いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(41)「見えないものに」

2013年11月01日 | 聖書からのメッセージ
コリント人への第二の手紙5章1節から10節までを朗読。

今朝はこの7節に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。

私たちは、目に見える状態や事柄、状況、そういうもので一喜一憂、喜んだり、望みを得たり、失望したり、落胆したり、悲しんだりしながら、日々生活しています。また、見える状態や事柄に応じて、次に何をどうすべきか、選択と決断をします。自分の健康状態を見て、これならこれくらいのことはできる、或いは経済状態を見て、これだったらこのくらいはやれる。或いはそれはチョッと難しいという判断、選択と決断となります。目に見えている生活上の条件、家族であるとか、自分自身の状態、そういう周囲の様々な生活の具体的な現象と言いますか、現れている世界で生きています。そういう生き方に馴染んでいるので、なかなか見えないものに目を注ぐということが難しい。つい目先のこと、見えていること、そればかりに心と思いが捕われます。だから、イエス様が、「見ても見ず、聞いても聞かず」と、また「見ていながらどうして悟らないのか」と言われます。それは、目が見えないとか、耳が聞えないという、機能として、器官の働きが劣っているとか、停止しているという意味ではない。私たちはちゃんと見ている、「お花が綺麗だな」とか、或いは周囲の物を一つ一つ目で見ます。見ますけれど、その表面だけ、見えている所だけしか見ていない。「あら、あそこに胡蝶蘭がある。立派な花、綺麗だなぁ。幾らくらいするだろうか」と、思うことがそこへいく。これは見えている世界です。「高かっただろうな」と。或いは、「あの花を、私の居間に飾りたいけど、お金はないし」という、私たちはそういう見える世界だけで生きている。花を見て「素晴しい色合い。神様はなんと素晴らしいものを造られたのかしら」という、見えないものに心を向けられない。これが現実です。小さなことですけれど、他のいろんな事にも当てはまるのです。私たちが体験する一つ一つの事、目に見えている状態、事柄によって、嬉しいとか悲しいとか、そんな生き方をしています。

嘗て、日本の首相が「声なき声がある」と言ったことがあります。その意図は何であったか知りませんが、耳に聞えている声の背後に潜んでいるものを、私たちの魂の耳を開き、心の目を開いて見て悟ること、これが神様を信じることです。私たちが、ただ、目に見えているところ、或いは自分の手で触って確かだと思う事柄だけを拠り所にして生きているのだったら、信仰によって生きていると言えません。自分の身体の状態など、目に見えています。年も取ってきたし、これもできなくなったし、あれもだめになったという風に、いろんなものを失って、「私はこれだから仕方がない。もう、これに合ったような生活をしておこうと、段々と縮こまって行くのが現実です。

しかし、そういう与えられた事柄・状況の中で、神様の恵みを感謝していく事も大切なことです。出来もしないことを、夢見て生きることが、信仰ではありません。だから、自分に与えられた現実、見える状況、事柄の中に、その背後に神様の御愛と御計画と御思いを悟るのは大切です。年を取って、あれもできない、これもできなくなると、多くの人は、どうしてこんなになったのだろうか、私はまだ八十歳なのにこれができない。あの人の様に、あんな風になれないのは、どうして?どこか悪いに違いないと思う。それでくよくよ悩むのです。確かに自分に与えられた現実は、こうやって衰えているけれど、神様は、「わが恵み汝に足れり」と、「お前はそれでよろしい」と言われる。そこで主に従うことがある。足らない事、欠けた所があり、不自由を感じながらも、神様はそこに私を置いて下さっていると、認めて悟ることは、現実だけを見ていてはできません。目の前に見える条件ばかりをあげつらい、並べ立てていくと、そこには望みとなるものはありません。箴言3章にあるように、「すべての道で主を認めよ」と仰います。主を認めることは、見えない神様が、それを備えて下さったと信じることです。絶えず見えないものに目を注ぐことは、見えない神様が、全てのものを支配している。また、私たち自身が、先ず見えない神様の手に握られている。今日も神様が、「良し」と仰って、生かして下さっていることを信じるのです。だから、欠けた所、足らない所があって、不平不満、呟くばかりの自分の現実があったとしても、そこで神様を認めて、「そうでした。神様、あなたが私にこれでよろしい」と仰っている、「今、ここで休めと仰って下さるなら、本当に感謝です」と受け入れることです。と言うのは、自分という者自体が、自分の力ではどうにもならないのですから。

どんなに頑張ってみても、元気は湧いてこないし、一年前、五年前の自分は返ってこない。だから、これで諦めようというのではありません。神様が「それでよろしい」と仰っているのだと認めるのです。世間が言う様に「年だしね、年だから仕方がない」という受け止め方ではありません。これは信仰ではありません。年ではあるけれど、しかし、神様が、今これでよろしいと仰っているのだと認めることです。これと、「年だから仕方がない」というのとでは、大きな違いがある。世間の神様を知らない人たちは、恐らく諦めと言いますか、「年だし、私の親もそうだったし」、或いは友達も大体同じ年ごろの人はこんな状態だから、どちらかと言うと私は良い方だから「これで仕方がない」と、思い諦める。これは信仰じゃありません。しかし、どちらかと言うと、そちらへ流れ易いのです。それは、見えるものに拠っているからです。年齢であるとか、健康状態とか、見えるもので自分を判断しようとするから、そういう結論に至らざるを得ないのです。

多くの人々は、恐らくそれがすべてだと思っています。しかし、私たちはそうであってはならない。何故ならば、今読みました7節に「わたしたちは、見えるものによらないで」とあります。そういう見える状態や事柄で生きているのではなくて、信仰によって歩いている。神様を信じることによって、問題や事柄の中で、感謝し、喜び、望みを得ることが出来る。こんな年になって、これだけしか体力がない、こういうこともできなくなった、あれもできなくなった。目はしょぼくれてきた、だから「仕方がない、もう年だし」という事で、終わってしまうのだったら、私たちの人生は虚しいと言えます。しかし、そうじゃなくて、そこに見えない御方を、神様を認めて、「そうだ、ここに私を置いてくださったのは神様。こういう状況の中に、こういう健康状態の中に置かれた神様がいらっしゃる。その方がここで何かを体験させ、味わせてくださるに違いない」と、神様を信頼する者となっていく。

「あなたは段々年を取って、あれもできなくなる、可哀想だね、気の毒だね」と言われて、ついそれを聞くと、自己憐憫に陥るのです。「やっぱりそうか、私は可哀相なんだな」と思い込んでしまいます。それは間違いです。そうではなく「あなたは気の毒、可哀想ね」「いいえ大丈夫、神様は私に『これでよろしい』といって、今日もこの様な健康を与えて下さっているから、感謝です」というのです。また、する必要がないから、そんな事はしなくてよろしいと仰って下さっている神様を信じるのです。そうする時、私たちは心強い。何も心配しないでいい、思い煩う事がいらない。これから将来の事も、老後の事も、或いは老後を過ぎて死んだ先の事も、神様はちゃんと備えて下さっている。ですから、ヨハネによる福音書14章に言われている様に、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」というのは、その事なのです。心を騒がせるのは、見えるところで生きようとするからでしょう。お財布の中を見たり、預金通帳の残高を見て、心が騒ぐ。たとえ見ても、その背後に神様を信じることができたら、幸いです。見えるものに頼らないで、何を信じるか。「神を信じ、またわたしを信じなさい」です。見えない方を信じ、信頼するのです。神様がついていて下さるから、どんなことでもできないことはない。だったら、どんなことでもさせてくれたら良さそうなものをと思いますが、神様の御計画がある。神様の業の中に生きているのです。徹底して神様に自分を明渡す、委ね切るのが信仰です。神様だけに心を向けるとき、思い煩う必要がなくなるのです。

死んだらどうしようかと心配する。死んだ先のことも神様がご存知で、イエス様が約束した様に「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」といわれる。そして、そこへ迎えて下さる。「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と。主と共におる場所へと導き入れて下さる。ここに最後の結論があるのですから、これを信じていく限り、この地上でどんな事があっても大丈夫です。神様が一つ一つ導かれるのですから。

先だってから、家内の父が、大分体が弱ったというのです。白内障があって、手術を受けるために家内について来てくれと言う。それまで、元気のあるころは、「俺は子供なんかの世話にならん」と、強がっていたのですが、90才になりまして、耳も遠くなる、目も見え難くなる。そうすると、頼りない。娘である家内に来てくれ、来てくれと言う。家内も出かけて行って、いろいろと手助けをしてやる。先日も、出かけて話をしていると、どうしても年が年ですから、死ぬことを考えるのです。話題が直ぐそこへ行く。「俺が死んだら後はどうなるか」、そこから始まって、「俺が死んだらあれはこうしてくれ、これはこうしてくれ」と注文が多い。自分の身の始末をどうしてくれというならいいのですが、「お前たちはこうせよ、ああせよ」と。自分が死んだ後はこの家はこうしろ、あそこはああしろと、事細かく次から次へと言い募るのです。家内も聞いているとうんざりするという。どうしてあんなことを言うのだろうか。私もつらつら考えて、そう言えば、「先に望みがない、死んだ後に希望がない」から、後ろ向きなのだと思いました。自分は死んでもまだ生きているつもりで、この家の処分はこうして、ああして、或いは独りになった母に対しては、こうせよ、ああせよと、とにかく死んだ後なんて、本人は生きていないのです。それなのに、どうしてもそこに絶えず心が向いてしまうのは、死んだ先の事が真っ暗なのです。何もないから、不安を打ち消すために、生きている自分を想定しているのです。常に自分はズーッと生きていてこの家にいるのだというつもりになって、「ああせよ、こうせよ」と。言うならば、ちょっと留守をするけれど、また戻ってくるから、その間、俺の言うとおりにしとけと言わんばかりです。つまりこの世から離れて帰っていく所への希望がない。

私はその話を聞きながら、「なるほど、私たちにとって大切なことはそこだな」と思うのです。いつまでもこの世に後ろ髪を引かれると言いますか、後ろ髪どころか身体まで引っ張られて、死ぬに死に切れない。「俺が死んだ後、お前たちはどうなるか見届けないと安心ならない」と。そんなのは見届けようがない。父の妹にあたる叔母がいるのですが、叔母から「そんなに死んでからのことまで心配せんでもいい。一々言わんでもいい。後のことは生きている者が何とかするから大丈夫」と言われて、シュンとなりましたが、寂しいのです。可哀想と言えば可哀想、気の毒です。私はそのことが気になって仕方がない。祈る以外にない。ともすると、そういう後ろ向きになるは、見えるものだけに頼っている。だから、見えるものが全部消えてしまった後、どうなるかが分からないから、どうしても見えるもの、生きている僅かな現象にしがみつこうとします。

この7節にありますように「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いている」と。私たちはいつも神様を見上げていくことです。この1節にも「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている」。見えないものに目を注いでいくとは、ここです。先が見えないから、つい、見えている地上の幕屋のことばかりにしがみついてしまう。1節に「神からいただく建物、永遠の家が備えられている」とあるように、そこに帰っていくのだといつも確信する。そこに神様が備えて下さっているものがある。そのためには、今日生きていること自体が、見えない神様の手によって支えられ、導かれているんだと、徹底して信じることです。

これをしていないと、いよいよとなって、泥縄では間に合いません。だから、いつも「見えるものによらないで」と、自分に言い聞かせていただきたい。ついつい気がつかないうちに見える所、いろんな人が見え、自分が見えますから、「これは駄目やな」「あの人はあんなだから駄目、こんなだから…」と、ついつい見える状態で心配したり、喜んだり、失望したり、或いは有頂天になったり、落ち着かない、安心のない生活、思い煩いの生活を続けざるを得ない。見えない方である神様はひとり子を給うほどの大きな愛をもって愛して下さっている。それを信じるには、自分自身が神様から愛されている、かけがえのない大切な自分である事を、先ず認めなければなりません。また、私たちに対して、神様が事細かく小さな事にいたるまで、生きるためのすべてを備えて、今、今日、ここに在らしめている。神様が私をここに置いて下さって、私でなければできない事をさせようとしているのだと知っておく。自分の能力があるからできる、能力がないからできないのなら、それは信仰ではありません。常に、現実を超えて、神様に目を止めていくことが大切です。これが信仰ですから…。だからよく申し上げるように、何かをするときでも、お金があるからするのではなく、お金がないからしないのでもない。主が「せよ」と言われるから、させていただく。主が「するな」と止められるからしない。神様が導かれるからそこへ進んでいく。体力がないから、それは止めとこうとか、或いは元気だから、これをしようと言うのであれば、私たちは見えるものの世界から一歩も外へ出ることができない。ぐるぐる同じ轍(わだち)の中を回っているだけに終ってしまいます。それをどこかで断ち切って、見えないものに心を繋(つな)いでいく。そうすると、見えるものの世界でぐるぐる回っていた私たちを、もっと違った大きな歩みの中に、導き入れて下さるのです。
そうなると、周囲の状況、見える所も変わってくる。確かに目に映っている事柄、耳に聞えてくるおとずれはありますが、その中に違う世界が現れてくる。失敗と思えること、或いは失望する事柄、或いはこれは悲劇だと思う事ですらも、その背後に神様の手を見るとこができます。そうする時、私たちは決して失望することがない。或いは思い煩い、心配する必要もない。神様がいらっしゃって、今この事が起こっているのですから。ローマ人への手紙8章にありますように「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」のです。何かの事で、手に余ってしまって「これは失敗だった」「これはできなかった。残念だ、これは仕方がない諦めよう」という現実があっても、それでお終いにならない。そこで、神様に目を止めて、「しかし、このことも神様、あなたがご存知ですから…」と、見えないものに目を注ぐ。そうすると、失敗だと思ったこと、行き詰まりだと思った事が、全く違ったものになります。

使徒行伝8章1節から5節までを朗読。

イエス様がなくなられた後、エルサレムに残った使徒たちが、聖霊に満たされて、イエス様の福音、救いを多くの人々に述べ伝えました。エルサレムとその周辺の多くの人々が悔い改めて、イエス様の救いに与って、喜び、感謝をして、教会が建てられたのです。クリスチャンたちの集まる集会が執り行われるようになりました。ユダヤ人たちは、それを非常に嫌ったのです。伝統的なユダヤ教の人たちは、あの新興宗教はおかしい。あんなものは神を冒涜するとんでもない輩(やから)だと、迫害をしました。そして多くのクリスチャンが大変な困難にぶち当たりました。ステパノもご存知の様に石で打たれました。主の兄弟ヤコブも殉教いたしました。そんな中で、サウロと言われる、後にパウロとなるのですが、彼もクリスチャンを迫害する急先鋒だったのです。この頃はまだ若かったので、8章の1節にステパノが殺される時そこにいたとあります。ところがその後サウロは、もっと熱心になってクリスチャンを迫害した。3節に「ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った」。

嘗て日本でも、キリシタン迫害という時代がありました。村中が追放されたり、或いは処刑を受けたり、拷問を受けたりという時代がありました。この時も正にそういう状況でした。家々からクリスチャンを引っ張り出して、獄に投げ入れるという、厳しい状況がありました。「教会を荒し回った」とあります。恐らくエルサレム市内に幾つかのそういう集会場ができていたのだと思います。しかし、集会が持てなくなって、そこにいたクリスチャンたちはみんな散らされて逃げ出して行ったのです。これを見ると、見えるところで言うならば、ある意味で壊滅的な終わり、これでクリスチャンはお終いだという状況です。ところが、実はこの散らされて行った人たちは、4節に「御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」と。その散らされて行った人たちが、逃げて行った先々で、イエス様の福音を語った。そして彼らの行く先々に、今度は教会が出来てくる。見えるところで言うならば、エルサレムの教会が迫害されたというのは、悲しむべき事柄であります。その教会が散らされて失われてしまった。そうなると「これは神様の負けだ」と思える状況です。見える状況はそうですから、失望する以外にない。ところが、その迫害の中にも、神様の大きな御計画があった。彼らを散らして、もっと多くの人々にこの福音が宣べ伝えられることになった。彼らは散らされて行ったその所、地中海沿岸から、全世界にまで、福音が広がっていく大きなきっかけが、この大迫害なのです。見えるところでは失望的、或いは絶望としか言いようがない悲しむべき事柄が、実は神様の見えない大きな御計画の中にあって、神様の福音が2倍も3倍も4倍も、もっともっと広がって行くのです。

今失敗と思えること、或いはこうなったからこれしかできない、駄目だと思い諦める様な状況の中で、失望したらダメです。もし、エルサレムから散らされた人々が、自分たちはこんな迫害に遭って、教会が潰れてしまうくらいなら、「イエス様の福音もたいしたことはないな、もう止めよう」と言うのだったら、それで終わっていたでしょう。ところが、散らされて行った人々は、見えるものによらないで、信仰によって歩いた。だから、夫々がイエス様の福音を宣べ伝え、次々と救われる人々が増えたのです。もし、この迫害がなかったら、エルサレムの教会はどんどん大きくなったでしょうが、福音は他の地域へ伝わらなかったに違いありません。神様は、人の知恵を超え、思いを超えているのです。だから、信仰によって歩むのは心強いのです。

皆さん、これは駄目だ、これはもう諦めよう、これは触れないでおこうと思って、どこか整理棚に入れてしまった問題があるならば、もう一度それを主の手にお返しして、神様の手に握っていただく。信仰を持って、待ち望んでいくのです。その時、神様は、私たちの思いを超え、考えを超えた大きな事をして下さる。この後、各地に教会ができていきます。やがて、迫害したパウロが、その散らされていった人たちが作ったアンテオケの教会から、伝道者として派遣されたのです。彼が献身してイエス様の福音を宣べ伝えた時、各地の教会が恐れをなした。しかし、彼は悔い改めてキリストの僕となり、使徒となって遣わされていった。見えるところは、失望するしかない状況の中で、神様の御計画が着実に進んでいる証詞が、この使徒行伝なのです。

パウロもそうです。彼はローマに行こうと願いました。そして「ローマ人への手紙」の1章に「やがてあなたがたにお会いすることができるように」と、「自分はそれを願っている」と語っています。ところが、彼がローマに行こうと思った時に、どうしてもエルサレムに戻らなければならない緊急事態があった。そのために彼は、出かけていた所から、一旦、エルサレムに帰ります。その時、多くの人はエルサレムに陰謀があって、パウロの命が狙われていると知っていました。だから、みんな止めました。パウロ自身もそれを覚悟したのです。エルサレムに帰ったら、この命が無くなって、あなた方に会うことができなくなると、エペソの教会に人々に語っている。最後のお別れをしてエルサレムに戻りました。案の定、エルサレムではパウロを殺そうという、激しい怒りがありました。幸いに命は取られませんでしたが、捕らえられて、裁判を受ける身になりました。カイザリヤで軟禁状態に置かれました。それから数年経ちました。新しい提督が就任して、「お前はこういう罪に問われているけれども、どうするか」と尋問されました。そこで釈明をしたら許されたかもしれない。しかし、彼は、カエザルに上訴すると申し出ました。とうとう、囚人としてローマにある、皇帝カイザルの裁判を受ける法廷へと連れて行かれます。神様は「パウロをローマに連れて行く」と仰る。これは神様の御心ですが、その具体的な方法は、神様が手に握っていて、パウロはエルサレムで捕らえられて、囚人として護送されてローマへ行く。その途中で大嵐、ユーラクロンに遭って難船し、マルタ島に漂着して、毒蛇に噛まれて「死ぬ」と思った時に、それが癒されて、マルタ島の人々は「これは神の人だ」と驚いたと書いてあります。

神様は計画なさった目的に向かって、どんな障害があっても、全部それを取り除いて、計画を実現なさいます。これは決してパウロが自分で計画していたのではありません。神様が、「ローマに行け」と言った。だから、旅費を稼ごう、或いはいつ頃にしたらいいだろうか、その日取りをみんなに相談して決めたという話ではない。神様が、思いがけない道に行き詰らせて、囚人にまでして、ローマへ連れて行く。神様は、万事を益として下さる。神様の御心に叶うものと、私たちを造り変えて下さる。

コリント人への第二の手紙5章7節以下に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。8 それで、わたしたちは心強い」。ここには「年金が有るから心強い」とは書いてない。「私には老後の保障があるから大丈夫、介護保険があるから安心です」と書いてない。「信仰によって歩いているのである。それで私は心強い」。私たちは見えない神様に目を止めて、どんな失望するような事柄や事態が目の前にあっても、それに縛られては駄目です。「神様がいるのだから、ここからどんなことでもできるから、大丈夫です」と信じていく。それは決して私の願いどおりになるとか、思いどおりになることを期待するのではありません。「神様は善にして善をなし給う方だから、最善をして下さいます」と信じるのです。その時、失敗と思えた事柄、もう駄目だと行き詰った中から、神様が驚く御計画をもって御心をなしてくださる。

私たちに必要なのは、御霊に満たされることです。というのはその直ぐ前にありますように、5節に「わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。6 だから、わたしたちはいつも心強い」。ここにも心強いとあります。神の御霊が、聖霊が私たちのうちに注がれて、見えないものを見えるようにして下さるからです。見えないものは見えないのだというのが、世の中ですが、見えるものの背後に、見えないものを見ることができるのは、修養や鍛錬ではない。いつもそういう心がけをしているからでもない。「御霊によって」です。そこにありますように、「保証として御霊をわたしたちに賜る」。神様が聖霊を送ってくださる。聖霊が私たちを見えるようにして下さる。御霊はそういう働きを持っているのです。

ですからイザヤ書11章1節から5節までを朗読。

2節に「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」とあります。ここに「一つの芽が出て若枝が生えて実を結んで主の霊がとどまる」と。これはイエス様のことをあかしした1節です。同時に、神の子たる私たちの上に、神様が計画して下さったことでもあります。聖霊を賜ったとは、ペンテコステの霊が私たち一人一人に臨むというのです。私たちに、キリストと同じ霊を満たして下さるのです。神の子として、神のひとり子であるイエス様のご性質を分かち合う者として下さっている。

その霊は、2節に「知恵と悟りの霊」とあります。私たちに知恵を与えてくださる、知恵は知識や学問という意味ではありません。人の知識や学問という目に見える状況の背後に隠れている神様の思いを悟る。「深慮と才能の霊」、自分の欲得を超えて、もっと深くいろんな人々のことを思いやることができる、そういう霊でもある。また「才能の霊」とありますように、自分にはこれしかない、自分にはこんな才能しかないという、それは見えるところです。しかし、キリストの霊による時、自分ができないと思ったことをできるようにして下さる。そんな能力がない、そんな事は私にはできないと言う。しかし、神様は、力を与えてどんな事でもできるようにして下さる。これが「才能の霊」。私は家事が下手だから…と嘆く者に、神様が霊を与えて下さればできないことがない。「計算の能力がないから、計算をするような仕事は私には向いていません」という人でも、主が必要なら、「才能の霊」によって、その力を与えて下さる。またそこにあるように「主を知る知識と主を恐れる霊」、神様を知ることができるのも、御霊によらなければできません。また、神様を恐れ敬う、尊ぶ事も、御霊によらなければできない。

ですから、コリント人第二の手紙5章5節に「わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである」。御霊を与えられて、見えないものを見ることができる。失望するような、望みのない状況や事柄、或いは自分に対して失望し、周囲の何かに失望する事があっても、その背後に、神様が何を計画して下さっているか、どのように私たちを導こうとして下さるか、これは分からないが、しかし、「万事を益とする」、全ての事を良きにして下さる神様の大きな御愛の計画がる。それを楽しみにして、それを望み見て、私たちは今日も生きているのです。そしてやがての時、主の御許に帰る。人の手によらない永遠の住まいが備えられている。このことをはっきりと御霊によって悟って、望みを得させていただきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。