いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(40)「信仰による祈り」

2013年10月31日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書35章1節から10節までを朗読

3節と4節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。4 心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と」。

殊に、3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ」とあります。年をとってくると、身体的にいろんな不都合が生じてきます。朝起きてみたら腕がこわばって、曲がらない。一生懸命に手をさすって、「私は脳梗塞かしら」と心配します。それは、年齢と共に起こる事ですから、止むを得ません。また、膝の悪い人が、年を取ると多くなります。これも止むを得ません。私たちが立って歩く以上、膝が悪くなるのは避け難いことです。しかし、3節は年を取って、手が動き難くなった、関節がこわばった、足や膝が悪くなったから、元気にしなさいと言っているのではありません。お祈りをする時、私どもは手を組んで、頭を垂れて祈りますが、この時代のイスラエル、ユダヤの国では、両手を上げて祈ったのです。神様に向かって手を上げて、顔も上げて、「天のお父様」と呼びかけた。朝起きて、神様に向かって立って、手を上げてお祈りをしたのです。

出エジプト記17章8節から13節までを朗読。

モーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷の生活から救い出して、カナンの地を目指して荒野の旅をしてまいりました。その途中で、異民族であるアマレクという民族に出会い、戦争になりました。今読みましたように、モーセは自分の部下であるヨシュアに、「さぁ、あなたは民を率いて行って、戦える者は行ってアマレク人と戦いなさい」と命じました。モーセは丘の頂に登ったのです。そんなに高い山ではなかったでしょうが、全景が見下ろせるような場所でした。モーセは、眺めるために登ったのではありません。そこでお祈りをするためです。お祈りをする時、手を上げて祈った。イスラエルの人々の祈りは、そうやって手を上げる。モーセが手を上げて神様に祈っていると、11節にありますように「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち」、モーセが手を上げてお祈りしていると、イスラエルが勝利する。アマレク人に打ち勝つ。ところが段々と手が重くなってくる。それは当然です。皆さん、一分間手を上げて見て御覧なさい。必ず手が下ります。一分なんて簡単だと思いますが、10秒くらいで段々きつくなる。だから、これは大変なことだなと思います。聖書を読む時に、できるだけ自分の体験と比べてください。モーセになったつもりで手を上げるのです。ここで「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った」のです。どうしても支えられないから、手が下がってくる。そうすると、今度はアマレク人が勝利します。これはいかんというわけでまた、手を上げるのですが続きません。

よく考えたもので、12節に「モーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した」。モーセは立っているわけですから、下から支えなければいけない。支える側も立っていたら疲れるので、石を持ってきて座る。そこへ腰掛けて、アロンとホルが両脇からモーセの手を支えた。両脇から支えられていますから、上げ続けることができる。手が下がらない。そうやって、この12節に「そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった」。一日中支えていたのです。その結果、「ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った」と。神様が力を与えて、イスラエルを勝利に導いて下さいました。これは明らかに、ヨシュアが強かったから、作戦が良かったからではなくて、モーセの祈りに神様が応えて下さいました。この手を上げるのは、ここにも明らかなように、信仰を持って、神様を信頼して、祈り続けるということです。

ある兄弟は、若い時に、柘植先生の信仰に導かれて、ある聖会で、熱心になって一生懸命にお祈りしなければと思いました。「そうだ、アマレクに勝つためにモーセは両手を上げて祈ったのだから、我々もそうやって祈ろう」ということで、仲間もみな集まってお祈りをした。「この聖会で多くの人が救われるように、アマレクという悪魔に打ち勝つことができるように、お祈りをしよう」というわけです。そして手を上げて祈ろうと、手をあげて祈った。ところが、どうしても夜は眠くなる。寝ている間も手を上げている方法はないかと考えて、とうとう紐で手を縛って、下がらないようにしたそうです。そしたら何分もしないうちに、手が青くなって、慌ててひもをほどいたと聞きました。心意気はいいのですが、意味を取り違えたのです。形だけ手を上げて、紐で縛って寝たら、手は千切れてしまうかもしれない。聖書で言っているのは、そういうことではありません。手を上げるというのは神様に向かって、真剣に祈り求めるということなのです。

モーセとアロンおよびホルの3人が一緒になって祈った。両脇からモーセの腕をズーッと支えるという、これは今も私たちができる事です。私たちが祈りを共にする、祷告会だとか祈祷会で祈るのは、このことです。お互いに相手の手を支えてあげる。ですから、皆さんがいろんな方々のためにとりなして祈る、祷告するのは、その人達の信仰を支える、大きな力です。アロンとホルが、モーセを支えたように、皆さんがお祈りをして下さることで、私は手を上げ続けることができる、信仰を持ち続けることができるのです。自分だけのことではなくて、私たちはそうやって両脇から祈りをもって支えていく。これが私たちの祈りです。

ですから、イザヤ書35章3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ」。信仰をもって、いろんな問題や事柄について、日々、神様に祈り求めてまいります。しかし、神様は聞いてくれたのかどうか、どうもよく分からない。お祈りはしているけれど、何か自分の慰めのために祈っているような感じがして、気が付かないうちに、神様から心が離れてしまう。祈ることも少なくなる。そういう状態が「弱った手」、或いは「よろめくひざ」なのです。「神様を信じている、神様に信頼しています」と言いながら、ああしたらどうだろうか、こうしたら…と、あちらこちら、他の事に心が揺れてしまう。これが「ひざがよろめく」ことです。「よろめく」というのは、ひざが悪いとしゃきっと立てません。ヨロヨロッとよろけたり、踏み外したりする。

信仰も同様です。思い掛けない大きな問題に当たったりしたら、よろめきます。私もそういう経験をしました。昨年の丁度この時期ですが、病気を宣告され、「これからどうなるのだろうか」と思う。そうすると信じて祈っているのですが、祈りつつも、大丈夫だろうかと、不安がくる。思い煩いが湧いてくる。そしてこのままでいいのだろうか、あれをしなければいけないのでは、こっちに行かなければと、うろたえる。そのぶざまな姿を体験する時、「本当に信仰があるのだろうか」と不甲斐なく思います。聖書にも「あなた方は、自分に信仰があるかどうか、よく吟味しなさい」と勧めています。本当にそうですね。「神様がこんなに恵んで下さって、感謝です。神様に信頼していますから大丈夫です」と言っているのはほんのちょっとの間です。何か事が起こって御覧なさい。あれやこれやと気が散って、慌てふためく。揺れるのです。

でも、自分自身の体験をとおして思うのですが、そうやって揺れることで、信仰を堅く、強くしていただく。信仰が揺れないことはベストでしょうが、生身の人間ですから、揺れないことはありません。ただ揺れが酷くて、ころんでしまうかどうかです。ひざがよろめく人でも、おっとっとと踏みとどまる人もいれば、ぐちゃっとこけて、骨を折ったり、という事にならんとも限らない。信仰もできるだけ揺れが少なくありたいと願います。そして早く神様にピシッと立ち返っていく。これは信仰生活の中で大切なことです。時々、「私に信仰があるのかしら、私はよろめいてばっかりで、こんなんだったら、イエス様の所に帰れないのではないだろうか」と疑われる方がいます。大丈夫です。なんどよろめいても、そこからまた神様に帰る、これが大切です。だから3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ」と、勧められているのは、そういうことです。私たちはしっかりと立っているようであっても揺れ動くから、その時は手を強くし、あなたのひざを健やかになさいと勧められているのです。何度でも神様に立ち返ることが大切です。「こんなによろめいてばかりだから、神様は愛想をつかされたでしょうから、もう駄目だ」と言って、神様の前から離れて行くのが一番良くない。いろんな問題や事柄に揺さぶられる時に、愈々神様にくっ付いていく、しつこくすがっていく。

ヤコブの手紙1章2節から4節までを朗読。

ここに、いろんな試錬に会う場合があると言われます。しかし、「それを非常に喜ばしいことと思いなさい」。そうだと思います。いろいろな思い煩いの中に置かれた時、試錬に会った時は喜びなさい。「どうして私は弱いのだろうか」と言って、自分を責めることはいらない。「こんな弱い私だけれども、試錬を与えて下さった。こういう問題や、悩み、思い煩いがあることは感謝だ」と喜ぶのです。それは「信仰がためされることによって」と、3節にあります。揺さぶられることによって、神様を信頼しているのか、神様の力と恵みを私は握って立っているだろうか、或いは神様が一つ一つに報いて下さる方であるとはっきり信じ続けているかどうか、そのような事が試されるのです。そのうえ、「忍耐が生み出される」。この忍耐というのは、信仰という言葉とほぼ同義、同じ意味だと考えていいと思います。新しい信仰が生み出されるのです。だから、何の思い煩いもないし、心配もありません、悩みもありませんという人は、幸いなようであって実は大損をしている。せっかく神様が恵もうとして下さる恵みを取り損なう。だから皆さん、健康上の問題や、経済的な問題、老後の問題、子供の問題、孫の問題、いろんな問題が起こった時、喜ぼうではありませんか。それによって私たち一人一人の信仰が試される。「お前は一体何を信じている、何を拠り所としている。あなたは何を力として立っているのか、生きているのか」と問われる。そうして、静かに振り返ってみると、「信じていると言って、口先ばかりであった。今度はこの問題の中で、神様の報いを望みつつ祈り続けていこう」と、「弱った手」を強くするのです。また、「よろめいているひざ」を健やかにして、神様に向かう。これが私たちの恵みです。

ペテロの第一の手紙1章5節から7節までを朗読。

6節に「しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れない」と記されています。この地上にある限り必ず試錬が伴います。苦しいことや辛いこと、思わない、願わないことが私たちの身に起こってきます。しかし、「それでもあなた方は大いに喜んでいる」と6節に記されています。何故ならば「こうして、あなたがたの信仰はためされて」とあります。私たちが鍛えられて、よろめくひざが健やかになり、萎(な)えた手がしっかりとなって、腕が伸ばされて、神様に対して心一つになり、混じり気のない信頼をもってより頼む者となる。これが恵みです。ですから、それを避けて通ったら、一番美味しいところを捨ててしまうようなもの。私たちはいろんなことに会った時、神様を信じて、信仰を試されて強くされます。

もう一度、初めに戻りまして、イザヤ書35章3節に「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。4 心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と」。私たちがよろめく原因、或いは手が弱ってくる原因は、お祈りしてもその答えがないと思われる。ちっとも神様は聞いてくださらない、思ったようにいかない。だから4節に「心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み』」とあります。ここにありますように、「あなたがたの神は報復をもって臨み」、報いをもって必ず来る。応答してくださるというのです。私たちが祈るとき、神様は必ず応えて下さる。そして「神の報いをもってこられる」のです。更に、「神は来て、あなたがたを救われる」。この4節の後半の3行は、同じことを、言葉を替えて、繰り返し三回言っているのです。神様は、必ず応えて下さるのだと繰り返して語っています。報復をもって、報いをもって、救いをもってきて下さる。

私たちが信じる神様は、今も生き、働いていらっしゃる方、決して聞えない方ではない。木偶(でく)の坊でもない。私たちの信じる神様は、必ずそれに応えて下さる。ただ、その答えが自分の思いどおりとか、自分が求めたとおりでなかったと失望し易いのです。しかし、後になって考えてみると、神様がしてくださったことが、自分が願ったり、計画したよりも、はるかにもっと素晴らしいことだったと、明らかになる。だから、失望しないで、「祈り続けなさい」とイエス様が言われる。

昨日、結婚式に招かれて出かけましたが、お嫁さんのお母さんが「先生、お祈りするっていうのは、段々マンネリになりますねぇ」と言われた。日課のように毎日一つのことを求めて祈っているのだけれども、1年3年5年と続くと、祈りがだらけてしまう。そういうことがありますと言われる。「そのとおりですね」と私も申し上げました。「ただ、神様はそのだらけた私たちを奮い立たせるために、また次の問題や、事を起こして下さいます」と言いました。その姉妹が「そうですね、同じ事を祈っているけれども、うんともすんとも答えがないように思える。そこへもう一つ別の問題が起こってくる。そうすると奮い立たせられて、もう一度、『そうだ、神様!』と求めていくことができるから、私どもはこんな幸いなことはありませんね」と言っていました。それを聞きながら、私自身もそういう体験をします。皆さんもご経験があると思います。幾ら祈っても変わらない。そろそろこれは「諦め」という箱に入れて、処理済みにしたくなる。そういう時に必ず問題が起こる。それによって奮い立たせて下さる。神様は必ず報いて下さる方です。それがどういう風な結果になるか、私たちには分かりません。しかし、気がついてみたら、あの時祈った事が、今こういう形で解決している。

私どもは自分で祈ったことを、とっくに忘れてしまっている。何年か経って、そういえばあのことはどうなったかしらと、気がついてよく見ると、あれもこれもことごとく全てが整えられている、変わっている。私どもは忘れ易いですから、今お祈りしている緊急の課題をノートに書いておいて下さい。それを来年読み直して御覧なさい、「なるほど、あの時、こんなに心配していたことが、今、こんな風に変わっている」。私もそうやって書いて、5年前のものを見ると、書いていた事は全部解決している。神様は不思議なことをなさる。ところが、私どもはそれを忘れている。

自分の家族のために、主人が救われるためにと泣いて祈った方がいる。ところが、今見て御覧なさい。ご主人が横に座っているではありませんか。当たり前のような気になっているけれど、これは不思議としか言いようがない。神様がしてくださったのです。神様は必ず応えてくださいます。ですから5節以下にありますように「その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。6 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる」。「その時」と5節にあります。どういう時かと言うと、神様が報いをもってこられる時、神様が救いを現される時です。どういうことが起こるのか?5節以下に「見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる」。生まれつき目が見えなかった人の目が開かれ、耳の聞えなかった人が聞えるようになり、足の不自由な人がしかのように飛び走り、ものの言えなかった人が喜んで歌を歌うように変わるのです。180度ひっくり返ってしまう。神様がそれを為さるのです。

私たちが考えるのは、そんな大きなことではない。ちょっとゆがんだ物を手直しする程度のことしか期待しません。もうちょっと、ここがこうなってくれたらという程度です。ところが神様はそうじゃない。神様は根こそぎひっくりかえして、到底不可能と思える事をして下さいます。6節の後半にありますように「それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである」。どうして砂漠に川が流れることがあるでしょうか。荒野に水が湧き出て、緑豊かは地に変わることがあるでしょうか。しかし、神様にできないことはない。ローマ人への手紙4章に「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じ」と語っています。私たちの信じる神様は、その辺にあるちっぽけな神様でない。正に死人を生かすことができる、無から有を呼び出して、私たちを造り変えられる。7節に「焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり」と。神様がなさる時、焼けた砂が池と変わってしまう。そればかりでなく「山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる」。山犬っていうのは、また一般に犬は水が嫌いです。湿気のある所には絶対に寝床を作ったりしません。住家とはなりません。山犬の伏す場所というのは、乾燥しきった、乾いた場所です。ところが葦、よしというのは水がないと育ちません。湿地、沼地などです。そういう場所が変わってしまう。

そのために、私たちは、何をすべきでしょうか。3節に「弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにして」、神様の報いを待ち望むのです。私たちの祈りに応えて下さると確信をもって、手を主に上げて行こうではありませんか。神様はやがて、やがてどころではない、直ぐに不思議をして下さる。驚くことをして下さる。そのために、先ず信仰をしっかりと握ることです。手を神様に向かって伸ばし、耐え忍んで主の報いを待ち望んで行こうではありませんか。「遅くあらば待つべし、滞りはせず」と、約束をされているのです。神様は、必ずその報いをもって私たちの所に来て下さる。その主を待ち望んで、一日一日、主を呼び求め、信頼し、主が与えて下さる恵みを体験する日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(39)「あなたがすべきこと」

2013年10月30日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書30章15節から18節までを朗読。

15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」とあります。
日々の生活では、いろんな事態や事柄、思い掛けない問題、悩みに遭います。そういうときに、直ぐ「どうしようか」、「どうして!」とうろたえます。早く何とかして、悩み、悲しみ、苦しみを切り抜けようと、あがき、もがき、七転八倒して苦しみます。そして、あっちにこっちにと、独楽ねずみのごとく走り回る。あげくの果て、解決つかず、がっかりして、いやそれどころか、ますます悪くなって、そして、「仕方がない、こう成ったら神頼みだ」と諦めます。そうやって仕方なく神様を求めることになります。最後に神様の所に来ることは、それなりに幸いですが、早く神様の所に来ればもっと幸いだと思います。しかし、なかなかそこに行かないのが、悲しい人間の性(さが)と言いますか、人の性質だと思います。

物事には、必ず順序があります。まず、これをした後にこちらをする。その次はこれをするという風に、順序があります。料理などもそうです。料理の本を読みますと、レシピ(手順)というのがあります。この料理を作るとき、材料はこれだけ、こういうものを揃えなさいと。それを揃えた上で、最初はこれをして、次にはこれを刻んで、それを炒めた後で、今度はここにスープを入れて、という具合です。一番最初に、これをするべきですと、ちゃんと順序が書いてあります。それを順序良くきちっとやっていけば、なるほど一番良い状態に完成します。時々、ベテランの主婦の方は、「これは後にして、こっちから先にしておこう」とします。そうすると、後になって似ても似つかぬものになる。

私が中学生、高校生くらいの時に、食欲旺盛なときですから、いろんなものが食べたい。で、料理の本を見て、「お母さん、これ作って」と頼みます。母は「作ってあげよう」と言うので、期待して待ちます。本には写真がついているから、「これが食べられるのだ」と想像が膨らむ。それで、「今日はあなたが言っていたこれを作ったからね」と食卓に並ぶ。フッと見ると写真と全然違う。「どうしたの」と言うと、「材料がなかったからこれにしておいた、この材料はあれにした」と、材料は手近かにある代用品ばかりです。本物に近くなるわけがない。その上、炒める時にこの油がなかったから別のものにしておいたとか、焼くべきところを、蒸しておいたとか、他の方法でやるから、美味しかるべき筈のものがまずい。母は「どうね、美味しいでしょう」と自慢げに言う。こっちが期待していたのとは大分違う。後でそっと本を見ると、全然違っているのです。それ以来、あまり頼まなくなりました。

日常生活の中でも、順序が必要です。思いがけない、まとまったお金、定期預金が満期になったとか、病気をしたために保険金がおりたとか、そういうときにこれで何を買おうかと考えます。家族に訊くと、テレビが欲しい、クーラーが欲しい、車もいい、あれもこれもとみんなが言う。言うとおりにしていたら、なくなってしまいますから、順番を決めなければいけない。何が優先されるか、何が大切かを議論します。家族で、或いは夫婦で、「あなたはそう言うけれど、今これが大切で、これが無いと困る」「いや、お前、そんなことを言うけれど、これだよ」と、喧々諤々とやる。そして、第一はこれ、第二はこれとこれを買って、余ったらこれにしてと、順番を決めます。

一日の時間をどのように配分にも事の後先があります。今日は何をすべきか、一番最初にすべき事は何かを決めなければ、あとがチグハグになってくる。学生時代に、定期試験の前になると、試験の勉強をしなければならないと分かっている。分かっているのだが、部屋が片付かないから、先ず部屋の掃除と片づけをして、さぁ、勉強しようと思ったら、「あの本をちょっと読んでおかなければいけない」と、しょうもない小説を開いて、「これも国語の勉強だから」と、自分に言い聞かせる。そのうち、「もう、時間だ、夕方だ、もう夜も遅くなった。早く明日の試験の勉強をしなければ」と、やっと今日しなければならないテキストを開いて見始めたら、夜の一時二時。「明日は試験があるから、今日は寝よう」と、寝てしまう。三日間の定期試験が終って、最後の試験の答案を出して、学校の帰りは実に気持ちがいい。何もしていないのに、「終った。よく勉強したなぁ」と思う。しかし、その結果は惨憺たるものです。

何が大切かを知りながら、それができない。これは私たちの最大の問題点です。朝起きて、「神様、今日は何をすべきでしょうか」と祈り、主の前に静まる。これを第一にすれば、次はこれをすると、順番が決まります。そしたら、それに従っていけばいいのですが、今申し上げました試験前のように、しなくてもいい、しょうもない事を一生懸命にやって、「今日は時間が無くなった。また明日にしよう」と先延ばし、先延ばしにしている事が沢山ある。これが私たちの一番悪い癖です。神様の前に先ず姿勢を整えないから、いろんな問題や事柄、悩み、突発的な出来事が起こって、大慌てして右往左往します。そうではなく、15節にあるように「あなたがたは立ち返って」、先ずは「立ち返る」ことです。そして「落ち着く」ことです。しかも「信頼する」ことです。この三つが大切です。で、この三つは神様に対する自分の姿勢です。神様に心を整えること、これが「立ち返ること」「落ち着いて」「信頼する」事です。思い掛けない悲しいことや、苦しい辛いこと、或いは病気だとか、いろんな問題が起こったとき、直ぐしなければならない事は、神様の所に帰ってくること。これは基本中の基本です。人生に一番大切なことです。ところが、案外それを忘れる。

いつも集会に来ることができ、また、祈ることができ、また聖書を読んで、日々、主と共に生きているように思います。ところが、思いがけない病気になったり、或いは家族のうちに何か不幸が起こったり、問題が起こったりして、がさっと揺さぶられたときに、そこで自分自身の信仰が振るわれます。その時、先ず何処にいくか。神様の所に帰るのです。「でも私は、前々から神様を信頼しているのだけれども…」と、思います。しかし、それは形だけで、気がつかないうちに、心が神様から離れている。神様の方を向いている様で、ちょっと横向きになっている。姿勢が崩れている。真直ぐに神様を信頼することが出来ないのです。

ですから、ちょっと読んでおきたいと思います。創世記28章18節から22節までを朗読。

これはヤコブが一人、家を出て、叔父のラバンという人の家に旅立ったときです。一晩野宿をしました。そこへ神様が現れて、「あなたは心配することはいらない、わたしがあなたと共に行くから、そしてまたあなたをこの所へ連れ帰るから、大丈夫だよ」と、夢枕に彼を励ましてくれた。彼は自分は孤独で、親からも兄弟からも捨てられて、全く自分の身の置き所がないと思ったのです。しかし、彼は「そうじぁない、神様が私と共にいらっしゃる」と知ったときに、目を覚まして、喜び、感謝に溢れました。そして、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」、神様が私と共にいらっしゃるのに、忘れていたと告白しました。私たちもよくそういうことがあります。普段から、教会には熱心に来て、礼拝は欠かさず、平日の集会にも来ている方が急に姿が見えなくなる。「最近、あの方はお見えになりませんが、どうしたのでしょう」と尋ねると、「あの方は今こういう問題があって、東奔西走で、あっちこっち忙しくして、教会に行く暇がないと言っています」とのこと。私は「大変なことだ。もっとするべき大切なことがあるのに」と思います。事が起こったとき、神様の所に帰ってこないで、神様を離れるのは、一番の不幸です。

病気したら、「熱がある、病院に、あのお医者さん」と病院に駆け込むから、後が長引くのです。先ず、神様の所に来てお祈りして、主が癒し主でいらっしゃることをきちっと告白することです。これが基本です。私が生きているのではない、誰か人によって生きているのでもない。実は、「神様、あなたが私の主です!」と、きちっと神として立てていく。これが大切で必要なことです。

ここでヤコブは、神様が一緒にいらっしゃる事を知ったとき、神様に自分の信仰を告白したのです。18節の「ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで」と。彼は自分が枕としていた石を神様の前に立てて、油を注いで、神様を礼拝しました。「神に帰れ」と言うのはここです。神様に立ち返って、自分自身が神様に造られた者であり、神様の手に握られた者であること、主が誰でいらっしゃるかを告白することです。ヤコブは20節にありますように誓いを立てて、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう」。これは何か取引みたいに読めますけれど、必ずしもそうではなく、彼の気持ちは「これからあなたが全部を司って下さる主でいす」と告白したのです。そして、その石を証拠として立てました。どうぞ、ヤコブの事をよく覚えておいていただきたい。ここにありますように「ヤコブは朝はやく起きて」と、先ず主の前に出て、「神様、あなたが主です」と告白しているのです。食べるもの、着るものも、生活の全てが神様によって備えられていること、「あなたが主です」と告白して、一日の出発点とする。これが日々の生活です。更にまた、個別にいろんな問題や事柄が起こったとき、そこでうろたえ、悩むときに、「私は一体何処に立っているのだろうか」「誰の前に自分を置いているのか」と自問する。

イザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ』、」。落ち着くのです。自分であちこち、右往左往しない。そこで神様に期待して、神様に信頼して、その時をじっと待つのです。「何をどうせよ」と神様が命じるまで待つ。そうすると、神様は、今何をすべきか、あなたが今、今日、この問題に関しては、どういう態度を取り、どういう歩みをすべきか、教えてくださる。

家庭でもそうです。ご主人に対しても、奥さんに対しても、何かパンパンと言いたい時は、グッと飲み込むのです。主に立ち返るのです。カーッとなるでしょう。奥さんが何か言って、或いはご主人が言ったことで、カッカとなったときに、「主よ、ここでどうしたらいいでしょうか。私が言い返すべきでしょうか」とお祈りをするのです。主に立ち返る。姿勢を整えるというのはそこです。そうしたら、スーッと気持ちが静まる、グッと飲み込める。「主人の頭が冷えた時に、後でもう一度…」と思うでしょう。そうすると言わないで済みます。私たちの悪い所は神様にすぐ行かない。自分の感情が先にカーッと出る。だから、絶えず神様の前に立ち返るのです。どんなときにでも、「立ち返る」こと、これが大切です。ダビデが語ったように、「私は常に主をわたしの前に置く」(詩篇16:8)。こう言えるならば実に幸いです。しかし、常に主を自分の前に置けません。置けないときは立ち返るのです。いつも置いているつもりが外れるから、私たちはそこへ立ち返ることが大切です。

15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いて」、落ち着くことです。立ち返るのと、落ち着く、これが順番ですから、大丈夫です。立ち返っても落ち着けるだろうかと、落ち着いていないのは、立ち返っていない証拠です。だから、落ち着けないと思ったら、神様の前に立ち返っていない、姿勢が間違っている。だからもう一度改めて立ち返らなければいけない。あのヤコブのようにきちっと石を立てて、神様の前に「あなたが主です。私はあなたの手の中にあるものです」と証詞していく。すると心が落ち着きます。落ち着いていると、今度は信頼する心が生まれてくる。これでトントントンと、三拍子揃います。肝心な一番最初をいい加減にするから、ボタンを掛け違う。落ち着けない、それどころか神様を信頼できない。そして、その後にあるように「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と言う話になってしまう。もっといい方法があるにちがいないと。こんなにじっとしていてどうする、ひょっとしたら手遅れになる、或いはもっと酷いことになったらどうしょうか。あせる思い、思い煩いがドーッと私たちを押し流していき、あれよあれよという間に、神様から遠く離れて、気がついてみたら、教会にも近づかなくなって、「私は何をしていたのか」と、後悔する。だから、いつもどんなときにも、主に立ち返りましょう。

歴代志下20章1節から4節までを朗読。

ヨシャパテ王様のとき、ユダの国にモアブ人、アンモン人およびメウニ人という大軍が大挙して攻めて来ました。そのときに、3節に「ヨシャパテは恐れ」とあります。恐怖に襲われ、怖くなった。そこでヨシャパテは何をしたかと言うと、ここが大切なことです。「主に顔を向けて助けを求め」、彼は大軍が来たからといって、他所の助けを求めたのではない。エジプト、或いはスリヤに助けを求めたのではなくて、「主に顔を向けて」とあるように、神様に先ず心を向けて、主に立ち返ったのです。私たちがすべきことはここです。恐れが湧いてきたとき、主に立ち返る。彼は王様でしたから、「全国に断食を触れさせた」。4節に「それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた」。国中を上げて神様の助けを求めた。

その先、歴代志下20章5節から12節までを朗読。

ヨシャパテ王様の信仰は素晴しいですね。敵が大軍で攻めてきたので、国中に呼びかけて、断食をして、神様を呼び求めて、祈りをさせました。自分は神の宮、神殿に入って、神様の前に祈ったのです。「神様、あなたは約束したではありませんか。この宮」、ソロモンが建てた宮だったのですが、「ソロモンがこの宮を建てたとき、神様、あなたは約束してくださったでしょう。国に飢饉があり、或いは疫病があり、また、様々な災いがあるときに、『この宮で祈るときお前の祈りを聞く』と約束して下さったではありませんか。今その約束に従って、あなたを求めています」と。ここまで言われたら、神様も知らんとは言えない。私たちも神様に祈るときに、これだけの信仰、厚かましさをもって祈ろうではありませんか。

何故なら神様は、宮を建てて、約束したどころじゃない。イエス様というひとり子を遣わして、私たちの罪の贖いとまでして下さった方。その神様が、私たちの祈りを聞かないはずがない。応えてくださらないはずがない。それどころか、私たちの主となっている。だから、神様に向かって祈るときに、はっきりとイエス様を信じて、「あなたはこんなに私を愛したと言うではありませんか。だったら、この悩みから、この問題から、この事柄から、私を救い、あなたの御業を現して下さい」と、信仰をもって祈ることができます。ヨシャパテ王様は正にそうやって祈ったのです。そして、12節に「この大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません」と。全く私たちはお手上げですと、ヨシャパテ王様は神様に信頼しました。私たちは直ぐ目の前の事柄を見ては、「ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようか」と、いろんなことで心が動く、そして落ち着かなくなる。ここが信仰の醍醐味と言うべきでしょうか、信仰を働かせなければならない大切なところです。

このとき、その祈りに神様は応えてくださいました。17節を読みましょう。「この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられるからである」。穏やかに信頼しているときに、ヨシャパテ王様に対して、神様は、「この戦いはあなたがたが戦うわけではない、しかし、明日とにかく、あなたがたは戦いに出なさい」。「寝ていなさい」とは言いません。“寝て果報を待て”とは言わない。「出なさい」と言うのです。「だって、私は力がないのですから、出たら一挙にやられてしまいます。神様、あなたがやってくださるというのですから、私は寝ています」と言いた。ところが、ここが大切です。神様は、私たちが信頼したら、信頼した私たちに対して、どうあるべきかを語ってくださいます。ここで、神様はヨシャパテ王様に「戦いに行け」と仰います。「これはあなた方が戦うには及ばない」と言いながら、「戦いに出よ」と言う。それは、そこにありますように、勝利を見に行くのです。行けば神様の方が備えてくださる事がある。ただ結果を見に出かける。神様は私たちにも具体的にそういう事を求められる。「しかし、これは大丈夫だろうか。私にはそれをする力がない、そんなことをしたら私の身がもたない。私の貯えは乏しくなってしまう、どうしようか、止めとこうか」と思っても、神様が「せよ」と仰ったら、「はい、信じます」と信仰をもって踏み出すのです。取りかかるのです。

ヨシャパテ王様は、多くの人々を集めて言いました。20章20節から22節までを朗読。

エルサレムの人々、ユダの人々は神様が言われるように、戦いに出て行きました。しかし、その出て行くには、聖歌隊を揃えて、楽隊を置いて、神様をほめたたえ、賛美し、歌いながら、戦いに出て行きました。そしたら、神様はそこで思いも掛けない、想像もしなかったことを起こして下さいました。今も神様は生ける神様です。私たちが信頼してより頼んで行くときに、神様はそこに救いを施してくださいます。

イザヤ書7章1,2節を朗読。

これはユダの王様、アハズ王様の時ですが、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが連合してエルサレムを攻めてきた。ところが彼らは勝つことができなかった。しかし、そのとき、スリヤは、別の民と同盟を結んだというニュースが聞えてきた。2節に「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」と。この記事は実に印象深いです。私は、この言葉がいつも心に浮かびます。大濠公園を歩いていると、台風の余波で、木々が揺れている。「人の心はこんなものか」と思います。自分が悩みにあった時に、心配事があって、夜眠れないときに、心はまるで林の木々が風に揺れ動くように落ち着きなく動揺する。皆さん、これを覚えておいて下さい、そして自分がそのような事態に置かれた時、「聖書にあるとおり」、今揺れていると、思い出して下さい。

そのとき、預言者イザヤが、王様の所に来て、こう言いました。4節以下に「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。5 スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、6 『われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう』と。7 主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない」、神様はイザヤを通して、アハズ王様に、「あなたが恐れているレヂンとスリヤおよびレマリヤの子というのは、もう燃え残った切り株のようなものだ。今くすぶっているだけで、力がない。だからこんなものを恐れてはならない」と。そして7節に「この事は決して行われない」。どんなに彼らが怒って、憤って、ユダを攻めようと計画しても、計画倒れに終る、決して行われることはない。そして9節に「エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」。「あなたがたが信じないならば、立つことはできない」と、アハズ王様に言われた。これは今も変わりません。私たちに対してそう仰います。「信じないならばあなた方はたつことはできない」と…。

もう一度始めのイザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。先ず、神様の前に、今、すべきことは何か。それは、立ち返って、祭壇を築いて、神様が万物の主であることをはっきり信じて、私たちが、神様の手の中にある者であることを認めて、一切を委ねて、その時を待つ。神様が、何をせよと言われるかを、祈り待ち望む。そして祈っているうちに神様が「これをしなさい」、「ここへ行きなさい」、「ここは止めときなさい」と教えて下さる、語って下さる。その時、信仰をもって、「はい」と受け止めて、従う。自分ができる、できないとか、そんな力が有る、無いとか、そんなことを思っては駄目です。主が「せよ」と言われるなら、すぐに「する」。また「出よ」と言われるなら「はい」と出て行く。そうすると、神様は私たちの味方となって下さる。

ですから18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。神様は、私たちのために備えた恵みを施すと言われる。その恵みを体験しようではありませんか。あのヨシャパテ王様に神様が言われたように、「この戦いは、あなた方が戦うに及ばない。勝利を見るために出て行きなさい」と。今日も、神様の力を現し、神様の業を見せるために、私たちを様々な問題の中に遣わして下さいます。その所々で、神様の前に自らの姿勢を整えて、主に立ち返って、先ず祭壇を築き、そして神様の指示を待ち、神様の業を味わう者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(38)「今を生きる」

2013年10月29日 | 聖書からのメッセージ
コリント人への第二の手紙6章1,2節を朗読。

今朝はこの2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。

日々の生活の中で、いつも将来の事を考えています。これから自分はどうなるだろうかと、絶えず思って生きている。テレビのコマーシャルを見ても、最近は生命保険や病気入院特約付き等の癌保険のコマーシャルが多い。それを聞いていると、今あなたは40歳、60歳、これから70歳80歳90歳、そうなるとこの時にはこうなって、病気で入院したらこれだけの保障があると言う。それは将来の事を言っているのです。これからその年まで生きた時にはこうなりますよ、こういう痛い目に遭いますよ、こう病気に遭いますよ、その時にはこれだけ沢山の出費がかかりますよと。最近、郵便局でも盛んにそういうものを勧めます。郵便局に行きますと、直ぐに掴まえられて「失礼ですが、お年はお幾つですか」「62歳です、もうすぐ63歳になります」と言ったら、「これから大変ですね」と言われます。「何がですか?」「病気がありますよ、またいろいろと周辺に不幸な事も起こってくるでしょう。そのために今から備えておかなければ」と言われます。私はそういう先の事をあまり考えられない。でも、多くの人にとって、確かに将来が身に迫って感じられる。そのためにいろいろな準備をし、備えをしておく。備えるだけの余裕のある人はいいと思いますが、その日暮らしでは備える余裕もない。先の事を考えても心配ばかりです。

恐らく、皆さんもそうだと思います。自分の将来のこと、老後のこと、一体どうなるだろうかと考える。考え始めると、大抵良いことは考えない。と言うのは、若返っているわけではないから。どんどん能力は落ちていく、体力は落ちていく、身体的ないろんな障害は出てくるから、先のことを思えば思うほど、「今よりはもっとひどくなるなぁ」と考えてしまう。それは当然のことかもしれません。そうすると、どうしようか、こうしようかと、策を考えますが、その道が分からない。愈々お先真っ暗になって失望し、「どうしよう、どうしよう」と心配しつつ、日々を過ごす。先の事を考えることは確かに必要なことであり、また備えていくことも大切だと思いますが、将来、そうなるとは限りません。しかもその時があるかどうか、これは私たちには分かりません。保険の外交員が「女性の場合は、平均年齢で87歳くらいは生きるでしょう。それも、毎年更新されて90歳くらいまで伸びるでしょう」と言われると、なんだかその年まで生きそうな気がします。しかし、何の保証もありません。

ヤコブ書にあるように、私たちは明日のこともわからないのです。何時どんなことが起こってくるかわからないから、将来を心配するより、今という時をどういう風に生きるかが、むしろ大切だと思います。将来のことは私たちの手にありません。未来があるのは若い時だけです。60歳を越えたら未来はない。あまりそういうことを心配しない方がいい。「明日のことを思い煩うな」と言われます。思い煩いの中心は、「今」のことではない。今のことを思い煩っている人は殆んどいません。「今」ではなくて、その先の事なのです。今、こんな状態だから、にっちもさっちもいかない、身動きが取れないという悩みではなく、「今は取り敢えずいいけれども、明日はどうなるだろうか、或いは一ヵ月後、一年後にはどうなるか分からないから不安です」と言う。しかし、先の事って、私たちには到底どうにもしようのない事なのです。そうでありながら、つい考え込んでしまう。それは、自分の力、自分の才覚で何とか安心を得ようとするからです。この世は神様を知らない社会です。人の力、人間の努力と熱心で、一生懸命に営々と築いてきた生涯だと思うから、これからも自分の責任であり、自分が何とかしなければと思っている。しかし、必要なことは、私たちの将来も、実は神様の手の中に握られている、神様が支えて下さっていると信頼する以外にない。どういう事が将来起こってくるか、それは神様がご存知で、私たちはそれを知り得ないのです。それなのに、先のことを思って、「今」を心配と不安とで過ごしています。

私も昨年病気をして一年経ち、昨年の今頃、どういう気持ちで過ごしていたかなと思って、ちょっとメモを開いてみると、結構心配ばかりしていた。今思うと「馬鹿なことを考えていたな」と思うのですが、それは後になって思うことです。今は「そんなに心配しなくて良かったのだ」と思いますが、その時のことを振り返ってみると、これからどういう風に展開するだろうか、この病気がこうなったらどうしようか、ああなったらどうしようかと、いろいろ思い煩っていました。結局、思い煩って、「今」という時を無駄に終わらせている。先のことを心配し始めたら、今のことが手につかない。ただボーッとして考えて、気がつくと、夕方になっていた。先の事で思い煩い、今という時を失っている。

私は、そういう中を通って、その事を深く教えられました。つい気がつかないうちに、先の事を考えて、心配になる。不安になります。そうすると、今していることに手がつかなくなる。楽しいはずなのに楽しめない。テレビを見ても笑えない。人と会食をして美味しいご馳走を食べながらも、そのことばかりが頭にありますから、目の前の食事も砂を噛むような味気ないものになります。ある時、それに気がついて、自分は一体何をしているのだろうと思いました。私の心配は先の事ばかりで、今、目の前に美味しいご馳走があるのに、これを楽しまないでどうするのだ!生きるというのは、今を生きる以外にないのです。これから先、生きるかどうか、これはわからない。だから、未来という時間は、私たちの手に無い。あるのは、今という時です。今こうして元気で、今日こうして生きていることを、感謝し、喜び、楽しめばいい。それなのに、まだありもしない未来のことを考えて、今という時を、今日という日を、真っ暗にしてしまっている。それでは人生を生きているとは言えない。わたしは自分自身の体験を通してそう思いました。「そうか、もうこれから先どうなるか分からない。『死ぬべきは死ぬべし』だ。今という時を楽しもうではないか」。これは神様が与えてくださった恵みだと思います。

ですから、1節に「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない」、ここに「神の恵みをいたずらに受けてはならない」。「いたずらに」というのは、「無駄に」とか、或いは「虚しく」、何の役にも立たないものにしてしまわない。今、幸いであるはずなのに、感謝して喜んでおるべきなのに、将来の事を考えて、今という時を無駄に過ごすこと、これが「恵みをいたずらに受ける」ということです。コリント人への第二の手紙12章に「わが恩恵(めぐみ)なんぢに足れり」とありますように、神様は今日という日の恵みを豊かに注いで下さっている。「あなたに対して十分だよ」と仰っている。その恵みは、過去でも、将来でもない。今この時に、神様は恵んで下さっているのです。そして、その恵みは十分であると言われている。それだけの恵みを戴いているはずです。ところが、それを感謝し、喜んで生きることをしなければ「いたずらに受ける」ことになります。無駄に時を流していることになります。

もう一度、自分の生き方をどの時点に、過去に置くのか、今に置くのか、或いは将来に置いて生きるのか、ここを定めておきたいと思います。私どもはともすると、先の事ばかりを考えて、今という時を無駄に終らせてしまう。中には後ろの事ばかりを考える。そっちの方が多くなっているのかも分かりません。先が望めないから、先の事を考えると尻すぼみだから、後ろの事ばかりを見る。「20歳の頃はああだった、こうだった」。誰かれなく寄ると触ると、昔話にスーッといくでしょう。それは今という時を感謝できないからです。今よりも過去が良かった。確かに、良かったと思います。もっと元気はつらつで、また若々しくて、何を着ても似合う時代があった。お化粧もしなくても良かった時代があったのです。しかし、今になって「あの時が良かった、あの時が良かった」と思って、「今はこうだから駄目だ、今はこんなだから悲しい、嘆かわしい」と言うのだったら、これは神様の恵みをどぶに捨てているようなものです。「いたずらに受けている」のです。過去も、確かに栄光に満ちていた、輝いていたかもしれない。今はその輝きがないと嘆かれるかもしれない。しかし、もう一度、今という時を、自分に与えられた恵みをよく見直して…。今の時でなければ味わえない神様の恵みがあるのです。今の時の神様の恵みが分からないから、また、それを感謝して受けようとしないから、「昔がよかった、あの時が良かった。もっとこうだったら良かった」となる。「あの時に私があんな事をしなければ良かった、こんな事をしなきゃ良かった。あの時に私がこうしたから、こんなになってしまった」と言って、その過去の故に今を嘆く。或いは今を楽しめない、喜べない、感謝して受けられない。これは神様の前に申し訳ない事です。

ですから、2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』」。神様は恵みの時、救いの日を設けて、私たちの祈り、願いを聞いて下さる。命を与え、健康を支えて、知恵を与え、力を与えて、今日も神様は私たちを恵んで下さっている。この恵みが与えられ、救いが与えられる日はいつか?それは「今」なのです。だから、2節の後半に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。今、今日という日、この日こそが実は恵みに出会う時であり、神様の恵みを味わう時です。神様の恵みは、昔あったという、過去ではない。またこれからもっと良くなる、或いは神様の恵みは今はないけれど、将来あるに違いないというものでもない。今、今日という日に神様の恵みに出会うことができる。

それはどういう恵みかというと、まさにこの2節にあるように「あなたの願いを聞きいれる」、神様が私たちの願いを、今聞いて下さる時が与えられている。これは私たちに大きな恵みです。確かに、健康であるとか、食べるものに事欠かない、生活する場所があり、また着るものがあるという、いわゆる、事情境遇そういうものは一応一通り整って、与えられている事も恵みではあります。しかし、もっと素晴しい恵みがある。今、神様を呼び求めることができる。そして神様の答えに出会うことができる。神様に触れることができる機会を与えられている。それは今でないと駄目なのです。今日でなければ神様に出会うことはできない。明日が有ると思いますが、明日どうなるか私たちは分かりません。生きているかどうかも分からない。だから、今日、神様は私たちの間近に近づいて下さっている。私たちの傍に立っていて下さる。その時はいつかと言うと、明日でも明後日でもない、今です。今日この時に、神様を呼び求め、神様の前に出て行くことができる幸いな時、また、「救いの日にあなたを助けた」と、今日が救いの日であって、私を助けて下さる。それは明日でも明後日でもない。今です、今日です。ですから、へブル人への手紙4章にありますように、私たちのために執り成して下さる「大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」、彼は「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」、「はばかることなく恵みの御座に近づきなさい」と勧めて下さるでしょう。「はばかることなく恵みの御座に近づきなさい」と言われているのは、来年の何月何日に来なさいと言う約束ではない。今、今日、神様が救って下さる。そしてその救いと恵みの中に、今日も私たちは生かされている。そこが救いの日であり、それが恵みの時です。今という時を抜きにして、時はないのです。

ですから、私は将来の事は考えない。先の事はどうでもいいのです。神様が握って下さるのですから。今、今日という一日を、与えられたところで力を尽くして、感謝して、主の恵みを恵みとして味わうことが求められている大切な事だと思います。だから、来年になったらこうしよう、ああしようと言わないで、今、教えられ、導かれていることがあるならば、今日という日に直ぐに従っていく。だから、あなたがたは、「心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」と勧められています。神様が語って下さる、神様が導かれる時が今である。その時に「はい」と従っていく。明日に伸ばす、明後日に、来年にと、先延ばしにするのではない。これはとっても大切な生き方です。信仰に立って生きるとは、このことです。

エペソ人への手紙5章15節から17節までを朗読。

16節に「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」。「今の時を生かして用いなさい」と言うのです。何故かと言うと、「今は悪い時代」、私たちは神様を離れた時代に生きている。神様を敬わない、尊ばない時代に生きている。誠にそうだと思います。今は悪い時代です。悪い時代だからこそ、今という時、恵みの時を神様が備えて下さった。これは大きな恵みです。もし、時代が良くて、全てのものが神様の御心に叶う世界だったら、何処に、どんな神様の恵みがあるか、全てのものが光っていてそれは見えません。ところが悪い時代だからこそ、神様の恵みを求め、助けを求める時、鮮やかな神様の業を見ることができます。
だから、「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」。今は確かに、「わが人生で最悪の日だ」と思われるかもしれません。だからこそ、悪い時代だからこそ、神様の恵みがあり、救いがあるのです。今という時を、そういう時としてはっきりと掴んでおきたい。

17節に「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」。自分が悪い時代にある、自分の生涯の中では最悪の時代だ。或いは、世の中も世界も、人間の歴史を振り返ってみると、一番悪い時代に陥っているのかもしれません。社会も悪い時代に入っている。そればかりではなく、皆さんの人生にとっても、今日は生涯最良の日と思えないでしょう。どこかで、「もうちょっとあそこが、ここが、こうなっていてくれたら、最良と言えるのだが、せいぜい10番目くらいかな」と言う。今が、「悪い時代だ」と思っているならば、感謝したらいい。何故ならば、「今は恵みの時、今は救の日である」。 恵みの日に神様が私たちの願いを聞き入れ、救いの日に私たちを助けて下さる。その恵みが間近に今あるからです。だから、今という時に真剣に主を求めて、主の恵みに感謝して、力いっぱい喜んで、楽しんで、生きようではありませんか。神様はそれを願っておられるのです。だから、この17節に「主の御旨がなんであるかを」と。神様が今私に何を求めているか、神様は私に何をさせようとしているのか、ひたすらに求めることです。神様を求めて行く時に、今の時に、どういうことをしたらいいのか、今何を楽しんだらいいのか、神様は今どういう恵みを与えて下さっているのか教えて下さるでしょう。

自分の受けている恵みが沢山あるのに、それに気づかない。そして、欠けた所、足らない所ばかりを数えようとする。人というのは案外そうなのです。「どうですか、お元気そうですね」と言うと、「いいえ」と。「どうしたのですか」と言うと「いや、腰が悪い、目が悪い、手が何とかで…」、もう体中病気の巣と言わんばかりに、「少しはいいこともあるでしょう」と言ったら、「何がですか!」と言われます。だから皆さん、お年寄りに出会ったら、お元気そうだと言わないほうがいい。「今日も大変そうですね」と言うと、「あら、分かりますか」と喜ぶ。「お元気そうですね」と言われるのは嫌がる。何処かに悪い所がないと自分の生き甲斐がないと思っている。しかし、それでは神様の恵みを味わうことができない。今日もこうして歩くこと、立つこと、食べることができる。それらを感謝すると、神様の恵みがどんなに豊かであるかが分かります。

私の母は脳梗塞をして、少し左側が不自由になりました。しかし、母は召されるまで、一言も「こんな風になって嫌だ」と嘆いたり、呟いたことがない。寧ろ私の方が嘆くのです。「もう少し、あの時注意しといてくれたら、こんなに成らなかったのに…」と母に言ったことがある。しかし、それでも母は「そうよね」とは言わない。「いや、これも神様が何か教えて下さるためにして下さったことで…」と感謝する。ちょっとでも何かできたら、「こんなことがができた」。ある時、おにぎりを作ると言うのです。おにぎりは片手でではできない、両手がいります。自分は作れないと思ったけれども、孫のために作ったのです。やってみたらできた。「おにぎりが握れたのよ」と言って、喜んでいたことを今でも思い出します。何かできると「こんな事をさせていただいた」と喜べる。神様の恵みを絶えず数えるのです。

そうでない限り、今申し上げましたように「お元気ですね」と言われたら、腹が立つ。自分が願ったような元気じゃないと思っているからです。そうではなく、主の御旨がなんであるかを悟る。「神様が、今この事を私に与えて下さっている。感謝です」と言えたら、どんなに幸いか分からない。今という時を最大限に輝いた日として送ろうではありませんか。「いや、私の輝く日はもう少し先で、この病気が治ったら…」とか、「この事情境遇がよくなったら、私は喜べるから、そのときは喜びます」と言っていたら、その日は来ないのですから、今という時を感謝して…。それが「今は恵みの時、今は救の日」なのです。明日どうなるだろうかを考えて、今日を暗い、根暗な一日を送るのではなく、「主は私の牧者!」ですと、心と思いを定めましょう。神様が羊飼いであり、今日も私を導かれる方であって、私が先頭に立って進んでいるわけではない。絶えず導かれる主を見上げて、イエス様の御声に従っていくことを、今日という日に努めるのです。これが今、恵みの時、救いに与る絶好の喜びの時なのです。どうぞ、今日こそが私の生涯最良の日でしたと言える日を、毎日送りたいと思います。

列王紀下5章25節から27節までを朗読。

これはエリシャ先生の弟子であったゲハジと言う人の失敗です。エリシャ先生の所にスリヤのナアマン将軍が自分の病気を癒してもらうために来ました。ナアマン将軍はヨルダン川に身を浸して、すっかり癒されて大喜びをした。そして、エリシャ先生の所に戻って来まして、「先生どうもありがとうございました」と大いに感謝し、自分が持ってきたお土産をエリシャ先生にあげようとしたら、先生は「そんなものはいらない」と言ったのです。「あなたからそんなものを貰うことはできない。早く帰りなさい」と追い返されました。それを見ていた弟子のゲハジは、「先生は欲が無い」と思い、何とかそれを少し貰いたいと思ったのです。それでこっそりと裏口から出て、ナアマン将軍が帰って行く後を追っかけて、呼び止めたのです。「先ほどは失礼をしました。いらないと言ったのですが、実は今度、預言者の仲間で貧しい人が来るから、その人にあげたいから、少しだけでいいから分けてください」と求めました。ナアマン将軍は、喜んで「是非、持って行ってください」と、あれもこれもと沢山貰ってゲハジはそっと帰って、家に入って自分の所に隠して、知らん振りをしていました。

そしたら、エリシャ先生が、呼んだのです。「ちょっと来なさい。あなたは何処へ行っていたの」、「いや、何処へも行きません」と。そしたら、「わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか」と。これはややこしい言い方ですけれども、「いや、わたしはちゃんと見ていたよ」と言うのです。「あなたの事は全部分かっているのだから…」と言われた。そして26節に「今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか」。今、あなたは何をすべき時なのか。このゲハジは恐らく自分の将来を考えたのです。エリシャ先生が死んだ後、自分はどうなるか分からない。今のうちにちゃんともらうべき物を貰っておこうと思ったかもしれません。だから、ナアマン将軍の所に行ってあれやこれやといろいろなものを貰ってきて、それを全部自分のために貯えたのです。彼の心を、エリシャ先生はちゃんと見抜いていたのです。「誰を今あなたは頼りとしているのか」と言う。だからここで「今は金を受け、着物を受け、はしためを受ける時であろうか」と。「そんな将来のためになんて、お前は馬鹿なことをするな」と言う。今すべきことをちゃんと果しなさい。今、あなたは恵まれているではないか。あなたがそんなものを求めなくても良いじゃないか。神様を信頼するべきことではないか」。とうとうナアマン将軍の病気がゲハジについてしまった。重い皮膚病になってしまった。本当に気の毒なゲハジですね。

神様の恵みから落ちてしまったのです。ゲハジは今自分が与えられている恵みを感謝することができない。不足を思って、それを何とか補い、また将来の事が心配だったから、自分の身の安全を考えて、自分のためにナアマン将軍から物を受け、金品を受けたのです。しかし、それは、神様の恵みをいたずらにしてしまった、蔑ろにしてしまった。私たちもともすると、そういうところに陥ります。将来のこととか、いろんな事を考えて、「ああしといたら、こうしといたら」と、この世の人々に倣って、この世の人々の生き方に染まってしまう時、ゲハジと一緒の失敗に陥って、信仰を失ってしまう。魂が死んだ者となる。そうじゃなくて今は何をする時か。

もう一つ、ホセア書10章11節、12節を朗読。

12節に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である」。今は恵みの時、言い換えますと、今は主を求める時、主は私たちに応えて下さる、願いを聞きいれて下さる、助けて下さる時だ。今と言う時は、そういう大きな恵みが与えられている時です。神様を求めることをしないで、ゲハジのように金品を求めて、自分の安全を、自分の将来を保証しようとする。これは愚かなことです。魂が死んでいくに違いない。そうではなく、今は恵みの時であり、救いの日だから、主を求め、神様を求めて、信頼し、喜びと感謝と、命に輝いて生きようではないかというのです。

この12節に、「自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り」とありますが、これは、神様が私たちを義としてくださった、十字架の血潮によって贖って下さった、その身分をしっかりと確かなものとすることです。そして「いつくしみの実を刈り取れ」と。私たちが蒔かなかった、労せずして得られる神様の祝福の実を受ける者とされ、そればかりでなく、「あなたがたの新田を耕せ」、「新しい田を起こせ」と仰る。もっと、もっと、神様に期待するところを大きくしなさいと言う。もっと天幕を張り広げよとイザヤ書に記されています。小さなところで安住しないで、「ここでもういい」と言うのではなく、今の時を大切にし、大切にするからと言って、この幸せを失いたくないなんてしがみつかないで、今の時を大いに喜び、楽しんで、更に先に向かって、神様に期待をする。「新田を耕せ」ということはそういうことです。

何故ならば、主が「救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」。田を起こしても、今年の梅雨のように空梅雨だと田んぼの水がないから、苗を植えられない。稲は育たない。神様は豊かな雨を降らせるから、あなたは期待して、大きく新しい道へ踏み出して行きなさい。神様が仰るように、今は恵みの時だから、主は私たちの願いを聞いて下さるのだから、喜んで主を求めていく。それに対して主が応えて、恵みの雨を降らせて下さる。そればかりでなく、更に大きく今よりももっと大きな期待を神様に持ち続けることができる。

もう一度初めに戻りますが、コリント人への第二の手紙6章2節「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。ともすると私たちは、先のことを心配し、先細りになります。あまり新しいことはしないがいい、慣れんことは止めとこうと、どんどん守りの姿勢になってしまう。そうでありながら、先のことばかりを心配する。そうではなく、今ですよ、今日!です。今日が私たち人生の最良の日であり、神様が私たちの傍近くにいて下さり、恵もうとして下さる時です。与えられたところで大胆に、先のことを心配しないで、力いっぱい為すべきことを果して行こうではありませんか。そうすると神様はそれに応えて、願いに応えて下さり、救いを与えて下さる。雨を降らせて、実りを豊かにして、喜びの収穫を与えて下さる。先を心配しない、思い煩わないで、恵みを味わっていきましょう。

ご一緒にお祈りしましょう。

聖書からのメッセージ(37)「神の恵みを受けるには」

2013年10月28日 | 聖書からのメッセージ
ヘブル人への手紙3章12節から19節までを朗読。

今朝は13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。

12節には「あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない」とあります。「まさか、私のことじゃあるまい」、「私は絶対神様から離れることはないわ、そんな事はあるはずがない」と思っています。しかし、どんなに堅く決心しても、案外ケロッと「かたくな」になって、神様から離れてしまう。「あの時、あんなに熱心だったのに、今あの人はどうしたかしら」ということは幾らでもあります。私は子供の頃、そういう経験を幾つかしましたので、人間不信に陥ったように思います。熱心に、早天祈祷会は来る、日曜礼拝は休まない、伝道集会、祈祷会も来る、そのあげく集会のない日は牧師館に来て食事をする。それで、私どもも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言って親しくなります。ある日突然パッタリ来なくなった。「一体どうしたのかしら」と心配する。そのうち、どうも「榎本先生に躓いて、あんな人とは思わなかった。もう教会には行かん」と、そんな話を人づてに聞きます。「あんなに熱心だったのに、一体あれは何だったのだろうか」と疑う。その頃、私は、「人というのは、そんなに簡単に心が変わるものかな」と不思議に思いました。しかし、大人になって、自分がそうだと気づきました。

私たちの心ほど厄介なものはない。自分の心であって自分のものでない。自分の中に、魔物が住んでいるとよく言いますが、その魔物とは「心」です。心がどういう状態にあるか、それが人間のあり方だと思います。生活状況が改善されて、豊かになり、物の溢れる時代になっても、心だけは一向に変わらない。それが証拠に、聖書に書いてあることが、「これは私のことだ」と思うことが、どれだけあるか分かりません。しかも書かれたのは2千年以上の昔です。変わったのは人の外側だけで、内側は少しも変わっていない。だから、私は「進化論というのは、どうも眉唾だな」と思うのです。進化論が真実であれば、3千年も続いたら、人間も少しは進化するかと思うのですが、そんな変化は何処にも見られない。いや、寧ろ現代の私たちの心ほど、これまでにないほど悪に満ちていると言えるでしょう。弥生時代だとか、縄文時代、遥か昔の竪穴住居に住んでいた時代、そういう時の方が人間らしい、温か味があると言えます。原爆だとか大量殺戮兵器だとか、そんなものはありません。

しかし、「心」というのは、自分の力でどうにもならないものです。自分の心だから自分が思うように、自在にどうかすれば良さそうなものですが、それができない。皆さんもご経験の通りに、「こんな私じゃ駄目だ、これから、もう少し優しい人間になろう、もう少し人のことを考えてあげよう」と思いますが、それは思った時だけ。何分もしないうちにコロッとひっくり返って、「そんなことを思った私が馬鹿だった」となります。そのくらいに人の心というのは変わります。“女心と秋の空”と言いますが、女の人ばかりではなく、人の心はみな変りやすい。しかも、変わるのは、根がないのではなく、根深い何かがあるのです。

12節あるように、「不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る」と。しかも、「罪の惑わし」と13節にあります。人が神様を離れて、罪の支配に陥っている故に、心が清くなることができない。幸いな心に成り得ない。罪が私たちの心を掻き乱してくるのです。13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って」、罪が私たちを惑わして、心をかたくなにする。心がかたくなになるのは、罪が働いているから。「かたくなな心」というのは、英語の聖書を読みますとリフュージング ハートと書いています。Refuseというのは「拒む、撥ね除ける、或いは受け入れない」という意味です。心がそのようになるのです。皆さんでも、「これをどうぞ食べてください」と勧められ、「いや、私はそんなものは食べられん」と突っ張る。或いは、人が親切にしようとすると「そんなことして貰いたくない」と即座に断る。段々、年を取るとそうなってくる。堅い心になる。それは「罪の惑わし」です。

この世で生きていく上で、この「頑なな心」というのが厄介です。家族の中でもそうでしょう。夫婦であれ、親子であれ、親切に相手のことを思って「こうしたらどうですか」、或いは「これをこうした方が良いですよ」とアドバイスする。「そうね、じゃ、そうしようね」と素直に聞くことができたら、物事はスムースにいく。ところが、それが聞けない。「こうしよう」と言ったら、「いや、そんな事はせんでも良い」と…。

家内の両親が、父親は90歳になり、母親は84歳になりますが、大変頑なです。家内は娘ですから、親の面倒を看なければならないと思う。一生懸命に尽くします。しかし、案外と喜ばない。美味しいものを食べさせてやろうと、買って行きます。すると「何だ、そんな余分なものを買ってきて!もう買って来るな!」と言われる。そう言う親の気持ちも分かります。「費用をかけてまでせんでもいいよ」という気持ちは分かるのですが、「こんなものを持ってこんでもいい!」と、怒って言うものですから、よほど気に入らないと思って、持って行かないでおくと、母親の方から回り回って聞えてくる。「あれをまた食べたかった」。食べたいなら食べたいと素直に言えばいいのですが。冬になったから寒かろうと思って、セーターを買って行った。そうしたら気に入らなくて、「こんなの、持って帰れ!」と、持って帰れと言われても、「せっかく買ったのだから、使わなくてもいい、置いておこう」と置いて帰ったのです。一ヵ月くらい経って行って見たら、ちゃんと着ている。母に聞いてみると、「ズーッとこれを着ていて、洗濯したいのだけれども、脱ごうとしない」と言う。そんなに気に入ったのなら、初めから「有り難う」と言ってくれれば、どんなに幸いかと思うのですが、そこが言えない。悲しいですね。

皆さんも振り返ってみて思い当たることが沢山あるでしょう。「頑なな心」に対して、その反対は、「柔らかい、砕けた、従いやすい心」です。そういう心を持ち続けることが何よりも大切です。人と人とがうまくやっていくうえで、なによりも大切なことです。たとえ親子であれ、またこういう教会の集まりであってもそうです。教会に来ている方々は柔らかい心になっていると思いますが、時々そうでない方もいらっしゃる。「どうぞ、ここにお座りなさい」「いいえ、私はここで結構です」。座る所一つ何処でも良さそうなものですが、勧められたら「はい」と言えばいいのに、「私はこっちです」と端っこに座って、「私は教会の末席に席をいただいておりまして…」と謙遜のつもりかも知れませんが、非常に頑固です。だから、人から勧められたら「はい」と素直になることが大切です。

しかも、それは人に対して素直になるばかりでなく、実は神様に対してもそうであります。一番肝心なのは、神様に対して「素直な心」になることです。「私は人には素直でないけれど、神様には素直だからいい」と、居直る方がいますが、それは嘘です。見えている人に従えなくて、見えない神様には絶対に従えない!だから、奥さんがご主人に従えなくて、神様に従うことはできない。ご主人が奥さんに従えなくて、神様に従うことはできない。「先ず、神様の前に」というのが、根本です。人に従えないのは、実は神様に従えないからです。神様に対して素直になれないから、人に対しても素直になれない。人に頑なで、神様に従えるというのは嘘です。神様に従えない人は人にも従えない。神様に従える人は人にも従える。何かややこしい話になりましたが、もう一度申し上げますと、神様に従える人は、人にも従える。しかし、人に従えない人は、神様にも従えない。人に従える人は、神様にも従える。これは言えますね。13節に神様が、「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。殊に、神様に対して従うことができないと、これは大きな損失です。実はその失敗をしたのがイスラエルの民でした。

そのすぐ前のところをちょっと読んでおきます。同じ所の3章7節から10節までを朗読。

イスラエルの民が神様に背いて、大変な失敗をした時がありました。それは、エジプトでの奴隷の生涯から救い出されて、モーセによってカナンの地を目指して旅をしました。愈々カナンの地を目前にした、カデシ・バルネヤという所まで来ました。ヨルダン川を渡れば、約束の地カナンに入るという時に、神様は一つの試みをなさった。12部族から一人ずつ代表を選んでカナンの地を探らせ、偵察させました。そこにどんな食料があるか、どういう人が住んでいるか、どういうものがあるか、調べてくるように出かけて行ったのです。12人は、行き巡ってカナンの地を調べました。帰って来て民に報告した。その時、良いニュースと悪いニュースとがありました。喜ぶべきニュースは、カナンの地は作物が豊かな所で、生活するには不自由がない、いい所だということでした。みんな喜んだのです。ところが、もう一つニュースがある。それは、その地に既に人が住んでいる。しかも、そこにいる人たちは背も高くて、巨人族である。彼らが町を造り、城を設け、強い兵隊を持って、住んでいる。もし、自分たちがそこへ行ったら、ひとたまりもなくやられてしまうに違いない。そういうニュースがありました。その時、民は非常にがっかりして嘆きました。

そこのところを読んでおきたいと思います。民数記14章4節から10節の前半までを朗読。

このニュースを聞いたイスラエルの民は、非常にがっかりして失望しました。こうなったらモーセに従って、死ぬような所へ行くことはない。もう一度エジプトに帰ろうではないか。4節に「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」という話になった。その時、ヨシュアとカレブとが立ち上がって、民に勧めました。7節以下にありますように「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。8 もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう」。「神様が『行きなさい、わたしがその地をあなた方に与える』と仰っているのですから、神様が良いと言われるならば、それは実現することで、大丈夫だから…」と。これがカレブとヨシュアの信仰でした。「神様が『行け』と仰っているのですから、それに従おうではないか。確かに目に見えるところは、困難があり、死が待ち受けているような事態があるかもしれない。しかし、神様がそう言われたのだから…」と。

9節にありますように、「ただ、主にそむいてはなりません」。神様だけには背いてはいけない。例え、不安があり、自分たちが考える限り「これはもう見込みが無い、もう道が無いと思われるかもしれないけれど、しかし、神様が『行け』と言われるならば、『与える』とおっしゃるならば、神様はその通りにして下さるから、従おうではないか」と、ヨシュアとカレブは彼らを説得した。それでもイスラエルの民は聞き入れず、10節にあるように「会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした」。彼らを撃ち殺して、別のリーダーを立てて、エジプトへ帰って行こうと決めたのです。とうとう神様は、この民に怒りました。憤りを表して、「この民を一人残らず滅ぼしてしまおう」と言われた。ところが、モーセは神様の前に立って執り成して、「この民を見捨てないでください、あなたが約束したではないですか」と、迫りました。神様は、「じゃ、お前がそう言うからこの民を許そう。ただ一つ条件がある」と。それは今反対した人たち、神様に背いた者たちは、カナンの地に入ることができない。そのために40年間荒野を彷徨(さまよ)って、彼らがみな死に絶えて、次の世代になってカナンの地に入ることができる。とうとう、エジプトから導き出された最初の人たちは、荒野でみな死んでしまって、カナンの地に入れたのはその後の世代の人たちです。問題だったのは、神様の言葉を聞きながら、それに従うことができない頑なな心。自分たちに都合が良い事になると、神様を信頼し、「神様!」と言いますが、自分の思いと違うと途端に心が頑なになる。そして、神様の恵みに与ることができない。これは今も変わることのない真理です。神様の言葉を聴いて、それに従う時に、神様は恵んで下さるのです。ところが、私達は神様の言葉に反発するのです。

聖書を読んでいても、この言葉は煙ったい、私のことを言われているようで、嫌やだからチョット飛ばして、一頁先を読む。何処かに自分の都合の良いことはないかしらと探して読んだりする。これは大きな間違い。それは私たちが心で、神様を拒んでいるからです。祈って、神様に近づいて、呼び求めている時、神様は御霊によって、神様の霊によって、私たちに語って下さることがある。右に行くべし、左に行くべしと。その時、神様が語って下さることを信じて従う。ここに神様の恵みを受ける秘訣がある。この時、イスラエルの民は、見てきた人たち、偵察をしてきた人たちの結果を聞いて、「それだったら、もう駄目だ。そんな国だったら駄目だ。神様は『行け』、『そこを与える』と言われるけれども、本当なのだろうか。そんなことはありえない」と思いますが、そこで神様の言葉ですからと素直になって、み声を聞くことが、恵みに与る秘訣なのです。

神様に祈って、この道が備えられる。ところが、どうしても自分の思うような道ではない。すると「どうも違うのではないか」と言われる。先だっても、一人の姉妹が「先生、ちょっと相談があります」「どういうことですか」、「一つのことで祈っておりました。祈っておりましたら、私の願いと違うことばかりが起こってくるし、求められる。神様の御心は何処にあるのでしょうか」と言われた。「いや、今あなたが与えられていること自体が、神様の御心ではないでしょうか」、「これは私の願いと違うんですけれども、それでも御心ですか?」、「神様の御心であって、あなたの御心じゃないでしょう」と言ったら、「え!そんなの…」と言って、帰って行かれましたが、その後どうなったか分かりません。神様がその道を備えて「これが道だ、これを歩め」と言われるのに、「いや、どうも違う。あれを考え、これを考え、あの人、この人から話を聞いて見ると、どうも違うように思うから…」と言って拒む。あからさまに神様に、「神様、それは間違えておられます。私はそんなのは信じられません」と言わない。言わないけれども、上手にそれを回避していく。避けて行こうとする。

ですから、もう一度始めの所に戻りまして、ヘブル人への手紙3章13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように」。どんな問題・事柄の中に置かれても、そこで「神様には絶対従うのだ」、神様が置かれた所、神様に与えられた道であるならば、そのことを信じて自分の思い、損得利害、好き嫌いによらないで、「神様が求めていることです」と信じて、素直に、神様に従っていく。その時、神様は、私たちの想像を超えた、思いを超えたことをなさる。事実そうだったのです。40年の荒野の旅を終わって、イスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入って行きました。確かに、そこには巨人族がいて、エリコの町という堅固な城塞都市がありました。武器も何も持たなかったイスラエルの民が、神様を讃美し、ほめたたえ、神様の言葉に従ってエリコの町の周りをぐるぐる回ったのです。一日に一回ずつ、7日間回って、7日目には7度回ってラッパを吹き鳴らした。その時、エリコの城壁が崩れるのです。神様は、イスラエルの民が、思いもしない、考えもしない、想像もつかないことを具体的に備えて下さった。今も私たちの信頼する神様は、私たちにそのようにして下さる。

神様が言われるところに従って踏み出して行くこと、素直になって神様の御声に従うこと、これが大きな祝福の源であります。ですから、今の13節に「心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに」と。主のみ声を聞いたら素直にその時に、心を頑なにしないように、「互に励まし合いなさい」と。お互いに神様が語って下さるところに従おうではありませんか。家族の人から一言言われたら、「あんたから言われたくない」と思わないで、「ああ、そうだね」と素直に聞くのです。それが「励まし合う」ということです。周囲の人が「だって、あなたはこうでしょう。こういうところがあるじゃないですか」と言われる時、人を通して神様が語って下さっている。そういう時に、素直に「はい」と、「ああ、そうだ」と受け止めて、心を新しくする。神様の祝福がそこに現れてくるし、想像のつかない事を神様がしてくださいます。

大分前ですが、私の友人の家族が夏休みを利用してやって来ました。その頃、小さな子供たちが4人いました。朝、食事をする時、家内がデザートにと果物を切って、食事が済んだらこれを食べようと置いたのです。お姉ちゃんが、食事よりもそのデザートを先に食べたかった。ところが、それをお父さんが叱ったのです。先ずパンや牛乳を食べて、食事が終ったらこれをあげる。でもその子は頑として言う事を聞かなかった。とうとうお父さんは、「あなたはもう食べなくてよろしい、他所の部屋に行きなさい!」。私どもは、親が子供を叱っていますから、シュンとして静かにいました。「どういう成り行きになるのかなぁ」と思って…。早く子供が「お父さんごめんなさい」と言えばいいのにと思ったのですが、その子もなかなか頑固です。言う事を聞かない。「向こうへ行け!」とお父さんから言われて、隣の部屋に行きました。お父さんは知らん振りをして「さぁ、みんなで食べよう」と、食事を始めました。その子は隣の部屋で何にも食べないで椅子にジーッと座っている。私はハラハラして、何とか食べさせてやりたいと思って、時々声をかける。「ちょっとこっちに来なさいよ」。頑として言う事を聞かない。とうとうその朝は食事抜きです。

私はその姿を見ながら、この御言葉を思い出すのです。あんなに心を頑なにして…、美味しい食事を食べそこなう。私達もそうです。神様が備えて下さる素晴しいことがあるのですが、目に見えないだけで、私たちが従わないが故に、それを食べそこなって…。そうならないために、日々の生活の小さな事で互いに心を柔らかくすることを学んでいこうではありませんか。

ご主人が言った時に、奥さんが「はい」と従うことを努めて御覧なさい。そうすると神様に従うことも楽になる。ご主人があれこれ言う時に、直ぐ右から左に反対ばかりするでしょう。だから、私どもは神様に従えないのです。できるだけ「はい」、「はい」と素直にならなくては、神様の祝福に与れないと思います。ここ13節にありますように「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする」、気がつかないうちに、心がかたくなになるのです。自分は本当にこんな優しい人間だ。私のように親切で柔らかい素直な人は居ないと思ってる。しかし、一言、隣の人から何か言われて御覧なさい。「いえ、結構です!」とパッと出る。「有り難う」というより、「そんなこと知っています!」と。私の父も比較的頑ななところがありました。何か珍しい話をすると、父は必ず「ああそうかね、初めて聞く話だね」とは言わない。「ウン、そうだ、そうなんだ!」と言う。そうなんだということは知っていたのかなと思う。負けん気が強いのです。

頑なになる時というのは、他人よりも自分が偉くなりたい、他人より先んじたいという思いがある。常に謙遜になることが大切です。そのために、私たちは自分がどんなに頑なな者であるかを認めなければならない。自分はあの人よりも優しい人間だ。少々出来がいい方だと思う心が、どこか隅にちょっとでもあるなら、それは止めた方がいい。

私は駄目なんだ!十字架にイエス様が命を捨ててくださり、あのむごたらしい刑を受けなければならない程の大罪、大きな罪が私にある。だから、どんなことがあっても、自分を誇るわけにはいかない。また、他人よりも自分が優れている者とは到底思えない。聖書には、「自分を他の人よりも優れたものと思ってはならない」と書いてあります。私たちはいつも十字架のところに立ち返っては、砕かれた者となる。主の憐れみによって、今日ここにあるのだと感謝して、そこに絶えず立ち返っていかないことには、自分を謙遜に置くことができないからです。自分が頑なな者であり、受け入れ難い者であり、本当に人に対して冷たい冷ややかな者であり、愛のない者であることを認めて、イエス様がこういうもののために、今日も「父よ、彼らを許し給え」と、取りなしてくださる。それゆえに許されている自分であることを認めて、他人に対しても、ましてや神様に対して謙遜になって、主が今日導かれる所、主が「せよ」と仰ること、主が「止めよ」と仰ること、一つ一つに「はい」と、一つ返事で素直に聞き従って行こうではありませんか。また、いろいろなこういう集会に出ては、自分の心を整えて、神様に前に素直な、砕けた、従いやすい心になる。

サウル王様はそれで失敗したのです。神様の命じられた事に従わなかった。明らかに従わない、反発したのではない。彼は一応従ったのです。「アマレク人を全滅させよ、皆殺しにせよ」と言われ、形だけはそれらしいことをしました。ところがちょっと従わなかった。神様の御言葉を少し曲げてしまった。そのために神様から、位を外され、王様の祝福から取り除けられてしまうのです。

そうならないために、神様の前には、従順な、砕けた魂を絶えず持ち続けていこうではありませんか。それが私たちの幸いな…、14節に「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となる」。私たちの初めの確信、イエス様の救いを感謝して、そして主を信じて、主の御声に、神様の御思いに、私たちが素直に従っていく時に、やがて私たちはキリストに与る者、キリストの栄光の姿に造り変えて、新しくして下さる。どうぞ、そのことを望みつつ、今この地上にある私たちは、日々何があっても、主には従う、神様には従う。人には従わんという意味ではないですよ。神様には従うということは、とりもなおさず他人に対しても従順な優しい砕けた心になって、従う者となるのです。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(36)「何を信じるのか」

2013年10月27日 | 聖書からのメッセージ
ヨブ記42章1節から6節までを朗読。

2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」とあります。

「神様を信じる」と言いますが、それはどういう事でしょうか。勿論、日本語ですから、意味は分かります。しかし、言葉を知っていても、また、語ることができても、「神様を信じる」とは具体的にどんなことを言うのか、もう一度、そのことを教えられたいと思います。

ヨブ記は、聖書の中でも非常に特異な記事として、多くの人々から注目をされます。ヨブという名は、意外と多くの人に知られています。何故、ヨブに興味があるかのでしょうか。それは義人が義の故に苦しみを受けるとは、一体どうしてだろうか。その不条理に興味を持つからです。世間では因果応報と言って、悪いことをした人は必ず報いを受ける。良いことをした人は良い報いを受けるのが、当然あるべき姿だと考えます。現実には、不公正のように見えても、“天網恢恢疎にして漏らさず”と言われるように、やがて収支決算の帳尻が合うように、報われるというのが、世間一般の考え方です。だから、正しいことをすれば、良い報いが受けられる。しかし、間違ったことをすれば、当然罰を受ける。

ところが、苦しい辛い悩みに遭ったヨブは、よほど悪い人であったかというと、そうでなかった。むしろ、正しい立派な尊敬すべき人物です。そんな人がこういう苦しいことに遭うとは、一体どうしたことだろうか。神様は、公平な方ではなかったかと疑問に思います。確かに、神様は公平な方であり、“その播くところは刈るところとなるべし”とあるように、その結果を刈り取ると、はっきり記されています。神様は、それを蔑(ないがし)ろになさる方ではない。ですから、神様は義なる方で、公平に、全てものを正しく導かれる。神様を信頼するうえで、これは大切です。イエス様も、“正しいさばきをする方に一切を委ねておられた”と語っています。神様こそが正しい裁きをすることができる。たとえ他人から誤解を受け、或いは人から非難され、ありもしない罪を着せられて、塗炭の苦しみを味わうとも、神様はそれを知っていて、必ず悪い者には悪いように報いて下さる、良いものには良いように報いて下さると信じる。これは神様を信頼する土台です。

ヨブ記1章1節から5節までを朗読。

ヨブは、すばらしい模範的な人物であったことがよく分かります。私達はその足元にも及びません。1節に「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。実に品行方正、何処を叩いても埃一つ出ない。高潔で人格円満な人物であった。彼には7人の男の子と3人の女の子供がいる。しかも、その財産は3節にあるように、羊、らくだ、牛、ロバと数え切れない。当時としては、家畜を持つのが定期預金や国債を買うのと同じくらいの値打ちがありました。羊などを沢山持つのが、即ち資産です。これほどの羊やらくだ、牛、そういう家畜を飼育し、所有しているのは、裕福で恵まれ、経済的にも何一つ不自由のない生活でした。また、その子供たちも立派です。4節以下に、息子たちも独立して、家族を持って、夫々に家も構えて、「自分の日に」と、恐らくこれは自分の誕生日か、何かの記念の日でありましょう、その時には、兄弟家族を全部、自分の家に呼んで振る舞いをして、感謝会をする。家族みんな仲良く、睦まじく、恵まれた家庭です。しかも5節には「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。その振る舞いの日が一巡りすると、年に一度、今度はヨブが招いて、神様の前に礼拝を捧げる。

ヨブの息子たちは集まって、神様の前に燔祭を捧げ、共に礼拝します。そして息子たちのために聖別する。それは、5節に後半に「これはヨブが“わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない”」。ひょっとしたら悪いことをしたのではないだろうか、息子たちが、気が付かないうちに、神様をのろうようなことを言ったり、少しでもけなすような思いを持ったならば、これは大変な事だから、とにかく神様にお詫びをしておこう。実に念の入った信仰だと思います。それほど子供のことを思う父親であり、神様の前にあるべき姿勢を絶えずきちんと整えていました。

ヨブ記1章6節から11節までを朗読。

ある時、神様の所に神の子たちが集まりました。その中にサタンがいた。これも理解し難い感じがします。神の子たちの中に、どうしてサタンがいるのだろうかと思います。しかし、実は、サタンも神様の手の中に握られているものです。神様の目的を果す仕事をしている。サタンは、神様の外にあって、神様に戦いを挑んでくるものというイメージを持ちますが、それは間違いです。神様を超える力、神様に対抗するものはどこにもありません。全ては神様の支配の下にある。では、なぜ神様はサタンをつくられたのか。それは神様の御用を果すためです。そんなものが、何の役に立つかと思われるでしょうが、サタンがいてこそ、神様の力が現れる。この時もそうです。サタンは神様の許しを得て、ヨブを撃つために出て行きます。

神様はサタンに、「お前はどこから来たか」と言う。「いや、世界中を行き巡ってきました」、「それじゃ、あのヨブを見てきたか。彼ほど神を恐れ、悪に遠ざかる者は今まで見たことがなかろう」とヨブを自慢した。それに対してサタンが「いや、神様、あなたはそう言われるが、実はヨブがあなたを尊び敬っているには、理由がある。あなたが彼を祝福して、持ち物財産一切を豊かに恵んでいるからです。それを取って御覧なさい、必ずあなたに向かって呟くでしょう。あなたに背を向けるでしょう」と言った。それで神様はサタンに、「それじゃ、お前が行って、その持ち物を全部取るがいい。ただ身体には一切手をつけてはならない」と。神様は、サタンの働く境界線をきちんと定める。

私たちに対しても、サタンが働いてきます。神様が私たちを試みようとしているのです。サタンがいなかったら、私たちは自分がどれほどの人間であるか、分かりません。天狗になって、天に舞い上がっているかもしれない。ところがサタンがいて、私たちをいろんな事柄に引き込む。またいろんな問題の中で、神様を信じているかどうかを探られる、揺さぶられる。これはサタンの働きです。揺さぶられなければ、土台がしっかりしない。

マンションなどの工事現場を見ていると、型枠と言って、板で形を整えた箱に、生コンを流し込んでいきます。金属の筒状のものを、生コンを流した中に入れる。これがコンブレッサーに繋がっていて、圧縮空気で激しく振動し、激しく揺さぶられて、生コンが型枠の隅々まで詰め込まれていく。揺らさないと、コンクリートの中の気泡だとかが途中に入り、コンクリートが脆くなる。だからしっかりと気泡などを抜きながら、詰め込んでいくのです。コンクリートはどろどろしているから、上から叩くことができない。だから揺さぶるのです。粉状のものそうですね。器に砂糖などを入れても、トントントンと揺すると、きゅっと下がる。そしてまた入れることができる。

サタンが、同じように揺さぶる。「自分は信仰も大分身についてきたな」、「私はあの人よりも少しは成長した」と自負していると、その仮面を全部剥ぎ取るために、神様が時々揺さぶる。神様は、皆さんを見て手加減をしている。不公平じゃない、神様は公平な方です。これに耐えられると思ったら、その人を集中的に揺すって下さる。時にそういう事を言う方がいます。「先生、どうして私だけこんなに次から次へと悩みが多いのでしょうか」、「あなたはそれだけ神様に沢山愛されているのです」と言うと、不満げな顔をされる。「愛されなくてもいい」と言う。そんなことをして貰わなくても大丈夫と思いますが、そうやって振るわれる度毎に、自分を振り返ってみて、信仰が無いなことがよく分かる。そこでまた悔い改めては新しく踏み固められていく。信仰は、そうやって段々と確かなものとなる。だから、サタンは必要不可欠なのです。

サタンは出て行って、ヨブを撃ちました。その記事を少し読みます。15節に「シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました」。ヨブの所に一つのニュースが入ってきた。みんなが宴会をしていた。そうしましたら、シバびとがヨブの家を襲って、牛やロバ、いろんな家畜も滅ぼした。16節には「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました」。それから更に、17節に「らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました」。羊およびしもべたちを焼き滅ぼされ、今度は、カルデヤ人がやって来て、つるぎでしもべたちを打ち殺し、更に、19節に「荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました」。四つの悪いニュースが立て続けに伝えられた。しもべが殺される。ラクダや羊が殺される。また天から火が降って殺される、家が潰れてしまう。何もかも全部、貯えたものを失った。

その時ヨブは、20節以下に「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、21 そして言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』。22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった」。素晴しいですね。彼は家も息子たちも、しもべたちも、全部失ったのです。そして、上着を裂き、頭をそり、地に伏して、神様の前に真っ裸になって、「裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と。こう言えるのは素晴しいですね。私たちも是非そう言いたいと思います。病気になって、「主が与え、主が取られた。主の御名をほめたたえます」と言いたいが、なかなか言えない。しかし、ヨブはそれほどの義人、正しい人でした。神様に対して一言もおろかなことを言わない。私どもがそういう目に遭って御覧なさい。「どうして?」、「何がいけなかった?」、「神様はどうして私をこんな風にしたのでしょうか」と呟く。ヨブの素晴しいところは、神様の与えて下さったものを神様が取られたのだから、ゼロになり、元に戻ったのだ、そう言って感謝した。

ところが、サタンはまた神様の所にきました。神様は、「お前が言ったようにならなかったではないか、ヨブはあんなに苦しい目に遭ったけれども、私に対して心が変わらない」と言った。そのときサタンが、「いや、まだ彼には健康というものが残っている。だから、あなたに背かないのです」と。神様は、サタンに「それではヨブの健康を取ってよろしい、ただ、命を取ってはならない」と。サタンは出て行って、ヨブを撃ちました。それまで健康であったヨブは、身体中に原因不明のできものができて、痒くて、痒くて膿みをもって、瘡蓋(かさぶた)ができ、見るも無残な姿になった。2章7節に「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました」。これが第五の災いで、彼の健康が奪われたのです。とうとう彼は灰の中に座って、陶器の破片で身体を掻くようになった。痒いことは痛い以上に耐えられません。痛いのは何とか、勿論それも我慢ならないですが、痒いものが体中あって御覧なさい。一時もじっとしておれない。痒くて痒くてたまらない。だから、彼は手で掻くどころじゃない。陶器の破片で体中を掻きむしる。その見るも無残な彼の姿を見ながら、9節に「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」。奥さんも愛想を尽かしました。そんな状態になっても、ヨブが神様、神様と言っているから、「馬鹿だね、この人は、いつまでも神様、神様と…、私は知りません」と、出て行ってしまった。妻から逃げられました。10節に「しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。素晴しいですね。ヨブは「お前は何と馬鹿なことを言うか。私たちは、神様から幸いを受けるんだったら、神様から災いを受けるのも当たり前ではないか」と。

イザヤ書にもそう記されています。神様は繁栄をつくり、わざわいを創造し、光をつくり、暗きを創造すると。神様は、どんなことでもできるのだと、ヨブは語りました。ところが、そう言った口の乾かないうちに、ふと疑問が湧いてきた。「確かにそうではあるけれども、選りに選って、どうして私が?何処が悪かったのだろう。何が原因でこうなったのだろう」。それからのヨブの苦しみは深まっていく。これまで家族を失う、或いは持ち物をなくす、自分の健康を失うという悲しみはありましたが、もう一つ大きな悩みは、心の葛藤、苦しみです。何か問題に当たって、その原因が分かっている時には、安心します。「私が罪を犯した、私が失敗をした、私があのことをしたから…」と、自分が知っていて、その結果こうなっていると思ったら、甘んじて「そうか、仕方がない。これは自業自得だ」と納得します。あの人がいけないと分かっていれば、怒りをぶつけますから、まだいいですが、その原因が分からない。ヨブの苦しみはそういう苦しみなのです。私たちも、「どうしてこうなったのだろうか」と思う、心の悩みが深くなるのが一番の問題。身体が痒いとか痛いとか、熱があるとか食欲がないとか、それは苦しみではありますが、耐えることができます。ところが、自分が「どうしてこうなったのだろうか、これからどうなるのだろうか」という心の葛藤、不安、恐れなどが、一番の苦しみです。ヨブはここまでは取り敢えず、罪を犯すことがなく、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」、「お前はなんと愚かなことを言うか、幸いを与える神様はわざわいを与えることは当たり前ではないか」と言ったものの、どうしても納得できない。

11節以下を読みますと、ヨブの友人三人が、彼を労わり、慰め、励まそうと訪ねて来ます。そして3章以下にいろいろなことを語っています。その中で根本的な問題点は、「私はどこも悪くないのだが、どうしてこうなったのだろうか」という悩みです。ですから、友人は、「いや、ひょっとしてお前の知らないところで罪を犯したかもしれないじゃないか」、或いは、「これは神様の大きな御計画があってお前に何か教えようとしているのではないか」「いや、人間と言うのは、そういう弱い者だから…」などと、いろいろな理由をつけでヨブを説得しますが、頑として受け入れない。「どうしてこうなったのだろうか、何で私だけが!」、これは私たちが常に感じることです。

神様は義なる方で、正しいものには正しく報いて下さると信じている。これはその通りですが、それに対して自分は正しいのだから、正しい報いを受けていいという、自己義認がある。「私はどこにも悪いところがない、無いとは言わないけれども、これほどの悩みを受け、苦しみを受けるほど、悪いのだろうか」、「私も叩けば幾らでも埃は出る。でも世間一般、他の人と比べるなら、私はむしろ良いほうだ。あの人が、こういう結果を受けるならば分かるけれども、私が何故?」と思う。

ヨブにもそのような思いがあります。それは、彼の信仰が、この世的な御利益、自分に都合の良い報いを求めていました。先ほど読みました1章5節に、「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数に従って燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである」。一見すると実に神様に忠実な、正しい人だと思います。しかし、この時のヨブの思いを探ってみれば、今の幸せを壊されたくない。ひょっとして何か罪を犯して、神様のご機嫌を損ねて、ハチャメチャになったら嫌だから、何とか神様の気に入れられるように、絶えず燔祭を捧げ、何とかしよう。言い換えると、神様は、私のために良き事をしてくれて当たり前、或いは私が願うことを神様は叶えて下さる。願いに応える神様を信じるヨブの信仰です。

私たちの信仰も、そういうところに陥り易い。殊に、悩みに遭い、困難に遭うと、「どうしてこんなになったのだろうか、何でだろうか」と、煩悶します。悩みます。その思いの中身を探っていくと、「こんなことを受けるほど、私は悪いことをしたのだろうか。私は正しいのに…」という思いがあります。神様の前に徹底して、ゼロになりきれない。ヨブはどうしても自分の考えたプラン、或いは自分の願ったことがかなえられたいと、神様を利用している。どうぞ神様守って下さい。神様、どうぞ私の後ろ盾となり、庇護者となって下さいというのが、彼の信仰姿勢です。それは、悪いことではありませんが、神様は、文字通り神様として、何があっても信頼することを求めています。2章10節の終わりに「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。図らずも、ヨブは自分の口から、こう語りました。神様はオールマイティ、全能者であるから、神様は創造者であるから、私たちはどんな取り扱いを受けても当然です。けども、その後の記事を読むと、自分が語ったとおりに信じることが出来ずに、「どうしてなのだろうか、何でなんだろうか」と、悶々と悩みました。

事に当たって、「どうして?どうしてこんなになったの?」、「どうして?」とつぶやく時、実は、このヨブと同じ立場に立っています。なぜこんな目に遭わなければいけないの、どうしてこんな酷い仕打ちを受けなければならないの。あれが原因だった、この人がこうしたから、あの人がああしたからと、どこかそういうはっきりと原因となるべきものを特定したい、知りたいと思う。しかし、私たちは神様によって造られ、今日も生かされています。家族の誰かが、私に何かをしたから、こういう不幸になった。あの子供があんなことをしなければ、もう少しましな老後が送れたなどと考えるなら、大きな間違です。これが原因だと特定して、納得しますが、そうである限り、ヨブの失敗を繰り返します。ヨブはいつまでも、このことに拘っているために、「どうしてだろうか、どうしてだろうか」と悩み続けるのです。

38章1節から7節までを朗読。

ここで神様は初めて直接声を掛けました。「お前は一体なんと馬鹿なことを言っているのだ」。2節に「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」。「お前は一体何様だと思っているのだ。馬鹿なことばかり言って、お前はわたしの思いを知らないではないか」。そこで3節に「腰に帯して、男らしくせよ」と、しっかりしなさいと。「わたしはあなたにこれから尋ねるから全部答えてみよ」と。それから4節以下にあるように「お前はこの宇宙やこの世界が、その基が据えられた時に何処にいて、何を知っていたか。この宇宙、世界の始まりはどうだったか、お前は見ていたのか」と、次から次へと矢継ぎ早に神様は問い掛ける。

その先の22節から27節までを朗読。

実に規模が、スケールが大きい。重箱の隅をつつくような質問じゃない。「雪の倉にはいったことがあるか、ひょうの倉を見たことがあるか、光の広がる道はどこか、風の抜けていく道は何処にあるのか」。私たちは何にも知らない。無知なる者、ここでもう一度「お前はどうして?どうして?自分が知っておかなければ納得しないと言うけれども、お前は知らないことばかりではないか」。

40章3節から5節までを朗読。

ここまできて、ヨブは答える術がありません。4節に「まことに卑しい者です」と認めました。それまでは義人ヨブでありました。義なる人であった。それは人から見ても、自分で考えてもそう思っていた。しかし、彼は、「自分はまことに卑しい者だ、あなたに何と答えましょうか。答える術がありません」と言いました。神様はそれでも許さない。

6節から10節までを朗読。

神様が間違っている、私は正しいのにこんな酷い目に遭うなんて、どうも理由が分からない。神様はちょっと間違っているのではないだろうかと…。そこで神様が8節に「あなたはわたしを非とし、自分を是としようとする」。あくまでも自分が正しい、自分の考えが正しいのだとしがみついている。それがヨブの最大の罪です。これはこうなるべきだ、これはこうあるはずだ。神様はこうして下さるのが御心に違いない。世の中だってそうだし、人だってそうだし、皆してそう言うじゃないか。なのに、そうならないのは、神様がちょっとおかしいのではないだろうか…。私たちもそんな風に思ってしまいます。

口では「神様は間違っているよ、神様はおかしいよ、最近頭が狂ったのではなかろうか、神様は…」などと、あからさまに言いませんが、心の中で、不満に思う。どうしても神様の為さることだとは思えない。私の方が正しい、私の考えていることが正しい、私が願っていること、これは不当なことじゃなくて当然のことであり、これは別に悪いことではないと言う主張が、ヨブにはある。考えてみると、私達も問題に当たった時に、「どうして?どうして」と言っている時、神様は間違っているのではないか、本来私が受けることじゃなくて、これはあの人に向かったものが、たまたま送り先が間違って私に来た、「神様、これは私が貰うべきものでしょうか、ちょっと不満です」と言っている。ヨブは正にそういう思いを持って、自分の置かれた境遇、与えられた問題、悩みの中で、それを是とすることができない。「これでいいのです」と受けることができない。ここに私たちの悩みと大きな問題があります。

42章に戻りますが、ここで初めてヨブは、2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはない」。神様はどういう方か、ヨブが認めた一節です。人間は、神様に造られた者、被造物に過ぎない。この言葉の意味は、神様がどんな取り扱いをしても、私たちは一言も文句を言うことができない、言うべきじゃないという事です。神様が為さる業に対して、私たちが良し悪しを言うわけにはいかない。神様の為さることは徹底して善であり、正しい。白いものを神様が黒と言われたら、それは黒いのです。神様の為さることこそが、最善にして最高、絶対唯一無二のもの。私たちの考えが正しいとか、良いとか、そういうことは何の価値もない、値打ちも無い。そんなものは有害でしかない。ここで、ヨブが初めて徹底して神様を信じるところに立ったのです。私たちもここに立たなければ、本当の信仰ということができません。最初に申し上げたように、神様は公平な方で、正しいことをする者に正しく、悪いことをしたら、そのように、公平に報われる方だと信じることも、「神を信じる」事です。しかし、それだけではない、いやもっと大切なことは、ヨブが語ったように、神様はどんなことでもできる。そして、私たちは神様の為さる業に一言も付け加えることも、手を挟むことも、指一本触れることもできない。この事を徹底して認める。これが神を信じることです。

神様が私たちをどのように取り扱いなさろうとも、何も文句をいうことはできないし、言えた筋合いではない。私たちは様々な事情境遇問題のなかに置かれています。どうしてこんなになったか、訳が分からない。で、悶々と苦しむこともあるでしょう。しかし、そこでもう一度、神様がいて、尚この事が起こっているとは、どのようにそれを受け止めるべきかをよく考えて下さい。

どんなことでも、「あなたにできないことはない」。神様、あなたは全能の主です。私たちは、ただ口を塞いで、ゼロになって、神様の前に自分を捧げる以外にない。自分の思いを捨て、考えを捨て、絶対者である神様の手に握っていただこうではありませんか。これはエレミヤも語っています。エレミヤ書18章に「あなたがたは私の手のうちにある」。私たちは神様の手に握られている。神様の御心のままに、自由自在にどうにでもしていただける。言うならば、神様は、今日にでも潰してしまうことができる。また私たちを引き上げて下さるならば、どんな高い所にでも上げて下さる。そのような絶対的な力、権威を持った神様の手の中で、私たちは生きている。持ち運ばれている。「神様を信じる」とは、ここです。だから、「神様、あなたを信じます」という時に、心を空っぽにして、空け渡してしまう。「神様、あなたは万物の創造者で、今も力ある手をもって全てを統べ治め、ご計画を持って導かれる方です。私の計画は捨てます、私の願いも、どうでもいいのです。神様、あなたの手に委ねます」と、主に捧げて、一日一日、神様によって生かされる。神様の手を信じて、与えられたところで主に仕える、神様のしもべとなって仕える。その時に、神様は私たちの思いを越え、願いを越え、驚くべきことを始めて下さる。

42章2節に「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。「主よ、私はあなたの御心のままに自由自在どのようにでもお取り扱いください」と、自分を捧げましょう。自分の願いや考えが正しいのではなく、神様こそが善にして、且つ正しい方、義なる方です。その方に全幅に信頼する信仰をしっかりと持ち続けたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。