いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

2月28日 日々の聖言

2015年02月28日 | 日々の聖言

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、

万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28 


神様は常に私達と共に居て、すべてのわざを導いて下さっています。しかし、神様の

なさることをすべて知り尽くすことはできません。どうなるのか先を見通せなくて、不安

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聖書からのメッセージ(484)「主のための器」

2015年02月28日 | 聖書からのメッセージ
「コリント人への第一の手紙」6章12節から20節までを朗読。

 19節「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである」。

 救いにあずかることがどんなことか、いろいろな表現で聖書は語っています。神の子供とされるとか、あがなわれるとか、いろんな言い方がありますが、その中の一つが19節の「聖霊の宮」ということです。私共の救いに至る切っ掛けというのはそれぞれ個人的に違いますが、多くの場合、何と言っても御利益的な動機でした。生活や人生に悩んで「そこから何とか救われたい」、「そういうものから自由になりたい」と願って、神様を求める。そこに解決があるのではないかと思って、求めて近づいて来ます。まさか「私は神の宮になろう」と、それを初めから予期して来る人はまずいません。まずもって自分の問題、自分の悩み事を、あるいは自分の生き方とか人生に悩んで「本当に人とは、何者なのだろうか」「自分はどうやって生きればいいのだろうか」と、そういう人生に生きることの悩み、そういうことが切っ掛けでイエス様の所へ来ます。
なるほど神様は私たちの求めに応じていろいろな悩みを解決してくださる。それは確かにそのとおりであります。しかし、神様が最も願っているといいますか、私たちに求めておられることは、ただ日々の生活が快適になる、思いどおりに行く、悩みがなくなることではありません。ここが世の中の多くの信仰と言われるものとの違いです。考えてみたら、それでもいいような感じがします。病気の人にとって、病気が癒される、あるいは経済的に苦しい人がそこから解放されて良くなる。人間関係がややこしくて悩み多い人が、物事が上手く行くようになる。家庭が円満になるとか、親子関係が良くなる、それはそれで素晴らしいことだし、私たちに必要なことだと思います。ところが、それだけで終わってしまうのだったら、神様は何のためにいらっしゃるのか、神様を信じる目的がそこで途切れてしまいます。
神様がおられるのは、神様が私たちをこの地上で事なく不自由なく楽しく過ごすことができるようにするためではありません。神様は私たちの召使とは言いませんが、私たちの手助けしてくれて、頼み事を何でもしてくれる便利屋さんのように、この生きにくい人生、一筋縄ではいかないような人生を上手く行くように、陰になり日なたになり絶えず持ち運んでくれる、こちらは籠(かご)にかつがれた人のように「楽ちん、楽ちん」と過ごす。そのために神様がいらっしゃる。おおむね世の中の信仰は、そういうことのための神様です。私たちの悩み事を聞いてくれる、あるいは解決してくれるためにいる。「そうでなければ、何の神様だ」という人にとって、「私の願いを聞いてくれない、そんな神様は私はいりません」と断るに違いない。もし、人が断って済むような神様だったら、それは神様ではありません。神様のおられる目的は分かりませんが、まずもって人よりもはるかに大きい、大きいどころではない、これは桁(けた)違いですから、比べものにならない。まず神様がいらっしゃること、ここからがすべての始まりです。だから、聖書の一番最初(創世記)にあるように、何もない所に神様がおられて、その後から他のもの一切が存在している。この順序は決して変わりません。まず神様がおられて、その後に全てのものが創造される。その造られたものとしての私たちです。だから、被造物としての私たち。では「神様は私たちを何のためにお造りになったのか? 」、「私たちが生きるとはどういうことなのか? 」、「この地上で私たちがどうあるべきなのか? 」などを、神様はちゃんと思い描いていたに違いない。
もの造りするとき、「何か知らんけれどもやってみたらこんなものができてしまった」と、そういういい加減なことはしないでしょう。神様が、天を創り、地を創り、その中にある全ての生きとし生ける一切のものを創り出してくださったのは、それぞれに目的がある。それに託している神様のご期待といいますか、求めておられる事がある。人に対してもそうです。だから、神様は私たちを造ってくださって、人として生きるべき使命といいますか、私たちの生きる目的を神様は与えておられる。そのことを聖書は「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と語っています(創世 2:7)。
神様と交わり、神様の御思いに私たちがかなう者となる、これが私たちの造られた目的です。だから、私たちは造り主でいらっしゃる神様が私に求めておられること、願っておられること、させようとしていらっしゃることをしっかり悟り、神様の御思い、御心にかなう者となって行く。これが神様の求めておられることであります。ところが、かつてはそんなことはつゆ知らなかった。ただ自分の苦しいとか、つらいとか、悲しいとか日々の出来事だけに生きていて神様を知らなかった。離れていた。それは神様から離れて人が勝手な生き方をしてしまった結果であります。そこで神様はもう一度ご自分の許(もと)に私たちを引き戻して、私たちを新しく神のものとして、創世の初めに人が創られた目的にかなう者として仕立て直す、造り直す、そのためにひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。私たちを造り替えてくださる。「いや、私は造り替えられなくてもこれでいいです」と思いますが、外側の見栄えを造り替えるのではありません。神様は美容整形をなさるというのではない。私たちの内なるものを変えてくださる。

 それが今読みました19節です。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」とあります。神様は私たちの内に聖霊、神の霊を宿してくださった。いうならば、私たちは器(うつわ)です。ここにコップがありますが、この中にはお茶を入れたり水を入れたりしますが、このような入れ物として私たちを使ってくださる。物を入れるとき、必ずちょっと中を見ます、きれいかどうか。自分で見て「きれいだ」と思うと、水を入れて飲みます。ところが汚れていたら「え!誰が使ったの。ちゃんと洗っておけよ」と文句を言います。神様はかつてエデンの園に置かれていたときのように、神の霊を注ごうと思って、皆さん一人一人を取り上げてみたら、中は真っ黒黒、罪に汚れて「こんなの使い物にならん」状態です。こんな状態だから私たちが何をしても上手くいかない。汚れきった器ですから、どんなものを入れても必ず汚れてしまう。そうでしょう? ヘドロがこびりついた器にどんなにきれいな真水を入れても、きれいになりません。必ず汚れます。それと同じで、私どもの汚れきった心、イエス様がおっしゃるように「外側は白く塗りたる墓、内側は腐敗と汚物で満ちている」、まさに私たちはそういうものでありました。だから、私たちの内側が汚れていますからどんなに良いことをしようとしても、全て上手く行かない。だから、何をしても満足がない、喜べない、感謝できない。心配があり、悲しみがあり、つらいことがあると、生きていても仕方がない、というような状態になってしまう。それは何が悪いかというと、外側の何かかにかが悪いのではなくて、自分の中が汚れてしまっているから、良い物が出てくるわけがない。それをそのままにして外側をいくら磨きあげても、内側が汚れていたら、することなすこと全部その汚れが付きます。これが私たちの罪の姿です。
神様はそんな汚れた所に神様の霊を注ぐわけにはいかないのです。汚れた物はちゃんと洗って清くして、その上で真水、きれいな水をそこへ注ぐわけです。見えなくても油でもついていたら、必ず水を注いだら上に油膜がスーッと浮かんできます。徹底して全部きれいにする。どうやってきれいにするか? 私たちは自分の力ではできません。どんな難行苦行を重ねてもそれではきれいにならない。だから、汚れを清めるために、神様はイエス様の血を注いで、私たちの器を内側から清めてくださるのです。きれいに洗い清めて、不義を取り除いてくださる。これが十字架の恵みです。私たちを清めてくださる。だから「キリストの義を着る者としてくださった」とも書かれています。罪のあがないを成し遂げる、とはそういうことです。でも、イエス様の十字架を見上げて「私はあのイエス様の血潮によって清められたのだ」とは思うけれども、現実の自分を見ると「まだ、あちらが汚れとる、こちらが汚れとる。こんなの人に見せられん」と失望します。

 家に突然人が来られたら困ることがあります。散らかっていて見られたら困るからです。ある方の所を突然訪問したら「先生!あ、うれしい」と言って「ちょっと待ってください。ちょっと……」と言われるので、ジーッと待っている。するとそのうちほうきの音がして、水をパッパと打っている音がする。10分ぐらい待っていて「すいません。どうぞ、どうぞ」と言われて、門を入って見ると打ち水がしてあって「きれいにしていらっしゃいますね」、「いや、いや、ここだけです。中へ入ってください」と言われる。入ると「目をつぶってください」、応接間への途中、居間は見ないでくださいと。やはり皆そうです。「神様、あそこだけ見て、後は見ないで」と、自分は心の汚れた者であり、どん欲な者であり、人を恨む者であり、妬(ねた)みと様々な悪しき思いがうごめいている自分であります。イエス様の十字架のあがないを信じて上を見上げるけれども、実際の自分を見ると信じられない。しかし、ここが信仰に立つ場です。「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」(Ⅱコリント5:7)。「信仰によって歩く」とは、イエス様が「あなたの罪を一切処分した。『事畢(をは)りぬ』」(ヨハネ19:30文語訳)と言ってくださったことを信じるのです。どんなに自分が汚れた者であり、今そのような状態に見えても、あるいは自分が「箸(はし)にも棒に掛らん。捨てるしかない。こんなのは役に立たん。私が生きていたら世の害悪、猛毒を流しているようなもの」と思う自分であっても、主が、神様が「お前を清くしたよ」と言ってくださった。それを素直に感謝して信じることが大切です。だから「こんな私だけれども、神様が私を清くしてくださる。そして神様が『よし』とおっしゃってくださった」と、ここを信じていく。というのは、神様は私たち信じる者に、よみがえってくださったイエス様の霊を注いでくださるからです。

この19節の中ほどの「神から受けて自分の内に宿っている聖霊」、神様が私たちの内に注いでくださった聖霊、その聖霊の宮として私たちを選んでくださったのであります。これが救いの目的であります。私たち一人一人の内に神の霊を宿らせる。神様ご自身と言ったらいい。聖霊なる神ご自身が、私たちの内に住んでくださる。これは大変なことです。私たち一人一人が神棚のようなもの、御神体が内に入っているわけですから、そこらにいる人とは違うのです。私たち一人一人に神様が住んでくださる。そんなことを人に言ってご覧なさい。「あんたちょっとおかしい。病院に行ったほうがいい」と言われますよ。だから、人の前ではあまり大きな声で言わない。一人になったとき言うのです。「神様、有難うございます。あなたは私の内に宿ってくださいます」。
なぜ、神様は私たちの内に宿ってくださるのか? それは最初に申し上げたように、私たちが神様に造られた目的にかなう者に生きるためです。なぜならば、私たちには神様のご目的にかなう力がない。生きることができないからです。私たちの内には何の力もないのです。単なる器であります。だからパウロは「あなたがたの内にサタンという罪の力が入りこんであなたを支配している。しかし、幸いなことに主イエス・キリストによって感謝すべきかな。私たちはその罪の支配からそれを取り除いて、今度はキリストが私たちの内に宿ってくださったのだから」と。私たちはそもそも器ですから、悪い物を中に入れることもできれば、良い物も入れることができるのです。どちらを入れるか。私たちは神様から造られた器、神様がその中に霊を置いてくださったのだが、気がつかないうちにサタンが来て入り込んで私たちを引き回している。そして私たちを泥だらけにしてしまったのです。そこで神様はそれを取り除いて、サタンを十字架の上に踏みづけて殺してしまった。亡きものにして滅ぼして私たちの内にキリストが宿ってくださった。これは大きいです。それより「私のどこに神様住んでいるのかしら」と調べても分かりません。これは信じる以外にないのです。「いま私の内にキリストが宿ってくださっておられる」と信じる。ですから19節「神から受けて自分の内に宿っている聖霊」と、このひと言を信じてご覧なさい。「そうです。私の内にキリストの霊、神の霊が宿ってくださっておられる」。そう言われると、「神様の霊を宿すのは、自分にどうもふさわしくないのではないか」。

時にそのようなことを言われた方がいる。「先生、良いお話を伺ったのですが、どうも私にはふさわしくないように思います。神様の霊が私の内に宿ってくださると、恐らく宿ったらすぐに逃げ出します」と。それは誰でもそうです。もし私たちの内に神様の霊が来られてご覧なさい。一瞬にして飛び出してしまわれます。ところが、神様は「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」とおっしゃるのです(ヨハネ6:37元訳)。神様は私たちを捕らえたらそこに宿るとおっしゃるのです。「コリント人への第二の手紙」には「われ彼らの中(うち)に住み、また歩まん」(6:16文語訳)と書かれています。宿って共に歩んでくださる。神様の住みかとしてくださる。私たち一人一人を神様の霊の住みかとしてくださる。その霊が今も働いておってくださる。
19節に「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」とあります。私たちは自分のものではない。では誰のものか? 私たちの内に宿ってくださったキリストのもの、主のものです。だから“クリスチャン”と言うでしょう。キリストの所有、キリストのもの、キリストにつける者という意味であります。私たちはそのことを信じて行きたい。クリスチャンとは「自分の内にキリストの霊が宿って、もはや私ではなく、私は全部キリストのものです。主のものです」と告白して生きることです。そう信じていくことです。
だから、何をするにしても主のものなのです。ただ一つだけ大切にすべきことは、「主のために」というこのことだけです。自分のためでもない、家族のためでも人のためでも誰のためでもない。国のためでもない。私たちは主のため、キリストのために生きる者とされたのです。だから、日々の生活の隅から隅まで、どんなこともキリストのためにあるのです。だから、ここで「もはや自分自身のものではない」と言われるのです。いつもそのことを自覚しておきたいと思います。「私のものではない」。だから、私たちが病気になろうと、家庭に問題が起ころうと何があっても、これはあなたの責任ではないのです。主のものですから、全て主が「よし」としてそこに置いてくださったことです。そのことを信じていく。「私は主のものです」、「私は主のために生きている」と。だから、今日も命を与えられたのは、私が生きるためではなく、主が私を生かしてくださる。生きる者としてくださった。これを信じていく。何かができるため、人のため、世のために何かをするために生きているのではない。「私はこの子のために……」なんて、そんなこの子よりも長生きするはずがない。
よく私たちは間違えるのです。息子のことで悩んでいる方がおられます。お母さんは心配で夜も眠られない。何が心配? 「いや、息子の将来のことを思うと心配でなりません」、「いいじゃないですか。息子より早く死ぬのだから」と言ったら、「先生、そんな冷たいことを言って」と。それはそうです。死んだあとのことまで私たちは知らないですよ。そこまで責任は持てませんから。私たちは自分のために生きているのではないのですから。主のために。だから19節に「もはや自分自身のものではない」と。いつもこのひと言を握ってご覧なさい。世の中は実に自由になりますよ。自分のものではないのですから。何があっても主のものですから。神様がこのことをしておられるのだから、それでいいじゃないですか。人がすると思うから、自分すると思うから、偉そうに「私の責任です。私があんなことをしなければ良かった。こんなことをしなければ良かった」と悔やむ、後悔をする、あるいは人を非難したり……。自分ができないと人を頼り、その人ができなかったら非難する。無茶苦茶です。それは根本が違うからです。いちばん大切なのは「もはや自分自身のものではない」ことです。「私は私のものではありません。主のものです」と告白する。そして、徹底して主のものであるということを実践して行くのです。それは私たちの内に宿った霊、キリストの霊に仕えること、従うということです。御霊、聖霊が私たちに望んでくださる、求めてくださるところに従って行く。これが全てです。というのは、神様は私たちを「神の宮とした」とおっしゃる。その名前にふさわしく造り替えたいのです。自分を振り返ってみると、こんな者が神の義だなんて、罪を赦されたなんて到底思われない。そうすると「こんなのでいいのかしら、こんなのでクリスチャンと言えるだろうか」と疑い、不安、恐れを抱きます。その結果、「では、何とかそれにふさわしく自分でやらなくては」と思いますが、そんなことをしなくていいのです。神様が、神の義にふさわしく私たちを造り替えられる。そのために私たちを主の宮とし、住まいとしてくださる。神様は私たちの内に宿ってくださる。今度は神様ご自身のご目的のために私たちを造り替えていく。これが新創造です。

 「コリント人への第二の手紙」3章16節から18節までを朗読。

 18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに」とありますが、「顔おおい」とは何のことか? これはモーセが神様の臨在に触れたときに、神様の栄光に照らされてその顔が輝いた。まばゆいほどに照り輝いた。そのままで山を下りてきて、そこにいてイスラエルの民がモーセをまばゆくてまともに見ることができない。神様の栄光に輝いていたのです。それで慌てて布をモーセの顔にかぶせて光を遮(さえぎ)った(出エジ34章30節~)、という記事がありますが、その光を遮るものというのは何か? それは「罪」です。「ローマ人への手紙」に「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」とあります(3:23)。神様の栄光を消すものが罪です。その罪を取り除くために、16節に「主に向く時に」とあります。「キリストによって取り除かれる」とあります。イエス・キリストが神の栄光を隠していた罪の幕を全部取り除いてくださる。だから16節に「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」。罪が取り除かれて、主の霊が私たちの内に注がれてくる。18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見る」。イエス様の十字架を通して私たちは神様の栄光を見る者へと変えられた。だから、私たちはまだ現実的に罪の印、形、たくさんのものがうじゃうじゃと残っている。しかし、キリストの十字架を通して、差してくる神の栄光の輝きを受ける者となっているのです。だから、ここに「主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と。主の栄光の姿に照らされて行きます時、私たちの内に宿ってくださった聖霊は、私たちになお残されている汚れ、既に神様が清めてくださった後片づけを、聖霊が具体的にしてくださる。私たちの内に神の霊が宿って、まだ残っているどん欲な思いだとか、人を妬(ねた)む思いだとか、愛のない冷ややかな心であるとか、ご主人に対して抱いている許せない思いとか、そういう物を御霊が取り除き去って、神の栄光へと私たちを造り替えてくださる。神様は忍耐強く、私たち一人一人を造り替えてくださる。造り替えるにあたって、神様は手荒なことをなさらないのです。「こんな者は駄目だ!」と、潰(つぶ)してしまってではなく、皆さんの心に宿ってくださって、懇(ねんご)ろに優しく造り替えてくださる。神様はわたしたちの心を一瞬にして力づくで、ハンマーでたたき割るように変えることもできますが、そうはなさらない。聖霊が静かに臨んで私たちが離れるべきものを離れて、変わるべき所を教えて、自発の、自らの思いによって「主よ、こういう私を憐れんでください」と、主の力を求めていく所に働いてくださる。だから、時間が掛るのです。まどろっこしいように思いますが、神様は私たち一人一人を、そういう自立の心を持った者として造ってくださったのです。決して神様の操(あやつ)り人形、奴隷として造られたのではない。だから、神の御霊は私たちの内に宿ってくださって、18節にあるように「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」変えて下さる。これが私たちの目標値、到達点、ゴールです。「主と同じ姿になるまでに変えられていく」、変えられていくのです。人を変えるのではないのです。自分が変えられるのです。私たちはすぐ「あの人はもっと栄光の姿に変わってくれたらいいのに」と思っている。人に期待して……、人ではありません。私が、です。皆さん、一人一人が「自分がキリストの姿に変えていただきたい」と願うことが必要です。聖書を読みますと、いろいろなことを教えられるではありませんか。自分の思いを探られ、ああしたこと、こうしたこと、過去のことから現在のこと、また今しようとしていることについて、「ああしたほうがいいんじゃないか」「こうしたほうがいいんじゃないか」といろいろなことを思うとき、御言葉を通して神様は必ず語り掛けてくださる。そうすると、いま自分が思っていることが「ン、これはちょっとイエス様に知られたら困るなぁ」、「これは神様の前にはちょっとむりがあるかなぁ」などと思いながら「えいや!」とやってしまう。そういうときに御霊は「ちょっと待ちなさい」とストップを掛けてくださる。「そうだった。生まれながらに自分はこういう所がある。こういうかたくなな心があるから、今このことを通して神様は教えてくださるな」と、自分自身がいろいろな意味で教えられる。まさに神様の造り替えのわざが進んでいるのです。私たちを変えてくださる。だから、神さまの御声に従っていくと、どんどん自分が変わって行きます。

18節に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」とあります。素晴らしい。この最後の「これは霊なる主の働きによるのである」と言われます。人の働きや人の力ではない。神様がしてくださるのだ。今してくださっている。このことを信じていく。それは自分自身もそうですし、周囲の人にとっても神様が働いておられるのでありますから、私どもがあれこれつべこべ言うことは何もありません。神様が臨んでその人を造り替えてくださる。だから、大切なのは、まず私自身にいま神の霊が宿ってくださって、私を清くしてキリストの姿形に変わるまで、主と同じ栄光の姿へと私たちを造り替えて、神の宮にふさわしい者にしてくださる。神の宮であると。だから、失望しないで望みを持とうではありませんか。いや、それどころか大いに期待して行きたい。神様は私をこれからどのように造り替えてくださるか。そのために神様はいろいろな問題や事柄を起こしなさいます。私たちは「もうこれで自分は立派だ」と思っているでしょうが、必ず何か起こると「こんな私だったか」と愛想尽かすことが必ずあります。これからもあります。まだまだ、たくさん変えられなければならない。まだ時間が必要でしょう。それが終わるまでは神様はここに置かれますから。その間一生懸命に、と言って自分が頑張ることではないのですが、私たちはひたすら神様に任せる、委ねることを努める。「霊なる主の働き」によって、神様がご自在に私たちの内を清めて、心を新しく思いを変えてくださる。そうすると、見えない心が今度は外に現れてきます。だからイエス様は「外にあらわれるものはあなたがたの内側から出てくるではないか」とおっしゃいます。栄光の姿に私たちが清められて行きますと内側がおのずから変わりますので、現れた顔も変わります。高い化粧品はいらなくなるのです。内側から変わって行く。これが主の働きです。ここに期待して行くのです。自分を見たら失望します。あるいは、自分に力のないことがよく分かります。本当に駄目な自分であると思いますが、しかし、「これは霊なる主の働き」、「神様、あなたがこんな者を造り替えてくださるのですからよろしくお願いします」と、主の霊に委ねて行こうではありませんか。神様は日夜寝ているときも皆さんを造り替えてくださる。だから、皆さん、随分きれいになりましたよ。まだ余地はあると思いますが。主の霊の働き、主の力に私たちが絶えず引き回され持ち運ばれて行く、そして内なるものを清くしていただきましょう。

「コリント人への第一の手紙」6章19節に「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」と、神の宮、「聖霊の宮」です。そして宮に宿った聖霊は私たちを造り替えて栄光の姿へと私たちを変えて下さる。なお地上に生かされている目的は、私を造り替える神様は更にもっと輝くものにしようとしてくださるのだ、と信じて、与えられる一つ一つの問題の中で主の霊に委ねて、主の霊の働きを受け入れて行きたい。それに従って行きましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


2月27日 日々の聖言

2015年02月27日 | 日々の聖言

「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。

すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、…。」ピリピ3:13 


歳を取るにつれ、人は後ろ向きになってしまいます。先がないと思うからです。しかし、

使徒パウロはみことばに語っているように、一心に前に向かって生きようとします。目

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聖書からのメッセージ(483)「御霊に委ねる」

2015年02月27日 | 聖書からのメッセージ
「コリント人への第二の手紙」3章12節から18節までを朗読。

18節「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。

今日はペンテコステといわれる記念の礼拝をもたせていただいております。ペンテコステとは聖霊降臨という出来事、聖霊が弟子たちに注がれたことを記念する言葉でもあります。それはまた弟子たちばかりでなく、実は私たち全ての人に神様が聖霊を与えてくださったことを確認するときでもあります。「ペンテコステ」という言葉は、直接「聖霊降臨」という意味ではありません。「ペンテコステ」という言葉は50日目という意味の言葉です。

「使徒行伝」2章1節から4節までを朗読。

1節に「五旬節の日がきて」と語られています。50日目という意味です。過越の祭の日から数えて50日目という意味であります。しかもその年の過越の祭では何があったか。イエス様が十字架にかけられた日であります。弟子たちの愛するイエス様がいなくなってしまった。十字架にかけられ、死んでしまわれた。ところが、イエス様は三日目の朝、よみがえられて、ご自分が今も生きておられることを様々な形で表し、証ししてくださいました。ところが、イエス様は、40日目のことでありましたが、弟子たちが見ている前で、イエス様は天に携えられて姿が見えなくなったのです(使徒 1:9)。天に帰って行かれました。こうなると、弟子たちにとって何を頼りにしていいのか、親を失った孤児のような心境であります。まことに心もとない、頼りない者になってしまったのです。
しかしそのとき、イエス様が彼らに約束してくださったことがあります。それは「わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ 24:49)とのご命令です。エルサレムにとどまって待っていれば、真理の御霊、聖霊、助け主を遣わすから、神様からの約束の賜物を頂くまでエルサレムにとどまって待ちなさい、と言い置いて、天に帰られたのです。しかし、肉体の目をもって見、手で触る、声を聞くことができるイエス様はもはやいらっしゃらないから、弟子たちは大変心細い思いをしていたでしょう。しかもイエス様が約束してくださったその約束がどんなものか分かりません。賜物、神様が与えてくださるという賜物を受けるまでエルサレムで待てと言われたのです。弟子たちは、イエス様がそうおっしゃるからと、エルサレムに戻りまして、一つの家に集まっておりました。

 「使徒行伝」1章12節から14節までを朗読。

 イエス様は「エルサレムにとどまってかねてわたしから聞いていた父の約束を待ちなさい」と言われたのですが、いつまでという期限はありません。とにかく与えられるのだから待ちなさい。彼らはイエス様のお言葉を信じてエルサレムにあるひとつの家に集まりました。何をしたかというと、14節に「心を合わせて、ひたすら祈をしていた」とあります。そこに集まった弟子たちが心を合わせて、真剣に毎日祈っておったのです。いつまでか分かりません、とにかく言われたとおりに祈り続けていました。10日目、イエス様の十字架から50日目です。イエス様が天にお帰りになられたのが40日目のことでありましたから、それからなお10日ほど祈り続けておりましたとき、2章1節にあるように、「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」と。しかも「舌のようなものが、炎のように分れて現れて」と、どんなものなのかよくは分かりませんが、一つの異常現象といいますか、何か尋常ならないことが起こった。それが過ぎてみると、4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」のです。聖霊が彼らの内に宿ってくださった。まさにこれがイエス様の約束なさった父からの贈り物、父なる神様が与えると約束してくださったものでありました。

では、その“聖霊”とはいったい何か?世間で「霊」と言うと、なんだか散臭く、へんてこりんなおかしな話になりやしないかと思いますが、聖書で語られている「聖霊」はそういうものとは大きく違います。他にもそういうまやかしの霊といいますか、様々な悪しき霊といわれるものがあることも聖書には語られています。「いろいろな霊があるけれどもあなたがたは惑わされてはならない」とあります。聖霊は神様から与えられる霊、キリストの霊ともいわれますし、御霊、あるいは神の霊など、いろいろな表現ができますが、いうならば、神様の力です。そういう神様の霊が私たち一人一人に注がれるようになる。なぜ、そのことが必要なのか?御霊に満たされること、これは私たちのいのちでありまして、不可欠な大切なものであります。なぜかといいますと、私たちはそもそも神様によって造られたものであります。聖書の初め、創世記に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7)とあるように、神様はご自分の命の息をふき入れて人を生きる者としてくださいました。これは、人が造られた目的は神様の御心にかなう者となること。神様は、神様の願い、神様のご計画、神様の御思いにかなう者として私たちを造ってくださったのです。だから、その中に神様の霊を注いでくださる。神様の霊を受けた私たちは、神様の御思いを敏感に感じ取ることができ、その霊の働きによって、創造者と被造物とが交わることができる。

 親子というのはそうです。私は最近、いろいろな親子関係を見ていて、殊に私の家内なんかも……。私自身を振り返ってみると、「そういうところがやはりあるのだろうな」とは思いますが、家内と母親との関係、その他皆さんのいろいろな親子関係を見ていると、子供はどうしても親の意向といいますか、願いを感じ取り、先取りして、くみ取ろうとしがちです。これは小さな子供たち、小学生くらいから既にそうです。親が自分に何を期待しているか、何を求めているだろうかと子供は思わず知らず、考えもしないうちにそちらのほうに心が引かれて行くのです。しかし、そういう自分に非常に苛立(いらだ)つ。私は家内を見ていてそう思うのです。家内は長女で、しかも弟と二人姉弟(きょうだい)です。年も60を超えて、いい加減人生も終盤だから、しかも、結婚して40年以上もたつわけですから、親との関係はなかろうと思いきや、年を取って90歳近くなった母親が弱ってくると、やはり子供のときの親子関係、子供のときにいつも母親の言葉に従って自分の思いを捨てて、自分がしようと思ったこともあきらめて、親が言うからそれに従う、そういう関係が何十年たったのちにも出てくるのです。恐らく皆さんもご自分のことを振り返って、ご自分の親子の関係を見てみるとそういうことがあると思います。「こんな親のわがままなことは聞いておれん」と突っぱねるのですが、結局、している事は親の意向に何とか沿ってやりたいという思いに変わる。

神様と人との関係にあっても同じです。人も神様の思いを知り、それに従う者として造られている。神様を離れて人は勝手な道を行きますが、しかし、造り主でいらっしゃる神様を離れて人は真に生きられないのです。その証しとして、人が造られたとき命の息を神様から吹きいれられたのです。いうならば、神様の力を分かち持つといいますか、神様と共有(共通)するものを持っている。これは親子間でもそうです。世間で言う血のつながりであるとか、肉親の情だという言い方をしますが、神様との間にそういうもの、つながりがあったのです。ところが、私たちは神様から離れてしまった。罪を犯して神様に従えなくなり、神様とのいのちが断たれた状態。「死んだ者となってしまった」と聖書にあります。その結果、私たちは自分勝手でわがままな自己中心の生き方になってしまう。これが私たちの住んでいる世に様々な悪のはびこることになった大きな原因です。人は罪の中にあって神様から離れて、身勝手な生活をしていますが、全ての人の心の中に造り主でいらっしゃる神様を求める思いがあります。まさにそれは親子関係のように切っても切れない関係なのです。「神なんか、仏なんかあるものか!」と、蹴飛ばしてみても、どこかでやはり何か……、それを神と言えないかもしれない、その人自身にも分からない、自覚していないけれども、人を超えた大きな力があって、自分だけではなく、自分の力以上のものがあって、人は生きているのだ、と感じているのです。だから、神様から離れている間、人の心は、精神的な意味で不安定です。落ち着きがない。何をしても満足がない。楽しいことや思いどおり自分の願いどおり思いっきり好きなことをやってみても、そこで「良かった」と満足することがない。それは自分の思いを遂げ、情欲を満足させることが私たちの求めるものではなく、造り主である神様との正しい関係に戻ることを願っているからです。だから、神様の所へ帰ることがまことに幸いな生き方、人として造られた者の本来の生き方です。

だから、私たちに神の霊をもう一度新しく注ぎたい。神様は創世の最初に人が造られた時の神様との交わり、何一つ神様と隔てのないエデンの園の祝福と恵みの中に私たちを取り戻すためにひとり子を遣わしてくださったのです。なぜひとり子を遣わしてくださったか? 私たちの罪を清めるために。何でそんなややこしいことを……、「神様がちゃんとしてくれればいいではないか」と思いますが、神様は潔い御方、聖なる御方、いと高き所に住み給う、私たちとは全く次元の違う御方でいらっしゃいます。その御方が私たちの内に住んでくださる。いうならば、神様のいのちの息が私たちの内にとどまっていただくには、私たちが神様と同じように潔い者にならなければ不可能です。神様は一分一厘どんな罪をも共有できない。汚れた所に住み給う御方ではない。とどまることがおできにならない。だから、私たちが潔い者となることが不可欠です。ところが、私たちは自分の力で自分を潔くすることはできません。どんなに熱心になって、難行苦行をやってみても、私たちは決してそれで「よい」ということにはなりません。普段の生活でも痛切にそのことを味わいます。「これは正しいことだから、このことはやり遂げよう」「これは大切なことだし、これは神様の御心にかなうことだし」と思いながらも、私たちはついできない。しなければいけないと思いながらできない。そして「これはしてはいけない」と思いながらやってしまう(ローマ 7:19)。そういう罪の性質が私たちにあるかぎり、神様と共に生きることはできません。となると私たちはいつまでも永遠に滅びの世界、滅びの中にとどまる以外にないのです。まことに絶望的な状況だったのです。しかし、それを取り除く道がただ一つ、神様がご自分の罪無き御方、ひとり子でいらっしゃるイエス様をこの世に遣わして、私たちと同じ罪の世に生きる者としてくださった。だからと言ってイエス様は私たちのように罪を犯した御方ではありません。神の御子でいらっしゃる罪無き御方が、今度は罪人の身代わりとなる、実に驚くことを神様はご計画してくださった。そして私たちの罪の一切、過去、現在、未来にわたって、またすべての人々のために、イエス様を十字架に釘づけて、父なる神様の全ての呪いを主に注いでくださった。刑罰を置いてくださった。いまイエス様を私の救い主と信じることによって義なる者、罪無き者として神様は私たちを受け入れてくださった。神様は全ての人のために主イエス・キリスト、ご自分のひとり子を十字架に釘づけなさる、滅ぼしなさったのです。だから、全ての人、ここにいらっしゃる私たちもそうですし、世界の人々、どんな国の人のためにもイエス様は死んでくださったのです。ただ、それを信じる者、「私のためです」とイエス様を信じて受け入れる人はその恵みにあずかることができるのですが、「そんなもの、馬鹿げていて信じられない。そんなもの、何の役に立つか」と言って蹴飛ばす人にとっては、せっかくの神様の恵みが届かない。

私どもでもそうですね。全ての人が「この手紙をもって来てくだされば、この素晴らしい物を差し上げます」という招待状を全員がもらうとしますね。もらっても「え!」と封筒を見ただけで「これはどこから来た。こんな物」と、ポイと捨ててしまった人は、それはもらえないのです。ところが招待状を開いて、「なるほど、この日この時ここへ行けばいいのか」と、その言われているとおり信じてそこに従って行くと、「よくいらっしゃいました。これをそれじゃ差し上げましょう」ということでしょう。

先だっても家内の買い物に付いて行きました。するとデパートの特別売り場で何か催し物があるという。たまたま時間があるからそこへ行ったのです。すると入り口で皆さんが何かもらっている。でも私どもはもらえないままで売り場に入ったのです。「あの人たちは何をもらっているのかな」と見る。すると家内が「忘れて来た」と言う。「うちにも来ていた」「何が? 」「封筒を持って来たら粗品を進呈という……」。たった粗品でももらい損なったら「惜しいことをした」と思います。その封筒を持って来ないと駄目ですね。「ご持参の方に」と書いてあるのです。私はそれを持って行かなかったからもらえなかった。「封筒が来ていたの」「来ていたけれども忘れて来てしまった」と。「惜しいことをしたな。持ってきておけばよかったのに……」。
デパートの粗品ですらもそのくらい、ましてや、神様はあなたのためにイエス様を立てて「罪を赦したのだから、わたしの所へ帰って来なさい。そしたらあなたを義なる者、正しい者、永遠のいのちに加えてあげます」という招待状があるのです、皆さん。イエス様は全ての人に「あなたのために死んだよ」と宣言してくださっている。それを「こんな私のためにイエス様が死んでくださったなんてうれしい」と感謝して、皆さんがイエス様を信じたからここにいらっしゃる。そして今、その神様の恵みを頂いているわけです。世の中の人は「ではもらえていないか」と言うと、全ての人にイエス様からの招待状が行っているのです。だから早く気付いてそれをもらっていただければと、私どもはこうやって伝道するのです。伝道というのはそういうことです。「あなたにも神様が許しを与えてくださる。清めてくださる」。イエス・キリストを信じるとき、清くされた私たちに神様が住んでくださる。よみがえったイエス・キリストが私たちと共に生きるものとなってくださる。

その出来事が先ほどお読みいたしました「使徒行伝」2章の出来事です。4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。彼らはイエス様を信じたのですが、よみがえってくださったイエス様が天にお帰りになった。「さぁ、これから私たちはどう生きたらいいのだろうか」と不安でした。しかし「大丈夫」とイエス様はおっしゃる。「父が約束してくださったものが与えられる。それを待ちなさい」と、十字架に清められた一人一人の内に今度は神の霊、あの創世の初めに与えられた命の息を私たちの内に宿してくださる。与えてくださる。だから、弟子たちはそこで一生懸命に待ちました。そうしましたら、10日目、五旬節の日に驚く事態となった。それは彼らの心、魂の内に新しい力があふれてくるのです。そして「他国の言葉で語り出した」という、今まで彼らはガリラヤ湖畔の教育のない、学校なんか行ったことがないと思いますが、そういう彼らが突然いろいろな国の言葉で語り出した。言葉が使えるというのは、力の象徴です。ですから新しい力に満たされる。その新しい力とは何か?私たちを神様の御心に従うことができる者に変える力です。神様の御思いを知る力です。

「コリント人への第一の手紙」2章10,11節を朗読。

11節に「神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」とあります。神様の御思い、神様の力、それは神の御霊、聖霊以外に知るものはない。だから、私たちがいくら聖書を研究し、勉強してみても神様のことは分かりません。私たちがいろいろな修業をしたり、努力したり、勉強して万巻の書を読もうとも、神様のことを悟ることはできません。ところが、御霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださると、御霊は神様の御思いを私たちに教えてくださる。神様が何を願っていらっしゃるか、あなたに対して神様が求めていらっしゃることが何なのか、神様がどんなにご愛に満ちた恵み豊かな御方か、力ある御方でいらっしゃるか、いろいろなことを神様は御霊を通して私たちに語ってくださる。この聖霊が私たち全ての人にいま注がれている。では、私たちもあのペンテコステのように「炎のようなもの」「舌のようなもの」が届くのかというと、決してそうではありません。あのペンテコステの出来事、これは私たちイエス様の救いにあずかる者の右代表として、このように神様は聖霊を注いだと、証ししてくださった出来事です。それから後は「信じる者に与えられる」と約束されている。いま私たちの内にキリストの霊が、神の霊が宿ってくださっておられるのだ。イエス様が私を十字架にあがなって清めてくださった。といって、私たちは聖人君子になったわけではありません。私たちの思うところ、願うところはまだまだ汚れた思いがあり、罪があり、また過つこと、失敗すること、神様の御心を痛めることしかできない私たちでありますが、しかし、現実はそうであっても、もう既にあなたの罪はイエス様が十字架にすべて処分してくださった。神様は「もう問わない」とおっしゃる。ここを信じて行くのです。自分の状態、自分の今まだ汚れていて清められない自分であることを嘆くのではなくて、イエス様は既に「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)、「全てのものを完成した」とおっしゃる。今度は全ての人に霊を注いでくださる。力を与えてくださる。だから、いま一人一人にキリストの霊が宿ってくださっている。これを信じる人にはそのように働いてくださる。信じないかぎり御霊はその力をあらわしてくださらない。ですから、私たちは自分で信じなくてはいけない。人に聞いても駄目でしょう。「私の中に御霊があると思う? あなたよく見て」と言われて、見たって分からない。「いや、なさそうよ」と言われたらがっかりします。そうではないのです。あなたの内にいま神の霊が宿ってくださっておられる。これがこのペンテコステです。私たちの内に宿ってくださった霊は、では、私たちに何をするのか?

 「コリント人への第二の手紙」3章18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。キリストの霊、神の霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださったとき、いま宿ってくださっているのですが、その聖霊は私たちの内にあって何をするのか? 私たちの召使になって、「はい、ご主人様、どこへ行きましょうか、何をしましょうか」と、そういう御方ではありません。逆に、私たちの内に宿ってくださった聖霊は、私たちに新しい業をさせてくださる。私たちを造り替えて、私たちの内にあってエデンの園に人が創られた時のように神に仕え、神と共に生きる命の生涯、永遠の命の生涯に歩ませてくださる。これが聖霊、神の力の私たちに宿っている目的であります。そして、その聖霊は、18節に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。私たちの内に宿ってくださった御霊、聖霊は私たちに絶えず干渉してくださる。声を掛けてくださる。起きているときも、寝ているときも、どんなときにでも御霊は常に皆さんと共にいてくださって、皆さんの思いの一つ一つを導いてくださる。私たちの心にいろいろな思いを神様が与えてくださる。時には自分の身勝手な思いと、どこがどのように区別がつくか、色分けされていません。「これはブルーだから神様から、こちらは赤いから神様ではない」と、私たちの心の思いをそのように色分けで見分けるということはできません。なんだか自分が思っているようであり、そうでないように思う。
よく言われるのです。「先生、御霊の思い、神様の御思いが私に与えられると、どれがどれか私には分かりません。何もかも自分の勝手な思いのようにも思うし、どれもこれも神様からのように思うし、どうしたらいいのですか」と言われる。見分け方は一つだけです。私たちが神様のことに心が向いているかどうか?もしイエス様がこれをご覧になったら「よし」とおっしゃるだろうか、このことはイエス様だったらどうするだろうかと立ち止まって、心を神様に向ける。だから聖書には「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とあります(Ⅱテモテ 2:8)。イエス様をいつも思っている。そうすると、おのずからどれが神様からの御思いであるかがよく分かります。「こうしようかしら」「あそこへ行こうか」「あの人があんなことを言ってくれたからこうしようか」と、いろいろな思いが次々と湧(わ)いてきます。夜寝ていても、「明日安売りがあるな、あそこへ行こうか」とか、いろいろなことがパッパと浮かんでくる。そのときに「これは主が喜んでくださるだろうか」「イエス様が見ておられて『よし』とおっしゃってくださるだろうか」「イエス様だったら、ここは何とおっしゃるだろうか」と、そこへ私たちが思いを一瞬向けていただく。そうすると明らかに分かる。「これは自分のわがままな思いだな」、「これは神様が私に求めておられることだ」と。その見分け方は、ある程度訓練しなければなりませんが、常にイエス様のことを心に置いて行きますと、何の苦もなくそのことはよく分かります。時にはイエス様からの語り掛けを拒んで勝手なことをして、たとえうまく行っても、後で何だか心に空虚な思いが残ります。御霊が、聖霊が常に私たちの内に働いてくださっておられる。そのことが18節のお言葉であります。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映す」、「主の栄光」、よみがえってくださったイエス様を絶えず心に思って、その方を目(ま)のあたりに見つつ、絶えずイエス様のことを思っている。そうしますと「これは道だ、これに歩め」(イザヤ書30:21)、「そこは危険だからやめておきなさい」、「それはあなたのわがままなことだからやめておきなさい」と、ことごとく一つ一つ、神様はちゃんと教えてくださる。その御霊の導かれる所に従う。これが神様と共に生きる、ただ一つの道であります。そうやって神様と共に生きて、御霊の導きに従って歩んでまいりますと、私たちを造り替えて心を新しくして、「主と同じ姿に変えられていく」のです。キリストの姿に私たちを造り替えてくださる。イエス・キリストの弟分、妹分に私たちをしてくださる。神の子供としての内実、実質を神様は私たちに造り出してくださる。私たち一人一人の心を新しく造り替えて、栄光の姿に変えてくださるのです。これが、いま御霊が私たちの内に日夜絶えず働き掛けてくださるご目的です。

 この御霊の働きに自分を委ねる。導かれるままに、主のなしてくださるわざの中に自分を委ねて、栄光から栄光、主の栄光の姿に造り替えられて行きたいと思う。人が変わるのではないのです。自分が変わるためです。私が、皆さん一人一人が新しい者へと、キリストの姿へと神様は何としても変えたい、これが神様の私たちを造ってくださった創造のご目的だからです。どうぞ、神様の御心にかなう者へと私たちを作り変えてくださる主の働き、御霊に生かされていることを信じて、御霊の御声に従って行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


2月26日 日々の聖言

2015年02月26日 | 日々の聖言

「われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。」詩篇115:3 


現実には神様のみこころにかなうところが見えません。神様の支配すら微塵も感じない

日常があります。しかし、神様は天にあって万物をご支配の下に置いておられます。た

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