも人のためでもない、家族のためでもない。私たちの造り主でいらっしゃる神様に与えられた目的と使命のために生きる者のです。ところが、神様のことなど私たちは知らなかったわけです。神様がいらっしゃることも考えない。それどころか自分が神様になったと言いますか、自分がすべてであって、私の考えや私の計画、私が……と生きてきた。その結果、私たちは神様との関係が絶たれてしまっていた。これが私たちを大変不安にする原因なのです。というのは、神様は私たちの造り主ですから、私たちは神様と結びついて初めて人となり得るのです。創世記にそう語られている。私たちは神様の命の息を吹きいれられて人となる、生きるものとなる。人が神様と共にあること、これがエデンの園の恵み、生活です。神様との隔てなき交わりが続いているかぎり、人は安心できるのです。

 

 これは親子関係と同じです。子供と親という関係は、神様と人との関係のようなものです。親子の関係が非常にうまくいっている、親と子が密接な愛の交わり、そういう関係にあると、子供の精神状態が非常に安定します。ところが、何かの問題や事柄があって親子が断絶する。あるいは、信頼関係が失われてしまいますと、殊に幼年期、幼い頃にそういう事に会うと、子供の成長が阻害される。特に内面的な、精神的な面でトラブルを抱え込んでしまいます。それは幼い頃だけの問題としてではなくて、親子関係が改善されるまでズーッと続きます。大人になっても続きます。

 

 私は身近にいろいろな方々を見ていて、そのことをしみじみ教えられます。私の知っているある方は、お父さんが大変厳しくて、父親を慕う気持ちもありますが、父親のことを思うと、その恐怖心と言いますか、あるいはそれに対する憎しみというものがグッと強く出てくるのです。その方は70代後半になっていますが、今もって「おやじが」と、自分の親のことを一言言った瞬間に、クッと心が変わります。そして、父親との関係がうまくいかなかったことと同時に、自分はそんな父親になれないという責めも感じる。ところが、母親は長男であった彼に対して大変甘かったのです。優しいばかりで接してきましたから、その落差が大きい。その親子関係、ある種のねじれと言いますか、もう父親は亡くなったのですが、その関係が今もって続きます。私はその姿を見ながら、人の関係でもこういう問題があるのだなと思う。それは親子の関係が回復されないことには治りません。

 

 私たち人間はすべてそうなのです。造り主でいらっしゃる神様に対して、私たちが信頼できない。神様を信じられないところに、私たちの根本的な不安と恐れと苛立ち、焦燥感、何かじっとしておられない不安定な精神状態になる。これは私たちの生活の中に必ず出てくる。何か事があるとフッとそのことが私たちの心をよぎってくる。自分は両親が大変愛してくれて、親子関係にそんなひずみはないと言われます。確かにそうでしょう。その関係においては良い関係であったと言えると思いますが、しかし、神様と私、神様とあなたとの関係はどうであったか。そう言われると、私たちは神様との間にどうしても信頼できない不信感のようなものが根強くあるのです。神様はいらっしゃるかしれないが、それを感じるけれども、何か神様は罰を与える御方だと。日本人はそうですね。“触らぬ神にたたりなし”と言うでしょう。できるだけ神様には近づかないほうがよいと。“祭り上げる”と言います。なぜ祭るか。できるだけ遠ざけたい。だから神棚は天井近くに置いている。日常生活で見えないようにして、フッと時々見ればいい。あまり年中見たくない。そういうものでしょう。だから、神様は怖いものの代名詞ですよ。「山ノ神」など、そうですよ。怖いのです。なぜ神様が怖いものと感じられるのか。それは、どこか責められる思いがある、あるいは、自分は神様の前に何かやましいものがあると言ってもいい。といって、何か具体的に神様に対して敵対した思いはもちろんありません。ところが、今読みました22章21節には「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」と勧められています。神と和らぎなさい、和解しなさいと。けんかしていただろうから、あなたがたは「御免なさい」と言いなさい、これが大切だと。どのように神様と敵対していたか。それが実は22節以下に語られています。「天幕から不義を除き去り、24 こがねをちりの中に置き、オフルのこがねを谷川の石の中に」、神でないものを頼り、神でないものを神としていたではないかと。確かに考えてみますと、神様以上に家族を信頼し、子供を頼り、お金を頼り、自分の才能や家柄を頼り、そういうことを自分の力として生きていることは、取りも直さず、真の神様をないがしろにしていたことです。その結果、私たちの心は不安と安心がない心に変わっていく。だから、25節に「全能者があなたのこがねとなり」と、更に26節に「あなたは全能者を喜び」とする。神様を自分の宝としてしまう。神様を全面的に「あなたは主です」、「あなたは神です」と、私どもが神を神として尊び敬う者となること。そして、神様と和解するならば、私たちは神に向かって顔を上げることができ、祈りを聞いて頂くことができる。神様との密接な交わりに入ることができる。だから「神と和らぎなさい」と言われます。

 

 ですから、ヨハネによる福音書14章27節、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われます。イエス様がこの世に来てくださったご目的は、私たちに平安を得させるためです。先ほどのヨブ記の言葉から言うならば、「私たちを神様と和らがせてくださるため」なのです。そのことをイエス様は「わたしの平安」と言われるのです。イエス様が持っていた平安はどんな平安だったでしょうか。それは父なる神様と全く一体となる事です。イエス様は父なる神様と共に居給うた御方が、あえて神の位に固守することをせず、人となってこの世に来てくださった(ピリピ2:6)。確かにイエス様は、私たちと同じ肉体をとってこの地上に生きてくださいました。しかし、それは同時に父なる神様と密接につながる、神様と和らいだ者の一つのモデルであります。イエス様はこの地上に在りし間、常に「父よ」、「父よ」と、父なる神様と不即不離と言いますか、決して離れることなく、全くぴったりと寄り添って生きてこられたのです。それに対して私たちはどうかというと、私たちは神様とくっつくことができないで、自分で、自分でと言い張って、神様との間が、距離が隔たってしまった。そこへイエス様が来て、「わたしの平安をあなたがたに与える」と。「わたしの平安」、すなわち、父なる神様と私たちとが全く一つになって、神様を尊んで、敬って、主のものとなりきっていく和解の道を、主が私たちのために備えてくださった。イエス様があの十字架にご自身の命をささげてくださった時、父なる神様から最後ののろいを受けて完全に父と子としての関係を切り離されました。その時、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と、イエス様は悲痛な叫びを上げています。父なる神様から完全に切り離された痛みです。これは徹底的な滅びでした。言うならば、実は私たちがそういう状態にあったのです。神様から切り離されて、神なき者となっておった。これほど惨めな、これほど大きな災難はないのであります。たとえ私たちの目に見える生活条件が整って、物質的にどんなに豊かで、事情境遇が恵まれていようと、神様から切り離されている魂、心であるかぎり、これは完全に呪われた生涯、そこには何一つ良いものが生まれてこない。エレミヤ書に、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる」(17:5)とあります。私たちが自分を尊んでいるかぎり、神様との間は完全に切られた者、神様との関係が絶たれた者となります。これはイエス様があの十字架の最後に受けた神様からののろいだった。その瞬間まで、それまで十字架の上にあったときでもなお「父よ」、「父よ」と、父なる神様に信頼しておられた。ゲツセマネの園の中にあっても、苦しみの中に祈りつつも、父なる神様のご愛の中にイエス様はとどまっていらっしゃった。だから、イエス様は父なる神様にご自分を全くささげて従うことができたのです。私たちはイエス様の体験なさった平安を、今頂くことができるのです。27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われるように、イエス様が与えようとしてくださる平安、神様と和らいで、神様と一つになっていくこと。これが大安心です。たとえ日常生活の問題や事柄、どんなことが起こってきても、神様と和らいでいるならば、神様のご愛の中にすっぽりと自分を委ねきってしまうことができるならば、まるで温室にいるのと同じです。どんな大嵐の中にあっても、どんなことが起こってきても動じない。これが実は私たちにイエス様が与えようとしてくださる平安なのです。もしいま何か不安があり、落ち着かない思いがあるならば、また、今は漠然として、何が問題といって問題はないのだけれども、何か将来に対してじっとしておられない不安があるならば、その原因はまさにそこなのです。神様に対する信頼、これをイエス様が与えてくださるために、あえて十字架にご自分が罪人となって、神様と私たちとを隔てておった罪の一切を取り除いてくださったのです。

 

 エペソ人への手紙2章11節から16節までを朗読。

 

 本当に素晴らしい恵みです。11節から12節の終わりまで、まさに「罪ととがとに死んでおったもの」、「この世の中で希望もなく神もない者であった」と。様々な神様の祝福と縁のなかった私たち、滅びに定められていた私たちです。ところが、13節に「今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである」と。イエス様の十字架の血潮によって、私たちの罪もとがも一切を取り除き、神様に全く近い、神様と一つとならせてくださる。14節に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし」とありますが、「二つのもの」とは、神と私、キリストと私です。この二つを一つにしてくださる、一体となる。これは私たちに与えられた神様の恵み、平安です。私たちはだれからも罪人と定められることのない者としてくださった。神様と全く和解させてくださった。このことを信じていきたい。これが平安の源なのです。私たちがいろいろなことで不安を覚え、恐れを感じ、心配、思い煩いにいるとき、この恵みを忘れている時です。私たちが神様から離れてしまっている。もう一度、神様のものとなって、神様が私と一つであること、神様は私の中に宿っていてくださる。キリストは私たちと共にいて、新しい命となって、私を生きる者としてくださる。ここにいつも立ち返っていく。事情、境遇、問題、事柄、目に見えることは目の前にたくさんありますが、しかし、その背後の神様と私、そこに目を留めていきますと、どんな目の前の問題も、もはや問題とならなくなるのです。

 

14節以下に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである」。「戒め」とは、私たちを責める道具です。私たちを罪に定めるための規定です。物差しでいろいろなものを測りますと、あれが足りない、ここが欠けている、多すぎる、少なすぎるなど、はっきりしてきます。それは欠けた所や不足している所を明らかにするためでしょう。律法とは、私たちがどんなに欠けた者であるか、どんなに神様に対して罪人であるかを糾弾(きゅうだん)する道具であります。しかし、イエス様はそれをすべて打ち壊して、私たちを神と一つになる者としてくださった。だから、私たちはどんなことがあっても、十字架によって、私たちは今、神様との間にとがめられることのない者であり、神様がいちばん愛してくださる自分であることをしっかりと心に留めておきたい。

 

先日もある方が、お手紙をくださって、「実は私は考えてみると、神様から偏愛された自分だと思う。誰よりも私は神様から愛された者であると、いま本当に感謝しています」。あつかましいなぁ、と思いますが、そのくらい神様に信頼していくことができたら、どんなにか幸いなことでしょう。何が起こってきても、神様がご存じだからと確信できます。先ほどのヨブ記に「全能者があなたのこがねとなり、あなたの貴重なしろがねとなるならば」とあるように、神様が私の力であり、全てであり、いま目の前のどんな問題でも、事柄でも、神様がご存じなのだ。神様は私を愛して、私のためにいちばん良いことをしてくださると言えるのはこの確信があるからです。「キリストの血によって」、神様と私たちを一つにしてくださった。「近いものとなった」と言われるように、神様のそば近くにおらしていただけるのであります。更にその先16節に「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ」、どうぞ、ここをしっかりと心に留めていただきたい。十字架によって二つであったもの、神と私というように相対していた、向かい合っていた私たちを、そうではなくて、神イコール私、私イコール神様と、全く一つにしてくださった。「一つのからだとして神と和解させてくださった」。「敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。神様は私たちを滅ぼさない、私たちをとがめない、罰しないとおっしゃる。だから、何を恐れることがあるでしょうか。私たちは「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル 4:16)と、神様に近づいて呼び求めることができるようにしていただいた。

 

 ピリピ人への手紙4章6,7節を朗読。

 

 「何事も思い煩ってはならない」と、どんなことも感謝をもって、ことごとく祈りと願いを神様に申し上げなさいと。神様にこんなことを言っていいのだろうかなどと恐れますが、何の遠慮もいりません。エペソ人への手紙に語られているように、「十字架によって、二つのものを一つとせられた」のですから。だから、私どもはどんなことでも、神様の前に持ち出していくことができる。神様は私たちの心の隅から隅まで、言葉にならない、うめくような思いすらも全部くみ取ってくださる御方。私たちのそばにいてくださる。私たちと共にいてくださるでしょう。そこまで神様に結びついているでしょうか?時折、必要な時だけ持ち出してきて、普段はちょっと隠れてもらってという、そんな状態であるから、いつまでも他人(ひと)の靴を履いているような落ち着かなさがある。そうではないのです。もっと大胆に、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(1ヨハネ 3:16)と告白し、主に信頼しましょう。主が十字架に命を捨てて、その血によって神様と私たちの間の敵意という隔ての中垣を一切取り壊して、二つであったものをいま一つにしてくださった。これほど身近なものはない。夫婦であってもこれほど一緒になれません。夫婦であっても皮の袋にお互い包まれていて、二つですからいくらぶつかり合っても一緒にはなりません。でも神様と私たちは一体となる。これが私たちに主が与えてくださる平安。だから、「求めるところを神に申し上げるがよい」と。どうしてあなたがたは遠慮しているのですか、どうして言わないのですかと、神様は妬(や)けるような思いをもって待っているのです。私たちが一切神様に申し上げるならば、7節に「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」とあるように、言葉に言い表すことのできないほどの安心、神様の平安によって、心の思いの一切を神様が鎮(しず)めてくださる、取り仕切ってくださる、握ってくださるのです。私たちに安心を与えてくださる。これが私たちの受けている大きな恵みです。私たちはいつも平安のうちに喜び感謝して生きる。確かに目の前にはいろいろな問題があるに違いない。「ああなってくれるならいいけれども……」と、いろいろなことがありますが、それは神様がすべてご存じです。全能者ですから。私が分からなくてもいいのです。私が心配しなくてもいい。神様はちゃんといちばん良いことをしてくださる。

 

 先だっても福岡の若い人たち、兄弟が遊びに来まして、一緒に食事をしました。いろいろな話をしまして、今度大学を受験する高三の子供、あるいは大学生がいました。そのとき、人生にはいろいろな失敗もあるし、思い掛けないことが起こるという話から、大学生で、今3年生になる子に、「ちゃんと勉強して単位を取らなあかんぞ」と言ったのです。「卒業の時になって、ひょっとして卒業できなかったら困るから」と言ったら、「あと20何単位残っていますが、これくらいなら4年生で取れる」と言いますから、そこで思い出したのです。と言うのは、私の知人が今、大学で教師をしていますが、彼は大学4年生で、いよいよ3月に卒業になり、もう就職も決まっていまして、就職先に荷物を送る手はずにもなっていた。本人も卒業するものと思い込んでいました。そうしましたら、卒業式の直前になって、「あなたの1年生の時の語学の単位が取れていません」と言われ、卒業名簿に名前がない。本人もびっくりして、とうとう卒業できなくなり、就職も駄目になりました。それで僅かな単位を取るために、一年間大学に残ったのです。その時のことを考えると、親は大変でした。絶望の淵、どん底に落ちる。「どうなるか!」と。それで大学をやめてしまえば、中退になりますから、一年そのために頑張ったのです。翌年卒業をしました。卒業して就職してくれて、親はこれで大安心と思ったら、「やはりもうちょっと勉強をしたい」と、目覚めた。大学院に行きたいと言って、それから一年、また浪人をした。幸いに一年勉強して大学院に入る。やがて卒業をして、大学の教師になりました。考えてみたら、あの時単位を取り損なって良かったじゃないかと。それを聞いた若い者が、「え!そういうことがあるの。だったら失敗してもいいじゃないか」と言う。

 

神様のなさることはそうなのだろうと思うのです。どんなことでも結果はオーライだろうと思います。ところが、私たちはその神様を信頼しきれない。神様のご愛に私たちの心が届かないからです。神様がしてくださることに、どんなへまもない失敗もないことを知っておかなければならない。人がすることは失敗だらけ、欠けた所だらけ。だから、どうぞ、皆さん、どんなことがあっても、全能者を自分のこがねとし、宝としていくならば、これに勝る平安はありません。どんな「お守り」を持つよりも、これがいちばんですよ。神様が私を「十字架によって、二つのものを一つ」にしてくださった。神様と私とは何一つ揺らぐことがない関係にある。これをはっきりと知っておきたい。

 

ヨハネによる福音書14章27節に、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」。イエス様が与えてくださる平安は何か?それは父なる神様、全能者と私たちが一つとなることにほかなりません。そして、その全能者に信頼していく時、思い煩うことが一切ない。ただ喜び、感謝し、主を褒めたたえ、賛美していく以外にない。今どんな問題の中に置かれていても、神様がそこから何をしてくださるか分かりません。私たちには分からないけれども、神様は私たちの味方であり、後ろ盾となって、いちばん良いことをしてくださる御方、決してへまなことをなさる御方でありません。愛なる御方です。

 

どうぞ、私どもはその御方のご愛の中にスッポリと自分を委ねて、何があっても感謝し、喜んで、主を褒めたたえていこうではありませんか。だからそこにあるように、「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と。どうですか、何か「あれがあったら、どうしようか」「これが……」とおじ気づいているとするなら、それは主のご愛から離れているからです。「全き愛は(おそれ)を除く」(Ⅰヨハネ 4:18文語訳)と言われるように、主の完全なご愛の中に自らをしっかりと結びつけましょう。そのためには十字架以外にありません。十字架はそのために立てられた。主の十字架によって、キリストと一つになって、神と一つになって、主の平安の中に歩みたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


6月29日 日々の聖言

2014年06月29日 | 日々の聖言

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、

キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」ピリピ4:19 



あなたの命も、生活も、家族も、仕事も全て、神様から与えられたものばかりです。

また、幸いと言われることも、災いをも、主からいただくのです。そのことを素直に認

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聖書からのメッセージ(244)「十字架を誇る」

2014年06月29日 | 聖書からのメッセージ

 コリント人への第一の手紙1章18節から25節までを朗読。

 

 18節「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。

 

 教会に来ると、「十字架」という言葉をしばしば聞きます。この教会でも入り口の正面の屋根の上にも十字架が立っています。また講壇にも十字架が掲げられています。教会で目につくのが十字架です。世の人にとっても十字架を見るとキリスト教と結び付いている。キリスト教の印、家紋のようなものと思われています。では、十字架とはどういうことなのか、教えられたいと思います。

 

 というのは、イタリアに参りまして、フィレンツェへ寄りました。イタリアはご存じのようにキリスト教国と言われています。ローマにあるバチカンがカトリックの本山ですから、イタリア各地に教会があります。列車で走っていても、高速道路を走っていても、車窓に必ず教会が目につきます。高い尖塔があって、その上には必ず十字架が掲げられています。一つの風景として、日本だと農村へ行くと田んぼが見えて、村があって、時には神社が見えたりしますが、風景といいますか、そういうものとして眺めていました。フィレンツェへ行きましたが、そこには有名なウフィッツィという美術館があります。そのほかにも、そこには古い教会が幾つかあります。しかも、フィレンツェという町はメディチ家の本拠地だったのです。メディチという人はイタリアの中心的な人物、政治家ではなくて商売人、大富豪でした。彼らは力を誇示した時代がありまして、メディチ家はイタリアの歴史と一体です。彼らが造ったいろいろな歴史的な物が残っている。それが集中的にあるのがフィレンツェなのです。ルネッサンス期に入ってその業績が大変高く評価されました。久留米には寺町という所があり、お寺さんがズラーッと軒を連ねている場所があります。それとよく似ているのです。フィレンツェにも何々教会、何々教会、町角ごとに教会がある、そういう場所です。そこに行きますと、古い宗教絵画などがたくさんあります。私たちが知っている西洋絵画はロマン派以降ですから、風景画だとか人物画などが中心です。レンブラントであるとかルノアールであるとか、そういう名画と言われるものがあります。しかし、それは絵画の長い歴史ではむしろごく新しい部分なのです。それ以前は宗教画が中心です。宗教画とはキリスト教に基づいた絵画です。その絵画は、恐らく昔は字が読めない人が多かったから、絵で教育をする視聴覚教育としての教材だったと思います。同時に自分たちの信仰の告白でもありました。自分たちが何を信じているのかを言い表す道具として絵画を用いたのです。ですから、カトリックの修道士という、生涯を神様にささげていた人たちは、僧院で生活しながらいろいろな仕事をしたのです。大工であるとか、農業であるとか。ですから修道院を拠点にして村の教育をしたり、福祉施設を作って運営したり、いろいろな分野で働きました。その中に絵を描く人たちがいた。修道士でありながら絵を描く。その絵は、もっぱら聖書の物語、聖書に書かれている記事を絵に描く。あるいはカトリックの長い歴史の中で聖人と言われる人たちがいますが、そのような宗教的功績のあった人物たち、その業績、逸話、そういうものを絵画にして描く。言うならば、絵を描くことを仕事とした人たちです。皆さんもご存じと思いますが、フラ・アンジェリコという画家がいますが、彼も修道士です。彼が描いた『受胎告知』という絵がフィレンツェにあります。修道院の壁に描かれた絵です。これは素晴らしい絵です。入り口から階段を上がりますと、真正面にその絵がポンとあります。そんなに大きな絵ではありませんが、非常に感動的です。私もその絵を見て大変教えられました。その修道院の各宿坊、それは修道士たちが寝起きする小さな部屋で、3畳くらいの部屋がたくさん並んでいます。そのそれぞれの部屋の壁に絵が描かれている。イエス様が語られた、善きサマリヤ人の話であるとか、イエス様がその当時の律法学者たちと議論をしている場面であるとか、もちろん十字架の絵もあります。それからよみがえってマリヤに「わたしに触ってはいけない」と呼び掛けている絵がある。それらの絵は、恐らくそれを描いた人の信仰の証詞だったと思います。そういう絵画を見ることが目的でフィレンツェへ行ったのです。

 

私が今回特に教えられたことは、どこに行っても十字架なのです。多くの宗教画があります。確かに「受胎告知」はひとつの大きなテーマです。いろいろな画家がそれぞれに「受胎告知」の場面を描いています。私は教会学校で聖誕劇をする時、マリヤさんがひざまずいて、天使ガブリエルが立って、星の付いた棒を持って、「恵まれた女よ、おめでとう」と言う、あのスタイルを思い描いていた。ところが、いろんな画家が受胎告知を描いていますが、共通しているのは、天使ガブリエルのほうがひざまずくのです。マリヤさんは腰掛けている。マリヤさんの目線よりも天使ガブリエルの目線のほうが下になる。これは、それを描いた人の心の思いが表れているな、と感じました。

 

それと同時に、もう一つのテーマは、十字架です。そのほかにも好んで描かれる絵に、皆さんもご存じの『最後の晩餐』があります。ミラノにある教会付属の修道院の食堂の壁に描かれているダビンチの『最後の晩餐』の絵が極めて有名ですから、ダビンチのことを思いますが、実は「最後の晩餐」というテーマは、古くからあり、いろいろな人たちが描いています。しかも、特に食堂の壁に必ず描く。晩餐ですから食事と関係しているからでしょう。チャペルとか礼拝堂の中には描かれていません。修道院に行くと、食堂の壁に、「最後の晩餐」の絵がある。しかもそれぞれ画家が全部違いますから、「最後の晩餐」のイエス様がえらく品のないしょぼくれたものもあります。いろいろと見比べると、ダビンチの『最後の晩餐』は傑作、大変優れています。そしてもう一つ大切なのが十字架です。いろいろな画家が精魂込めてたくさん十字架の絵を描いています。十字架を描くといっても、これはそれほどバリエーションがない。ただ、非常に印象深かったのは、どこの教会に行っても十字架が掲げられています。もちろん外にもありますが、建物の中に掲げられた十字架には極めてリアルなイエス様の彫像、イエス様がまさに苦しみとうめきの中で息絶えようとする姿が描かれている。日本では十字架というと、大抵は形だけでイエス様の姿とかそういうものはありません。ただ印としての十字形のかたちを描きます。ところが、イタリアに行って教えられたことは、空っぽの十字架ではなくて、そこにイエス様が生々しく苦しみもだえている。悩みの中にあるイエス様の苦悩を描き出す、これが十字架を描いた人たちの一つの受け止め方だと思います。私どもは普段十字架をマークとして、印としてだけ見ますから、そこまで切迫した思いがない。しかし、イタリアで見た十字架はリアルですし、ある意味ではむごたらしい姿なのです。しかし、それを見ていると、「あ、なるほど、十字架とはこのことなんだな」と教えられます。「このこと」とはイエス様の死です。それを観念的に頭で知っているより、見える形で、如実(にょじつ)に彫刻として、あるいは絵画として、目の前に置かれると、「この十字架は何のことなんだろう、誰のことなんだろうか」と考えさせられます。

 

ですから、かつてモラビアン派という福音派の始まりとなったツィンツェンドルフという北ドイツの伯爵の話があります。これはウェスレーという一人の伝道者がイギリスから大西洋を経てアメリカへ渡って行こうとした時に、船に乗っていた。その時、大嵐に遭い、船が沈むかもしれないという危険な中にあった。その時、船室の奥のほうから讃美歌が聞こえてくる。「何事かな」と思って、ウェスレーが近づいて行ってみると、そこに十数人の人が輪になって座って、讃美歌を歌って祈っている。この生きるか死ぬかという大嵐の中で、彼らは何と深い、強い信仰なのだろうかと思った。そのときウェスレーはまだ若かったのでありますが、大変大きな影響を受けました。このモラビアン派という敬けんなグループの始まりは、北ドイツの一人の領主、ツィンツェンドルフという伯爵でした。彼は大金持ちで、領地に教会も持っていましたし、いろいろな絵画を集めるのも好きだった。自分で蒐集した絵画を並べた絵画室がありました。あるとき、彼はいつものごとくその絵画を見ていた。そこに十字架が描かれた絵があった。十字架があり、イエス様が今にも息絶えようとしている姿が見える。その絵の上に「我、汝のためにこのことをなせり、汝、我がために何をなせしや」と書かれていた。彼はなにげなく見ていたのですが、その絵に釘付けにされてしまった。その上に書かれた短い言葉が、繰り返し、繰り返し彼の心の中に響いた。「そうだ、イエス様が死んでくださったのは、誰のためにでもない。わたしのためじゃないか」。「わたしはあなたのためにこのことをした」。「このこと」とは、イエス様が苦しみ、うめきの中に十字架の上で息絶えようとしている姿を目の当たりにしたことです。そのときに、彼はその場で動けなくなってしまった。そして悔い改めたのです。涙を流して悔い改めて、自分の生き方を変えたのです。彼は自分の領地があり、そこに村がある。そこに住んでいる人たちに施しをするように変わってしまう。自分の財を費(つい)やして、この福音を伝える、あるいは多くの人々を助ける働きをする。そこに敬けんなクリスチャンの集団が出来たのです。

 

イエス様の十字架の絵を見ていると迫られます。しかも、それが一枚や二枚じゃないのです。何枚もあるのです。ある教会、それはメディチ家の墓がある教会ですが、そこは大聖堂になっていて、天井の高い大ホールです。カトリックですから一番奥に祭壇が飾られ、会堂の真ん中に天井から大きな十字架がつるされている。それは私たちが知っている木の十字架だけではなくて、そこに彩色されたイエス様の、まさに命が絶たれようとしている姿が、等身大以上の大きなもでドーンとある。私はそれを見たとき、私たちの信仰の原点、私たちが信ずべきものが何なのか、もう一度深く探られました。

 

今読みました1章18節「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが」とありますが、では「十字架の言(ことば)」とは何なのか。それはあのツィンツェンドルフ伯爵が問われたように、イエス様の死です。しかも、イエス様はただ義人としてではなくて、神の子であった、御子イエス・キリストなのです。

 

ローマ人への手紙5章6節から11節までを朗読。

 

この箇所に、繰り返して「弱かったころ」「不信心な者」「罪人であった時」「敵であった時」とあります。私たちは神様も知らない、イエス様のことも知らない、ただ自分が、自分がと、己のことばかりを考え、自分の欲情に従って生きていた。人を傷つけ、け飛ばし、わがままな自分の思いだけで生きていた。そのような私たちを、生まれる前から、まだこの世に姿かたちもなかったときから、神様は愛してくださった。私たちの生まれる前に神様はひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださった。それは神様から受くべき永遠の呪い、滅びから私たちを救い出してくださるためです。イエス様ご自分が罪人とされて、ゲツセマネの園で捕らえられ、多くの人々から罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びせられても、一言の言い訳も口答えも言い返すこともなさらないで、黙々と十字架を負うてくださった。これは二千年前の過去の出来事ではなくて、今生きている私たちのためです。そしてこれが「十字架の言(ことば)」です。

 

6節「キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さった」。しかも8節「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。何のために父なる神様はそのようなことをしてくださったのか。私たちを愛しているからだと言われます。打算や求めるところがあってしたのではない。一方的な神様のご愛のゆえに、ひとり子イエス様を私たちのために遣わして、私たちを罪からあがなう御方、罪を赦す御方としてくださった。だから、あの十字架はまさに私が死ぬべき場所である。イエス様のむごたらしい姿、一滴一滴血を流し、体を裂かれ、生きたまま生身の体を裂かれる痛みと苦しみの極限の中にあって、「父よ、彼らを赦し給え」(ルカ23:34文語訳)、本来私どもが受けなければならない神様からの呪いを主が受けてくださった。これ抜きにしては私たちの信仰は有り得ない。私はもう一度、改めて神様がいらっしゃるとか、天地万物すべてのものは神様によって造られたとか、そのようなことを聞く以上に、それもその通りなのですが、しかし、それを本当に感謝できるためには、まず私ども自身が今、イエス様の十字架によって罪を赦された者、しかも、自分がどんな極悪な罪人であったかということ、何一つ取って良いところのない自分であることを知る必要がある。でも、そういう自分であることを押し隠して、己を義とする。そのような思いが常に私たちにあります。自分は「これはいけない」と思いつつも、「いや、だってそうではない。あの人もこの人も」「ああだから」「こうだから」と、いろいろな言い訳をする。そうやって、ありのままの自分、裸な自分を認めようとしない。そのような私たち、神様の前に到底立ち得ない私たちの罪を赦すために、御子イエス様をこの世に遣わしてくださった。これが「十字架の言(ことば)」です。そして「わたしたちに対する愛を示されたのである」。神様は私たちを愛していると証してくださった。だから、十字架は確かにむごたらしい、厳しい、つらいことです。しかし、同時にそこにこそ神様の愛がある。私は十字架を多くの人々が、繰り返し、繰り返し絵に描き続けたエネルギー、力はどこから来たのかなと考えました。それはイエス様の十字架がほかの人ではない、自分のためだと信じた一人一人の生き様(ざま)だったのです。私は圧倒的な数の十字架の絵を見ていますと、自分がその十字架をどれほど自分のものとして生きてきただろうか?それは頭で理解はしているが、本当に心から、主が私のために命を捨ててくださった。私はその主の命によって生きる者とせられ、イエス様が神様からの呪いと滅びを受けてくださったゆえにこそ、今、私が赦された者として、今日も神様の憐(あわ)れみを受けて生かされている。そのことをどれ程深く感謝しているだろうか、それを喜んでいるだろうか?と問われます。

 

初めのコリント人への第一の手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。「そんな、二千年前の話を聞いて一体何になる」と言う人もいるに違いない。また「そんな馬鹿なことがあるものか。神の子が、どうして人のためにまで、やすやすと捕らえられて十字架に殺されるなんて」、イエス様と一緒に十字架につけられたひとりの犯罪人はそのように言いました。「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」(ルカ 23:39)と。「救い主だったらそんなところにおるべきではない」と言うに違いない。これは「滅び行く者には愚かなこと」ですね。だから、今でも世の中の多くの人々は、イエス様の十字架のことを聞きながらも、それを信じられないがゆえに滅びの道を歩んでいるではありませんか。私はこうしてイエス様の救いを信じる者とされたことがどんなに大きな、掛け替えのない恵みであるか、どれほど感謝しているだろうかと、改めて私自身が思いを新しくさせられました。ですから、18節「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。十字架こそが「神様の力」です。私どもも自分の姿をしっかりと認めて、「ああ、こんな私、嫌な自分だ」と、自分の性格性状、考えてみると嫌なものばかりが目につきますが、しかし、そこでもう一度、そういう自分だけれども、主が命を懸けて私を愛してくださった。この主のご愛に、心を、思いを向けていこうではありませんか。その時に新しい生きる力、神の力が注がれます。イエス様の十字架は私たちの死の証詞。私はイエス様と共に死んだ者なのだ。今、生きているのは私が生きているのではなくて、イエス様が私を生かしてくださる。その信仰によって生きている。だから、私たちは絶えず原点に、信仰の土台に立ち返っていきたい。案外とそのことがおろそかになる。それがだんだんと薄らいで、ほかの事に心と思いが捕らわれて、いのちを失い、力を失う。喜べなくなる、感謝できなくなる。だから、18節「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたち」、ここに「救にあずかるわたしたち」、誰でもない、今あなたが「主の十字架は私のためです」と信じて、罪を赦された。主が私のために命を捨てて、すべてを許して今日生かしてくださった。今日神様の愛の力に生かされているのだと信じていく時、そこに神の力が働いて、私たちの心を変え、思いを変える。性状性格、一切のものを造り替えて新しくしてくださる。その力は神様の力です。

 

19節「聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか」。十字架の事柄、あるいは十字架によって神様がしてくださった一つ一つの具体的な事柄は、人間的な考えから言うならば、愚かしい事であり、「そんな馬鹿な」「そんなことあるかい」と言いたくなることです。しかし、逆に、神様は、だからこそ神様が神様であることを証詞するために、あの十字架を立てた。実に不思議としか言いようがない。神の子が人となって来てくださって、私たちのために命を捨ててくださった。その十字架が立てられたという、そんな想像し難い、人間の常識では理解できない事柄であります。確かにその通りです。しかし、神様はだからこそ、この世の知者を愚かな者とするために、どんな人の知恵でも、人の賢さであっても理解でき得ない道筋を神様は備えられたのです。ここに神様の神様らしさ、力があります。

 

だから、先だってもお証詞したと思いますが、一人の方が訪ねて来られてキリスト教のことについていろいろなことを質問されたのですが、その方は立派な教育を受けて、仏教のことについても研究を進めている。知恵のある人です。しかし、その方は私に「キリスト教はいい宗教だと思うけれども、自分は説明のつかない理屈に合わないことは信じられません」と言われる。でも、神様が「この世の知恵を、愚かにされた」というのは、まさに理屈では分からないからこそ神様なのです。私たちはともすると理屈で納得づくで、信じようとしやすいのですが、それは有り得ない。理屈では訳が分からない、そんなことは荒唐無けいと思われることであろうと、それを信じるところに神様のいのちが働いてくる。それは、ただ聞いているだけではなく、まず信じて踏み出してみなければ、これを体験できません。18節「救にあずかるわたしたちには、神の力」、神様の力を体験していくには、納得しよう、理解しよう、ちゃんと説明がつくようになったら信じようと思う限り不可能です。21節後半「そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」。「宣教の愚かさ」とあります。「宣教」とは、イエス・キリストの福音を宣(の)べ伝えること。イエス様の福音は、まさに世の人にとっては馬鹿馬鹿しい信じ難いこと、死人がよみがえる、神の子が人となるなんてまず有り得ない。その神の子が十字架にかけられて罪人の身代わりになって死ぬなんて、そんなことは有り得ない。ましてや死んだ者がよみがえるなんて、こんなことは到底荒唐無けい、馬鹿げた話はあるものかと。まさにキリスト教のつまずきの石がそこにあります。しかし、つまずきの石こそが実はこれが「隅のかしら石」。これを信じないことには救われない。また信じる時に、確かに神様のよみがえりのいのちの力、神の力が私たちに注がれて、新しく生きる者と変えてくださる。21節「宣教の愚かさによって、信じる者を救う」とあります。理解する者、よく知識を蓄える者を救うと言っているのではない。そうではなく、「信じる者」です。素直にイエス様の十字架を信じていきたい。そうすると、もう怖いものはない。何が来ようと、イエス様の十字架を信じて、パウロが語ったように、「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20文語訳)、私はイエス様と一緒に死んだ者なのだ。今、生きているのは私が生きているのではない。よみがえってくださったイエス様が、私を生かしてくださっている。これを信じてご覧なさい。本当に心が軽くなる。自分で生きることがいらない。自分でどうこうしようと、あくせくすることは何にもいらない。よみがえってくださったイエス様が私を生かして、「生きよ」と今日も生きる力を神様が与えて、知恵を与えて、健康を備えて、食べるもの、着るもの、どんな物でも、必要をご存じの方が一切を満たしてくださる。イエス様を生きる力として、エネルギーとして生きようではありませんか。そのために、私たちは主の十字架を絶えず見上げて、目に見て、「今日も主よ、私はあなたと共に死んだ者。今、生きているのは私ではなく、主が私を生かしてくださっている。主の命によって生かされている私です」と信じると、どんな問題でも事柄でも、あれこれ思い煩うことは一切いらない。私どもは私が生きているのではないのです。死んだ者ですから。今更「おれがおれが」と「私が何とかと」「私のメンツが」「私が……」と言うことは何もいらない。自分が死なないものだから、いつまでも苦しんでいる。最後に、もう一箇所読んでおきたいと思います。

 

 ガラテヤ人への手紙6章13、14節を朗読。

 

 14節「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」。どうでしょうか? 私たちは何を誇りとして生きているでしょうか。この十字架を誇る以外に、私たちの誇りはありません。世には地位や名誉やあるいは何か家族を誇り、自分のしてきた業績を誇る人がいるでしょう。しかし、それは何の意味もない。私たちが誇るべきものは十字架以外にない。私はそのことをもう一度深く教えられました。私たちは何がなくてもいいのです。ただ、十字架が私のためですと、このことだけをしっかりと握って生きる者でありたいと思います。生かされていきたいと思います。そうすると、人が何を言おうと、どんな状況、事柄の中に置かれようと、「私は死んだ者」。だから、ここにあるように、「十字架につけられて、この世はわたしに対して死に」、この世のことに私は死んだ者。「私ではない、主がご存じで、キリストが、よみがえってくださった主が、その問題の中、事柄の中で、私を生かしてくださる」。私は死んだ者なのだ。今、生きているのは、キリストが私を生かしてくださる。そのことを信じて生きること、これ以外にありません。どうぞ、絶えず十字架を見上げて、「十字架の言(ことば)」を、イエス様が私のために何をしてくださったか。私どもはその主から受けたものをしっかりと握って生きる者でありたいと思います。

 

 コリント人への手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。「神の力」、神様の力を絶えず受けて、その力によって残された地上の生涯を、命を生き抜いていきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


6月28日 日々の聖言

2014年06月28日 | 日々の聖言

「ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、

自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。」ガラテヤ6:4



人は優越感を抱いて、他者を見下し、批判する高慢なものです。

のような姿を横から見ると、滑稽です。自分より優れた人が沢山

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