「すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、
モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。」民数記9:23
神の民が約束の地、カナンを目ざした荒野の旅は、スケジュールも地図もありません。昼は
雲の柱、夜は火の柱を置いて、神様は民を導かれたのです。何時まで宿営するのか、何時
「すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、
モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。」民数記9:23
神の民が約束の地、カナンを目ざした荒野の旅は、スケジュールも地図もありません。昼は
雲の柱、夜は火の柱を置いて、神様は民を導かれたのです。何時まで宿営するのか、何時
「神のみわざを考えみよ。神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか。」伝道7:13
多くの人は、人の知恵と力でどんなことでも出来ると思い上がっています。しかし、実際には
むしろ出来ないことばかりです。ですから、出来ないことにぶつかると、苛立ち、怒り、呪うの
「コリント人への第一の手紙」1章18節から25節までを朗読。
18節「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。
ここに「十字架の言(ことば)は」とありますが、「十字架」とはこれはもちろんイエス様が私たちの罪のあがないとなってゴルゴダの丘で処刑された十字架そのものに他なりません。「その十字架はいったいどんな意味があるのだろうか? 」。今日はその十字架とは何なのかを教えられたいと思います。「十字架の言(ことば)」と語られていますが、十字架が物を言う、特殊な仕掛けがあって語り掛けてくれるのかというと、そのような人の耳に聞こえる声や理解できる言葉で十字架が語るわけではありません。2千年以上も昔、ユダヤの地でイエス様が十字架にお掛りになったという一つの事実、一つの出来事として、それは終わったことであります。それがいまなお私たちにとって意味があるのか? 「十字架の言(ことば)」といわれているそれはいったい何なのか?
十字架は、そもそも普段あまり目にすることがありません。もちろん今時、こういうことは行われないに違いがありません。これは罪人を処刑する道具であります。そんな十字架をどうして後生大事に、宝物でもあるかのように掲げておくのか。それは、そのこと自体が私たちに指示していると言うか、語り掛けてくる事柄や事態があるからです。十字架を見るとき、いろいろなことを思い起こさせる。今ある自分のことを様々な角度から考えさせ、何ていいますか、思わせる。だから、十字架そのものが何か言葉を発するわけではありませんが、それが一つの象徴といいますか、何かを言い表しているのです。教会に来ますと、教会の玄関の屋根や至る所に十字架が掲げられています。人を処刑するための残酷な道具が飾られているなど、こんな滑稽(こっけい)な話はないと言えばそうに違いありません。そんなにまで十字架が大切な物かというと、この十字架がなければ私たちは滅びなのです。今、私たちはイエス・キリストを信じ、神様を信じる者とされました。神様の憐れみによって信仰を与えられています。信仰の原点はそもそもどこにあるかというと、この十字架以外にはありません。だから十字架を抜きにしてというのはあり得ない事です。「ヘブル人への手紙」に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(11:6)とあります。その信仰とは「神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じる」。言い換えると「神様を信じることだ」と、勧められています。だから、私たちは神様を信じることがいちばん大切なことだと思っています。それは間違いではありませんが、しかし、神様を信じる前に、もうひとつ私たちが信じなければならないのは十字架です。これを抜きにして神様を信じることはできないからです。私たちが十字架を抜きにして、ただ神様がいますことを、神様は求める者に応えてくださると、いくら信じてみても、それだけでははっきりと神様の御思いにつながることができません。「神のいますこと」を信じることと、神様が私たちに求めておられることに応えて行くといくことはまた違う道です。
このところがよく信仰において間違いやすいのです。神様を信じるというとき、大抵自分を中心に神様を信じるのです。お祈りをするときでもそうですが、神様がこうしてくださるように、これが私の願いです、これが私の思っていることです、私が求めているのはこのことですと、神様に申し上げます。もちろんそれは間違いではありません。神様は「私たちの求めることを申し上げなさい」とおっしゃいます。ところが、よくよく考えてみると、私というもの、揺るがない自我、そういうものがしっかりとありますから、どうしても「私の願ったように……」、「私の計画したとおりのことをしてもらいたい」と思います。これの行きつく所は結局御利益です。自分の都合のよいように、自分の思いが遂げられるように、願いや志が全うできるように、自分ではできないから神様、ひとつよろしく頼みます、力を与えてください、このことを進めてくださいと願う。それは嫌です、こうでなければ困りますと、神様に注文をつける。そういう信仰に私たちが陥ってしまう。神様を信じるというだけでは、どうしてもそこに落ち込んでしまうのです。
「ヨブ記」を読みますと、ヨブは信仰深く、神様を信じていた。神様から「こんな立派な正しい人はいない」とお褒めの言葉を頂くような人で、彼は常に身を低くして、いつも神様を第一にしていました。ところが、神様を第一にした動機は何であったか? その心の奥に「家内安全、無事息災、全てのことに悩みがないように、心配がないように神様、やってください」と願っていたのです。だから、子供たちが罪を犯して神様からお叱(しか)りを受けないように、またそうならないために犯したかどうか分からないけれども、前もって神様にささげ物をして保険を掛けておくような信仰です。見た所は神様を第一にする、なかなか熱心な姿勢に見えます。私たちも同じです。昼に夜にと励んで聖書を読み、祈る。それは結構なことだけれども、いちばんの肝心な自分の心を探ってみると、そのいちばん奥底には「家内安全、無事息災、事もなくちゃんとやって行けるように、死ぬときはポクッと死にたいし、あれは嫌だし、これは嫌だし、神様、何とか私の言う事を聞いてもらいたい」という、思いが透けて見える。そうであるかぎり神様に喜ばれる者ではない。神様が私たちに求めておられるのは、神様の手に一切を明け渡してしまう。「神様の御心のままに」と、一切を神様にささげることを求めておられるのです。
ところが、神様はヨブが願っているのとは違って、息子たちも家族も皆取られました。奥さんまで失う。そしてついに自分の健康も失います。そうなったとき、初めて「神様は何を考えておられる。どうしてだろうか」と、悶々(もんもん)と悩みます。ところが、神様が最後にヨブに告白させたのは、「神様、あなたはできないことのない御方です」(42:2)。「私は何も言うことはありません。神様、一切あなたの御心のままに」と、神様の力を全面的に認める。そして、神様の手に自分をささげてしまう。これはヨブが初めて神様を体験した事です。それまでは自分の理解できる範囲での神様を知っている。ところが、自分の理解を越えた、大きな神様に実は握られていること、そして神様は「いかなるおぼしめしでもあなたにはできないことはないことを」知るのです。「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」(イザヤ 45:7)。「どんなにでもおできになる御方です」と、彼は初めて神様の絶大な力の下に自分を低くするのです。神様が私たちに求めているのは、私たちが全く神様のものとなりきってほしいということです。神様は私たちの人生をご自分のご計画に従って導いていらっしゃる。生まれたときから今に至るまでどれ一つ取って神様によらないものはなかったのです。ところが、私たちは神様からの恵みとして自分の生涯を受けとめる、感謝して受けることができない。「どうしてこんなになった」、「何でこんなことになった」、「私はもっとこうしておくべきだった、ああしておくべきだった」と、常に私たちの心に神様に対しての憤りといいますか、受け入れ難い思いが常にある。これが人の根本的な罪といわれるものです。
私たちの罪を明らかにするものが、実は律法といわれているものです。律法というのは、こうあるべきだ、こうすべきだ、こうでなければならないということを規定する、定めたものです。ところが、それに自分を合わせて行こうとすると、できない。それはそうです、日常生活でもちょっとした規則や法則、交通法規や法律、いろいろなルールがあります。ところが、人はなかなか守られないのであります。どうしてもそこで自己本位になります。車を運転していると自分が全ての中心になりますから、道を歩いている人に「どうしてこんな所を歩いているのだろう」、「邪魔だな」と、自転車がフラフラしたら、「あんな年寄りが自転車に乗って」と。自分の中に自己本位といいますか、自我というものが常にあるのです。それが普段事のないときは隠れているのですが、律法という一つの定めといいますか、一つの尺度、「これを守りなさい」と言われた途端に、私たちはそれを守られないのです。常に窮屈さを感じる。自分で決めたルールは比較的守りやすい。殊に人から、ご主人からあるいは家族から、奥さんから「これはこうしてください」と「脱いだ物はちゃんとここに置いてください」と言われたら、従いはするけれども「どうして俺がこんなことをしなければならない。他の所へ置いていたらなぜいけない」と、でもそのとおりにしなければ、またがみがみ言われるから仕方なしにする。人の心にはそういう自我性という、自己中心性がある。それは神様をも押しのけてしまうほどに強いものです。自分に罪があると分かるのは、そのルールに触れたときです。何かひとつの枠が与えられてしまうと、ムズッと自分の中にある自我が目覚める。普段事のないときは実にしおらしく、「はぁ、私のようなものが……」とか、「こんな私はどうで、こうで……」と謙遜そのもののような顔をしている。ところが、何か一つ事が起こってご覧なさい。ガチン、「私は……!」となります。その思いを明らかにするのは、律法といわれるものです。だから、律法によって人は自分の罪を知ることができます。律法がなければ自分に罪があるとは分かりません。自分がしていることが罪であると分からない。
昨年、一人の方の葬儀がありまして、私は出掛けて行きました。葬儀が終わって駅まで送ってくださいました。ちょうど新大阪行きの電車がホームに止まっていたのです。「これだ、これに乗ろう」と飛び乗ったのです。これで後は帰るだけだと思って、リラックスしておった。ガラッとすいていて、「これは良いな」と思ってくつろいでいた。そして三つぐらい駅を過ぎたとき、「女性専用車です」とアナウンスがありました。九州ではありませんが、関西では昼間も夕方も女性だけが乗る車両が決まっている。私はそれを知らなかった。慌てて乗って、すいているし、「楽だな」と思って座ったのです。アナウンスを聞いて、何気なく掲示板を見ると、「この車両は女性専用車、終日」と書いてある。周囲を見ると、女性ばかりです。その途端「悪いことをした」と、罪が自覚できる。いつまでも気付かないかぎり、自分が罪を犯しているとは思わない。ところが掲示板を見た瞬間、「悪いことをしてしまった。ここに座って」と、それからもうじっとしておられない。といって電車は動いているから乗り換えるわけにはいかない。次の車両には移られない、女性専用ですから。外側から出入りするしかないのです。止まるまで待たなければならない。それで寝たふりをして、我慢している。一駅、二駅、「後三つで新大阪、そこまで粘るか」と思いきや、やはり心を刺される。罪というのはそういうたぐいのものです。
「ローマ人への手紙」7章14節から20節までを朗読。
自分がしたいと思いながら、それができない。してはいけないと思うことをやってしまう。私たちの内には自分の意思とは違う力が常に働いて私たちを支配している。それが罪という力だと、パウロは語っています。そして、私たちが律法を守ろうとしてもできない。「これは正しいことだからそうしよう」と思いながらもできないでいる自分。また「これはしてはいけない」と思いつつ、ついそれをやってしまう自分。私の中に罪という力、それは自我性といいますか、神様を押しのけて、自分の力で何とかやり抜こうとする、私が義なる者、私が正しいと主張する力、そういうものが常に私たちに働いてくる。そして神様の御思いに従えないといいますか、神様を認めることができない。神様の力、わざを受けることができない。喜んで神様のなさるわざを認めることができない自分であるのです。だから、普段の生活で「どうしてこうなったのだろう」、「何でこうなった」と憤慨する。神様がその事をしておられると頭では分かっているが、心が、思いがついて来ない。そして常に「私は何て不幸な自分だろうか」、「どうしてこんな目に私が遭わなければならない」、「私の何がいけなくてこうなったんだろうか」と、常に私たちの思いの中で自我性、自己中心性というものが働いてくる。
マリヤに御使いガブリエルが「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ1:28)と、イエス様のご降誕を告げました。そのときの彼女もまさにそうです。神様からのことと分かっていながら、「どうして、そんな事があり得ましょうか」。「嫌です」と彼女はそれを拒んだ。それは「どうしても自分はそうであってはいけない、そうありたくない」という自我、自分の思い、自己中心の思いが常に働くのです。これは私たちがいつもぶつかることです。その罪はどこから来ているか?人が創られた最初の時、父なる神様が「これを守りなさい」と言われた言葉に背かせようとするサタンの力が“へび”に象徴されているのです。サタンの誘惑に従って、神様の言葉を捨ててしまう。これが人の罪の始まりです。アダムによって取り込まれた罪の力が今も続いているのです。たった一人の人の不従順によって、罪が全ての人に潜み込んでいる、隠れ込んでいるのだと、聖書は語っています。私たちもアダムの性質を受けた者であります。だから私たちがいくら神様を求めても、どうしても自分本位、私の思いを遂げたい、私の願いを実現したい。私が義であることを認めさせたい。
私自身がそういう中を通りました。「どうしてイエス様が必要なのだろうか? 」、「神様がいらっしゃればそれでいいじゃないか」、「祈れば神様が答えてくださる。またいつも共にいて助けてくださる。それで十分ではないか」と。その頃は自分が義人、正しい人間、私はどこにも悪い所がない。「悪いところがないとは言えないとしても、あの人よりもこの人よりも、比べればずいぶんいい人間だ」と思った。隣の人を見て、「あの人よりも、この人よりも……」自分の方が立派だと。人というのはそのように自分を義とする、自分だけが正しい人間だと思いたいのです。それが神様に対しての罪の姿です。そういう自分があると、他人を裁くのです。自分の心が穏やかに過ごすことができない。常に何かに対して苛立つ、「あの人はこうだし、この人はこうだ」と憤る、見るもの、聞くもの、全てしゃくの種と。全然関係がないことにも腹を立てている。それがカインの末えいとしての私たちの姿です。
カインとアベルの記事を皆さんご存じですね。カインは自分のささげ物が神様によって顧(かえり)みられなかった。そのために腹を立てたのです。実は神様に向かって憤ったのですが、彼がした具体的な歩みは弟アベルを殺したのです。アベルはカインに対して何か悪いことをしたのかというと、何もしていないのです。カインもアベルもそれぞれに自分のささげ物を神様にささげた。神様がアベルのささげ物を良しとして、カインのささげ物を顧みられなかった。悪いのは神様でしょう。だから、神様に向かって文句を言うのなら筋が通りますが、その怒りがそれてアベルを殺すのです。
私たちもしていることは皆同じです。「あの人があんなことを言うからこうした」、「この人がこんなことをしたからこうなった」、「あの人は許しておけない」と思っている私たちの心のいちばん底に、「私が受けているこのことは神様から出たことです」と言えない自分。「どうして神様は私をこんな目に遭わせるのか」、「こんなことをなぜ神様は私にするのだ」という思いが、具体的な形になると、人を責める思いに変わっていく。だから、許せないでいる、あるいは「あの人があんなだから……」と憤っていることがあるならば、よくよく振り返って、その人があなたに対してどれほどの悪いことをしたのか? それほど憤らなければならないほどに自分に災いをしたことがあるのか? と考えてみると、あまりないのです。それは自分が受けている事態や事柄が神様からのことであると認められない。いや、むしろ「神様はどうしてこんなことを私にするのだ!」という思いが、心の奥底に潜んでいる。これを始末しなければ本当の幸い、喜びが得られません。自分本位に神様を信じていれば、それで安心という次元であるかぎり、私たちはいつまでたっても滅び、闇といいますか、罪ととがとに死んだ状態に留まるほかありません。そこからは腐敗と汚物とだけで、何一つ善き物は生まれてきません。私たちが神様によって造られた最初の人としての値打のある生き方をするには、もう一度神様の許しに、神様との交わりに立ち返ることが大切です。神様に帰ってくるには、私たちの罪を取り除かなければ神様の前に立つことができない。神様は絶対的な力と権威を持ち、全能の神でいらっしゃいます。それに対して私たちは造られた被造物にすぎません。私たちが神様の前に出るには自らが犯した罪を取り除いていただき、清められた者になること。これが何よりもまず必要なことです。自分の力で磨きを掛けて、神様の前に喜ばれようとしたって、これは到底できません。根っこにある自我性といいますか、自己本位の自己中心性、神様を押しのける性質を造り替えるには、神様からかたくなな罪をこっ端みじんに打ち砕いていただく以外にない。それは人の力ではできませんから、神様はそのためにご自分のひとり子を世に遣わしてくださったのです。
「ピリピ人への手紙」2章6節から8節までを朗読。
これはイエス様のご生涯をあらわした短い言葉ですが、6節に「キリストは、神のかたちであられた」と、神と同じご性質、神と言っても良い、「神と等しくある」御方でいらっしゃる。ところがキリストは「神と等しくあることを固守すべき事」、「固守する」とはそれにしがみつく、その身分を堅く守ろうとする。「わたしは神の子であり、また神の位にいる者であって」と、自分の立場、自我を主張する。私たちはどちらかというと、常に自分を固守する。「いいや、これは譲られません」、「これは絶対正しい」、「私が幸せになるのはこれしかない」とかたくなに拒む。ところが、イエス様はそうではなくて、「固守すべき事とは思わず」、7節に「かえって、おのれをむなしうして」と、ご自分を無にする。失くしてしまう。自我、自分というものを捨ててしまう。これはキリストのいのちにつながる道であり、イエス様がその模範であります。イエス様は「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」。人の世に下ってくださった。人の姿をとってくださった。とんでもないことです。創造者であり、神様である御方が造られた人と同じ姿に変わって、人の世にご自分を置いてくださる、これほどの謙遜、ご自分を捨てた姿は他にはない。私たちがいくら「私は駄目な人間です」、「私は小さなものです」、「私は力がありません」、「私は何とか……」と、そんなことと比較になりません。神様の位に居給うた御方が人となる。徹底して己をむなしくする、ゼロにしてしまう。そして「僕のかたちをとり」と、僕となる、仕える者となる。「その有様は人と異ならず」とあります。8節に「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで」、ご自分をいよいよ低く小さな者にして、「十字架の死に至るまで」。ご自分のための死ではありません。イエス様はどこをとっても罪無きお方、死ななければならない理由は何一つないと、あのピラトも公言しています。そのようなイエス様が罪人とされ、それすらも甘んじて受ける。ここほどまでご自分を捨て切ってしまう。これが十字架です。だから「十字架の言(ことば)」とは、まさにイエス様のご生涯を語っている言葉です。と同時に、私たちもこの十字架の道を歩まなければ、イエス様のこの謙遜を自分のものとしなければ、神と共に生きることができないのです。8節に「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。「従順」、誰に対してか? 父なる神様の御心に徹底して従い抜いて行く。自分を捨てて行く。これは私たちが十字架を自分のものするただ一つの道です。
「マタイによる福音書」26章36節から39節までを朗読。
これはイエス様が十字架にお掛りになる前、ゲツセマネの園の祈りです。ここでイエス様は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と語っておられます。イエス様は神の子だからどんなことでも平気だろう。スーパーマンのような御方かというと、そうではなくて、私たちと同じ、罪を犯されなかったが弱き御方となってくださって、私たちの弱さを知り(ヘブル 4:15)、病を知り給う御方でいらっしゃいます(イザヤ 53:3)。神の位を捨て、人となって僕のかたちをとって、そればかりでなく、罪人となってくださった。それは父なる神様の求め給うことだったからです。それは決してイエス様が自ら楽しみのためにそうなさったのではない。イエス様ご自身の願いを言うならば、そこにあるように「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、これはイエス様の思いであります。私たちにもそういう思いが抜けません。しかし、イエス様は「是が非でもそうしてくれ!」と言われたのではない。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と。神様、あなたの御心のままにと、ここで自分の思いを神様にささげてしまう。そのためには己をむなしくしなければできません。自分を捨てるのです。イエス様は簡単に捨てたかというと、そうでもありません。その後、繰り返して祈っておられます。それ程大きな戦いであったのです。だから、私たちもその戦いを戦わなければならない。このときイエス様は祈りを通して父なる神様の御心を深く知り、御思いに一切をささげて、心を安んずることができたのです。
「マタイによる福音書」26章45,46節を朗読。
このとき、あの悲しみをもよおして、「死ぬほどである」と言われたイエス様の姿はありません。はっきりと父なる神様の御手にご自分の一切をささげたのです。己に死ぬとはここです。十字架はまさにイエス様の思いが具体化したところです。イエス様の十字架によって、私たちも十字架に死んだものである。だからここでイエス様は「立て、さあ行こう」と、父なる神様の御心にご自分をささげました。一切を主の手に委ねる。これから後、ゴルゴダの丘で処刑をお受けになるまでの間、イエス様はつぶやくことも言い逆らうこともなさいません。黙々と父なる神様のなされる御手にご自分を委ねて行かれました。ヘロデの所、カヤパの屋敷、またピラトの法廷と引き回されなさいますが、どこに行ってもそこは神様が許してしておられることを信じて、常に「父よ、父よ」と父なる神様の御手の中にご自分をささげられました。これが十字架の語っている事です。他にもありますが、今日この一つを私たちは自分のものとしたい。
主は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ 16:24)とおっしゃいます。私たちもイエス様に倣って自分を捨てるのです。己を捨てて行く。これは普段の生活の中で、常に十字架を見上げておかなければ実現しません。どんなときにも主の十字架を仰いで「私もあそこに主と共に死んだ者である」と確認する。イエス様の死は同時に私もイエス様と共に死んだ者となることです。主が「良し」とおっしゃるなら、どんなことでも主の御心に従う。主が「駄目だ」と言われるなら、そこで何があっても主に従う。どんなことにも自分を捨てて、主と一つとなるのです。
「コリント人への第一の手紙」1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。「十字架の言(ことば)」、いうならば、イエス様のご生涯、あの十字架に至るまで従順に「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」と、徹底して父なる神様に従い抜いてくださったイエス様と私たちが一つとなる。パウロが語ったように「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20文語訳)と、私たちもそのように信じます。これを抜きにして神様と共に生きることはできない。イエス様と共に十字架に死んだ者となって、イエス・キリストの十字架によって、今日も罪を許され、父なる神様の恵みに生かされている自分であることを常に感謝している。そうしますと、どんな取り扱いを神様がしてくださろうと、感謝する他はない。それを喜んで受けることができるのです。そのとき私たちが祈る祈りも全て主がご存じで、最善にして最高の道を備えてくださると信じることができます。この十字架を抜きにして、ただ神様だけを信じるかぎり、私たちの心に平安はありません。またいくら神様を信じようとしても自分の要求ばかりが目の前にぶら下がって神様を見ることができないのです。ところが、十字架を通して、もう一度、主の御前に立たせていただくとき、「最早(もはや)われ生くるにあらず」と、私ではなくて神様のものとなって、「おのれをむなしうして」、自分を捨てて主と共に死んだ者となって生きる。これがいのちに生きる最善の道です。
私たちのいのちは十字架にこそあるのです。だから、どんなときにもこの十字架から離れてはならない。いつも主と共に死んだ自分であること、今日も主の十字架によって許され、生かされているものであること、この事を堅く信じ、感謝して行きたいと思います。そうしますと、十字架の力(復活の力)が私たちを通して明らかにされるのです。私たちが死んでしまうならば、自分を無にして死んだ者になりきってしまうと、何が起こっても動じません。ところが、まだ自分がピンピンしているから、己がまだ頑張っているから、「ああじゃなければ嫌だ」とか、「ここはこうであってほしい」と、いつもそのことが心にあるでしょう。もう早く死のうではありませんか。十字架に私たちもキリストと共に死んで、「もはや、私が生きているのではありません」と、死んだ者となること、これが新しいいのちに生かされる、ただ一つの道であります。そこから今度は神様の力が働いて私たちを生きるものとしてくださるのです。この主の力をしっかりと受け止めたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
「立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた。」マルコ14:42
イエス様は弟子たちと過越の祭の夕食を済ませ、ゲツセマネの園で祈られました。十字架の
苦しみを目前にして、父なる神様のみこころを求めたのです。祈りが済むと、眠っていた弟子
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:5-6
当惑するような問題、困難に出会うとき、あなたは何を頼りますか。なんとかはやく解決をと
焦ります。しかし、大切なのは、神様と信頼関係を整え、堅固なものにすることです。解決に