いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(184)「十字架は何を語るか」

2014年04月30日 | 聖書からのメッセージ
 コリント人への第一の手紙1章18節から25節までを朗読。

 18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」とあります。
 教会に来るといろいろな所に十字架の印が記されています。講壇の正面の所にも十字架があります。また玄関を入って来る時、屋根の上を見ると、そこにも十字架があります。地図を開いても、教会のある場所は十字架のマークが付いていますから、これはキリスト教の紋章のようなものかな、と思われるかもしれませんが、そうではありません。

 そもそも十字架と言うのは、私たちにはあまりなじみのないものです。昔、十字架は犯罪者の処刑の道具でした。極刑に処する道具、いわゆる死刑を宣告された囚人が十字架にかけられる。十字架にかけられて殺されるのが刑罰の一つの方法、手段でした。考えてみたら、ちょっとおかしな話で、そのような刑罰の道具である十字架を、あちらこちら掲げて有難がっているのは、ちょっとおかしいのではないかと思われます。また、時々見かけますが、首にペンダントとして十字架をぶら下げている人、スポーツ選手など、時々アップした映像を見ますと胸元に十字架をつけている。「この人はクリスチャンかな」と思ってしまいますが、ただの飾りであまり意味がないようです。でも、なぜか十字架を付けるのです。
 十字架には不思議な魅力があるようです。なぜそうなのか、説明がつかないのですが、処刑の道具だから珍しいというわけでもないでしょうし、やはり十字架がいちばん輝いた、輝いたというのはおかしな言い方かもしれませんが、或る出来事に結びついています。それはイエス様がゴルゴダの丘に十字架にかけられなさった。十字架に死なれたという事態、出来事、これが十字架の存在価値と言いますか、ある独特の意味を与えている出来事ではないかと思います。もちろん、十字架にかけられたケース、そのような刑罰の道具ですから、イエス様以外にもたくさんの人々が十字架にかけられて死ぬことがあったでしょう。私どもが一番よく知っているのは長崎の二十六聖人の殉教、浦上の丘でその当時のキリシタンの人々が十字架にかけられて殺され、火で焼かれて殉教したことがありました。ですからそのような十字架もあります。ところが、どういうわけかこのイエス様の十字架には何か独特なものがあります。

 18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが」と、「十字架の言」とありますが、十字架に何かICの仕掛けがあって、近づくと声が出てくるという、そのような話なら分かりますが、十字架は何もしゃべりません。ただの印です。ところが、私どもの生活の中で、何も語らなくても、いわゆる音声でしゃべらなくても伝わってくるメッセージと言いますか、語られてくるものを感じ取ることができます。鳩であるとか、あるいはオリーブの葉を見ると、これは平和というものを象徴している。ある一つの物体が、何も語ったり音を出したりするわけではないけれども、それがあることによって、見るものに、その心に一つの思いをかきたて、一つの思考と言うか、考えを生み出してくるものがある。それが象徴的な作用と言いますが、言葉でない言葉、そのようなものがあるのです。

 「十字架の言」というのは、まさにそのことです。私たちが十字架を見たときに、何かを感じ、何かを聞くのです。聞くといって言葉が聞こえるのではないけれども、十字架を通して私たちに語られてくるものがある。それはまさにイエス・キリストそのものです。

私は最近しみじみと教えられることですが、私たちの福音、信仰の原点はこの十字架にあります。また、ことごとくが十字架を抜きにしては始まらない。イエス様、神の御子でいらっしゃった方が、この世に来てくださった。クリスマスの出来事を通して「おとめマリヤから生まれ」と記されている。そして、イエス様は神の位にい給うた方が人となって、私たちと同じ肉体を持ち、この世にあって人の悩み、悲しみ、苦しみ、病を負うてくださった方。三十三年数ヶ月の地上での生涯を歩んでくださった。その最後は十字架の死でした。といって、イエス様が何か重大犯罪を犯した、あるいは何か死刑を受けるほどの悪い人であったかと言うと、そうではありません。ピラトの法廷や、カヤパの屋敷、あるいはヘロデの所へ、イエス様は引き回されて裁きを受けます。しかし、どこに連れて行かれて取調べを受けても、「この人には罪がない」と告白されているのです。当時のユダヤの地方はローマ帝国の支配下にありました。そこを統治する統治者としてピラトという総督が遣わされてきていたのです。言うならば全権を持った王様のような身分ですから、彼のもとにも連れて行かれました。そこでイエス様は徹底して調べられる。でも、その調べた挙句、「この人には何の罪もない」と言われたのです。ところがユダヤ人たちはイエス様を訴えて「十字架につけろ」と激しく叫びました。なぜ「十字架につけろ」と言ったかと言いますと、「ねたみのため」と記されています。多くの人々の憎しみ、憤り、ねたみ、そのようなものがイエス様に集中していく。すべてがイエス様に負いかぶせられて、ついにピラトはイエス様を彼らの手に引き渡した、と記されています。イエス様は十字架を負わせられてゴルゴダの坂道を登っていくのです。その丘に着いて両脇には犯罪者、真ん中にイエス様と3本の十字架が立てられました。

罪なき方でいらっしゃる、何一つ罪のない方が罪人とされて十字架に死ぬ。言うならば非業の死と言いますか、冤罪(えんざい)です。そんなことが何の意味があるかと思いますが、実はそのことは神様の深いご計画の下になされた出来事でもあったのです。表向きはユダヤ人たちがイエス様を憎んで、罪なき方でいらっしゃる、神の御子であられたイエス様を十字架につける事態になりました。しかし、その背後には神様が私たちすべての人を救おうとする、大きな計り知ることのできないご計画があったのです。

ヨハネの第一の手紙4章7節から10節までを朗読。

10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」とあります。イエス様がこの世に来てくださったのは、私たちの世にあって、この世間にあって革命家となり、多くの人々を圧制から解放する解放者になるためではなかったのです。その当時、イエス様のおられたとき、今申し上げましたように、ローマの圧政下にありました。だから、多くの人々は過酷な税金を取り立てられ、異邦人であるローマ人に支配されている。そのような屈辱的な時代にありました。そこへイエス様が来てくださった。しかも、イエス様は旧約聖書に約束された救い主として来てくださった。これはきっと自分達を圧制から、ローマの支配から、救い出してくださる方だと期待したのです。だからイエス様がいつ、いわゆる武力蜂起(ほうき)をする、クーデターを起こすかと、多くの人々は固唾(かたず)をのんで見ておった、待っておった。もしイエス様が少しでもそのよう動きを見せれば、自分たちも加わろうと、行こうという機運がイエス様の周囲にたくさんあったのです。一般にイエス様の弟子たちは十二人と言われますが、それだけではなかったのです。もっとも、側近中の側近が12人ですから、選ばれた人たちです。それ以外にもたくさんの人々がイエス様の周囲に集まっていた。それぞれに意図するところがあって、多くの人々が集まっていたようです。なかにはイエス様についておれば、食いっぱぐれがないと思った人がいたかもしれない。あるいは、イエス様が何かそのような革命を起こすならば、自分も一旗挙げよう、仲間に加わろうと思ってついていた弟子たちもいたでしょう。そこにはどのくらいの数であったのか正確には分かりません。百人や二百人どころではない。イエス様をドンといいますか、首領として慕っていた連中がたくさんいたのです。だから「もういつでもイエス様、準備ができていますよ」と、みんな思っていた。ところが、一向にイエス様はそれらしい素振りをしない。あちらの町こちらの町に行き、病人を癒したり、あるいは悩める人を癒したり、いろいろなそういう多くの人々に神様の恵みを語るけれども、どこにも武力蜂起をする兆候がなかったのです。

いよいよ過越の祭のとき、イエス様がエルサレムに来られるときに、ろばの子に乗って来られる。それを見た多くの人々は「これぞ、今からイエス様が、いよいよ一旗挙げるぞ」と、ローマに向かって、圧政を行う指導者たちに対して立ち向かい、打ち破って虐げられた者たちを救い出してくれるに違いないと、期待にあふれた。だから、イエス様がエルサレムに入っていくとき、「ホサナ、ホサナ。王様万歳」と言って、イエス様を褒めたたえた。エルサレムへ過越の祭のために入って来られて、今か、今かと待っているのですが、イエス様はウンともスンとも言わない。イエス様に対する期待が大きかった反動、今度は失望落胆が一気にドーッと、「イエスを十字架につけよ」という憎しみに変わったのです。イエス様はついに捕らえられて、ピラトの法廷に立たせられる。しかし、一言もお答えにならない。ピラトの法廷の中で何かをするに違いない。今か、今かとみんな待っているが、一向にない。とうとうイエス様は十字架を担わされてゴルゴダの丘へ上がっていく。このとき人々の心は完全にイエス様から離れてしまいました。何もできない、言われるがまま、されるがままに十字架にかけられてしまう。そのときでも、まだわずかな希望を持った人もいました。最後に、イエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが、わが、なんぞ我を見棄て給ひし」(マタイ27:46文語訳)と言ったとき、これは神の力を呼んでいるに違いない。ひとつここからないか起こるぞ!と期待した人も、その辺にはいたのです。しかし、事は何も起こらない。やがて午後3時になって天は暗くなり、そして神殿の幕が上から下まで真二つに裂け、「わたしの霊をみ手にゆだねます」と、イエス様はそこで息絶えてしまわれた。

たったこれだけのことです。見えるところはまさにそれだけ。しかし、その無能無力と言いますか、何にもなすすべもなく、唯々諾々と、言われるがままに引き回されて、あの無残な十字架にぶら下げられてしまったイエス様に対する失望感は、非常に大きかった。ところが、神様はそのようなご計画ではなかった。もっと大きな、もっと根本的な私たちに対する救いの道をそこに開こうとしてくださったのです。

10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」と。実はイエス様はこの世にあって、そのような社会制度、政治制度、あるいは経済やいろいろな社会の仕組みを変革して、新しい村づくり、町づくりをする人として来たのではなくて、実は、私たちの心を作り変える、私たちの罪を赦す御方となって、ご自分が十字架にすべての罪を負うてくださった。ここに私たちの十字架があるのです。だからこの10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」、言い換えると、私どもが本来かかるべき十字架、当然私どもが処罰を受けるべき、死刑になるべき、私たちがかけられるべき十字架に、それに取って代わってイエス様がついてくださった。ここに神様の大きな深いご愛がある。私たちの罪を赦すためにご自分のひとり子を敢えてこの世に送ってくださった。神様は義なる方、正義なのです。私たちは神様から造られた者であり、神様の恵みによって生かされていながら、神様を忘れて、自己中心、わがままで、自分勝手な生き方をした。人を恨み、憎み、恐れ、さまざまな問題や悩み、事柄の中に苦しんでいる。その元凶、その一番の根本は何であったかと言うと、私たちが神様の前に罪を犯した者であること、その結果です。常日頃受けるいろいろな問題や悩みの中で、私たちは苦しみ悩みます。悲しみのふちに沈みます。その根本は、造り主でいらっしゃる神様を離れて、自分が、自分がと、自分の思いと、自分の自我性から、どんなにしても抜け出すことができないのです。

皆さんが何かの病気になると、「どうしてこんな病気になった!」と苛立つ、憤る。そうすると「あれが悪かったのだろうか。これが悪かったのだろうか」と、自分の生活習慣を振り返って悔やんでみる、あるいは「あのときああすればよかった。こうすればよかった」「もうちょっとああしとけばよかった、こうしとけばよかった」と。何とかそれから逃れ出ようとするでしょう。そのときのほうが苦しいのです。

私は自分自身もそのような経験をしまして、「なるほど、これが罪なのだな」と思いました。何が罪かというと、まだどこかで自分の力で何とかできるのではないか、こんなはずではなかった、自分が生きているのは自分の力や知恵によると思う。自分の思いどおりに生きたいという激しい自我性が、私たちの心にしっかりとあります。だから、病気になったこと自体を受け入れられない、またそれをどうやって逃れようかと、もがき苦しむ。罪を赦されて、神様と一つになっていくことができたら、それもこれも神様のものですから、私たちが思い煩う必要がない。私を造られたのは神様であって、私を生かしておられるのは神様であって、今日の一日は神様が備えてくださったものであり、その一つ一つの事柄、病気にしろ何にしろ、嫌だと思うこと、つらいと思うこと、闇と思われること、それもどれもこれも神様が与えて、置いてくださっていることですと、本当に謙そんになる。私たちはそこまでなることができたら本当に幸いだと思うのです。ありのままの自分、何を受けても感謝ができるはずです。喜べない、感謝ができない、いろいろなことが不満で仕方がないとき、私たちの心は神様に対して憤っている。本当に神様を信頼しきってしまうとき、実は恐れがなくなるのです。不安もなくなる、いやむしろ一つ一つすべてのことが「神の恵みによって……」と、感謝ができる。

だからパウロは「自分の体に一つのとげが与えられた」と語っています。何とかそれを取り除いていただきたい。しかし、祈っているとき、神様は「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」(Ⅱコリント12:9文語訳)「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と、おっしゃいました。言うならば、パウロはそれまで自分の考えで「これさえなければ自分は幸せになれる」、あるいは「自分はもっとよい働きができる」と思っていた。そのような思いがあったときに、そうではない、実はそれは神様の恵みであって、あなたの好き嫌いではなくて、神様が「よし」とおっしゃるのだから、何を心配することがあるのかと。パウロはそのとき初めて「喜んで自分の弱さを誇ろう」と、自分の弱いこと、足らないことを喜ぶことができる、感謝することができる。感謝することができるのは、根底に神様に対する信頼がある。それは罪が赦されることでもあります。私たちは本来十字架に死ぬべきものであるが、イエス様があがないの供え物となって赦された者であることを徹底して感謝することができるとき、私たちと神様は深い信頼関係に変わっていく。

パウロはそうだったのです。彼はクリスチャンを迫害するほど、神に対して熱心でした。しかし、彼の心の奥では神様に熱心と言いながら、自分の名誉のため、自分の欲のため、自分の何かのためであったのです。やがてダマスコに行く途中で、よみがえったイエス様に出会ったとき、彼の人生は180度変わった。今まで自分は正しい人間、自分ほどいい人間はいないと自負していたが、実はそうではなかったことを初めて知った。それによって彼は悔い改めて、イエス・キリストこそが、私のいのちとなってくださった、彼が語っているように「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)。言うならば、イエス様の十字架は私があそこで死んだのと同じなのだ、このことを徹底したのです。そのとき彼は、十字架に死ぬことは、父なる神様に赦され、生かされ、神様のものとされることを、心から信じる道だったのです。

 これは、今の私たちもそうではないでしょうか。イエス様が十字架にかかられたことは、ただイエス様が無能無力だったからではなくて、実は私のために、皆さん一人一人の本当にどうしようもない、はしにも棒にもかからない私たちのような者を赦して、神様の手に握ってくださる。私たち全部を神様のものとしてくださるためにほかならない。まさにこれが十字架の語っている事柄ではないでしょうか。ですから、私たちは絶えず十字架を見上げるとき、そこに自分を見なければ、本当の十字架を見ることができません。十字架を見て「イエス様があそこへかかってくださったのだな」というのは半分です。そのイエス様は私なのだと、私はキリストと共に十字架に死んだものであって、今は神様が私の主になってくださって、わたしを生きる者としてくださっている。ここまでが十字架の言葉です。

 9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。今度はイエス様によって私たちが生かされていく生涯へ変えられていく。まさに十字架はその事なのです。イエス様が死んでくださった。そして、死んでくださったのはほかならない、私が死ぬべきところを主が赦してくださって死んでくださった。どうぞ、今日もう一度、十字架が何であるか、その十字架に対して私はどういう者であるかをしっかりと受け止めていきたい。

 初めのコリント人への第一の手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。まさに「十字架の言」とは、罪なき方、神の御子でいらっしゃった方が、私の罪のあがないとなって、身代わりとなって、十字架に死んでくださった。そのことを語っているのが十字架。だから十字架を見るとき「私はあそこに死んだ者なのだ」と、認めていくことです。だから、「救にあずかるわたしたちには、神の力」、十字架に死ぬことは、同時に私たちにとっては神様の力でもあります。赦され、今度はキリストがいのちとなって、私たちを生きる者としてくださる。新しい神の力によって生きる道筋が十字架にあるのです。

この地上の生活にあって、悲しいことや苦しいこと、様々な喜怒哀楽、いろいろな問題の中に置かれます。そういう中にあるとき、悩みの中、悲しみの中、苦しみの中、不安の中にあるとき、どこへ帰っていくか。十字架に帰る以外にないのです。そのとき、十字架をしっかりと見上げて、私の原点はどこにあるか? 私が今、今日こうして生きているその土台に、主の十字架の死があることを認めていくこと。イエス様と共に死んだ者となって、今日生かされていること、これが十字架を力として受けていくただ一つの道です。そのとき、どんな悩みの中にあっても十字架を仰いでご覧なさい。イエス様が何を私のためにしてくださったか。死んだはずの私がここにいるのではないか。イエス様と共に死んでいるはずである、その十字架を見上げていくと、悲しみの中に喜びを見出すことができる。苦しみの中に、それに耐える力を与えられる。怒りと憤りの中にあって、心が大嵐の中にあるとき、十字架を見てご覧なさい。一瞬にして心は消えていきます、静まっていきます。この十字架を抜きにして、私たちの福音、信仰はあり得ないからです。だから18節に「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。「神の力」となって、絶えず私たちの内に十字架を通して、神様は臨んでいてくださる。

コリント人への第二の手紙4章7節から11節までを朗読。

8節以下に「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」「倒されても滅びない」とあります。なぜそのようなタフな力があるか。その後10節に「いつもイエスの死をこの身に負うている」。言い換えると、イエス様と共に今日も十字架に死んだ者となっていくことです。私たちは絶えず十字架を前に置いていく者でありたい。「そこに私は今日も死んだ者だ。今生きているのは、私が生きているのではなくて、今度はキリストが私を生かしてくださっている」。そのことを信じて、そこに目を留め、思いを向けていきますと、どんな患難な中にあっても行き詰らない、窮することがない、倒されない。実に神様の力がそこから私たちに生きる力を与えてくださる。そこに耐える力を与えて、新しいいのちに輝く道へ導き入れてくださる。そのために、10節にパウロが言っているように「いつもイエスの死をこの身に負うている」者となりたい。

イエス様が、私についてきたいと思う者は、自分の十字架を負うてわたしにしたがってきなさいと言われました。自分の十字架を負うとは、イエスの死を私たちが絶えず身に負うていくことです。十字架を前に置いて、いつもそこに目を留めていきたいと思う。そこから目をそらしますと、いろいろなものが見える。そのために心が波立ち、騒ぎます。不安になり、恐れがわいてきます、心配がわいてきます。しかし、いつもイエス様の十字架に自分の姿を見ていくとき、「そうだ、私はもうあそこに死んだ者です」と。そのことをピシッと心に定めますと、力が与えられ、喜び、また望みを持つことができる。十字架はクロスと言います。クロスとは十字路ですね。そこで交差していくのです。交差するいちばんのところが十字架の中心です。私たちの生活に喜びがありますか、悲しみがありますか、望みがありますか、失望がありますか、すべてのものがこの十字架によって、そこに結び合っていくとき、望みがわいて、力があたえられ、生きる者へと変えられます。この十字架を絶えず見上げて、「イエスの死をこの身に負うて」、私たちはキリストと共に死んだ者となって、主のいのちと神の力に生かされていきたいと思います。

初めのコリント人への手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。どうぞ、人の力ではない、世の業ではない、この「神の力」を絶えず受けつつ、神の業の中で絶えず持ち運ばれ生きる者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(183)「誤りのない選択」

2014年04月29日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書45章1節から7節までを朗読。

 2節「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」。
 イザヤ書40章以下には繰り返して「わたしは主である」「わたしは神である」と語っておられます。45章の後半のほうにも繰り返していますが、神様が「わたしは神である」「わたしは主である」と徹底して何度も語り続けておられます。これは誠に不思議と言うほかありません。翻(ひるがえ)って考えると、それほど人は神様を認めていない現実があるからです。自分の生活の一つ一つすべて、自分にかかわる事は全部私が知っているべきで、ほかの人は誰も知るはずはないと思っている。ところが神様はそうはおっしゃらない。神様はあなたを造り、あなたを生かして、あなたに命を与え、生きる糧を備え、今に至るまでこの世で命を与えていると言われる。神様を信じることと、神様を知らないことの違いを、私どもはあまり感じていない、自覚していない。だから、信じてもよし、信じなくてもよし、神様はいてもよし、いなくてもよしと。それよりも、大切なのは自分だと。私がしっかりしていれば世の中でちゃんとうまくいくと思う。そこに私たちの大きな罪、人間の気の毒な、惨めな姿があると言えます。

 というのは、6節に「これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである」とありますように、こ
の天地万物の創造の神、聖書に証詞されている真(まこと)の神様以外に神様はいません。しかも、その神様は「わたしは主である」と6節に宣言しています。「主」というのはすべての事の中心、私たちの生活の中心、人生の中心ということです。これが神様なのです。このことを信じているかと言われます。案外、忘れているのです。朝起きて、夜寝るまで、日々の生活のなかで、常に自分が、自分が、私があれを考え、これを考え、これを心配し、これを何とかしてと、自分の力で家庭の細々したことを全部自分でやっていますから、つい「私が主です」と思っている。「主婦」と呼ばれて、私が主なる婦人だと思っている。でも横に「主人」というのがもう一人います。そうすると主が二人ですから家の中はしっちゃかめっちゃかになる。「主」は一人なのです。主婦であろうと主人であろうと、それよりももっと大切な「主」がいらっしゃる。6節で「わたしは主である」と言うのはこのことです。神様がすべてのものを備えて導いてくださる。

だから7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。人が幸いと言われること、また不幸と言われる問題、悩み、悲しみ、苦しみ、うれしい、楽しいという事、あらゆるものは、実は「わたしが創造する」と言われます。神様の手によって起こっている事。だから7節に「わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」と。「どんなこともわたしがそれをしているのだよ」ということです。ところが、私どもはその神様を信じません。「いや、私は神様を信じています」と言われるかもしれないが「信じている」とは、取りも直さず神様が今私を生かして、私を持ち運び、一つ一つのことを備えていることを信じることにほかなりません。だから、私たちの生活の場に思いがけないことが起こってくる、ハラハラドキドキすることがある。いろいろなことがあります。あるいは自分の考えもしない、計画もしなかったとんでもないことが起こってきたりします。そうすると「どうして!」「何で? 」と狼狽し、慌てふためきます。「どうして、何で?」 と言うこと自体、神様を信じていないからです。神様を信じていれば「これは神様だ」と、「このことを起こしているのは神様だ」と、スパッと一瞬にして神様に直結する。これはまことに幸いです。ところがなかなか神様に直結できない。「何でこんなことになった!あれがいけなかったのだろうか。これが悪かっただろうか」「あの人がいけない」「世の中がいけない」「政治が悪い、あの政治家がどうだ」とか、あるいは自分の過去がどうであるとか、自分の生活状態がこうだから、ああだからと、自分を責めたりすることになります。挙句の果ては、落ち込んでみたり、失望落胆して世をのろい、人をのろうようになる。つぶやき、恨み、つらみが出てくる。そのことごとくの原因は何かと言うと、神様を信じようとしない。よくても悪くても、どれもこれも、それらは神様による以外にないのです。そこを私たちがしっかりと信じていくとき、毎日の生活が楽になるし、楽しくなる。さぁ、神様がこれからどのようなことをしてくださるだろうか。神様に期待していくことができる。これは本当に素晴らしい恵みであると、私は思うのです。

と言いますのも、実は来週の木曜日、ちょっと私は高校3年生にお話をしてほしいと頼まれていますので、そちらへ出かける予定でおりますが、昨日、その学年の担任の先生方と集まって懇談をするために出かけました。今の高校3年生がどういう悩みを持っているか。ついてはどのようなことについて話をしてほしいか、要望も伝えたいという。けれども、私など高齢者ですから役に立つかな、とは思いましたが、そう言われるから出かけてお話を聞きました。聞いていますと、3年生の子供たちですから、年齢はまだ17か18です。私たちとは半世紀以上も違う。だから余程悩み事も違うかなと思ったら、案外そうではない。聞いていると、悩みは同じなのです。いちばん印象に残った話ですが、先生方が異口同音におっしゃるのは、高校3年生、しかも秋口というこれからの季節は、非常に不安定な精神状態にある。自分のこれからの将来を選択して決断しなければならない時期に入ってくるからです。人生で初めてそのような問題に出会うときなのだと。なるほど、それまでは親掛りですから、親が「右」と言えば「はい」、「左」と言えば「はい」、「この学校に行け」と言えば「はい」、「ここに行くな」と言えば「はい」でしょう。幼稚園、小学校、中学校、あるいは高校、今は中学に入れば6年制もありますから、中学に入ったらそのまま高校まで行ってしまいますから、いったん入ってしまったらそれでおしまい。

しかし、高校三年生になって、人生で初めて自分で自分の生き方、自分の将来を決断しなければならない。これは気の毒というか、子供たちにとって大変な悩み。皆さんは「なあに、そんなことはちょろいことよ」と思っているかもしれない。「人生なんてなるようにしかならない」と思うでしょう。これまで生きてきて、したたかになっているから、そのくらいのものはあるかもしれません。しかし、皆さんでも悩むのです。何を選択し、何を決断することが自分にとっていちばん良いことなのか、今でも悩んでいるでしょう。「さぁ、私はどの子供の世話になろうか、なるまいか」、それだけでも選択が大変です。どうすべきか、毎日心配ではないですか。17歳、18歳の子供たちが、自分がこれから将来どういう学校に行こうか、どういう道を選ぼうかというのと同じ悩みです。だから80歳の人と17歳、18歳の人の悩みは違わない。全く同じです。私たちでも同じです。いつも右にしようか、左にしようか、1,2,3,4選択肢があるうち、どれにしようかと。そのとき、担任の先生が「どうしても一つを選ぶということは、そのほかを捨てるということです。そこのところで子供たちが悩みます」と言う。言われてみたら皆さんもそうでしょう。この子の世話になろうと思ったらほかの子を捨てることです。この道を行こうということを決めたらほかの道を捨てることです。そこに悩ましさがあるのです。私はその話を聞きながら、恐らく世の中のすべての人はそういうことで悩むのだろうと思う。

そのとき、ある先生が「ただ、その選択をするときに『これを選ぶ』と決めるのだが、必ずその後に『これでよかっただろうか。自分はこう選んだのだけれども、これでいいのだろうか』という不安があります」と。なかなか悩みは尽きませんね。選ぶには選んだけれども、今度は次に「これでよかったのだろうか」。ドシッとして揺るがない決断がない。バシッと立てないのです。何か泥沼の、底のない沼に立って宙に浮いたような感じ、これが大丈夫に違いないと握ってみたけれども、それがユラユラ揺れている。どこにも動かないこれでというものがなくて、子供たちが悩みます。私は「先生たちはどうなのですか? 」と尋ねたかったのですが、生徒たちのことばかり言われるから、そういうときに先生はいったいどのように子供を指導するのかな、と思いました。恐らく、先生たちも悩んでいるのだろうと思うのです。

そのときに教えられたことですが、それは、根本的に私たちを造り生かしてくださる神様がおられることを信じるのか、信じないのか。ここなのだと思うのです。この信仰を抜きにして、人は生きられないのです。と言うのは、私たちもそうですが、日常生活で右にするか、左にするかを選びます。そのために、いろいろなことを調べます。あれを調べ、これを調べ、こうして、ああしてと。そしてこれがいいに違いないと決めます。決めた後はまた揺り返しが来ます。こう決めたのだけれども、よかったのだろうか。選ばなかったあちらのほうがよかったのではないかと。捨ててしまった選択肢の方がよく見えるようになる。そうすると、また心が動揺する。風に吹かれる枝のごとく、なびきます。そのとき、これは確かだ、と言えないものだから、人の言葉を頼る。そうでしょう。自分がこうしてこの道を選ぶ、この方法でこれからこうしようと決める。そうすると不安になる。よかったかな、この道でいいのだろうか。そうするとすぐ人に聞く。子供に電話をしてみたり、友達に電話して、あの人この人に「こういう道があるけどどうやろうか」。「いい」という人がたくさんいたらやっぱりいいに違いない。「やはり私の選択は間違っていなかった」と思う。それで安心して十分かというと、まぁ、取りあえずそれで「よしいこう」と決めます。やっているうちにそれがうまくいかない、思い掛けなくおかしな方向へ展開していってしまう。そのとき、「あの人たちが言ったから」、「あの人があんなことを言ったから私はこの道に来たのだ。今こんな不幸になってしまった。どうしてくれる!」と、人を恨む。それは自分に自信がないからです。それで、もう人の話は聞くまい、私が自分で決めればいいのだと悟る。「よし、えいや!」と、「私が決めた!」と言うでしょう。それでやっていきますか。またそれがうまくいかなくなったら、「ああ、私の責任。私が決めたのだから、私がこんなにしてしまったのだから……」と。それで今度は自分が劣等感の塊になる。「私がいけなかった」、「私がいけなかった」と自分を責め続けて半生を終わる。どの道を行くにしてもそうです。だから、今の世の中の人たちはみなそうです。流行に流される。みんなが行くから行こう。“赤信号、みんなでわたれば怖くない”と、みんなでパーッと行けば、これで安心と思っている。それがうまくいっている間はいい。しかし、人生はうまくいかない。そうすると誰を非難したくなるかと言うと、人であったり、自分であったり、その時々の政治状態であったり、経済状況であったり、世の中の仕組みであったり、制度やそのようなものが自分を今こういう不幸な者にしていると、自己憐憫(れんびん)、自分を哀れむだけの生涯に変わっていく。根本は何といっても、そこで神様を認めるのかどうかにかかっている。

箴言3章5、6節を朗読。

ここに「心をつくして主に信頼せよ」あるいは「すべての道で主を認めよ」とあります。神様を信頼し、神様を認めていく生涯。これは誠に幸いな生涯だな、とその時私は思いました。これ無くして、人はどのように安心を得ることができるでしょうか。これ無くして、私たちは自分の人生を充実した、望みを持って生きることができるでしょうか。私はそのことを痛切に感じさせられます。そのことを思って、翻ってみるとき、私たちはどんなに幸いかと思う。今このように神様を信じることができるようにしてくださった、神様を知らせていただいた。だから、私たちの生活のどんなことも、主を認めて、善い事も悪いことも、「繁栄」も「わざわい」も「ひかり」も「闇」も「わたしが創造する」。「ここに神様が私を置いてくださっている。この道に神様が私を導いてくださっている」ことを信じていく。自分が選ぶのではない、人が選ぶのでもない、流行に乗るのでもない。ここにありますように「主に信頼し」「すべての道で主を認めて」、「このことは神様がわたしに備えてくださったことです」と信仰を持って立つこと、これがすべてです。だから、私どもは神様を知っていながら時に忘れて、そのように信じないものだから、うろたえたり、悩んだり、つぶやいたり、憤ったりするのです。どんなことでも「これは神様がしてくださったのだ」と、主を認める。「すべての道で主を認める」のです。そうするとき、人を恨む必要がない。「あの人があんなことをしたから、私がこういうひどい目に遭っている」と言いますが、人ではないのです。もう一つ奥に、見えない神様が私にそのことを体験させてくださっている。私にこの道を歩ませてくださっているのだと、信じるのか信じないのか。これが実は私たちの人生を変えていきます。そうすると、事情や境遇、あるいは人やいろいろなことがあまり気にならない。ここにも神様が備えてくださった道がある。自分で選んだと思っているから、後々までも自分を責めるわけでしょう。皆さんが何か選択し、「これはこうしよう」と決断する。そのとき、よく考えてみると、打算があったり、自分の損得利害が絡んでいたり、あるいは人情が絡む。親子の情とか、友情なんて変なものがぶら下がってくるから、それで心ならずもその道を選んだ。そういうとき、後どうしますか? うまくいけば有頂天になるし、自慢する。あるいは高慢になりますよ。ところが、うまくいかないと、すぐ格好をつけて、「私が愚かでありました」、「私が駄目、私がしっかりしていればよかったのに」と。私がしっかりしていたから駄目になったのに、「もっとしっかりしとけば……」と言う。そのような方向へ行ってしまう。これも気の毒です。私どもは「神様が……」という、すべてのことの主語と言いますか、始まりが神様にあるのですから、それを認めるのがここの記事です。

6節に「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。家族の者から何か自分が非難を受ける、あるいは「お母さん、こうなのだから駄目じゃないの」とか言われる。言われたとき「何よ!あんたなんか何も知らないくせに!」と言い返さない。そのかわり「そうだ、神様が私に語っていらっしゃる」と、神様を認める。これは私たちの人生を大きく変えます。どんなこともそうです。小さなことから大きなこと、こんなことまで? と思うかもしれませんが、一つ一つ、主を認めていくこと。「わたしは主である」と、そうおっしゃる神様がこのことをしてくださっている。

サムエル記下16章9,10節を朗読。

これはダビデがわが子アブサロムに謀反を起こされ、クーデターが起こって、あっという間に攻めて来られて、大慌てでエルサレムから都落ちをするのです。逃げ出すのです。逃げていく途中で先の王様サウル王様の一族の一人、シメイという人物がダビデの様子を見て、「ざまあ見ろ」と言って笑ったのです。「世が世ならば自分たちこそ王の一家であったはずの自分たちが落ちぶれてしまった。その原因はダビデだ!」と恨んでいたから、ダビデに対してのろいを掛けた。そのときダビデの忠実な部下であるゼルヤの子アビシャイが「あんなやつが悪口を言うなんて、王様、私が打ち首にしてやります」と言ったのです。そのときの答えが10節に「しかし王は言った、『ゼルヤの子たちよ、あなたがたと、なんのかかわりがあるのか。彼がのろうのは、主が彼に、「ダビデをのろえ」と言われたからであるならば、だれが、「あなたはどうしてこういうことをするのか」と言ってよいであろうか』」。これはまさにダビデがすべての道で主を認めた言葉です。シメイという人物がやって来て、自分を悪くいい、のろいを掛ける。悪口を言わせているのは神様だと、主が神であることをここでダビデは告白している。

どうぞ、私たちも誰かから何か有りもしないことを言われても、有るかもしれない事実を言われても、カッとならない。「ああ、そうね。神様があなたに言わせていらっしゃるのですね」と。謙そんになれば、けんかしないでいいのですが、私どもはそれを認められない。だから、私たちはいつもダビデがそう言うように「わたしは常に主を私の前に置く」(詩篇 16:8)と、いつも神様を前に置く。何があっても、これは神様がそうしてくださっている。あの人ではない、この人でもない、この事情、境遇、事柄によってではなくて、神様、あなたが今このことを……と。ですから、この時ダビデは「『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」と、11節に「ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、『わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ』」。「主が彼に命じられたのだ」、だから、本当に神を信じるというのは、このようにどんなことの中にも神様が道を備えて、このことを起こしていると信じることです。「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」(エレミヤ33:2文語訳)とおっしゃる。神様がこうしているのだったら、私が何を言うことがあるでしょう。ただ手を口に当てるのみです。

ヨブがそう言ったでしょう。それまでヨブもそのことがよく分からない。やがて神様がヨブに問いかけられた時、彼は「わたしは何も知らない無知なるものです」と告白しました。「あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」(ヨブ42:2)と初めて神を認めたのです。

私たちはもう一度今与えられている恵み、私たちをこうして神様を信じる者としていただいた、その大きな恵みを知っておきたい。それは生活のことごとくが、神様の手によって成っている。どれ一つとして、神様によらないものはないことを認めることです。そうするとき、何が起こっても「ここに神様が備えてくださる」と確信できます。このときのダビデがそうです。ダビデは自分の愛するアブサロムから謀反を起こされて自分の命もねらわれるような事態になったのですが、それもアブサロムがしているとは思わないのです。

だから、アブサロムが攻めてきたとき、自分の部下に「アブサロムを決して殺してはいかん。彼は何か考えるところがあるに違いないから、生け捕りにせよ。決して命をとってはいかん」と命じたのです。ところがやはり部下は「あいつが謀反人だ」。王に反逆を起こすなんてこれは大罪ですから、民に示しがつきませんから、とうとうアブサロムが木に引っ掛かっているとき、ブスッとやってしまったのです。その知らせを聞いたダビデは悲しんで泣いたのです。大勢の前で、「ああ、アブサロム、アブサロム」と。自分に対して敵対してくる彼すらも、ダビデは憎まない、否、憎めないのです。なぜなら、それは神様がそうしていらっしゃる。だから人を憎むこともできなくなる。「あいつがあんなことを言うから…」「彼がこんな事をしたから、今のこの不幸がある」と、恨みつらみを持つのは、私どもは神様を信じていないからです。アブサロムに謀反を起こさせたのは神様だと、ダビデは信じました。今読みましたようにシメイという人にのろわせたのも神様。全部、どんなことの中にも「すべての道で主を認める」。私たちがこのことを信じていけることは、どんなに幸いなことでしょう。世の中の人々はそれを知らないから、失望してみたり、落胆し、嘆いたり争ってみたり、憤ってみたり、本当に争いが絶えないのです。

このシメイについては、この時ダビデは許したのです。そのようにダビデが都落ちしてアブサロムが死にました後、もう一度都エルサレムに戻って来る。戻ってきたら、このシメイが王様の所にやってくるのです。しかも、もみ手をしながら、「王様、ごめんなさい。もうあの時はついうっかり言ってしまいまして、あれは本心ではなかったからひとつ許してください」と言った。その時、ダビデは「お前の命は取らない」。ただ一つだけ条件を付けました。「お前を許してやる。この町に住め。ただしこの町から一歩でも外へ出たら命がないと思え」と。本当にダビデは彼を許したのです。ただ条件を付けただけなのです。しかし、シメイは自分が許された恵みを忘れたのです。勝手にその町から遠くへ自分の親族を訪ねて出かけたときに、王様は「殺せ」と命じたのです。それは彼に与えられた、自分が許された恵みを忘れたからです。私たちも神様から許されて、備えられた恵みの中に生きる者とされながら、それを飛び出してしまうならば命を失います。どうぞ、私たちは絶えず今どんな大きな恵みの中にあるか、神様を信じることがどんなことなのかを絶えず感謝し味わう日々でありたい。勿論、感情のある人間ですから、言われてカッとします。売り言葉に買い言葉、向こうが二つ言えばこちらは十くらい言い返す。でもそのとき「ああ、間違っていた」と認めることが大切です。そしてもう一度主に立ち返って「これは神様が起こしてくださった」とへりくだる。

だから、私は若い高校生にぜひこの神様を知ってほしいと思うのです。そうするならば、これからの人生、どんな道を選んでも、そこに神様が私を導いてくださっている。しかも、それが私にとって役に立つ道なのか、あるいは自分にとってよかった道なのか、これは分からないのです。皆さんでもそうでしょう。ズーッと今までの何十年という生涯を振り返ってみて、これはいちばんよい事だと選んだ道が、よかったはずがない。その道がよかったら今の自分はないはずです。とんでもない、思いもかけない道へ導かれてきて、そして今がある。私たちの人生の最終決算は生涯を終わるときでしょう。神様の前に帰るにあたって、自分の生涯をズーッと振り返って、80年90年の生涯を振り返って、「私は最善にして最高の生涯だった」と感謝できる人こそ勝利者です。部分的に「あの時代のあれはよかった。その後ズーッと不幸が続いて、その次はよかった」と、そのような色分けするような人生だったら、悲しいですね。感謝できる人になるためにはどうするか。「すべての道で主を認めていく」。「ここも神様が私に善いことをしてくださった。ここも神様がいちばん善いものを備えてくださった」と、神様を認めて感謝するとき、私たちの生涯はすべて問題なし、不平不満はあり得ない。どうぞ、誰が私の主でいらっしゃるのか。私たちの行く道を導かれる方がどういう御方であるかをはっきりと認めていきたいと思います。

イサクが成人したときに、お父さんアブラハムはイサクのお嫁さんを求めて僕(しもべ)を遣わしました。そうしたとき、ある遠縁の人の所へ導かれて行き、リベカの所へ来るのです。そのときにリベカのお父さんと言いますか、彼が「このことは神から出たことですから、私どもはよしあしをいうことはできません」と答えています。私はいつもその言葉を忘れることができません。いつも「これは神から出たことですから」と言い得たならば勝利です。どんなことでも「これは神様がなさったことですから」、自分がしたと思っている間は駄目です。確かに、私が今このことをさせてもらったのは、神様が「せよ」と命じられるから、しているのだ。私の主は神様で、私ではない。私は主に仕えている主の僕です。そのことを絶えず覚えていきたいと思います。そうすると、どんなことも感謝です。できなくて感謝、できて感謝。そうでしょう。何か一つできなかった。しようと思ったけれどもできなかった。そのとき、「これは神様がとどめられたことですね」「これは神様が『やめよ』とおっしゃってくださった。感謝します」と。それなのに無理強いして「いや、何とかしなければ、私が頑張って徹夜して……」などとやるから、次の日頭が痛くなる、あるいはどこかが悪くなる。主が「やめよ」とおっしゃる。「もう寝なさい」とおっしゃったら、中途半端でもいいではないですか。「いいや、これはちゃんと最後まで私が責任を……」と、偉そうなことを言うから体を壊します。そうならないように、私たちはいつも「すべての道で主を認める」。

イザヤ書45章7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。「これはもう絶望だ。もうこれは先がないぞ!」と思える事柄であっても、主を認めていく。神様がしていらっしゃることだから、この絶望的なところから、どのように神様は導きなさるか。神様に期待する。そうすると、私どもは失望しない。なぜ失望するかと言うと、自分がやっていると思うからです。私の知恵で、私の力で何とかやろうと思うから「もうこれはお手上げ、考えても解決がつかない。あきらめるしかない」という言い方になる。そうではなくて、「これも神様がなさること、『繁栄をつくり、またわざわいを創造する』。だから、ここから神様、あなたが主です。何をどうしてくださるか、主よ、あなたに期待していきます」と、神様を待ち望むこと、これ以外にない。そうするとき、私たちを神様は用いてくださる。「何をせよ」「どこに行け」「こうせよ」「ああせよ」「こうするな」と、いろいろ教えてくださる。そして神様の業を、不思議を行ってくださるのです。

7節の後半に「わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」。私たちのすべてのことの根源であり源である御方。この神様をはっきりと認めて、その方の前に従順に従い行く者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(182)「重荷から軽荷へ」

2014年04月28日 | 聖書からのメッセージ
 マタイによる福音書11章28節から30節までを朗読。

 28節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
 この御言葉は度々教えられ、また力づけられる言葉です。人生にはいろいろな重荷があります。心の思い煩いから、現実の生活上のいろいろな心配、不安、あるいは心を騒がせる事態や事柄が数多くあって、青息吐息と言いますか、時々、フーッとつらい、生きているのが苦しい局面にも出会います。誰だか忘れましたが“人生とは重き荷を負うて遠き道を行くがごとし”と言った人がいると聞いたことがあります。人生、生きることは、何か大きな荷物を抱えて遠い道のりを歩いているものだと言う。それでどこまで歩けばいいかというと、死ぬまで歩かなければなりません。これは大変です。ところが、イエス様はここに「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言われます。苦しい、重荷を負うて、大変だと思っているならば……と。もっとも人それぞれですから、重荷が楽しいという人もいるでしょう。「あなた大変ね」と言うと、「いや、平気よ」と。重荷と感じない人がいますから、人のことは言えません。

この御言葉で救いにあずかった一人の伝道者がいます。それは柘植不知人先生です。柘植先生は自分の人生の問題、また妹さんの問題を抱えて悩んでいた。そのころ、神戸の湊川にある伝道館でウィルクスという宣教師の方が特別伝道会をしていた。湊川という所は繁華街だそうです。黒崎であるとか小倉の魚町のような所でしょうか。そこで夜、伝道集会が開かれていた。その入り口に「凡(すべ)て勞(つか)れたる者、又重きを負へる者は我に來たれ」文語訳で御言葉が記されていた。柘植先生はハッと、「重きを負へる者」、考えてみると、自分はその悩みの真っただ中にいたのです。少し知的障害のある妹さんが行方不明になっていて、妹さんの消息を尋ねて歩いていた。神戸辺りにいるらしいということを聞いて探していました。人生上の悩みを持って、丁度そこへやってきた。目の前に「重きを負へる者は、我に來たれ」と、こんな事を言ってくれる人はどこにいるだろうかと思ったそうです。どこの神様もそのように「重荷を負うて、わたしのもとに来なさい」ということは聞いたことがない。「よし、ひとつ入って、聞いてやろうではないか」、「もし重荷が取り除かれないのだったら、この看板はもらってかえろう」と、道場破りのような感じで、先生はその夜の伝道集会の一番前に座って、足を踏ん張って「何を言うだろうか。どんな話をするだろうか」と構えていた。宣教師であるウィルクス先生がとても上手な日本語で説教を始められた。だんだんとその話を聞いているうち、「神がいらっしゃる」と、「うん、そうだな」と分かる。やがて罪の問題、人の心に罪があるために神様の祝福を受けられなくなっている。そのように言われ、自分の心を振り返って、これまで生きてきた道筋を思うと、なるほど自分に罪がないとは言えない。それどころか神がいると知りながらも、自分は神を畏(おそ)れていなかった。その結果、いろいろな悩みに遭った。ところが、その罪をあがなう御方、救い主として神のひとり子・イエス様がこの地上に来てくださった。そのような話を諄々(じゅんじゅん)と説かれていくのを聞きながら、それまではふんぞり返っていた柘植先生がだんだんとうつむき加減になった。彼の心の中に御霊が働いてくださったのです。とうとうそのメッセージが終わるときには泣き崩れてしまった。そして「イエス様の救いを受ける人、信じたい人は前に出てきなさい」と招かれて、即座に立ち上がって、ウィルクス先生の所へ行き、自分が本当に罪人であったことを悔い改めて、「イエス様を救い主と信じます」と告白したのです。それから新しい生涯へと変わっていった。一晩の出来事です。こんな事があるのですね。それは人が説得したからではなくて、何といっても神様の言葉を信じて、柘植先生はそれが聖書の言葉であるとか、あるいはそれがどのような内容であるとかは知らなかったと思います。しかし、入り口に書かれた言葉を聞いて、「よし、それじゃ、休ませてもらおうではないか」と信じて、出て行った、求めて行った。そこに御霊が働いてくださった。そのような魂に神様が力を現してくださったとき、どんなかたくなな人の心でも変わる。これは私たちにとって大きな望みであり、慰めでもあり、喜びでもあります。

私たちの周囲に頑固な人がたくさんいます。自分を含めてですが、みんな頑固ですよ。なぜ変わらないかと言うと、神様に働いてもらおうとしないからです。人の力で動かそうとする間は絶対に動かない。自分の心だってそうでしょう、皆さん。素直になりたい、家族の人が親切にあのように言ってくれたから「ああ、そうね。はい」と言いたい。言いたいのだけれど言えない。後になって「ああ、あんな心にもないことを、裏腹なことを言ってしまった」と言って、悔やまれますが、自分の心であっても、自分が握っているわけではない。やはり、罪の力が私たちの心をかたくなにしてしまう。素直になり得ない。ではその心を柔らかくするものはないかと言うと、ただ一つだけ「岩のごとく かたき心 砕くものは みちからのみ」と讃美歌の514番に歌われている。私はその歌詞を聞くたびに「岩のごとく かたき心」は誰かと言うと、私たち皆さんでしょう。大きな岩ですよ、ここに何個もありますよ。その岩を砕くのは「み力のみ」と、神様の力によらなければ砕かれないのです。だから、本当にどうしようもない私、私は何てこんなひねくれた人間だろうか、何でこんなに素直になれないのだろうか、すぐみんなから嫌われるようなことをつい言ってしまう、一言多い人間だなと思っていながら、自分で変えようがない。そのようなときにどうするか。それは一つだけです。「自分はこんな取るに足らないかたくなな人間です。神様、どうぞ私を造り変えてください」と、神様に求めないからです。そうでしょう。神様が力を現してくださったら人の心は変わります。

私たちはすぐ他人様のことを考える。「あの人のことやろうか」「この人のことやろうか。私はまだ固いといっても柔らかいほうかもしれない。ダイヤモンドほど硬くない」と、皆そう思うのです。でも、その心を砕いてくださるのは神様です。私たちに大切なのはそこです。「神様、私をどうぞ粉々に砕いてください」と言えるか言えないか。大抵は「人を砕いてください」と祈る。「主人を砕いてください」「家内を砕いてください」「息子たち、あのかたくなな者を早く何とかしてください」「では、あなたは? 」と問われる。「え!私、私は悪いと言えば悪いけれども、まぁそこまで今すぐにどうこうというわけではない。これは後でもいい、そのうちに……」となります。問題はそこなのです。「本当に自分は、これでは駄目なのだ。これではいかん!何とか変わりたい」と願わなければ、それは実現しません。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ 7:7)。「神様、どうぞ私は汚れたものです。私はこんな者ですから、このようなかたくなな心を、けちくさい心を、ねじくれた、ひん曲がった心を、どうぞ神様、たたき割って粉々にして、新しくしてください。素直な心に変えてください」と切に祈る。ダビデですらもそのように、「わたしの心に清き聖なる自由なる霊を与えてください」とお祈りをしたのです。ダビデですら、そのように祈るのですから。ましてや、私たちは切に願わざるを得ない。何としても変えていただきたい。

ところが、人は変わりたくないのです、少しでも。だんだん年を取ると余計にそうでしょう。若いころはまだ冒険心がありますから、何か少しでも新しいものに「おお、やってみよう」と言う。ところが皆さん、今になったら「もう昨日の今日、今日の明日、変わらないでくれ。何も新しいことはしない」と、そのように思います。そうなると、焼冷ましの餅ですから、これはどうにもならない。しかし、私たちはそのように言わないで、神様は私たちを造り変えようと願っていますから、自分からそれを求めていくことが大切です。

柘植先生は何とかこの重荷を取り除いてほしいと願ったのです。その問題や事柄のいちばんの根本に何があるかと言うと、人の罪がある。自我性という、そのことに気がついた。罪が赦されなければ、清められなければならない。そして、人の力ではその罪を清めることができない。人は、自分で生きているようですが、自分ではない。神様の力によって生かされなければ正しく生きることが出来ない。残念ながら、私たちはサタンの支配に捕らえられてしまっている。それに気がつかない。しかし神様が憐(あわ)れんでくださって、私たちを罪から解き放って、神様のものにしようとしてくださるのです。その神様の大きなご愛と恵みを知ったときに、柘植先生は本当に心砕かれた者になったのです。柔らかい心になって、それからの生涯を、その晩から神様の前に自分をささげる生涯、献身の生涯に入ってしまった。私は柘植先生の『ペンテコステの前後』という自伝を読みましたときに「本当にすごいな」と思いました。それは先生がすごいというよりも、神様のなさる業は本当に大きな力だなと思うのです。

28節に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」とありますが、では「イエス様のところに来る」とは、どのようなことなのでしょうか? それは、イエス様が私の罪のために十字架に死んでくださったことを、本当に喜び、感謝して受け入れることです。「イエス様のところに来る」と言っても、イエス様を知るとか、イエス様のことについての知識をたくさん蓄えることではありません。イエス様が私のために何をしに来てくださったか、私にとってイエス様はどのような方なのか。「イエス様のところに来る」という言葉は、分かったようでよく分からない。どうやったら、イエス様のところに行けるのだろうか。

イエス様がこの地上に来てくださった目的は、私たちの罪のあがないの供え物となってご自身をささげるためでした。言うならば、私たち、皆さん一人一人の罪の犠牲となってくださいました。それに対して、私たちはどれほど自分の罪を自覚しているか? ここがいちばんの根本でしょう。自分の中に抜きがたい、根深い罪がある。表面に現れたわずかな事柄ではない。もっともっと根深いところがあります。私たちはイエス様の清めにあずかって、イエス様の十字架のあがないにあずかって、罪を赦されたと感謝しています。しかし、救われてから5年10年15年20年30年、相変わらず自分の罪の姿が見えるではありませんか。抜きがたい罪の力はもう既に十字架に処分されたはずなのです。しかし、それがまるでとかげのしっぽのように、時折チョコチョコ出てくる。そして「私はやはり救われていないのではないだろうか。こんな私のように汚れた者が……」と失望落胆します。だからパウロは「たとえ私たちは、イエス様を信じて救いにあずかっても、次から次へとそのような過去の罪が、いやそれどころか今まで自分では気づかなかった奥深い、根深い罪の塊、それが消えないでいる。それによって失望落胆するけれども、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と語っています。何と汚れた者だろうか、いよいよもって救いがたい自分であることを知れば知るほど、なおその上に、それすらもあがなってくださったイエス様のあがない、赦し、十字架の血潮、その有難さと言いますか、尊さがいよいよ深くなる。

ほんのちょっとのものを赦されたのでしたら、「こんな程度か」と思うでしょう。しかし、いよいよ深い大きな罪を赦されたら「こんなにまで、これ程のものを赦してくださったのか」と、主の赦しの深さ、長さ、高さを深く知ることができるのです。だから、イエス様の十字架に立ち返っていくとはそこなのです。イエス様は過去のあるときに十字架にかかってくださったから、それでもうおしまい。もう私は罪を赦されたから、後は聖人君子、私はどこをたたいてもほこりは出ません、というような人間にはならない。と言うのは、それだけでおしまいだったら、神様の恵みの深さ、大きさを私たちを味わいそこなう。だから私たちをなお地上に置いているのは、神様の「めぐみ深きことを味わい知る」ためでしょう。

長く生きれば生きるほど、自分の罪深さを感じます。だから“憎まれっ子世にはばかる”と言うでしょう。自分の罪が多いものほど、地上に置かれる時間が長いのは恵みです。なぜならば、その度ごとに十字架に立ち返ることができる。「ここも主が赦してくださった。こんな自分であるのになお主が赦してくださる」。泥沼を行けども、行けども、そこに十字架が立てられていく。それ程の神様のご愛を味わうことができるのはこの地上にあってこそです。だから、どうぞ失望しないで、自分のしようのなさをいよいよ深く味わえば味わう程、感謝したらいいのです。「自分にも想像がつかなかったこんなひどい者をなお神様はご存じで赦してくださっている。気がつかない前から、既にそこに十字架を立ててくださっていた」と、喜んでいよいよ神様に近づいていくことができる。だから年を取れば取るほど恵みは深くなります。神様の許しの真っただ中へ自分がすっぽりと覆われ、包まれる生涯ですから、失望落胆することはどこにもない。イエス様のところに来るとは十字架の主に結びつくことです。イエス様が私のために今日も死んでくださった。そして、よみがえった主が今もとりなしてくださる。だから、まずイエス様のところに来て、本当にこんな者のために命をかけて愛してくださった。十字架に罪を赦してくださった。そればかりでなく、こんな私にも愛想を尽かさずに、よみがえり給うた主が共にいてくださる。そのよみがえりの主と密着することです。これが「わたしのもとにきなさい」という意味です。「イエス様のもとに来る」とは、十字架を通して死んでよみがえってくださったイエス様に自分が結び合わせられていくこと。だからパウロが言ったように「最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2:20文語訳)、イエス様が私の内にあって生きてくださっているのだと確信するとき、キリストのもとに来たと言えるのであります。そうでない限り、いつまでもイエス様と私たちとの間になお隔たりがある。遠目には見ているだけでは、イエス様に来るとは言えない。

28節に「すべて重荷を負うて苦労している者」、私どもが人生に行き悩み、あるいは様々な問題や事柄で「どうしようか」「ああしようか」と思い煩っているとき、その思い煩いの奥深いところをよくよく探っていくと、必ず自分の罪の問題にぶつかる。どこかで思い煩っている、重荷だなとため息が出る、こんな問題は嫌だなと思っているとき、自分の心の奥、奥をよく探ってみると、自己中心であり、譲れない自分の考えや思いをしっかり握っている。自我性というものが頑固にそこにあるのです。これをたたきつぶしていかないと、実は重荷は消えない。「わたしのもとにきなさい」とイエス様が言われるのはまさにそのことなのです。「イエス様、私は今経済問題でこんなに……」「私は今人間関係に苦しんでいる。あの人との関係がうまくいかない、職場でこんな問題が起こった。あれがあった」。だからこのことのためにイエス様のところに来て、「イエス様、あの問題を解決してください」「この問題を解決してください」と祈る。もちろん、そのような祈りを持ってイエス様に近づくことも、別に悪いわけではない。またそれが的外れというわけではありません。しかし、ここで「わたしのもとにきなさい」という言葉の意味は、ただイエス様をヘルパーとして、あるいは何か助け手として、救急車か消防自動車を呼ぶような意味で「わたしのもとにきなさい」と言われたのではなく、イエス様がしようとしていることは、私たちがイエス様と一つになることです。そのためには、問題や事柄、重荷と思われることのいちばん奥にある罪の問題にどうしても行き当たります。「私はあの人のために、この人のために心配してやる」。「息子のため、あるいは子供のために私は心配してやるので、そこには私の私的な感情はありません」と言われるかもしれませんが、そんなことはない。人はとことん自分の事ばかりを考えますから、「何としても、こうでなければ」と思う。そのような心がある間、イエス様の休みにあずかることができない。28節に「すべて重荷を負うて苦労している」とありますが、今、何か重荷を負うていますか? 自分自身の病気の問題、老後の問題とか、あるいはほかの人とは関係がない、私自身の問題と言われるものでもそうです。それを喜んで神様のものとして受け入れられないのは、死にきっていない自分がそこにあるからでしょう。

私は自分自身の病気を通してそのことを深く教えられました。神様を信頼しきっている、神様のものだと言いながら、ああでは困る、こうでは困る、こうなっては嫌だと思っている自分がある。神様が何とおっしゃるか、そこに徹底できないものがある。だから「わたしのもとにきなさい」と言われる。イエス様のもとに来ることは、自分のいちばん奥深いところでの罪を認めて、そして、共にいてくださるイエス様のみ声に従う者と変わっていくとき、「あなたがたを休ませてあげよう」、今まで重荷と思えていたものがスーッと消えていくのです。これは大切なことです。今自分が抱えている悩み事を、イエス様のところへすっかり委ねてしまう。そのとおりです。ところが現実、委ねたつもりが委ねられない。委ねてみては引っ張り、委ねてみては引っ張り、その根本は何かと言うと、自分の中に神様に対して信頼できない、神様を疑っている罪の心がある。これが問題です。どうぞ、私たちは「わたしのもとにきなさい」と、主のもとに来る者となりたいと思います。

そして、29節「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。ここに、イエス様は「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と。休ませてもらうはずだったのに、どうしてわたしがくびきを負わなければいけないのか。「休ませてくださる」というのは、私たちの重荷を取り除いて、後は昼寝でもしていようという休みではない。よくそのようなことを言いますね。肉体の休みもそうですけれども、何か疲れるでしょう。いろいろな忙しい事があって疲れて次の日一日「これだけ私はしたのだし、自分にご褒美だ」と言って、次の日、朝からガーッと寝て、家族が「どうしたの? 」「いや、私は今日は寝るから!」と寝るではないですか。余程寝たから疲れが取れたかと言うと、翌日ボヤーッとして「ああ、疲れた」と言います。それは自分のわがまま放題の心に支配されてしまった結果です。

イエス様のところへきて、重荷をイエス様に委ねて「これで私は楽をするわ、寝るわ」と言って、むさぼるのは罪です。いくら疲れたからといっても横になって寝る時間なんて普段と同じでいいのです。やはり次の日は少なくとも起きて軽い運動をするなり、仕事も軽目のものをすることではじめて疲れは取れるのです。ところがそのようなことをしたらますます疲れるに違いない、という欲望、人の何ていいますか汚いものがある。何とかしてとむさぼりがくる。

イエス様が「あなたがたを休ませてあげよう」と言ったのは、そのような意味の休みではない。「お前の好き放題、思う存分、お前のむさぼりのままに放っておく」というのではない。そうではなくて「イエス様にくる」、先ほど申し上げましたイエス様に密着する、よみがえってくださったイエス様と共に生きるとき、今度はイエス様についていくのです。だから、29節「柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。イエス様のくびきを負うこと。「くびき」とは、牛など2頭ほどを一つのものとするために横木を置くのです。これがくびきです。そしてそれに鋤(すき)であるとか、いろいろな道具を付けて田畑を耕す。その作業は1頭では大変だから2頭並べてする。そのときに2頭とも同じ歩調で同じ荷重になるようにバランスよくするためのものです。「くびきを負う」とは、イエス様と一緒になって生きることです。

その後に「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。イエス様が休ませてくださる休みは、決して体が楽になったとか、仕事が少なくなって暇になったという意味の「休み」ではなくて、心に平安を与えてくださるのです。イエス様と共に負うには、30節に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とあります。今度はイエス様が負わせてくださる、イエス様が共にいてくださる、担ってくださる荷を共に負いつつ歩んでいく。これは幸いです。「このことも主がなされることです」と、そこに立たなければ心の平安がありません。
お祈りをいただきました家内の母が、思いがけない形で福岡の教会のそばにある老人ホームに今度入ることになったのです。突然のごとく言われまして、もう何年か前から申し込みをしていたのです。そうしましたら先月の終わりの日曜日でしたが、家内の所に電話があって、「お母さんがもし良かったら入居できますがどうしますか」と、聞いて家内はびっくり仰天、大喜びをしました。今老健センターに入っていますが、「老健」は一時的な仮の住まいですから、落ち着かないのです。時々日曜日の午後など帰りにちょっと寄ってみますと、日曜日はお休みですから係りの人も少なくなって、何も行事もない、することがなくてダラーッと寝ているだけです。元気で動けるのですが、居場所がないからベッドに寝る以外にない。行きますと母もショボッとしていますから可哀想です。もっとうちの近くだったら時々連れ出してもやれるし、出かけて行って話し相手にもなれるのにと思います。だからその母の様子を見て、家内が「母を何とかできないだろうか」と。私は「じゃ、うちに引き取ったらいい。次の施設があるまでうちの教会においてやればいいじゃないか」と言いますと、「そこまではしきらない」と言う。といって放っておくわけにはいかない、どうしようかと、そのような悩みのときに、ポンと神様が道を開いてくださいました。だから家内は大喜びで母に言いました。母も喜んで「娘のそばに行ける」と喜んだのです。

いろいろな手続きがあって、準備をしておりました。先週の土曜日何気なしに、掛かりつけのホームドクターの所へ行きまして「今度家内の母がこうやって近くのあそこのホームに入ります」と言ったのです。するとその先生が「あそこは以前は人気が高くてなかなか入りづらかったが、最近は何だかベッドが空いているようですね。よかったですね、そういう時期で」と言われた。家内に「あそこはだいぶすいているそうだよ」と言ったのです。すると「何か表に出ない問題があるに違いない」と、家内はまた悩み始める、夜が眠れない。せっかく連れて来たはいいけれども、母から「何でこんな所にしたのよ」と言って非難されそうにもあるし、といって可哀想にもあるし、これから先どうしようかと。それで私は「いいじゃない。どんな事があっても、いよいよとなったらうちに来てもらえばいいのだから、……」「いや、来てもらうのもいいけれども、それも大変だし……」と、逃げようとする。「トコトン自分が引き受けてやりたい」と思えない。それには自分を捨てて掛からなければならない。悩みは悩みですが、よく見るといちばんの根本は自我ですよ。自分がどうしても譲れない。あれは嫌だ、これはできない。

だから「わたしのもとにきなさい」と言われるのです。「もうお手上げです、神様。私は本当にこんな罪なる者ですから、神様、どうぞ赦してください。あなたと共に行きます」と、主を求める。よみがえってくださった主が『負え』とおっしゃるならば、主の負わせ給う「くびきは負いやすく」「その荷は軽いからである」。肝心なのは何といってもやはり状況や事柄が問題ではなく、結局のところは自分の罪の問題です。「わたしのもとにきなさい」、イエス様のもとに来なければならない。

イエス様のところに来て、自分を主にささげきって、よみがえってくださった主と一つとなって、「よし、主が負わせてくださる、主が『行け』とおっしゃるなら、主が『負え』とおっしゃるなら、主が『通れ』とおっしゃるならば、ここは喜んで主のご愛とめぐみに感謝して歩ませていただきます」と、心を定める。そのとき私たちの魂は喜び、心もまた安らかで、魂に休みが与えられる。今、「これは嫌やな、逃げ出そう」と、何とか逃げる道はないか、自分が助かる道はないか、自分が損をしないように、自分の命を惜しむから、重荷なのです、苦しいのです。何もかも、健康だろうと、何だろうと、これは全部主のもの、私はもうイエス様のものですから、主よ、あなたが必要とおっしゃれば差し上げます。あれも、これも、何もかもひっくるめて放り出していけばいいのです。ところが「惜しいな、これをしてやったら良いのだけれども、そこまではできないし、ああ、どうしよう、どうしよう」と。「どうしよう、どうしよう」との悩みを考えてみますと、自分が何とか生き残ろう、自分が何とか傷つくまいと、逃げにかかるから悩むのです。そうではない、どうなろうとこうなろうと、主が共にいらっしゃるのだから、主の手に委ねて、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」、そして「あなたがたの魂に休みが与えられる」と。このイエス様から受ける平安、イエス様が与えてくださる安心を自分のものとしていきたい。

そのためには絶えず私たちが重荷と感じるとき、苦しいなと思うとき、まず「わたしのもとにきなさい」。イエス様の十字架のもとに来て、よみがえってくださった主と一つになることをまず努めようではありませんか。そうするなら、私たちの内に今度はイエス様が力を与え、また与えてくださる重荷は軽くなり、むしろ喜びでありレクレーション、楽しみになります。イエス様の重荷を負うのですから、自分の重荷ではない。誰かの重荷でもない。誰に代わってしているわけでもない。イエス様の負わせ給う重荷を喜んで負うのです。

よく小学校の先生が授業が終わって何か道具を持っていこうとすると、子供たちが喜んで先生の手伝いをする。「先生、僕に持たせて!」かばんを持ったり、道具を持ったり、「ちょっと、誰か黒板をふいてくれる者はいないか」なんて言うと「はい」「はい」「はい」「はい」、何とか先生の役に立ちたいと思うでしょう。私たちもそうです。イエス様のお役に立ちたいと思うなら、何をためらうことがあるでしょうか。イエス様を放ったらかして、自分が助かろう、楽をしようと思うから、常に苦しい嫌なことばかり、人生は苦しみばかりというのです。そうではない、「わたしのもとにきなさい」、イエス様の所へ来てイエス様と一つになって、主が「負え」とおっしゃる荷を負い、「行け」とおっしゃる所へ喜んで出て行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。

聖書からのメッセージ(181)「心を主に注ぐ」

2014年04月27日 | 聖書からのメッセージ
 ヘブル人への手紙4章14節から16節までを朗読。

 6節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。
 日々の生活の中でいろいろな悩みや苦しみ、悲しいことに出会います。そうすると心が悶々(もんもん)と悩む。苦しい、苦しいから心にたまります。心配もたまりますし、不安も怒りや憤りといったそのような感情もたまります。普段はあまりそのようなことを外に出さないで、しっかりと抑えて我慢しています。しかし我慢にも限度がありますから、時々「切れる」と言います。最近の子供たちは我慢がないからすぐに切れますが、言うならば、心にたまったものを吐き出します。出してしまうと、自分の身が軽くなりますね。だから、我慢して、言わないで、黙って自分の心に蓄えておく間は、まだ何とかしのげますが、それが限界点に達してくると、表情も変わるし、言葉遣いも変わってきます。ちょっとこの人おかしいのではないかな、何かあるなと、そばにいてもよく分かります。そうすると、そのうちたまらなくなって「実はこうなんだ、ああなんだ」と言われます。殊に家族の中ではこのようなことが時折起こります。ご主人に、奥さんに、あるいは子供たちに、いろいろ言うわけです。言うと、ホッとします。ある意味では気が軽くなる。ところが、聞いた方は逆にその悩みをもらってしまう。

 今読みました15節に、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」とあります。確かに、家族に、あるいは友人知人に、自分の思いの丈を打ち明ける、あるいは怒りや憤りをぶつける。そして「ああ、すっきりした」と、本人は思いますが、では本当に心から不安がなくなった、心配がなくなったかと言いますと、実はそうではない。それは一時的な感情の吐露(とろ)と言いますか、発露であって、それで心の思いが解決する、あるいは心に平安が与えられるにはほど遠い。だから、その問題をひと時しゃべって、思いを吐き出してしまって、それで解決したかと思うとそうではない。またしばらくすると、三日、五日、一週間すると、またたまってくる。そしてまた同じことを繰り返す。ですから、本当の解決はそこにないのです。思いをいくら語ってみたって、それは一方的に語ることはできますが、それを共感すると言いますか、共有する、空っぽになった心を整理する、きちんと整えてくれるものではない。

そうでしょう。何か気になること、思い煩っていることがあって、家族の者、あるいは友人、親しい人に、この人はと思う人に打ち明けます。そうすると取りあえず気は軽くなりますが、それだけのことです。その後の自分の心を整理し整えて、きちっと前に向かって思いが変わってくるかというと、変わらない。これは限界があるのです。人が人の話を聞いても、どこまで相手の思いを受け止めることができるか、これは難しい。ある意味では不可能といったらいいと思います。お互いが何か言い合って、「あの人は私の言うことを分かってくれた」と、あの時熱心にうなずいて聞いてくれたからもう知っているはずだ、私の気持ちは全部伝わったと思いますが、案外違うのです。次の日ケロッとして何かちぐはぐなこと、全然的外れのことを言われて、「あら、昨日話したのはいったい何だったのだろう。あの人は聞いていたはずなのに・・・」と思います。それで「あの人はわたしのことを分かってくれない。鈍感だ」とか何とか言って非難しますが、それはお門違いと言いますか、初めから分からない相手にしゃべっているのです。言うならば犬や猫であろうと構わないわけです。

近くの大濠公園ではよく犬の散歩をしている。そうすると犬を抱っこして歩くのです。犬の散歩なのに何で抱っこするのかと思います。そして歩きながら「何々ちゃん、今日はいい天気でしょう」とか、「楽しいね」と、楽しいのかどうか分からない。言うならば飼い主が一方的に自分の心を語っている。犬は何とも思っていないと思いますよ。むしろ「うるさいやつだな」と思っているかもしれない。そのようなものですよ、人の会話と言うのは。だから、人は私のことを分かってくれるというのは、幻想、まやかしです。だからあまり期待しないでください。家族の者が私のことを分かってくれない、「どうしてでしょうかね? 」というのは、それは期待する方が間違っている。初めから分からないのですから、これはもう致し方ない。では私のことを知ってくれるものはどこにもないのかというと、ただ一つある。

それが今読みましたイエス・キリスト、主です。15節に「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。イエス様は私たちの所に救い主として来てくださって、ベツレヘムにお生まれになって、三十数年の地上の旅路を歩まれました。その方は人となり給もうた神なる方、神ご自身であるとも記されています。神の位に居給うた方があえて人となってこの世に来てくださった。そしてイエス様はこの地上にあって生きる悩み、老いる悩み、病気についても、あるいは借金のことについても、何もかも、生活全般すべてのことの悩みを知ってくださっている。そして私たちの重荷を負い、悲しみを担い、病の人であったと。徹底してイエス様は私たちと全く同じ、人となった方です。そのイエス様は罪を犯したことのないお方でいらっしゃる。本来、人間は罪の塊です。イエス様はただ一つその点においては人と異なった方でいらっしゃる、罪なき御方です。しかし、私たちとすべての事を共有することのできる方。その後に「わたしたちと同じように試錬に会われた」。私たちと同じようにすべてのことをご自分でご経験してくださった。私どももそうですが、世間でもそのように言いますが“同病相憐れむ”と言うでしょう。同じ悩みに遭うと、相手のことがよく分かることを言います。

私もそのように思います。自分で病気をして、ひょっとしたら死ぬのではないか、と思うような体験をしますと、そのような人の話を聞くとき、わが事のように身にしみて感じます。「ああ、なるほど、このように経験しないと分からないことがあるな」と思う。だから、神様は私を教えようとして、いろいろな中を通してくださるのだと感謝しますが、確かにこれは一理あることです。ここにもあるように、イエス様はすべての事を経験してくださった。だからその少し前のところにもそのことが記されています。

ヘブル人への手紙2章18節を朗読。

ここに「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ」、イエス様は私たちと同じように苦しみを受けてくださいました。だから同じ苦しみの中にある者たち、試錬の中にある者たちを助けることができる。私たちの心の隅々まで、思いを知ってくださる、届いてくださる。これは人にはできない業です。もちろん今申し上げましたように、人であっても同じ経験をしたら、少しは分かります。私もそのように思いました。自分の病気を通して、同じ病の中にある人の思いを知ることは、確かにそれ以前より、知ることはできますが、だからといって、その人の思いを全部知っているかと言われると、知らない、分かり得ない。どうしてもそこのところにきますね。

先だってテレビを見ておりましたら、一人のがん患者の方が自分が末期であることを知って、残された余命半年でしたか、その間に何かできることはないだろうかと考えた。そういえば同じ病にある人々が集まって、それぞれの体験を話し合う、そしてその経験を通して、現場の医療機関にどのような医療をしたらいいのか、患者側からの提言をしていこうという働きをした方、もう亡くなられたそうでありますが、その方のことがテレビで夕方放映されて、ご覧になった方もいるかと思いますが、そのような集いを「患者の会」と言います。同じ病気を患う人たちが集まって、お互いに自分の苦労を、自分の悩みを、自分の苦しみを分かち合おうではないか、という会です。それはなるほど幸いなことだろうと思いますし、私もそれを否定はいたしません。しかし、自分自身の経験から言うと「同じ病気をしている人に言ったところで、どうなるだろう」という思いのほうが私にはあるのです。いちばん肝心な心の問題、私たちのいちばん深いところの悩み、思いはいくらしゃべっても通じない。

それで私は自分の病気を通して、なるほどそのような病気にある人の気持ちが分からなくはない、いや以前よりはるかに良く分かるとは思うが、だからといって、どれほど相手の人の心にまで届くことが言えるだろうか? 私はちょっと言えないと思う。ただ黙って聴いてあげる以外にないし、ではその聴いたことに対して、私は何かその人の心に触れることができるかと言うと、できません。無力です。だから、そのような病気をしたときの自分自身を考えてみて、何が自分にとっていちばん幸いだったのかなと振り返ると、人に自分がこんな状況、こんな状態ということを言うことはあまり慰めにはならないな、と感じるのです。では何があったのかと言うと、私にとって幸いだったのは主に打ち明けることができる。神様に、イエス様に祈ることができること。これはどんなものにも代えがたいものだな、と思います。私はいろいろなことで不安を覚えたり、健康上の問題があったりすると、それを人に聞いてもらって解消することはできないと思います。といって、語ってはいけないと言うのではなく、それは大いに言ってもらったらいいと思うのです。しかし、最終的にはやはり私どもがイエス様に打ち明ける以外にない。だから私はそのようなお話を聴いて、どうこうするとか、何も言えません。ただ言えるのは「お祈りしましょう」。一緒に祈ってあげる以外にない。これは最高の恵みだからです。だから「ああだからでしょう」「こうだからでしょう」「こうだからもう少しこうしたらいい」「こんなことがあるから頑張りなさい」「この次はこうなるに違いない。将来のこともあるし、まだまだ死ぬわけではないし……」と、いろいろ周囲で慰めてみても、結局その人の思いに届くことができない。

ヨブがそうですね。ヨブがあの大変な苦しみの中にあったときに、周囲の者が一生懸命に心を尽くして、ああも言い、こうも言い、十重二十重にいろいろな方面から彼を励まそう、教えてやろうとしましたが、結局ヨブの悩みが分からなかった。では、彼はどこへ行ったかというと、そのことを通して神様と直接的に触れ合う、神様に出会ったのです。それがただ一つのヨブの解決の道だったのです。それと同じで、結局、行き着くところはそこなのです。

だから、先ほどの4章14節に「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」。ここに「大祭司なる神の子イエス」と記されています。「神の子イエス」という言葉の前に「大祭司なる」と言葉が付け加えられている。この「大祭司なる神の子イエス」という言い方は、このヘブル人への手紙だけに書かれている言葉です。と言いますのは、このヘブル書をお読みになると、皆さんお分かりのように、律法の世界にあって、神様と人とをつなぐものとしての「大祭司」、祭司制度ということがその背後にあって、イエス様のことを語っている記事です。だから、私たち日本人にはちょっと分かりにくい、なじみにくいことではあります。しかし、これは非常に大切なことです。と言いますのは、神様と私たちとの間は決して友達にはなりえない、あるいは親しくなる間柄ではありえない。神様は天地万物の創造者でいらっしゃる。それに対して私たち人間は被造物、造られた者です。その神様と人とは住んでいる世界が違う。これはもう雲泥、月とすっぽんどころではない、全く次元の違う存在です。そのような関係である神様と私たちとがつながることができない、交わる、接触するところがない。しかし、神様は一つの道を明らかにしてくださった。イスラエルという民を選んで、そこに祭司という制度を置いてくださった。これは出エジプト記などをお読みになると分かるように、イスラエルの民をエジプトから救い出してカナンの地へ導くその間に、神の民としての姿勢を整え、神と人とが共にあることができる証詞、証拠を立ててくださったのが出エジプト記です。

そのとき、神様は幕屋を設けることを命じました。幕屋とは後の神殿です。神様がいらっしゃる聖なる場所、聖別された特別の場所として、主の民の中に幕屋を設けることを命じたのです。といって、神様はそのちっぽけな幕屋の奥に鎮座していらっしゃるかというと、そんなことではない。神様はそんなちっぽけな所にいらっしゃるわけではない。もっともっと広大無辺、大きな方ですから、そんな中に住み給う方ではありません。けれども、私たち人間のために、神様がそこにいらっしゃるという証しの幕屋、私たちの目には見えない神様ですが、その神様は確かにここにいらっしゃいますよという証し、証拠として幕屋を建てることを命じたのです。
そのことを分かりやすく言うと、表札のようなものかなと思います。皆さんのお家に行きますと、必ず名前を書いた札が掛かっています。表札です。それはそこに誰が住んでいるのかを表しているでしょう。といって表札という小さな形の石かプラスチックか何かで作られたその中に住んでいるわけではない。ただその家はこの方のものですよ、という存在を証ししている札です。札だからしょうもない、とも言えない。やはりその家を表しますから、大切なものとして扱います。それと同じで、ここは神様のものであり、神様がそこにいらっしゃることを表す。だから、イスラエルの民の宿営地の中に幕屋を設けることを命じました。そして幕屋で「我其處(そこ)にて汝等に會(あ)ひ、汝と物(ものい)ふべし」(出エジプト29:42b文語訳)と、神様はその場所であなたに会い、あなたと語るであろう、とおっしゃったのです。言うならば、そこは神様と人とが出会う場所として備えてくださった。では誰でもそこへ行って、「はい、ごめんください、神様ご機嫌いかが」と入っていくような場所ではない。神様の前に人が立てない。汚れた罪を犯した者、造られたものである人間が造り主でいらっしゃる神様にずかずかっと土足で近づいて肩を並べて「あんた、元気」と、このような関係にはならない。

では、神様と人とをどのようにつなぐのでしょうか。実に神様は素晴らしい方だと思いますが、そこで祭司という制度を設けられた。神様はレビの一族を選んで、彼等を聖別して神に仕える者としたのです。そして彼等を祭司として立ててくださった。祭司はどのような働きをするか? それは幕屋にあって神様の臨在の前に絶えずとどまり、罪ある人々が神様の前に願い出てくる罪の赦し、また日ごとの様々な祈りをささげる場所として、ただそのときに選ばれたその祭司たちが、神様によって聖別されて立てられた祭司たちが、神様と人との間をとりなす、結びつける役割を神様は与えてくださった。神様はなかなか知恵者だな、と思いますね。到底、神様に近づけない者をして、神様とのパイプラインを造ってくださった。その役割を祭司たちにお命じになられたのです。

だから、当時神の民は日ごとの悩みや問題、また罪を犯して心に責められるところがある、うれしいことがあって感謝したい、そのような生活の事あるごとに、一つ一つの事に当たっては、幕屋に出かけて祭司にとりなしてもらう。父なる神様の前にその祈りを取り次いでもらう。そのような制度です。今はもちろんそのようなものはありません。しかし、だからといって祭司制度がなくなったのではなくて、律法に求められた神と人とをとりなす祭司が立てられていながら、それでは間に合わない。

ですから、ヘブル人の手紙5章1節を朗読。

ここに今申し上げたことが要約されていますが、祭司、あるいは大祭司は、人の中から選ばれた、いわゆるレビ族という人が選ばれたわけでありますけれども、それは神に仕える、しかも人々のために人々に成り代わって神に仕えたのです。ただ、その祭司は人の中から選ばれた者ですから限界がある、限りがあります。そのことが2節以下に「2彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、3 その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである」。ここに大きな問題点が語られています。人から選ばれた祭司は、一つにはいい点がある。それは人間ですから同じ悩みを持ち、祈りを求めてくる人々を思いやることができる。同じ人としての弱さを持っていますから、思いやることはできるのだが、逆にその弱さのゆえに祭司もまた罪を犯してしまう。あくまでも人間ですから、祭司はまず自分のためにいけにえをささげて、神様の前に罪のとりなしをする。そうしないと続かないのです。しかも年を取れば死にますから、また新しい祭司が選ばれる。絶えず絶えず人も祭司も神様の前にはまだまだ不完全な存在、いくら祭司が立てられても、その祭司は自分の弱さもあるので、自分の罪のためのあがないもしなければならない。誠に不完全な祭司であった。

ヘブル人への手紙9章7,8節を朗読。

7節に「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり」と、この幕屋は二つに仕切られていました。聖所と言われる場所と、そして幕がありましてその更に奥に至聖所という場所があったのです。そしてその幕の手前、聖所で普段は神様の前に犠牲をささげるのですが、年に一度だけ、しかも祭司の中の長(おさ)、中心である大祭司が幕屋の奥に更に入って祈ることができる。そのとき、7節の中ほどに「しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない」。だから、大祭司、祭司の長でも、人である限りどうしても罪のあがないをしなければならない。だから民の罪のあがないと同時に自分のためにもいけにえ、犠牲としてささげた動物の血を携えて、中に入っていくのです。そうやって民のとりなしをする、神様との間を仲立ちとしてつないだ。祭司はどうしても限界があるのですが、その先の11節に「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり」と。限りある祭司の勤めに代えて、神様は新しい大祭司として御子をこの世に遣わしてくださいました。今日は、イエス様が救い主であると同時に、私たちの大祭司でいらっしゃることを知っておきたいと思います。イエス様は「祝福の大祭司として」この地上に来てくださいました。しかも「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」で神様に仕えておられます。これは何のことかと言うと、それはイエス様の肉体、体そのものをさしている。イエス様は自分の身をもって、そこを幕屋として真(まこと)の神の臨在の場所として、自分の体を通して、神、真の父なる神様に仕えておられた。そのことが「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」という言葉に表されている。それまでは旧約聖書に事細かく材料、形から寸法などきちっと定められた形で造った、目に見える幕屋であり、あるいはダビデ、後のソロモンが建てた大神殿、神の宮の中に入って祭司が神様の前に仕えていた。ところがイエス様は大祭司となって来られて、イエス様の仕える幕屋、手で造ったものではなく、この世のものではなく、イエス様の体を通して、肉体となってくださった、その肉の体を通して、父なる神様に仕えるものとなったのです。

弟子たちが壮麗な神殿を見て「イエス様、これを見てください。これは素晴らしい建物ではないですか」と言ったとき、イエス様が「こんなものはすぐに壊れてしまう。しかし壊れても三日目に神殿を建てることができる」とおっしゃった。そのとき、パリサイ人たちが聞いて「そんな馬鹿な、とんでもないことを……、イエス様は神様を冒涜(ぼうとく)している」と言ったのです。「それはイエス様が自分のからだである神殿のことを語っていたのだ」とあります。まさにイエス様は十字架に自分の肉体を滅ぼして、三日目によみがえってくださった。それによって壊された神殿をもう一度建て直してくださったのです。イエス様はそこで、その先12節に「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。しかも、今度はその聖所にあって、ご自分をいけにえとして、自分の体を祭壇の上にささげてくださいました。その祭壇は十字架です。ゴルゴダの上に立てられた十字架こそが、イエス様がいけにえをささげる祭壇であり、祭司でいらっしゃるイエス様がご自分の体をいけにえとして奉げ、ご自分の体という幕屋の中で、神様の前にあがないを全うしてくださった。これは本当に素晴らしい奥義ですよ。イエス様がおかかりになられた十字架こそが、神を礼拝する祭壇であり、そこにささげられた動物は傷のない、汚れのない、罪のない、神のひとり子イエス様ご自身であって、イエス様が大祭司となってご自分をささげたのです。その十字架の祭壇を覆っていた真の幕屋はキリストの体、肉体です。だから、イエス様の中に幕屋があり、祭壇があり、祭司がいて、ささげられたいけにえがあり、流された真の血があるのです。これは完全なあがない、それ以上足すことも引くこともいらない。全くパーフェクトというしかない、神様のあがないの完成です。

だから、12節に「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ」、しかもそれはたった一回でいいのです。その完全なあがない、完全な赦し、それを成し遂げてくださるのに、それまでは祭司が度々自分のためにも民のためにも繰り返し、繰り返し、動物をささげ、動物の血を流し続けてきたのです。しかし神様はひとり子をこの世に送って祭司とし、そしていけにえとし、そして神に仕えるものとしてくださった。イエス様によってあがなわれた私たちは、二度と犠牲をささげることがいらない。動物の血を流すこともいらない。それどころかひとり子でいらっしゃる、完全なるいけにえをささげてくださったイエス・キリスト。

その先に「ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。期限付きではないのです。有効期限10年とか20年とかそのような話ではない。「永遠のあがない」、もう二度と廃れることのない、消し去ることのない約束を私たちに与えてくださった。

13節以下に「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。これは度々教えられる記事ですが、本当に素晴らしい約束です。「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として」「神にささげられたキリストの血」、イエス様の血、それは私たちを清めないではおかない。私たちを赦さないではおかない、私たちをして全き者へと造り変えてくださる。かつては牛や羊や、あるいは山鳩や何か動物の血を振り掛けて清められた。しかしそういったものでは、そんなに長く続かない、一回でまた次、また次、何度となくそれを繰り返さなければならない。ところがイエス様はたった一度だけですべて終わり。だから、本当に恵みとしか言いようがない。イエス様を信じるだけで、私たちを清めてくださる。私たちは今日もキリストの血によってあがなわれた者として感謝して生きる。これは本当に大きな力です。だから14節に「ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら」「なおさら」ですよ。動物の血ですらも赦されるくらいならば、なおさら、ましてや御子イエス様の血をもって清められない罪があるでしょうか。癒されない病があるでしょうか。どこにまだ足らないものがあるでしょうか。そして「私たちの死んだわざ」、本当に生活の隅から隅まで主の十字架の血潮によって清めてくださって、「生ける神に仕える者」、真の神様に仕えていく民、神の民としてくださる。神のものとしてくださる。その約束は今も変わらない。

ですから、初めのヘブル人への手紙4章16節に「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。そうやってイエス様ご自身、傷なきものの血をもって、私たちをあがなってくださった。私たちを清めてくださった。だから、遠慮なく、ここに「はばかることなく」主のみ前に近づいて、主を呼び求めて、神様の助けを得る恵みにあずかることができる。私たちの見える現実がどうであれ、そんなことは問題ではない。私はまだ清められないところがある。あるいは私はまだこんなへんちくりんなところがある。まだねじ曲がった性質がある、こんなところがある、あんなところがあると、言えばいくらでも出てきます。しかし、そんなことは百もご承知の神様、その上でなお、私たちのためにひとり子の代価をもって贖ってくださった。今日もイエス様はご自分の血を携えて、父なる神様の右に座しとりなしてくださっている。「父よ、彼らを赦したまえ」、そればかりでなく私たちの祈りを知り、思いを知り、願いのすべてを父なる神様にとりなし、取り次いでくださっている。神様はイエス様のとりなしによって聞いてくださらないはずがないではありませんか。16節に「時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に」、遠慮しないで近づきなさいと。こんな者だからとか、あんなだから駄目だとか、自分で言うのではなくて、こんな者を知り尽くして、なおそのような私のために、今日も主がとりなしてくださっている。イエス様が私のために今日もご自分の血を携えて立っていてくださる。そうでしたら、何をためらうことがあるでしょうか。「はばかることなく」、遠慮なく主の前に出て、心から自分の思いを神様の前に注ぎだそうではありませんか。私たちの心を神様に明け渡して、何もかも主のみ手にささげきって、思いも怒りも憤りであろうとつぶやきであろうと何であろうと、全部イエス様に語って、知っていただきましょう。神様はすべてを知った上で私たちに御霊を注いでくださる。

御霊によって心を整えて、希望と命と力を注いでくださる。ここが人にしゃべった場合と大違いです。人に聞いてもらって「ああ、安心」と言うが、その後がない。ところが、神様の前に心を注ぎ出して、開けっ放しで、主に祈り求めていくときに、御霊は私たちの空っぽになった心を清めて、新しいいのちを注いで、力を与えてくださる。そして「生ける神に仕える」生涯へと、造り変えてくださる。だから、神様に祈るということは、ただ単に自分の思いを言い尽くして、「ああ、すっきりした」という、そんな程度ではない。実は神様に心を明け渡して語り続けていくとき、今度は神様が私たちの内に新しい業を始めてくださる。心を清めて、新しく造り変えて、真の神様に仕える者へと、文字通り、名実共に私たちを全く新しい者としてくださるのです。

だからどうぞ、ここにありますように「はばかることなく恵みの御座に」、遠慮なく近づいて、心にあるものをすべて打ち明けて、神様に知っていただきましょう。人に言うことはいらないし、誰に聞いてもらわなくてもいい。ただ、イエス様の前に心を注ぎだして、主の憐(あわ)れみを求め、その助けにあずかって、主に仕える生涯へ導かれていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。